隠れみの
「前髪、伸びてきたな」
よく冷えたジョッキに口づけたタイミングで、向かい側の男が言った。相手は目の前の皿に箸を伸ばす訳でもなく、まして半分くらい減ったビールを飲む訳でもなく、頬杖をついた姿勢でこちらを見据えている。半端に捲られた袖と、僅かに緩められたネクタイが妙に色っぽい。
「めんどくさいんだよ、切るの。前に自分で切って失敗したことあるし」
「まさか普通のハサミで切った訳じゃないだろう?」
「ほかに何のハサミがあるんだよ」
「嘘だろ……」
相手は大袈裟なくらい呆れた反応を見せた。それは失敗する訳だ、と。切れるのなら何だっていい、と思うのは俺が大雑把なのだろうか。切るものが大事なんじゃない、どう切るかが重要なのだ。俺はそう思う。そう思って挑んだ結果が、失敗なのだが。
「そんな細かいこと気にするなよ」
ジョッキを傾けて喉を鳴らして飲む。しゅわしゅわと炭酸が、食道をちくちく刺激するような感覚。
「まあ、確かにカミソリで髪を切る強者もいるくらいだからな」
彼は相変わらず手のひらに顎を載せたまま、俺の前髪をじっと見ている。 俺はそれに気付かないように、生温くなった刺身に箸を伸ばした。味の薄いまぐろ。いやに水っぽいそれを、またビールで流し込む。
視線が、痛い。いや、正確には苦しい。あの、少し幅の広い二重で、すこし茶色掛かった瞳で見られているのかと思うと、なんとも言えない気持ちになる。この視線を受け入れてしまえば、余計なことを口走ってしまいそうで、ぶつかった視線から俺の気持ちが伝わってしまいそうで、それが怖い。彼はただ、俺の前髪を見ているだけなのだ。それだけに過ぎない。なのに、俺はそれを思い違いしている。彼はそれすらも見抜いているのだろうか。そんなことを考えながら、中途半端に残ったつまみの皿を片していくフリをする。イカの丸焼き。揚げ豆腐。アンバランスに残ったケチャップにポテトフライ。
ふと、目の前の雰囲気が変わった気がした。顔を上げる。彼がおかしそうに自分の口元をとんとん、と指先で叩いている。
「……何?」
ケチャップ。単語だけで返され、ああ、と察する。親指で口端を拭うと、赤いそれが指先に付いた。指先に付いた、それ。それを口に運ぶべきか、拭き取るべきかほんのすこし迷っていると、紙ナプキンを持った手がこちらへと伸びてきていた。それが彼の手だと気付き、身体が停止する。不自然に浮いた手の指先から、汚れが拭き取られていく。子供じゃないんだから、というような軽口を言っていた気もするが、あまり耳に入ってこない。
「そんなに腹、減ってたのか?」
「え?」
「いつもより食べてる気がしたから」
「ああ、まあ……昼飯あんまり食えなかったんだ」
嘘だ。昼間は会社の食堂でしっかり唐揚げ定食を食べたし、そのあと近くのコンビニではメロンパンを買った。だから、正直腹は減っていない。むしろ苦しい。だけど、食べることに夢中になってる、そう装うことしかできなかった。昼飯があんまり食べられなかった、だなんて、よくもまあ、すんなりと言えたものだ。俺はどんどん嘘を吐くのが上手くなっている。
そろそろ行くか、と彼が言った。スーツを着る気分にもなれなくて、鞄と上着を抱えて立つと、伝票をかっさらった彼がレジに向かっていた。慌てて駆け寄るものの、レジを隠すように背中を向けられ、ありがとうございましたー、と間延びした店員の声が、会計が済んだことを告げる。
「金。払うって。俺ばっか食ってたし」
「いらない。たまには先輩面させろよ」
ほら、これやるから、と店先で渡されたものは小袋に入った飴だった。表にミントの葉が描かれている。居酒屋のレジに置いてあったものだろう。小さなカゴに、ご自由にどうぞ、と手書きのメモが置かれていたことを思い出す。100円ショップで売られていそうな、よく名前も知らないメーカーの飴。
「飴をもらうのが、奢られる理由になるのか?」
「なんだよ、細かいことは気にするな。だろ?」
彼は俺の台詞をそっくりそのまま返してきた。細かいこと……これは細かいことなのか? うまく言いくるめられている。人のことを言えた義理じゃないが、この男もよくそう上手いこと言えるもんだ。それが本音であろうと、なかろうと。
「……そういえば今日はあんまり飲んでなかったな」
一杯飲み切らなかったジョッキを思い出して、尋ねてみる。具合悪いとか? と、適当に理由を挙げると、ああ、そういう訳じゃなくて、と歯切れの悪い言い方をしたあと、「これから人と会うんだ。あんまり酒臭いのも嫌がられるかと思って」と困ったように笑った。
人と会う。へえ、と興味のない返事をして、前を向く。
「という訳で、今日はここでな」
駅の改札に着くと、彼が片手を上げた。気をつけて帰れよ、と他人事みたいな言葉を寄越して、俺を見送る体勢に入る。その相手とここで待ち合わせてるのだろうか。そう見当をつけて、ああ、それじゃ、と短く返した。鞄からパスケースを取り出す。「あ、そうだ」不意に聞こえた声に、振り返る。
「今度暇な日、連絡しろよ。前髪切ってやる」
唐突なその誘いがすぐに飲み込めず、すこし間を開けてしまう。
「……おまえが? なにかの罰ゲームかよ」
「失礼なやつだな。これでもちゃんと学校に通ってたんだぞ」
「中退したけどな」
「それは言わない」
まあ、おまえが嫌じゃなければいつでも言ってくれ、と言われたので、考えておく、と濁して背を向けたまま、手をひらひらと振った。
週末のホームはなんだか騒がしい。みんなどこか高揚して、酒の匂いをさせていた。もちろん俺も例外ではないけれど、高揚とは程遠い気持ちで奴らを眺めている。
電車がホームに滑り込んできた。車内はあまり混んでいない。それもそうだ、終電近くにもなれば混み合うだろうが、まだそんな時間じゃない。今日はいつもより帰るのが早い。そして、そろそろ行くか、と切り出したのは彼の方だった。
扉が開く。プシュー、と空気漏れのような音を吐いて、数人が電車から降りてくる。席は空いていた。最寄り駅まで三十分ほどある。だけど俺は座らず、扉に寄り掛かるようにして立った。ガラスに反射して、冴えない顔をした男が映っている。
電車が動き出した。扉の向こうで流れていく景色の中に、彼の姿を見つけた。あ、と思って、隣に誰かがいることに気付く。それが男か女かも分からないうちに、電車はスピードを上げ、二人は扉のスクリーンから追い出されていった。ガタンガタン。線路沿いに立ったビルが、駅前の華やかな景色を塗りつぶしていく。ガタンガタン。駅前で今ごろ話しているであろう二人の会話を思い浮かべる。ガタンガタン。……ガタンガタン。
ポケットに手を突っ込むと、指先になにかが触れた。緑の葉がぽつんと印刷された小袋。さっき彼にもらった飴だった。ミント味と書かれたそれを、何とはなしに口に放り込む。放り込んだ指が唇に触れて、子供じゃないんだから、と言った低い声を思い出す。たまらなくなって前髪をぐしゃりと握り締めると、まだ取り付けてもいない彼との約束が頭を過った。
支配されている。そう思った。侵されてしまっている。俺は、彼に。自分の身体が、自分のものじゃないような気になって逃げ出してしまいたくなった。脳内では馬鹿みたいに彼とのやり取りがループしている。仕事を終えて居酒屋に向かう俺や、お疲れ、とグラスをぶつけ合って笑う彼の顔が流れている。巻き戻して、再生。巻き戻して、再生。その繰り返し。
優しくするな、なんて女々しいこと言えない。そもそも、そんなことはお門違いだ。彼にとって俺はただの幼馴染みで、単なる後輩で、それを好意だと勘違いするのは俺の勝手な都合だ。彼が好きなのは、幼馴染み兼、後輩、というポジションの俺なのだから。
ポケットの携帯が震えた。取り出してみると、彼からのメッセージが届いている。“前髪切らなくても暇な日を連絡するように。今日早く切り上げた分、飯食い行こう”と簡潔な文章が入っていた。このメッセージを、いま俺以外の誰かといる最中に送ったのだろうか。それとも相手が席を外しているうちに打ったのだろうか。気に掛けてくれていたのだろうか。確証のない推測が次々と浮かんで、携帯の電源を切り、そのままポケットに突っ込んだ。
ドアに頭を預けた。前髪が顔に掛かる。
いつもより食べてる気がしたから。子供じゃないんだから。前髪、切ってやる。これから人と会うんだ。……俺と飲みに行く約束してたのに、ほかのやつと会う予定を入れたのか? 違う。そんなことを言いたい訳じゃない。じゃあ、俺は一体どうしたいんだ?
顔が熱くなって、視界がぼやけた。ドアにくっつけた頭からガタンガタンと振動が伝わる。その振動のせいで、目から何かが溢れた。溢れた途端、胸がぐっと苦しくなって、口に広がる人工的なミントの味が気になった。やっぱり安物の飴なんて舐めるんじゃなかった。これのせいで胸のあたりが気持ち悪い。涙が出るほど気分が悪い。きっと、そうに違いない。
自分への嘘はどんどん下手になっていく。前髪を切る決意は、まだ出来ない。
2014年4月に書いたお話でした。自己完結してしまう不器用なキャラが好きです。