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むずりひに

作者: 丹生 庫裏亜

 世界、という言葉を聞いて、あなたはこの世界のどこからどこまでを切り取るだろうか。

 私たちが考えているほど世界は広くなく、また、狭くもない。一見矛盾しているように感じるこの言葉は、しかしきちんと成立している。

 人が感じる事のできるものには限りがある。機械や薬品なんかによってその範囲は日々拡大しているように見えるが、しかしその時点で既に『人間の限界』は定義されてしまっている。

 つまりは、そんな機械や薬品なんかを使わなければ見えない世界を、果たして見る必要があるのだろうか、と言いたいのだ。

 私たちが知覚すべきものは、そんな微細なものでも、特殊なものでもない。人の身体に何かを取り付けたり、感覚器を過敏にする必要もない。

 ただ見えて、聞こえて、触れて、感じられるものを『世界』と呼ぶべきだ。

 それが、私たちにとっての『世界』であるべきだ。

 私にとっての世界は、この世界のどこからどこまでなのだろうか。




 私たちは過剰に多くを、あるいは過剰に少なきを求め過ぎている。

 比較対象を数値で測り、その大小によって我々の心のどこが動くと言うのか。

 人は集団の一部であることを大前提としながら、同時に個であることを求める。

 己が用意した枠の中で、その枠を疎ましく思いながら生きていく。

 自分を苦しめているのは、外ならぬ自分自信であるという事実を否定してはならない。

 人はいつまで、自分に嘘を吐き続けるのだろうか。




 例えば、おいしそうな寿司が綺麗な皿の上に並べられていたとする。その横には醤油が置いてあり、小皿も用意してある。

 それを目にしたある男が、据え膳食わぬは男の恥と、意気揚々と口にした。

 さて。この寿司に毒が入っていたとして、悪いのはこの寿司を用意した人間だろうか。それとも、自らの意志で寿司を口にしたこの男だろうか。あるいはこの世に毒というものを生み出した人間だろうか。

 果ては、その様子をずっと、ただ見守っていたあなただろうか。




 ……。

「……なんだ、これ」

 としか、言いようがない。

 いつもと同じ昼休み。後ろの席の奴とだべっていたら、今まで全然話したこともないようなクラスメイトに「ちょっと来て」なんて唐突に言われ、人気の少ない階段の踊り場へ誘導された。

 一体何が起こるのか。期待と不安に胸を膨らませつつ躍らせつつ、わくわくびくびくとついて行き……そして、結局見せられたのが――

「わたしの疑問」

「ぎ、疑問」

「です」

「……ですか」

 手渡された数枚の紙。横に引かれた見覚えのある罫線を見るに、ノートのページを引きちぎって作ったらしい。

 歪な形に破り取られた紙に書かれた、お世辞にも綺麗とは言えない文字たち。どこか拙いというか、形が不揃いなそれらは、その形状も相まってなんとも言えない感慨を孕みながら俺の頭へ滑り込んでくる。

「……いや、なんだこれ」

「?わたしの疑問」

「いや違う。俺はこれを受け取って、どうすればいいんだってこと」

「?」

「そこで不思議そうな顔されてもなぁ……」

 ちょっと……どころではない。とても困る。

 数日前まで話したことすら無かったクラスメイトに、いきなりこんな……なんと言えば良いのか。言うなれば、名状しがたい文章を送られたところで、どうすればいいのだ。

 これが恋文だったら喜んで……いや、どうだろう。数日前、机からひらりと舞い降りた紙を拾ってあげた、というくらいしか接点の無い子だ。いくらなんでも、残念ながらアレで惚れられるような容姿を持つ男だという自信はない。もしそうなったら「罰ゲームか?」とか疑い始めるまである。

「……疑問、って言ったよな。俺は、これらに答えればいいのか?」

「んー……そう、かも」

「かもってなんだよかもって」

「どう感じるのかな、って」

 そう言って、俺にこの紙を手渡した張本人である女子――桜井 霖は、いまいち感情を感じさせない表情で眼をこすった。

「有り体に言えば……感想?」

「さっき言ったぞ。なんだこれ」

「わたしの疑問」

「それはわかったって……」

 どこかがずれているような。とっても惜しいところで話がかみ合っていないような、そんなもどかしさを覚えざるを得ない。

 ただ、この1、2分話した感じでは、それほど口下手だとか、あがり症だとか感じる節は無かった。4月の自己紹介の時だって、そういえば特に違和感もなく話していたか。

 ……内容は全く覚えてないけど。

「でも、確かにこの疑問にも答えはほしい。森見くん、あなただったらこの疑問にはどう答える?」

 言いながら、『おいしい寿司』の紙を指さし、俺に問いかける桜井。結構身長差があるせいで背伸びさせてしまっていたので、少しだけ屈んでやる。

 にしても、寡黙なのか饒舌なのか。教室で他のクラスメイトと親し気に話している所を見た事が無い……進級してから2月が経ち、そろそろ夏も真っ盛りかというこの時期だと言うのに、だ。

 だから偶然のコミュニケーションにかこつけて、俺と言う友達第一号を作ろうと……?とも思ったが、そのための道具としては、この文はあまりに異質すぎる。

 ……桜井の目的はさておき、ひとまず正直に答えておくか。

「……そうだな。俺は、寿司を用意した奴と寿司を食った奴、それがだいたい7:3ぐらいで悪いと思う」

「後の二人は?」

「後の二人はー……まぁ、このケースなら悪いってこたないんじゃないか。毒を発見した奴は人を殺すためにそうしたわけじゃないだろうし、見てた奴だってこの寿司には毒が入ってるって知らなかったんだろ? いや、知らねぇけど」

「知ってたら、7:2:1?」

「いや……7:1:2だな。寿司用意奴、寿司食べ奴、放置奴、の順で」

「……そうなの?」

「だって、少なくとも寿司食べは寿司に毒が入ってるって知らなかっただろ。知ってたら食わないだろうし。だが、だとしてもあまりに不用心すぎるだろ。置いてある寿司勝手に食うなよ」

 どこに置いてあったのかは知らないが、少なくとも誰かに促されて食べたわけではないだろう。自分の意志で『食べる』という決断を下した結果のはずだ。

「で、知ってたにもかかわらずそれを止めなかった奴。こいつ、明らかに寿司食べを殺そうとしてるだろ。それも、自分の責任が問われないように……だって、知らなかったって言い張れば責められないだろ?」

「なるほど……日頃から恨みつらみが募っていたと」

「いや知らねぇけど。この毒を摂取するとどうなるのかな、なんて思って見てたのかもしれないし――どちらにせよ、寿司食べを救うという選択肢を、こいつは敢えて選ばなかった訳だ」

 そういう意味じゃあ、ある意味寿司を用意した奴より悪いやつかもな……俺はそう言いながら、手に持った紙を桜井へと突き返す。

「てか、なんで寿司?なんで殺されちゃったの、寿司食べくんは」

「死んだなんて言ってないよ。お腹が痛くなっただけかも」

「あぁ、なら大丈夫か。悪いの寿司食べくんだけだわ」

「ん……?どうして、そうなるの?」

 俺が差し出した紙たちを受け取りながら、桜井は驚いたように目を開いて首を傾げる。

「だって、そりゃどうにもなってないからな。寿司食べがちょっと被害を被ったかもしれないけど、いい教訓になっただろうよ」

「でも、被害を被ってる。死んじゃった時とそうじゃない時、責任の場所がどうしてそんなに変わるの?」

「……やけにこだわるな。というか、そこまで大事なことか、それ」

「教えて」

 ……なんだ、この執念は。毒入りの寿司を食った友達でも居るのか?……いや、居ないか。失礼だけど。

 その半ば懇願するような声色に、俺は仕方なく先の言葉を続ける。

「……そんなの、悪戯の範疇だろ。いくらでも取り返しがついて、その上で、寿司食べはそれ以降間違いを犯しにくくなる。他に毒入りの寿司を用意する奴が出てきたって、今度は警戒できるだろ?」

「……死んじゃわなければいいってこと?例え、その人が辛い思いをしても……」

「そりゃあ時と場合と、それから人によるけどな?こんなんでやたらめったら怒る人も居れば、笑って済ませる人も居る。そんなの『こういうものだ』なんて決められねぇよ」

 あくまで、俺の意見だけどな。と、そう付け加えたところで、タイミングよく予鈴が鳴った。

「……もう良いか?次、移動教室だから――」

「やっぱり、森見くんは違うんだね」

「ん」

 ……俺が違う?

 どういうことだ?もしかして、これにはあらかじめ決められていた答えがあって、俺の答えがそれと違ってるってことか?いや、でも疑問って言ってたし、クイズじゃないし。そもそも違ったところで俺が責められるいわれはないわけで――

「他の人と違って、ちゃんと考えてる。自分の考えを持ってて、根拠があって、正しさを知ってる」

「ん……ん?あれ、今俺、褒められてる?怒ってるんじゃないよな?」

「ん、褒めてる。っていうか……尊敬、かな。すごい。って、賞賛してる」

「あ、ああ……そうなのか。そりゃどうも……?」

 そもそも、日頃からこんなこと考えてる桜井の方がすごい気がするけど。っていうか、最初の一つなんかもう疑問じゃないし。最後の一文を疑問形で終わらせているだけで、もう結論出てるし。

「ありがとう。読んでくれて……考えてくれて。ちゃんと答えてもらったの初めてなんだ」

「お、おう、そうなのか……」

「嬉しい」

 かすかにはにかむような笑顔を浮かべて、本当に満足そうな声で言う桜井。その表情と声に、思わずどきりとしてしまう。

 ……なんだ、この、感情をストレートに伝えられている感じ。ほんとに喜んでるのか?なんて疑問の挟みようがない程に純粋なこの仕草。

 桜井って、こんなに――

「それじゃ……またね」

「お、おう?おう。ま、また」

 ……なんかすごいどもってしまった。桜井は気にせずに行ってしまったが、なんだろう、たった今考えていた内容も相まって無性に恥ずかしい。

 そのまま俺は、なんだかその場を後にする気にならず、桜井の後ろ姿を見送った。

「……って、いや、もう予鈴鳴ったんじゃん!」

 ハッと我に返って、桜井の後を追うように駆け出す。

 これで遅刻したら、悪いのは俺なのか、桜井なのか、それとも休憩時間を少なめに設定した学校なのか……なんて、くだらないことを考えながら。


 ◇ ◇ ◇


 それほど時間差は無かった筈なのに、息も絶え絶え、時間もギリギリに移動教室へ辿り着いた時には、既に桜井は涼しい顔で着席していた。

 まぁ、遅刻しなかったしいいか……と結論付けて、自分の席へ到着。それと同時に本鈴が鳴り、日直の生徒の号令によって授業が始まった。

「――で、なんだった?」

「……まぁ、そうなるよな」

「当然そうなるな。休憩中、地味にクラス内人気の高いあの桜井 霖直々に呼び出された男であるところの森見 秋人君は、もちろん俺の言いたいことなんてお見通しですよね」

「そうですね、教室では俺の後ろの席で、一年前は地味にクラス内人気が高かったという華々しい実績を持つ男であるところの宮田 俊くん」

 ……なんだ、この、今時絵本でもやらないような説明台詞は。自分で言っていて薄ら寒くなってきたぞ。

 一応言っておくが……今も尚、授業は継続中である。というか普通に真っ只中。その辺の道をよぼよぼ歩いてそうなおじいちゃんが黒板の前でなにやら言っているが、それに耳を傾けている真面目な奴はこのクラスには半分もいないだろう。

 今から丁度一年前くらいか。クラス内のとある人物が「基本大声を出さなければあの先生には聞こえない」という事実を発見し、今やこのコマはちょっとした雑談タイムと化している。当時まだほんの2ヶ月しかこの学校に通っていない筈なのに素晴らしい適応能力だ。

 ただ、携帯電話を使うとなぜか高確率でバレる。そのためついたあだ名がアンテナ内蔵型おじいちゃん。当時の俺のクラスで発祥したそれが今では他クラスにも感染し、もはや同学年の生徒の大半が苗字すら覚えていない始末である。

「……別に、相手が桜井じゃなくったって気になりますよ俺は。相手がもし男だったとしたってこうして聞いてる自信があるね」

「むしろそっちのが気になるだろ」

 改めて、相手……宮田 俊の顔を見る。なるほど、俺よりモテそうな顔をしている。俺と同じく勉強なんかしていない筈なのに何故か俺より点数が高かったりする。バイトをしている俺よりしていないこいつの方が金を持っている。うーんなるほど、殴りたくなってきた。

 無邪気な顔で「で?何だったんだよ?」なんて聞いてきている宮田をいきなりぶん殴る……なんて頭のおかしいことは流石にできないので、妬み嫉みを溜息に込めて排出。なんとか殺意を抑え込んだ。

「……別に、どうってことじゃあない。なんかなぞなぞみたいな事を言われただけだ」

「えっ何、わざわざ呼び出して言ったのなぞなぞ?桜井さんが?なにそれ……かわいい」

「あーいやぁ……なぞなぞでは、ないな、うん」

 ちょっと語弊がありすぎた。

 確かに、急に人気のない所へ連れ出されて「パンはパンでも食べられないパンはなーんだ!」とか言われたら、なにいってんだこいつとかそういうのを通り越して一瞬で惚れる。ちなみに答えはグーパンでしたとか言って殴られても許す。

「んー……なんて言うんだろうな。ちょっと哲学的っていうか……倫理的っていうか?普通に日常を過ごしていれば到底考えないような……まぁ、そんな感じのこと……かな」

「いやわからんわ。なんだそれ?」

「いやいや俺だってわからんわ。むしろあれをなんて言うのか、俺が聞きたい所だっての」

 俺がうるさがるように言うと、宮田は「ふぅん、桜井さんは不思議ちゃんだったのか……」なんて呟きながら、つまらなそうにノートを取り始めた。それに対して俺はシャーペンすら取り出していない。なるほど、点数の差はここだったか。

 ……ふと、部屋の前の方に座る桜井に目を向ける。すると、偶然あちらもこっちを見ていて――なんてことは当然ながら無く。件の桜井は真面目に先生の話を聞きながらカリカリとペンを走らせているようだった。

 何かあるんじゃないか、と思っていた自分にグーパンを贈りたい気分だ。さっきも、ギリギリで部屋に入ってきた俺の方を見てすらいなかった……つまりは、いつも通りだ。これまで通りで、普段通りで……それは俺にとっての期待外れで。

 まぁ、冷静に考えてみれば有り得ないことだ。特徴も無い、金もない、度胸も愛想も、特筆すべき才能も無い。そんな俺がある日突然女子から告白されるなんて急展開あるわけがない。それこそ、俺は運も無いわけだし。

「でも、なんでだろうな。特に接点の無いクラスメイトを急に呼び出すなんて、何か理由が無いとしないだろ、普通?しかも森見をだぞ?特別な理由が無いわけがない」

「わかる。それはぐうの音も出ない程に正論だが、だが宮田。お前はいつか俺に殴られろ」

「そういうの平然とした声で言わないでくれる?明鏡止水の下に地獄の業火が透けて見えるよ」

 武士の情けだ、顔だけはやめてやる。

「正論……正論なんだよなぁ。だって俺、今まで桜井とまともに話したこと一度も無いし。声だって、今日までに何回聞いた?ってレベルだ」

「ちょっと掠れた感じのな。ハスキーヴォイスって言うのか?でも、ちゃんと高くて……なんかもう、儚さと可憐さが滲み出て止まらないって感じだよな」

「キモイぞお前」

 ……まあ、その意見には肯定しておいてやろう。今ならもれなく「消極的な」が付いてくる。

「肩下まで伸びたあの黒髪が白い制服に映える映える。おまけに顔も良いし成績も上位だし、悪い噂も聞かないし。スタイルは……まぁ……うん。あれだけど」

「……なぁ、宮田。『良い』と『悪い』の二つの選択肢を前に、対象がどちらに属するかを敢えて口にしない。ただ悪いと言い切った時と比較した場合、この二つのどちらがより人道的なのだろうか」

「えっ、何いきなり。大丈夫?森見くん具合でも悪い?それとも頭?」

「何番煎じだそのネタ。違うわ、さっき桜井が言ってきたこと。こんな感じのことだったんだよ」

「……えっ、何それ。桜井さん具合悪いのかな?」

「なんでお前はそれしかないんだ」

 心配そうに桜井の方を伺う宮田に思わずそう突っ込む。もしかすると、宮田の世界の哲学者は皆何かしらの病の末期患者なのかもしれない。

 ……哲学者、か。

 そういえば、昔何かの折に哲学的な話を見たことがある。なんとかかんとかの問題、とかいう話だったか。さっき桜井が言っていたのは、ともすればそんな感じの話なのかもしれない。

 ……だとしても、どうしてそれを、しかも何の脈絡もなく俺に話したのかという疑問が残るが。

「……実はそれ、まわりくどい告白だったとか無いよな」

「なんだよそれ。あるわけないだろ。俺は鈍感系ラノベ主人公か何かかよ」

「え?なんだって?」

「俺、デスノート拾ったら真っ先にお前の名前書くんだ」

「デスノートですのー……と」

 ……ダメだこいつ。まだ暑さにやられるには少し早いはずだが。梅雨で脳内に雨漏りでもしたのだろうか。

 その後もちょいちょいとくだらない事を言っていた宮田だが、俺が「え?何だって?」としか返さないのを見て、拗ねたように何かしらを呟いてペンを動かし始めた。

 結局、その時間が終わるまで、桜井に普段と違う様子は見られなかった。といっても凝視していたわけではないし、今まで特に意識していなかったせいで微細な異常には気が付かないということはあるかもしれないが……少なくとも、一目でわかる、あいつはおかしいなんてことはなかった。

 後になって気づいたが、あの場において一目でわかるほどにおかしかった人間がただ一人だけ居た。

 ――俺だった。


 ◇ ◇ ◇


「――ということがあってな」

「……いや、そんなこと言われましても……」

 今日、普段全く話さないようなとあるクラスメイトにいきなり声をかけられたこと。

 とてもわくわくしていたら、話された内容がわけわかめなものだったこと。

 無意味な脚色はせず、それでいて俺の胸の高鳴りまでを包み隠さず、文字通り余す事無く全て打ち明けた。

「……へぇ、としか。私はどんな返事をすればいいんです?」

 だというのに、俺の横に座っている暇そうな少女は、暇に飽かしたようにカウンターに突っ伏して、暇という暇を寄せ集めて煮凝りにしたような漆黒の目でこちらを見上げている。そのゼラチン質の扉を開くには、俺のときめきと落胆についてのおはなしでは少し攻撃力不足だったようだ。

「同じ女子という生物からの視点でさ。どうなのよ、いきなり『寿司食って死んだけど誰が悪いの』って聞くのはどういう意味なのよ」

「確かに私は女子という生物かもしれませんが、今までの人生で一度だって誰かにそんなことを聞いたことも、そもそも聞こうと思ったこともないです。もっと言うと聞かれたことすらないです」

「朝霧にわからないことなんてないだろ。もったいぶらずに教えてくれよ」

「先輩に全幅の信頼を置かれているようで何よりですが、生憎私知ってる事しか知らないので」

「つまり何でも知ってるんじゃないか!」

「2=1+1みたいな会話やめてください」

 何でもは知らず、知ってる事しか知らない彼女は朝霧 舞幌。俺が通う学校の一年生で、俺の一つ年下の女子だ。好きな食べ物はしいたけ、嫌いな食べ物はしめじ。

 常に脱力しているような雰囲気が印象的と言えば印象的。あまり感情の起伏を表に出さず、出会って半年くらいは嬉しい事があっても悲しい事があっても変わらない奴だという認識だったのが、最近はなんとなく感情が読めるようになってきた。そんな俺の朝霧センサーによると、今の朝霧は俺の話に全く興味がないらしい。

 ……俺からすれば、朝霧も桜井と同じくらいに謎の多い人物なのだが。いや、今回の場合は桜井が朝霧と同じ、と言うべきか。肩の少し上で切り揃えられた黒髪は、さながら小さな桜井とでも言おうか。顔はわりと違うけど。

「ていうか、ちゃんと仕事してますか。私がここに居るのは先輩の見張りの意味が強いんですからね」

「まじかよ。確かにいつもお前居る意味ないなぁって思ってたけどそういうことかよ」

「そのうち刺しますよ」

「なんでだろう今刺すって言われるよりこわい」

 ……さっきからこうして楽しく喋っているが……何を隠そう、今はバイト中である。しかも店主の娘さんの目の前である。

 朝霧書店、という個人経営の本屋がある。自宅から歩いて10分とかからない場所にあり、お給金も申し分なし。しかも客が滅多に訪れない上にこうして話し相手まで居てくれるという素晴らしい環境。1年前のあの日、販促ポスターに紛れて小さく書かれた「アルバイト募集中」の字を見つけた俺をべた褒めしたい。あと面接に受かった時の俺も。

 朝霧の入試の関係で、急遽半年ほど人手が欲しくなったらしいが、その時期が終わった今でもこうして働かせてもらっているのは朝霧父からの純粋な好意だろう。財布から諭吉達が消えていく度に感謝の念を送らずにはいられない。

「つってもまぁ、正直仕事が無いんだよな。店もそんなに広いわけじゃないから掃除もすぐ終わるし、お客もいないから姿勢よくする必要もないし」

「いろんな意味でディスってます?お父さんに言いつけましょうか今の」

「無駄なスペースを極限まで省いた、ある種の美さえ感じさせる店内。私は仕事の時間が始まると、まずその美しさを維持するために掃除を済ませてしまいます。その後はお客様が訪れた際には完璧な対応ができるよう、椅子に座って適度に体を休めながらその時を待つのみです」

 俺の淀みない語りに、朝霧は数秒だけじとっとした視線を投げ、そして呆れたように溜息を吐いた。

「……良いんですよ。定期購読のお客さんがほぼ全部ですから、店内に人が居なくたって良いんです。その上ラッピングをせずに棚に収めているにも関わらず立ち読みをする姿が見られないというのはお客さんの質が高いということですし」

「わかるわかる。良いんだよな。だから俺は仕事を探さない。朝霧と話しながら定時を待つの。ということで、さっきの話どう思う?」

「そ……れしか、頭にないんですか……?」

 心底呆れられてしまった。聞くに、若干の苛立ちすら見て取れる。

「別に、どうでもよくないですか、そんな意味不明なの。そのなんとかいう女だって、ちゃんと明確な意思を伝えたいって思ってないから、そんな曖昧な言葉でもやもやさせてるんですよ。あるいは、もやもやさせるためだけにそんな意味不明な事言ったんですよ」

「だとしても、何のために、って疑問があるだろ。ただ他人をおちょくるだけが目的なんだったら、あんな哲学的な文にはならないだろ?もっと直接的な言葉を使えばいい。例えば……あなたのことが好きです、とかな」

「っ――?!けほ、えふっ!」

「なんだどうした?!大丈夫か、何故いきなりむせた?」

「だ、だいじょ……っ、だいじょうぶですから……!背中、さすらなくていいですからっ」

 半ば拒絶されるような声に何気に傷つきつつ、手をひっこめる。朝霧はそのまま数秒間咳き込んで、苦しかったのか真っ赤な顔でこちらを睨んできた。

「い、いきなり……わかってますけど、例だって。でも、そういうこと言っておちょくるのも、そういうことを言うことで可能性潰すのもやめてくれませんか」

「えっごめん、おちょくったつもりはなかったんだけど……え、可能性?可能性って……桜井の目的が俺をおちょくることだって可能性?」

「そ……うですよ。それ以外に無いでしょう」

 ……何か不自然な間があった気がするが。またむせそうになったのだろうか。

「では……まぁ。その桜井さんとやらは、少なくとも先輩をおちょくるのが目的ではないとしましょう。それなら、単純に自分の疑問を解消してくれるだけのツールとして使用したという可能性が、現状では最も高いです」

「言葉を選んだな。なんだかそこはかとない悪意が含まれているような気もするけど」

「気のせいでしょう。私は客観的に、先輩のお話を聞いて、あくまでも客観的に。第三者の視点から見て、純粋にそう思ったから言っているんです」

「……いじけてる?」

「気のせいです」

 ……拗ねてる?

 俺の朝霧センサーは確かにそんな雰囲気を感じているのだが……。まぁ、そのセンサーが間違っていれば、気のせいだという朝霧の主張も通るのか。その正確性について検証したことはないので、強くは言えない。

「しかしまぁ……俺の直感で言えば、それも無いような気がするんだよな。さっきも言ったけど、あいつ、俺が答えた後にすっごいいい笑顔でお礼を言ったんだよ」

「なるほどその二つの間でしたか。桜井さんにとっての先輩は、おちょくる対象でありながら己の疑問を解消してくれる便利な存在なのですね」

「……まあ、俺もあいつのこと良く知らんからその可能性も無いと決まった訳ではないな」

「あれ、意外と現実的ですね。『そんなわけない!』って噛みついてくると思いましたけど」

「あしゃぎりさん」

「やめなさい」

 失礼。

「だって普通に考えたら、俺に惚れる奴なんて居るわけないだろ。ウニを素手で食おうとするやつが居るか?居ないだろ」

「先輩だったら食べそうですけどね」

「ナルシストかな」

 ……そういう話じゃないのはわかっているが。

「……わ……私も、食べるかも……しれませんよ」

「ウニを?素手で?ちょっと、止めた方がいいよ。素手で拾うのすら危ないからやめろって話だぞ」

「すみません、ちょっと包丁持ってきますね」

「何のために?!やめて、ここにウニはないよ?!」

 スッと立ち上がり、迷いの無い足取りで店の奥へ歩いてゆく朝霧をなんとか押しとどめる。この建物は二階建てで、二回が朝霧家の居住スペースになっているのだ。

「先輩ってどんな味がするんでしょうね」

「サイコパスかな」

 再び椅子に座り、互いに溜息をひとつ。そしてその数瞬後に朝霧がそんなとんでもないことを言い出した。

「試す気はないですけど気になりませんか?」

「ごめん、流石に人間の味を知りたいなんて思った事はない」

「つまり、そういうことなんですよ」

 ……どういうことなんです。

 いつもと同じような、朝霧の暇そうな顔。しかし、俺のセンサーによればこれは『したり顔』だ。

「その桜井さんだって、実際に毒入りのお寿司を用意して誰かに食べさせようってわけじゃないですよね。でも、そんな状況を想像して、それがあると仮定して、どうなるのか、そして人がどんな選択をするのか。それを考えているんですよ、その人は」

「……なるほど?そして、そんな事は普通の人は考えない。だから、今まで桜井はその疑問を人に話すことがなかったと」

「私は、相手が先輩だからさっきの質問をしました。他の友達だったり、親なんかには言えませんよ」

「下手したら精神病棟送りだもんな」

 誰が言ってもその可能性があるが、特に朝霧は真顔でこういうことを言うので、慣れないと冗談とそうでないものの区別がつかない。俺も全てを区別できているつもりはないが、少なくとも先程のサイコパス発言は冗談だったことはわかる。

 ちなみにその前の包丁の下りは本気だった。

「倫理的思考実験、とでも言うんですかね。人間の心理を知る事で、その人間たちが作り上げたものであるところの“世界の真理”を求める……なかなか歪曲した考え方ですが、ある視点から見ればまっすぐです」

「……というと?」

「多分、理解したいんですよ。他人を。そして、自分を」

 あるいは、世界を。

 そう言って、朝霧は俺の目をまっすぐに見て。

「あなたは、彼女の中の“真理”の、その基準に選ばれたのかもしれませんね」

 それがどういう意味なのかは、先輩が考えてください、と。

 朝霧はその日一番真剣な、それでいて一番つまらなそうな声で、そう言った。

 

 ◇ ◇ ◇


 ――朝霧のその言葉が正しかったことを知ったのは、翌日の朝だった。

 鬱陶しい雨を傘で避けつつ、溜息を吐きつつ登校。空と同じどんよりとした心境で学校へ到着した俺に、ベタな、だからこそ今日日珍しいシチュエーションが待ち受けていた。

 俺の通う学校は今時珍しい(らしい)、下駄箱が木製の、鍵がかからないタイプのものだ。横長の長方形がずらりと並び、そこに付いた戸の上辺に蝶番があって、下辺付近にある取手を上に引いて開くかたち。そしてそこに脱いだ下足を入れて、代わりに上履きへと履き替えるのだが……お察しの通り。俺の上履きの上に、例のノートの切れ端が何枚か乗せられていたのである。

 それをそそくさと回収し、教室で確認。すると、それは全部で3枚で、内容を要約すると以下のようになる。

 1、何故人は人を疑うのか。思うに、他人疑うというのは己への戒めである。なぜなら、自身が信じる「悪」の実在を、相手を通して感じているからだ。

 2、人は他人に対して、常に己と同じ状態であれと願うものだ。それを逸脱した者は異端者として扱われるわけだが、さて、これらに『個人としての選択』と言えるものはあるだろうか。

 3、最近の若者が言うように、日常の中に勝者と敗者が居るとして、そのジャッジを下すのは誰か。

「……いよいよ、心理学的になってきたな」

 というか最近の若者って……お前は現代を憂う老人か。

 そのヘタウマな字がくせになる、というべきか。不思議なもので、『なんだこれ』とは思っても『読む価値が無い』とは全く思わなかった。

 それに、その内容……今までは全く考えすらもしていなかった物に疑問を呈するその姿勢と、その疑問の説得力。なるほど確かに、と思わせる何かが、この紙に宿っている。

「で、だ」

 ……これを、どうすればいいんだ。

 なぁ桜井、あの紙について話があるんだけど。とか話しかけるの?

 ……いやぁ。俺別に、アレだし。積極的にこういう議論をしたい人じゃないし。話しかけるのが怖いとかそういうんじゃ断じてないけど、俺から行くのはなんか違う気がするなぁ。

 桜井は当然のようにもう来ていて、自分の席に着いて何かの本を読んでいた。書店の紙製ブックカバーがかかっているところを見るに、図書館で借りたものではないらしい。

「……まぁ、いつ聞かれてもいいように、俺の考えをまとめておこうかな……」

 きっと桜井の方から話しかけて来るだろう。と決めつけて、それぞれの紙を裏返して自分の考えを書き込んでいく。2枚目の途中まで書いた所でチャイムが鳴ってしまい、それから少しして担任がやってきてホームルームが始まったため、そこで中断。

 と、そこで初めて宮田が居ない事に気づいた。遅刻の常習犯であるあの男は、今日もいつものように重役出勤をかますつもりらしい。

 まあ、今日ばかりは色々突っ込まれずに済むからいいか。とか考えながら、ついでに担任の言葉も適当に聞き流しながら、続きを書いていく。

 そして、3枚目に突入し、いやあそこはやっぱりああだな、なんて思って1枚目に修正を加えている時。

「森見くん」

 思いがけない声がかかった。普段は聞かない声で、そしてつい昨日に聞いた声……そう、桜井 霖その人が、わざわざ俺の所へ来て話しかけてきたのだ。

「なふ、なんだっ」

 そんな異常事態なので、こんな声が出ても仕方がない。というか、あの担任いつ出て行ったんだ。まだクラスもざわつき始めなのを見るに、たった今出て行ったところか。

 ……待てよ。つまり、桜井は真っ先に俺の所へ……?

「読んでくれたんだね」

「あー……ああ、まあ。そりゃ読むだろ。読んだよ」

「ありがとう、かな」

「……さぁ」

 ……なんだ。この会話。読むだろ。呼んだよ。って。

 それに、いまいち用件がわからない。何故桜井は俺の所へ?そして何故この状況で不思議そうな顔をしている?『なんで何も言わないのこの人』みたいな顔で俺を見るな。

「……桜井」

「はい」

「俺はどうすればいい」

「?」

 はい。

「あーーー……はい、わかりました。じゃあ、これの感想を言いたいんだけど、いつがいいかな」

「1時間目、話そう」

「えっ」

 1時間目?1時間目に話す?それは何か、授業をサボタージュして議論に没頭したいというお話か。

 と一瞬思ったが、今日の1時間目は体育だ。しかも今日は雨が降っているので室内での授業になる。その場合、生徒に自由に体育っぽい事をさせるというのが通例だ。

「なるほど……そうしよう。じゃあ、1時間目に――」

「おーっすおはようございまーす。みんな元気かー、俺は来る途中で傘がぶっ壊れてびしょ濡れに――あっ」

 ……めんどくさい奴が来てしまった。

 自分で言った通りびしょ濡れの宮田は自分の席へまっすぐやってくると、持っていた荷物を素早く置いて人の良さそうなスマイルを浮かべ。

「おはよう桜井さん。どうしたんだい、こんな何の変哲もない森見のところになんて来て」

「何の変哲もない森見ってなんだよ。変哲のある森見を見た事があるのか」

「待てよ、冷静に考えると今がそうと言えるかもしれないな。桜井さんに話しかけられている」

「なるほどそれは大きな変哲ですね……」

 そもそも変哲ってなんなんだよ、とかどうでもいいことを言い始めた宮田に対して、桜井が放った一言がこちら。

「誰?」

「あぇんなっ……」

 つうこんのいちげき。

 みやたはたおれた。

 ……なんか混ざってるな。

「とりあえずこの水死体は置いといて。それじゃあまあ、後でな。それまでに俺の中でもまとめとくわ」

「わかった。ありがとう、森見くん」

「まぁ……俺もこういう話嫌いじゃないし。気にするな」

 先輩さっき言ってたことと違くないですか、なんて言葉は受け付けていない。さっきはさっき、今は今なのである。決して、今のこの桜井の嬉しそうなはにかみにやられたわけではない。

 そしてふと、桜井は足元の宮田に視線を送り、再度理解不能フェイスを浮かべた。

「あと……ごめんね?」

「それも気にするな。こいつの中の自尊心が肥大していた結果だからな、桜井はむしろ世界のために正しいことをしてくれたんだ」

「おめぇ森見俺に恨みでもあんのか……」

 靴を履いたまま宮田の背中へ足を置きながら言うと、足の下からそんなくぐもった声が聞こえてきた。もちろん無視。

 特に恨みは無いが、妬み嫉みが募っているのだ。あと日頃のウザい言動への報復。

 いややっぱりわからんわ、という雰囲気を纏ったまま、桜井は教室の外へ。それを見届けてから、俺もメモの続きを書き始めた。

「で……それが例の?」

 思っていたよりダメージが無いのか、けろりとして立ち上がった宮田。いつもの調子でそう問いかけてくる。

「どれどれ……んん?これ桜井さんの?なんか……字違くね?」

「違くねって、知らんわ、桜井の字なんか。前に見た事あるのか?」

「いや無いけど。なんか、イメージと違ったからさ。……なんか……微笑ましい字、だな」

「……言葉を選んだな」

 一つ一つの文字の大きさが安定しておらず、しかし読みにくくない。なんだこの字?と思わせずにここまで崩せるのは逆に才能があるのではないだろうか。

「逆にお前のは中途半端に下手だな。なんか、なんとも言えんわ」

「自分が一番わかってるからやめろ。『森見君の字って……あっ、ううんやっぱりなんでもない』って言われた中三の夏を俺はいつまでも忘れない」

「そんなに昔でもねえだろ」

 まるっきり下手くそでは断じてない。のだが、宮田が言うように、中途半端に下手なのだ。その下手さが、ただ下手なやつの字より何故か目立つ。

 朝霧が言うには「一本一本の線がまっすぐじゃないから」らしい。あいつなんか字めっちゃうまいんだよな。

「……一時間目が体育だから体操着になるとしてさ。今俺が着てるコレ、どうするべき?」

「……絞って椅子にでもかけとけばいいんじゃないか。日が出てたら別なんだが……」

「日が出てたらそもそもこんなんになってないんだよなぁー」

「てかどうしてそうなった。傘は?携帯とか無事なのか」

「傘は途中で飛んで行った。携帯とかは鞄の最深部で厳重に守られております」

 ……そんなに風が強かったのか?今見る限りではそれほど……というより、ほぼ無風状態だった記憶しかないが。

「……よし、書けた。んじゃまあ、行くか」

「ほいほい……てお前、まだ時間超余裕だぞ。あと10分も体育館で待つつもりか」

「あー……なるほど?」

 担任が出ていくのが早かったせいで、その分ホームルームと1時間目の間の時間が長くなったのか。何なら、今ホームルーム終了の鐘が鳴ったところだ。

 とっとと行って桜井と話すということしか考えていなかったが……冷静に考えれば授業中の話か。さすがに休み時間に桜井と話すのは周囲の視線的につらいものがある。

 いや、浮かれていたとかじゃない。今回は本当に。ただこのメモの内容が興味深かったからであって――

「すみませーん」

 と、そこで、教室の入口から珍しい声が聞こえた。というのも、俺は今までその声をこの場で聞いたことが一度も無かったからだ。

「森見 秋人先輩はいますか……いた」

「あれどうしたの朝霧後輩?その意味ありげな傘が本題かな」

「そうですね。名前も知らない方にお礼を言いに来たのですが、ちょうど先輩と一緒だったようで何よりです」

 珍しいはずである。特別な用事が無いと絶対に来ない、別学年の教室だ。それも上の学年ともなれば、俺だったらとても尻込みする。なんとかして行かなくて良い方法を探す。

 朝霧は俺を見つけると、他のクラスメイトへ小さく会釈をしながらこちらへ歩いてきた。その手には黒い傘が握られており、そしてそれこそが「特別な用事」らしい。

「君は……今朝の可愛い子!!」

「今朝はありがとうございました。クラスだけじゃなくて名前も言い残して行ってくださるともっと助かりました」

「ずぶぬれの宮田……消失した傘……そして朝霧が持っている傘……そしてお礼。なるほど、謎が解けて来たぞ」

「もはや答えです」

 上の学年の教室だというのにいつもの調子を崩さないクールな朝霧さん。宮田を前にすると、その手の傘を宮田へと差し出した。

「改めて、ありがとうございました。おかげさまで、雨に濡れずに登校できました」

「いやいや良いんだよ。その傘だって俺に使われるより、君のようなキュートなガールに使われた方が嬉しいだろうし」

「……宮田さん……でしたっけ。助けてもらっておいて申し訳ないですが、そういうの薄ら寒いので止めた方がいいですよ」

「やばくねこの子。森見知り合いなの?何かお前すごい子とばっかり知り合うな」

「本人を前にしてすごい子とか言っちゃうお前も十分すごい子だということを鑑みれば、確かにそうだな」

 一見普通に見える朝霧だが、これできちんと緊張している。いつもより言葉の節に棘があるように感じるが、それこそがその証拠だ。

 本人曰く、緊張すると言葉を選べなくなる……らしい。頭の中にある考えを何のフィルターにも通さずに出力してしまうため、どうしても言葉が端的になってしまうようだ。

 そのせいで新しい友達が増えない、とか言って悩んでいた時期もあったが、そういえば最近はあまり聞かないな。もういつものメンツをそろえたのだろうか。

「私は何も、揶揄するために言っているわけではないのです。ただ、宮田さんが周囲に『寒い奴だ』と思われないためにですね……」

「ああー、俺を心配してくれていたと……ありがとう、わかった控えるよ。お詫びがしたいって言うなら、フルネームを教えてくれればそれでいいよ」

「別に、これに関してはそこまでお詫びが必要だとは思いませんが……朝霧 舞幌です。助けていただいたので、その感謝ということで」

「舞幌ちゃんか。可愛い名前だね!君にピッタリの名前だと思うよ。なんて言うのかな、やっぱ容姿がさ、どこか儚い感じが……」

「私が言っているのはそういうのですよ。いくらおだてられてもあなたには惚れませんので、やめてください」

「ふぁっきんとっしゅ」

 きゅうしょにあたった。

 みやたはたおれた。

 あさぎりは12のけいけんちをえた。

「……私、助けてもらわない方が良かったんじゃないかって思ったの初めてです」

「まぁ……宮田は残念なヤツなんだよ。残念な宮田なんだよ」

「先輩も十分残念ですけどね。少なくとも、私視点では」

「ウッ」

 朝霧はいつもだいたい正しいので心に来る。宮田程ではないと信じたい。

「……でも、なんで?昨日の夜から降ってたろ、この雨」

「ええ。もちろん、私も傘を持って家を出ましたよ。そんな、雨の中傘も持たずに家を飛び出した過去を持つ先輩とは違います」

「それを口にするのはやめろ!」

 それはそう、過去の話。朝霧と俺と、あとはその家族くらいしか知らない恥ずかしい話……まぁ要するに、今は関係の無い話だ。

「……道端に、子猫が捨てられていて。段ボールの中にタオルとか、ブランケットと一緒に。一応屋根も付いていたんですが、それがあまりにお粗末で」

「それでお前の傘を、と。はぁん……なるほどな。そういえば、宮田の家って朝霧書店の方向だっけ」

 子猫の上に傘を掲げる朝霧。そこへ宮田が颯爽と現れ、朝霧の眼前へ傘を突き出す……そんな光景が容易に想像できる。

「でも、じゃあ何で遅刻した?朝霧が家を出る時間ってけっこう早いだろ。イメージだけど」

「いえ、割とギリギリを狙って家を出てます。なので今日はちょっと危なかったのですが……遅刻したのですか、宮田さん」

「ん、ああ。ちょっとコンビニで立ち読みしててな」

「何お前」

 その間もびしょ濡れだろ。濡れ鼠状態の男子学生が立ち読みしてるとか怖い。何より店員とか周囲の客からの視線に耐えうるそのメンタルが怖い。

「にしても、雨の中傘を差しだす、か。ラノベだったらフラグが立ってるとこだけど、なぁ宮田さん。いかがですか、自分の手で輝かしい未来をへし折った気分は」

「うるせえお前森見のくせに。お前、立ちかけたことすらねぇくせに」

「はぁーん何言ってんのお前立ちまくりだからなお前。こちとらバリ3だわ」

「何歳なんですか先輩」

 ていうか、ほんとに立ってるんですか。という朝霧の言葉は、瞬時に俺達3人の間に微妙な空気を生成した。

 それを言っちゃう?という男2人の視線。そして、それを受けた朝霧のなんとなく申し訳なさそうな、それでいて嘲笑をこらえるような絶妙な表情。

 現実世界で立つフラグは、死亡フラグだけですから。

「で……これが、例のですか」

「その言い方流行ってるのか。確かに、ちょっとかっこいいけど」

 そんな空気もどこへやら。朝霧はいつも通りの無気力フェイスで話題を転換させる。

 俺が頷いたのを見ると、朝霧はそのうちの一枚と手に取って読み始めた。それを見て、宮田は傘を傘立てに入れるために教室を出て行った。

 まぁ違う教室の奴に借りた傘を返そうとすれば教室になるか。玄関まで持っていく手間も致し方なし。おそらく、宮田も承知の上で貸したのだろう。

 当の朝霧はと言えばそんな宮田には気づいていないようで、読み始めて10秒もしないうちに紙から顔を上げて、何故か俺を見た。

「ん……んん……なんか、ちょっと……あんまり研鑽されてない感じですね」

「研鑽……?というと?」

「確かに、疑問とこの文章の質は高いと思います。ただ……それに対しての結論がどこか拙いというか……幼い、というか」

「ふぅん……。問題を見つける能力は高くても、それを解決する力があまりない、と?」

「まぁ、端的に言えば」

 そう言って、朝霧は他の二枚には目を通さず、悩ましげに唸りながら手に持った一枚を机の上に戻した。

「多分、それを本人も自覚しています。だからここで先輩の出番が回ってきたというわけですね」

「なるほど。昨日の話だな」

 単純に自分の疑問を解消してくれるだけのツールとして――という、あの話。

「でもまあ、それならそれでもいいんじゃないか……とか思えてきてな。俺に何かデメリットがある訳でもないし」

「……その意味が、ちゃんとわかっているのですか?私の言った通りなら、あなたは――その、桜井さんは……あなたを、“使用”しているのですよ」

「なんで朝霧が怒ってるんだよ。今も言ったけど、俺にデメリットは無いだろ?」

「……いえ、別に。怒ってなんてないです。怒る理由も、意味も無いですから」

 ただ……と、朝霧は悔しそうな声で続ける。

「それって、その相手が先輩である必要性は無いってことですよね。たまたま“使用するに値するもの”が先輩だった、というだけで」

「朝霧――」

「そんなの、私はとても嫌です」

 ……。

「……怒っているように見えたのなら、それは先輩がそんな扱いをされているのに嬉しそうにしていることに対してですね。ついにそこまで落ちぶれたか、と軽蔑していただけです」

「……いやいや、喜んではいないぞ。俺はただ純粋に、その何だ。倫理的思考実験?とか、そのへんの面白さに気づいてだな」

「だったら私と議論しますか?トロリー問題とか良いんじゃないですかね、代表格ですし。思考実験の面白さに目覚めた先輩は、もちろん知っていますよね」

「ウッ」

 知りません、なんて言えない。なんだそれ。代表格なのか。ここで「うんうん知ってる知ってるー」なんて答えようものなら詳しい説明を求められて死亡するので、俺はまたも閉口するしかない。

「……大体、先輩が『なになにしてだな』という時は総じて言い訳ですから。もはや定型文で喋ってるのかってくらい丸わかりですから」

「朝霧が『別にそんなことない』っていう時は総じてそんなことなくないのと同じか」

「……そ、そう……ですか。です、かもしれないですね」

 そして、朝霧は一つ咳払いをして、早口に言う。

「いいですか。『無暗に同調しないこと』と『要求を許容しすぎないこと』。桜井さんと話をする時には、この2つの点に注意して話をするようにしてください。特に後者は絶対です」

「あぇー絶対ですか……あっ、はい、わかりました。いいです。いいです」

「……絶対ですからね。これを守らなかったら、それはもうめんどくさい事になりますから。桜井さんも、私も」

「お前がめんどくさいことになるのか」

「超いじけますから」

「一概にめんどくさいって言えないやつやめて」

 こいつがいじけるとそれはもう大変である。なんと言っても、バイト中に会話が全くなくなるのである。喋りたくないなら部屋に戻っていればいいものを、何故か横でずっと黙って座っている。それはもう、とんでもなく気まずい空気が店内に満ち満ちる。

「……わかったよ。考えなしにうんうん言わないように、ってことだな」

「そうです。考えてください。もっと、もっと。今の5倍くらい」

「割と要求スペック高いな」

 俺にハイエンド仕様になれ、と。ただ桜井と話をするのに、そこまでの事だろうか?と思わざるを得ない。

 が……他でもない朝霧の言うことだ。何か考えがあるに違いない……それこそ、俺の5倍くらいの考えが。

「……では、私はそろそろ戻ります。先程の方にもよろしくお伝えください」

「……朝霧。もしかして……名前、忘れた?」

「……」

「……」

 ……。

「別にそんなことないです」

「君も定型文で喋ってるフレンズなのかな」

 時の経過と共に、何故か記憶から抹消されてゆく宮田。その原理は謎に包まれている。

 その後、朝霧と入れ替わるように戻ってきた宮田には、「朝霧があの猫の里親見つけてくださいねって言ってたぞ」伝えておいた。もちろん、朝霧はそんな事一言も言っていなかったが。

 ……さて。ここで「あぁ、もう目星は付けてる」と即答された俺の心中を、60文字以内で答えよ。


 ◇ ◇ ◇


 ――雨が、屋根を叩く音が聞こえる。

 扉の向こうで十数人が走り回っている音が聞こえる。ボールが床に叩きつけられて跳ねる音、ラケットでシャトルを弾く音……それらが混ざって、しかし雨音にほぼかき消されながら俺の耳へ届いてきている。

 そして、それは逆に言えば、それ以外の音……そう、例えば、桜井の声なんかは全く聞こえてきていない。

「……」

 こうして目の前に座っているのに、だ。

「……」

「……」

 ……。

 授業開始時、「お察しの通り、自由です」との通達を受け喜びに舞うクラスメイト達。その間をすりぬけてやってきた桜井に連れてこられた、体育館の隅の器具倉庫。

 そこには今、俺と桜井しかいない。そして、俺を連れ出したということは用件があるに違いない桜井さんは口を開かない。さて、俺はどうしよう……とまぁ、そういう状況である。

 どうして黙っているのだろう。俺から声をかけるべきなんだろうか。でもタイミング逃しちゃったし。連れられてきてすぐに「これのことだよな」と言ってメモを取り出しでもすれば完璧だったのに、もう既に数分の時を間に挟んでしまっている。

 積み重ねられたマットの上に膝を抱えて座る桜井と、その横に膝を立てて座る俺。無言。真顔。どんな状況だよこれは。

 今日が晴れの日だったら耐えられなかっただろう。この雨音のおかげでなんとか正気を保てているようなものだ。

「……雨、嫌いなの?」

「……また、突然な質問だな」

 なぜこのタイミングでそれなのか。それより先にするべき話があるのではないか。いや、これは本題の前座なのかもしれないぞ……色々な思考がぶくぶくと湧いてくるが、とりあえずそれには蓋をしておく。

「でもまぁ、そうだな。雨は嫌いだ。俺の中では晴が正常で、雨だの雪だのは異常なものなんだよ。いつもと違う準備をしないとならないし、だから、いつもと違うことばかりが起こる」

 雨がもたらす“いいこと”なんて、ちょっと涼しくなるくらいではないか。視界は悪いし、濡れるし、頭痛くなるし。

「だからって、雨が全く降らなくなればいいとは思わないけどな。思ってもそうはならないし、俺以外にもし雨好きが居たらそいつに申し訳ない」

 作物に与える影響だって大きいだろうし。俺が好きだの嫌いだのより、万人に野菜を届ける事の方が明らかに重要だ。というかそれしか重要じゃない。

「そっか」

「なんでそう思ったんだ?」

「なんか、困ったような顔してたから」

 それはあなたのせいです。

「それに、私も雨嫌いだから」

「……へぇ、そうなのか」

 正直言って意外だ。静かで涼しくて、心が落ち着くんだ~とか言われた方がすんなり来る。

「本当の意味で雨が好きな人っているのかな。雨が降ると気温が下がって湿度が高くなって、空が暗くなって地面が濡れて。それを真正面から良いって言える人は居るのかな」

「……い、いきなり饒舌だな。にしても、雨が好きな奴の話か……」

「うん。知り合いにいる?」

「知り合いって言うか……うんまぁ、そんな奴は知ってる。そいつは雨の音が好きなんだって言ってたけどな」

「音」

 桜井はそこで驚いたような顔をした。目から鱗、といったふうだ。

「……確かに。涼しくなるのも湿気っぽくなるのも、雨じゃないといけない理由が無い。けど、雨の音……それは、雨じゃないといけないね」

「固有性、的な話か。他の物で代用できるなら、それは本当の意味でそれが好きだとは言えない……と言いたいわけだな」

「そう。さすが、森見くん」

 ……どうして桜井内の俺の株が高いんだ。本当に、桜井に対して何かをした覚えはないんだが……。

 照れ笑いのようなものを浮かべるな。止めてくれ桜井、その術は俺に効く。

「げふんげふん。それじゃあまあ、本題に入るか。これだよな」

 よし、これだ、よくやった。と内心自画自賛しつつ、極スムーズに話題を転換させる。懐に忍ばせていた例のメモを取り出して、桜井へ向かってひらひらさせると、その本人は一瞬きょとんとして。

「……ああ」

「何その薄い反応。何のためにここに来たんですかあなたは」

「森見くんと話をするため?」

「そうですけどもさ。その内容よ」

「始めようか」

 ……なにちょっとかっこよく始めてるのこの人。忘れてたくせに。くそっ、澄ました顔しやがって。ちょっと耳赤くなってんじゃねぇよくそっ。

「3枚あるけど、どれからにしようか」

「疑う云々は最後がいい。どうでもよさげなのを先に片付けよう」

 どうでもよさげ。この2枚はどうでもよさげなのか桜井。

「それじゃあ、勝者と敗者の話をしよう」

「だからかっこよく言うな。えぇと、勝者と敗者……これだな。俺の意見はここへ書いたから、読んで……ああいや。これをもとに話をしよう」

 これ読んどいて。だなんて、それじゃあここで話をする意味がない。桜井だって、俺の意見を知るだけではなく、より深く“他人の考え”を理解したいはずだ。

 俺の考えの通りなのかどうなのか、桜井はひとつ頷いて、俺が話し始めるのを待っているらしい。それじゃあ、話させてもらおうか。

「……まず、“日常に存在する勝者と敗者”だが……確かに、最近の若者はよく言うよな。勝ち組負け組、リア充非リア、陽キャ陰キャ……これはちょっと違うか?まあとりあえず、そういう感じの存在が居ると」

「そうだね。その二つに明確な定義は無いってことは明白だから、その間のラインを決める人が誰なのか知りたい」

「そりゃお前……“自分”だろう。極論かもしれないが、この世の物事の価値はほとんどが自分の裁量で決定できる。それこそ、好き嫌いから良し悪しまで」

「自分で決めちゃっていいの?」

「自分で決めないでどうするんだよ。他の人が“これいいね”なんて言ってるのを見て、本当にお前の中でそれは“良いもの”になるのか?」

 だとすれば、この世はいったいどれだけシンプルなものになっただろう。全てが統一され、異端が完全に消失する。“二極化”という現象がなくなり、全ての人が全ての人に肯定的になるだろう。

「そんなことになったら、完全に“個”が消えてしまう。人というくくりで全てが語れるようになる。それは、言ってしまえば……人に価値がなくなるのと同じなんじゃないのか」

「人に……人は、それぞれが違うからこそ価値があるってこと?」

「違ければいいってものでもないけどな。それに、そうだな……それを正確に言うなら、違うからこそ価値が『生まれる』だな。ある人に価値があるというのももちろんあるが、その人が作り出したものにこそ価値を見出すということもあるだろう」

 この人の本いいんだけど、本人の性格がなぁ……とか、声は良いんだけど、顔がなぁ……とか(これは世論の一部を抜粋してきたに過ぎない、大衆の意見の一部です。決して私本人が持つ感想ではございません)。

 もちろん、そういったものも“その人が持つ価値”と言えるかもしれないが……俺個人としては、それは人としての“能力”だと言いたい。今朝朝霧が言っていたように、もしその能力を持つ人が他に居たら別にその人でなくてもいいのだろう?

 まぁ、もし本当に“同じ”能力を持つ人間が居るのだとすれば、だが。

「まあそんな感じで、価値あるものを生み出すのは他人で、その価値あるものの価値をどれだけ自分が見出せるか、って話だな。価値を決めるのは自分だ」

「……値段って、価値にニアリーイコールだよね?値段も自分で決められたら、メーカー希望小売価格のいくらくらいになるのかな」

「さぁなぁ……本当にその人が感じる価値を数値に変換する機械でも作られたらいいんだろうが、『これには価値を感じないなぁ……50円で』みたいな嘘をつく奴も出てくるだろうし」

 自分が欲しくないものほど安く手に入り、欲しければ欲しいほど手に入りにくくなる……嫌な世界だな、それは。

「まぁまとめると、“勝者と敗者”っていうのはつまり“自分にとって価値がある人間か”ってことだろうな。あるいは、“自分と比較して価値があるか”か」

「……なるほど。すごい、参考になる」

「いやぁ、これだって、俺の言葉にお前が価値を見出してるだけだからな。無価値な言葉なんて本来無いのかもしれないが、過大評価はしないでくれよ」

「価値を決めるのは私。でしょ?」

 ……それを言われてしまうと、何も言えなくなってしまうが。

「じゃあ、次……えっと、私何書いたっけ」

「おい……忘れるなよ、大事なことだろ」

「森見くんの話がすごくて……忘れちゃった」

 絶対関係ない。普通にただ忘れただけだろ。

「……人は、他人に自分と同じ状態であることを求めるものだ。それから逸脱した者は異端者として扱われるわけだが、これらに『個人としての選択』と言えるものがあるだろうか……この『これら』っていうのは、他人に自分と同じ状態である事を求める事、それを逸脱する事、そいつを異端者と扱うこと……でいいのか?」

「うん、そう。言わなくてもわかる、流石。話が速くて、深くて、正しくて……助かる」

 一体何をもって正しいとしているのか……まぁ「俺は正しくなんてない!」なんてアレなことは言えないから、どうしようもないが。

「これは集団心理ってやつだな。人がたくさん集まることで初めて生まれる心理現象……って、前に朝ぎ……知り合いが言ってた」

「人がたくさん。秩序を乱さないように、とか?」

「まぁ、そうだな。おっ、なんか店に人が並んでる。よくわからないけど俺も並ぼう。みたいな」

「なるほど……“個”じゃなくて“全”として振る舞いたくなる衝動、みたいな感じかな」

「そうだな、みんなやってるからー、的なな。これは、他人を基準に考えるからなんだと思う。少数ならまだ自分が持つ価値を信じていられるんだが、数が増えるとその暴力の前に己がかすんでしまう」

「ふぅむ……確かに、たくさんの人に否定されるのはつらい。だから、確実にそうされない行動をとりたくなる、のかな」

「あぁー、なるほど、そうだな。それも大いにあると思う。“自分の考え”と“大勢の考え”を天秤にかけてしまうんだろうな。そして後者の内容がわからないから、怖くて下手に動けないと」

 普段は全く考えない、自分の心の動き。それをこうして考えてみると、なるほど、新しい発見がいろいろ出て来るな。

 敵を知り、己を知れば……と言うが、この二つでは当然後者の方が知りやすい。だとすれば上手に戦っていくために、自分のことを分析するのはとても有益なことだろう。

「あぁ……一つ疑問だったんだが。この“自分と同じ状態であれと願う”っていうのは、例えばどういうことなんだ?」

「例えば。えぇと……例えば、私が怒るとする」

 うん……全然想像できないけど。

「あ、やっぱり森見くんでいいや」

「あ、俺が怒るの?なるほど、うん、わかった」

「それで、相手が全然涼しい顔で『何そんなに怒ってる訳?』とか言って来たら、もっと嫌でしょ?」

「あぁ……なるほど?確かに、相手も怒ってたほうが……なんていうんだろうな。やりやすいわけじゃないし」

「そのほうが自然、って思わない?」

 ……なるほど、確かに。俺も潜在意識で、自分と同じ状態を他人に求めていたということか。

「出る杭は打たれる、っていうことわざに似てるね。自分より勝ってても嫌だし、自分より劣りすぎてても嫌」

 ……なるほど。さっきからなるほどしか言ってないけど、いやでもなるほどしか言えない。

 自分と同じ“状態”という表現が的確だな。良くも悪くも、自分と乖離しすぎていると避ける傾向にある、と。

「でも、これは仲間内にだけだよね。すっごい上手い楽器奏者とか見ても、そんなに嫌じゃない」

「そうだな。俺もその隣で演奏する、とかだと嫌になるか……楽器なんかろくに触ったこともないけど」

「要するに、その人と比較されるのが嫌なのかな。逆に、出来なさ過ぎても“仲間”としては扱えない」

 仲間であるためにはメンバーのバランスが取れていないとうまくいかない、ということか。それはモチベーションの話でも適用されそうだな。

 やりたい!という奴と、別に……という奴。どちらも互いに疎み合う関係になりやすい。

「同じ状態を願うのと異端を弾こうとする、この2つが集団心理だというのはわかったが……この異端者、こいつ扱いが微妙だな。それが意図的なのかどうかで話が変わってくる」

「意図的だと、個人の考え?」

「と思うだろ?残念ながら逆だ。意図的に“全”から“個”へ移行したがる奴ほど、集団に踊らされている奴なんだよ」

 俺の得意げな台詞に、桜井がむむっという表情になる。ここは意見が分かれたか。

「どうして?だって、自分で考えて、それを行動に移してるだけだよ」

「まぁ、そうなんだが……その考えの根底には“みんなとは違うことをする”というのがあるだろ。つまり、集団の中においての異端になるという事が目的で、そのために集団から逸脱しようとするんだよ」

「……そっ、か」

 ぐぬぬ、という感じで納得する桜井。結構負けず嫌いな所があるのかもしれないな。

「知らぬ間に逸脱してしまって、結果異端者として扱われてしまった……これこそが“個人の意思”だ。そこに周囲の考えが入り込む余地なんて無く、純粋なそいつの考えが引き起こした状況だろう」

「なるほど……十把一絡げにはできないけど、その基準はちゃんとあるんだね」

 うんうん、と頷きながら、桜井は目を閉じてしばし思考。その後、よし、と口にして、こちらを見つめる。

「本題。人は何故、人を疑うのか」

 どうやら、桜井にとってはこれが本題らしい。他の二つは別に……くらいのモチベーションだったようだが、これはきちんとやりたい!の方だ。

「自分の中の“悪”を他人に投影することで、その悪い事をしないように自分に言い聞かせているんじゃないかな、って。裏切らない人ほど、こっちを疑ってくるでしょ?」

 その証拠に、自分で書いた内容を忘れていない。

「しかしまぁ、その意見には概ね同意だな。これもさっきと同じ“自分と同じ状態であることを求める”って話と繋がってくるな。自分が裏切らないからこそ、相手から裏切られないことを望む」

「そう」

 メンヘラと呼ばれる人たちがしつこく浮気を疑ってくるのは、こちらを信じているからなのか、あるいは全く信じていないからなのか……という議論を見た事があるが、それと同じ話だ。

 とするならば。

「……桜井の話は、逆じゃあないか?」

「ん……逆?」

 不思議そうに首を傾げる桜井に、俺はほぼ確信を乗せて頷く。

「疑うから自分を戒めるんじゃなく、自分を戒めているからこそ疑うんじゃないか……だ。つまり、日頃から、自分が“悪い事をする”という選択肢を、敢えて選ばない……それを自分に強いているヤツだからこそ、他人にもそれを適用するんだ。『まさか、そんなことしないだろうな?』という威嚇の意を込めて……るのかは、知らないけど」

 メンヘラ的に言えば、「他の選択肢もある中で、私は“敢えて”あなたを選び続けていてあげるんだから、あなたもそうしてよね」というわけだ。

「……なる、ほど」

「最初から自分の中に悪意がない奴は、そうそう他人を疑ったりしない。だが、他人から悪意ある行為を受けてその“悪意”の存在を知ってしまえば、それはもうその人間の中に悪意が存在してしまうんだよ」

 つまり、現代社会において『他人を疑わない』なんて、そんな純粋な奴は絶対に居ない。それは断言できる。

 他人を疑う事自体を悪と断じて、それを敢えて行わない人間は居るかもしれないが……それだって、疑いつつ、それを隠して信じているように振る舞っているだけに過ぎない。

「悪意があるから、他人を疑う……悪意が無ければ、そもそも人を疑わない。でも、疑わないからといって悪意が無いわけではない?」

「まぁ、そうなるな。だが、何のために疑うのか、と言われれば……難しいよなぁ」

「あっ……そうだった。それが本題」

 また忘れていたのか……俺の話を聞いていると忘れる、というのは、あながち間違いでもないのかもな。

「自分を戒めるためではなくて、自分を戒めた結果、初めて他人を疑うという行為に繋がる……だとすれば、それは何のために?」

「……桜井は、他人を疑う事は悪い事だと思うか」

「?それは……うん。互いに疑わないといけない関係より、疑う必要なんて全くない関係のほうが良いでしょ?」

「そりゃそうか。うん、そうだな……俺もそう思うよ」

 ……桜井は俺を信用してくれている。それは、朝霧の“道具として使われているだけ”という言葉からもわかる。

 この道具を使っていて大丈夫か?なんて疑問があったら、その道具を使い続けるだろうか?これはダメだと思いながら、敢えてそれを使い続けるという選択肢を選んだ経験はあるだろうか?

 “使う”というのは、満足に動いてくれるという期待と確信が無ければそもそも成立しない……少なくとも、その道具以外にも選択肢がある状況であれば。

「……これはあくまでも俺の考えだ。だから、この考えを聞いても、桜井の中でもう一度考えて……俺の言葉を鵜呑みにしないで、聞いてくれ」

 ……俺は、桜井を疑っていた。朝霧の言葉のせいではない。俺が自分で、自分自身の意志と思考で……桜井に潜む“悪意”を探してしまっていた。

「?うん、わかった……わかったの?疑うって、どういうことか」

「だから、俺の考えだって。俺の主観から見れば『わかった』が、それが真理かと言われれば、俺にはどうとも答えられない」

 俺が真理という言葉を口にした瞬間、桜井の目の色が変わった。

 だが、それも一瞬のこと……見間違いかと思う程に一瞬の出来事。桜井はすぐさまいつも通りの顔になると、いつも通りの声で言う。

「……教えて。森見くんの考える、“疑う理由”を」

 何故桜井が世界の真理とやらを求めるのかはわからない。何故その基準を俺に定めたのか……そもそも、この朝霧の予想が合っているのかもわからない。

 だが、今こうして俺の言葉を真剣に求めて、真摯に受け止めてくれる……俺を、例え表面上だけであっても、信じてくれている。

「……わかった」

 だから、俺の本心を打ち明ける。俺の本心を、“ぶちまける”。

 今まで誰にも触れさせた事のない、俺の考えの底の底まで……晒してみせる。

 それが、今の桜井が求めて止まない“真理”であると信じて。

「疑う。桜井はそれを悪だと言ったが……疑うということ自体は、むしろ良い事なんだよ」

「……」

 『さっき、俺もそう思うって言ったじゃん』……そんな声が聞こえてきそうだが、桜井は黙って俺の言葉を待つ。

「何故か?それは極々単純なこと……人が何かを疑うのは、その“何か”を信じたいからなんだよ」

「――」

「人はそもそも、疑いたくない。信じたい。だからこそ疑う事を悪いことだと感じ、忌避する……もう、それが答えだろ?疑ったその先にあるのは、信用なんだよ」

 例え、その信用の値がマイナスだったとしても。ああ、これはダメなんだ、という確信を得たいんだ。

「疑うのは悪い事じゃない。むしろ良い事なんだよ。悪いのは、疑った後にそれを信じない事だ……疑った後にそれでも信じるに値すると判断したものと、何も考えずにただ鵜呑みにしたもの。どちらがより良い『信じる』だろうか」

 桜井が言う『私の疑問』と同じように、俺はそう結んだ。

 俺達二人の間の言葉が途切れ、再び雨音がその部屋を支配する。扉の向こうの喧騒も何もかもを包んで、雨はただただ屋根を叩く。

「……俺さ」

 そんな沈黙を切り裂いて、俺は言葉を放つ。

「一時期、本当に誰も信じてなかったんだ。友達も、親でさえ信じてなかったな。何かを言われる度に、その言葉は本心からのものなのかって問い続けて、一瞬孤立しかけるところまで行ったよ」

「……それで、考え続けて、この結論を得たの?」

「まあ、最終的には俺が出した結論ではあるんだけど……ある奴が言ったんだよ。『あなたは、何がしたいんですか?』って……すっごいイラついた声で」

「何がしたいのか……全てを疑ってる森見くんに、そう言ったの?」

 桜井の言葉に、ひとつ頷く。

「目的も無くただ疑うだけなんて、あまりに傲慢だ……みたいな事を言ったかな、そいつは。それで、それだけ言ったらどっか行っちゃった」

「……なかなか、辛辣な人だね」

「結果俺がこの結論を得られたんだから、安いもんだ……そいつには感謝&感謝だなぁ、今も……なんだかんだで世話になり続けてるしな……」

「そ、っか……森見くんにも、そんな人が居るんだね」

「ああ。すごいやつだよ、あいつは」

 だけどな……と、俺は語調を強める。

「だけど、俺はまだ、あいつ以外を本当の意味で信じられている気がしない。他人を断定する罪悪感を、未だに乗り越えられていない」

「……それは、私も?」

「……ああ。俺が自信を持って『信じている』と言えるのは、この世界でただ一人だけだ」

「……そ、っか」

「んー、なんか何が言いたいのかわかんなくなってきたが……だからまあ、そんなに俺が芯がある人間に見えるなら、それは気のせいだ。ってことかな。俺はそんなに“善”にまみれた奴じゃない。むしろ、桜井が疎む“悪”に浸ってる人間なんだよ」

「っ、それは――」

 そこで、この時限の終了を報せる鐘が鳴った。それはつまり、桜井との会話もが終わることを意味している。

「時間だな。桜井の疑問は解消されたかな」

「……それは、まぁ。でも――」

「じゃあまあ、今回はここまで、ってことで。またなんか疑問が沸いて来たら紙にでも書いて渡してくれ」

 そう半ば強引に切り上げて、俺は器具倉庫の扉を開く。

 桜井がまだ何かを言いたいのは、わかっている。俺は難聴系主人公でもなければ鈍感系主人公でもない。そのどちらでもないから、俺は桜井を拒絶する。

 俺は俺を正しくないとは言えない。だが、少なくともこれだけは言える。

 俺は、真理なんかじゃない。

 俺なんかを、真理にしないでくれ。


 ◇ ◇ ◇


「……なんだ、これ」

 私の疑問。

 ……そんな幻聴が聞こえてきそうだ。

 困惑する俺の手にあるのは、一枚の紙。下駄箱を開くとすぐに目についたそれには、こう書かれていた。

 『森見くんが悪なのはどうして?』

 ……。

「なんだこれ」

 確かに、俺はむしろ悪に浸ってるとかなんとか言ったし、また疑問があったら聞けとも言った。

 その結果が……これか。

「……また、かっこつけましたね」

「うわびっくりしたお前いきなり生えてくんなよ」

「最初からいましたから。突然出てきたみたいなのやめてください」

 朝霧の呆れたような声を聞いて、俺の頭はようやく動き出す。

 今は、朝だ。昨日雨の中で桜井と話をして、それからその日は特に何もなくて。バイトも休みの日だったからそのまま直帰して、特になにかをするわけでもなくだらだらしてたら夜になって、あー寝なきゃなー。よし寝るか。からの、今だ。

 ……虚しくなってきたぞ。何だ俺の一日。いや普通こんなもんか。こんなもんだな。そういうことにしておこう。

 今日は晴れたから気持ちは普通だ。眠い目をこすりながら登校したら、下駄箱のこれを見つけた。そういえば、確かに朝霧はそこに居た。

「で……かっこつけた、とは何のことかな朝霧くん」

「先輩を崇拝(笑)している桜井さんとやらが、あなたを悪だなんて言う訳がない。それはあの……宮田さんでしたっけ。あの人も言わないでしょうし、先輩、あの人以外に友達いないでしょう」

「人間強度が下がるから」

「はん」

「片目隠そうかな。髪伸ばそう」

「やめてください、割と」

 ともあれ、俺に向かって「お前は悪だ」なんて言う奴はいなさそうだ。だから、俺が俺自身を指して言ったことだと……そう言いたいわけだ。

「友達の数はともあれ、まぁ概ねその通りだな。『フ……俺ほど悪いやつはそういないぜ』なんて言い方じゃあなかったけど」

「当たり前です。先輩がそんな事言う人間だったら即さようならですから。一切関わり合いになりたくないです」

「うーん、俺に攻撃は届いていない筈なのに、なんだろうこのダメージは」

 これがファントムペインというやつか……。

 とりあえず、いつまでも下駄箱の前で立ち話をしているのもアレだ。もうすぐホームルームも始まるし、ということで、教室へ向かって歩きながら話をすることに。

「先輩のその発言の意味は全くわかりませんが、その質問の意味するところは……まぁ、わかりますよね。死ぬか生きるか選んでください」

「なにその意味不明な選択肢。そら生きますわ」

 ついでに言えばこの質問の意味もわからない。なんだろう、意外と朝霧と桜井は気が合ったりするのだろうか。

「先輩って、時々どこぞのかまってちゃんJKも真っ青なくらい自分を卑下しますよね。でもそれがあまりにナチュラルすぎて逆に不自然です」

「おいおい俺程自尊心が肥大化した奴もそうそう居ないぜ。そんなこと言うとJK達がリスカするぞ」

「勝手にさせておけばいいんです。私達は悪くありませんし、興味もありませんよね」

 ……まぁ。

「しかし、そんなに俺自分を卑下してるか?割と普通にしてるつもり……というか、少なくともそんなことはしてないつもりなんだが」

「でしょうね。だからこそ自然で、そして不自然――いえ、異常とでも言いましょうか。異常が正常の先輩的には、この世界はどう見えます?」

「割とノリと勢いだけで話してるだろ。なんだその台詞」

「いえまあ、その通りですけど、言葉の意味的にはそのままですよ。同族じゃないものに満ちているここで、先輩は何を考えて生きているんですかね。って感じです……まぁ、答えなくてもいいですけど。答えられないでしょうし」

 この件に関しては朝霧の言う通りだが、敗北感なんかは無い。言う通りだからこそ、と言ってもいいかもしれないが。

 自分のことなんて、正しくわかるはずがない。

「“正しさ”を追い求めている……そういう意味では、桜井さんとやらと先輩は似てるのかもしれませんね。まぁ、似ているのはそこだけですが。他の所は似ても似つきませんが」

「そこ強調する必要あった?」

「だって、そうでしょう?あの人は正しくあるためにその基準を求めている。それに対して、あなたはそれを知ったところで今と変わらないでしょう」

「だろうな。まぁ、その対極に居るとかだったら話は別だろうけど」

 俺だって、わざわざ間違っていることをしたい人間じゃない。何かを得るために正当な手段を踏まえるというのは大事なことです。ズル、ダメ絶対。

「まぁバレなきゃ犯罪じゃないとも言いますし」

「内に秘めたる良心にバレてますよ」

 こんなことを言っているが、こいつだって不正は嫌がる性分だ。後ろめたい気持ちで何かを手に入れて、本当にそれを楽しめるんですか……とか言っていたっけ。

「遵守するためか、大まかな指標とするためか。正しさにもいろいろ使い道があるんですね」

「それこそ、正しさの内容とその使われ方を知ることこそが目的、みたいなやつも居るからな。誰とは言わないけど」

「この3つだと、2つ目が一番曖昧ですよね。もはや目的ですらない。なにがしたいんですか、先輩」

「流れるようなダイレクトアタックやめようか。わかんないだろうけどってさっき自分でも言ってたじゃん」

 俺はちゃんとぼかしたのに。それに対する報復にしては過剰防衛だぞ。

「それにしても、先輩が何を言ったのかは知りませんが、桜井さんの目的がここに来て変わってきたというのは興味深いですね」

「私の目的は最初から同じ」

「ぬぇ?!」

「おう桜井、おはよう」

「いやいや、今こそいきなり生えてきた時でしょう!何涼しい顔で挨拶してるんですか?!というかこの人が桜井?!」

「気づいてなかったか。さっきから居たぞ」

 おはよう、と無表情に言うのは件の桜井だ。いつの間にか、俺を挟んで朝霧の反対側を歩いている。荷物が無いところを見るに、一度教室へ行ってからここへ来たらしい。

「どうした桜井。俺に用事か」

「たまたま。日課を終わらせたら森見くんが居たから」

「……たまたま、ねぇ……」

 桜井の日課というのも気になったが、本人は特に話す気はないらしい。特に同行を拒否する理由も無いし、そのまま会話へ合流することに。

「私は、人生の意味が知りたい。ただそれだけ。私が生きてることはいいことだって、肯定したいだけ。その材料を集めているの」

「……いきなりディープなの持ち込みますね。かつての偉人たちが幾度となく挑んで打ち勝てなかったその命題に、あなたが答えを出そうと言うのですか」

「……」

 挑発するような朝霧の言葉に、桜井はゆっくりとその顔を見る。そして数秒の後、口にしたのが。

「……誰」

「言うと思ったから答えよう。こちらは朝霧 舞幌。俺達の一年後輩の、寡黙系クール少女だ」

「どうも、朝霧 舞幌です。お噂はかねがね……はじめましてですね、桜井さん」

「桜井 霖です。私はあなたのことなんにも知らないけど」

「知っているけど、私の事だと認識できていないだけだと思いますよ。そのあたり、詳しくは知らないので何とも言えないところですが、おそらくは」

「実は有名人?」

「うん、今のだとそうなるよな。桜井はそういう奴だ」

「……この話の通じなさ加減、どこかの誰かに似てますね……誰とは言いませんが」

 あっ、これがさっきのの報復?となると、俺はさっき無条件に攻撃を受けたの?

「ということで。どうして森見くんは悪なの?」

「あぁ、そっか。そういえばそれが疑問か」

 そして、今の桜井にとってはこれが本題なのだろう。これは予想でしかないが、桜井は本題以外を軽視する節がある。勝者と敗者の話にしろ、自分と同じ状態を求める話にしろ。

 今回は、それが朝霧についての話だったのだろう。それを察知したのか、朝霧は少しむくれている。

「そうだな……桜井は、さっき『肯定したい』って言ったろ?でも、俺は『否定したい』んだ」

「否定したい?」

「根本的に、考え方が違うんですよ。あなたがプラスを生み出すとしたら、先輩は一度マイナスを生み出して、その正負を逆転させることで結果的にプラスを生み出す。そういうめんどくさい人なんです」

「改めて言葉にされると、確かにめんどくさいな。うん、これからは改めて言葉にしない方向で」

「そして、そのマイナスを生むこと自体を否定することでゼロを生み出そうとしたり。回り道せずにはいられない、ちょっと残念な思考回路をお持ちなのです」

「天邪鬼だなあお前はぁ!」

 まぁ、その説明自体はとても助かったのだが。わかりやすい上に簡潔。俺に少量のダメージが入るのがまさに玉に瑕である。

「それでいて他人を否定することにただならぬ罪悪感を抱いている、本当にどうしようもない人です。だから常に自身を悪だと断じ、戒めることで、マイナスから少しでもゼロに近づきたいって魂胆なんじゃないですか?」

「改めて言葉にすると、そんな感じだな。逆に言えば、俺が正しくあるためには、俺は俺自身を否定し続けなければならない……的なな」

「何途中で恥ずかしくなってんですか。恥ずかしいセリフは恥ずかしがらずに言わないからこそ恥ずかしいセリフなんですよ」

「ややこしい。やめて、ほんとに」

 どうして朝霧はこうも、嬉々として俺の傷をえぐるのか。それが怒りに達しないところに才能を感じる。

 ……何の才能なんだろう。

「……森見くんは、否定したくないの?」

「どうなんだろうなぁ。俺と言う人間の本質が、もう既にそうなってしまっているんだろうな。したいとかしたくないとか、もうそういうんじゃないんだろうな」

「こんな感じで、この人質問をしてもはぐらかすんですよ。でも、これは敢えてはぐらかしているんじゃなく、自分でも自分がわかってないんです」

「朝霧の言う通りだ。もう俺のことは全部朝霧に聞いてもらっても構わんくらいだ」

「自分のことくらい自分でなんとかしてください」

「んー……森見くんって、よくわからないね」

 ……地味に、桜井のこの言葉が一番ダメージが大きかった気がする。

「朝霧さんのことは、わかった。そっか、あなたが森見くんの唯一なんだね」

「ぬ……っ?ゆい、いつって……どういうことです?あなたが思う私とこの人の関係性を具体的な言葉にしてみると?」

「人」

 ……桜井って、端的だなぁ……。

 何が言いたいのかはわからないが、だいたいこんな感じなのかな、みたいのはぬるっと頭に入ってくる。不思議な奴だ。

「あるいは、船。それか、缶詰とかかな。空気だけが入ってるやる」

「なにそれ、俺の頭はすっからかんってこと?水にぷかぷかしてそう的な?」

「違いますから。先輩は理解力を安定させてから話をするようにしてください」

 ……「わかんねぇなら黙ってろ」って言われた。

「その評価、ありがたく今後の参考にさせていただきます。あなたは、思っていた以上に考えてないんですね」

「褒められている気がするのに、貶されている気がする。どっちなの?」

「これは褒めているな。言葉はすごい、そんな感じしないけど」

「そこまで考えずにここまで的を射た事を言えるのは純粋にすごいです。先輩の5倍くらい正しいですよ、あなたは」

「桜井を褒めながら俺を貶すな。たまには俺も褒めろ」

「あなたはそのままでいいんです。そのままでいてください」

「ぬ」

 ……なんだ、この謎の感覚は。そして、俺の頭上でやりとりされている内容は。いまいち何の話をしているのかわからない。

 なんて話しているうちに、朝霧の教室へ着いた。俺達の教室の方が近かったのだが、話ながらなんとなくここまで来てしまった。

「それでは、私はここで。己の人生を肯定したいということでしたら、あなたは一度考えるのを止めて先輩とでも話をしてください」

「考えるのを……やめて?」

「はい。何も考えずに、何の命題も持たずに……その人と話してみればいいと思います。失礼な事を言いますが、あなたは考えるのに向いていません」

「もうちょっとオブラートに包んだりしない?俺は朝霧のこういうとこだけが心配だよ」

「私はこれが仕事みたいなところありますから。それに、桜井さんも特に気にしてないようですし」

「うん。私も、考えるの苦手」

「そうだったんすか桜井パイセン」

 だって、なんかすごい長い文とか書いてたじゃん。昔からそんなこと考えてて、でも周りには言えなくて――ああいや、これは俺達の予想か。ということは、あの文はとても無理をして書いていた?

 ということは、つまり……俺達は、桜井を誤解しまくっていた?

「あの時の私の予想はほとんど外れてました。ちょっと買いかぶりすぎてましたね」

「何あの『私全部わかってますけど答えは敢えて教えません』的な態度。もったいぶりやがって、このボンタンアメが」

「ボンタンアメ……?」

「ああでも、全く話題がないというのもきつそうですね。じゃあ、こうしたらどうでしょう――」

 言いながら教室の中へ入っていく朝霧に、聞こえないくらいの声で悪態をつく。と、すぐにひょっこりと顔を出して、一瞬聞こえたのかと思ったが、どうやら違うらしい。

 そして、朝霧は例のしたり顔で俺達を見つめ。

「――どうしてあの日、先輩を呼び出してあの三枚の紙を見せたのか」

 俺達のルーツとでも言うべき、その“疑問”を提示した。


 ◇ ◇ ◇

 

「それじゃあ――全ての答え合わせといこうか」

 数多の本の背表紙に囲まれたその空間で、その男は不敵に言い放った。

 どこか嘲笑めいた笑みを口の端に浮かべ、悠然とこちらを見つめるその男。余裕に満ちたその立ち振る舞いは、見る者に得も言われぬ警戒心を抱かせる。

「……何故、ここにあなたが居るんです?少なくとも、私はあなたに用があるとは思いませんが」

 そんな男に向かって疑問を投げかけるのは、その場においては最も立場が上であるはずの朝霧 舞幌。しかしその言葉を受けた男は尚、その笑みを絶やさずに言う。

「ご挨拶だな、朝霧 舞幌……俺以外に、この場に答えを持つ者は居ないと言うのに」

「そこからもう既に疑問ですけどね、私は。あなたが全ての答えを持ち合わせているのはあまりに不自然です」

「しかし不可能ではない。そして、現に俺は持っている……まぁ、今君にそれを納得してもらう必要は無い。それに、俺に言わせてもらえば、そもそも答え合わせなんてしなくても困らないんだよ、俺は」

 余裕綽綽、という言葉を体現したようなその口ぶり。それを見て、危機感を覚えたような声がかかる。

「私が困るから、して」

「と、桜井 霖が望むから俺はここに居る、こうして話をしている……君の言葉次第では、桜井さんの望みは叶わないかもしれないなぁ」

「……」

 知り合いを引き合いに出され、歯噛みする朝霧。その表情には焦りと、そしてほんの少しの苛立ちが見て取れる――

「あの。いつまでやるんですか、これ。先輩たちのその謎のテンションに、私のテンションは駄々下がりですよ」

「あ、ほんとに?結構好きなんだけど、この黒幕ごっこ」

「いや……ごめん森見。実は俺もこれそんなに好きじゃないわ」

「今の今までノリノリだったよな宮田!?自分だけ常識ぶって俺をおかしいやつにするのやめろよ!」

「いえ普通におかしいやつでしたけどね。声で地の文らしきものを口にする様は、控えめに言って痛いとしか」

「ああああああああああああああもう寝るからな知らねぇ俺何も知らねえっぽーん」

「せめて私の疑問だけには答えてください……」

 状況の説明、アルバイトの仕事、そしてさっきまでのテンション。俺はそれらを含んだ全てを放棄して、カウンターへ突っ伏す。

 例の如く俺の横に座っている朝霧、そしてカウンターを挟んで桜井と宮田が立っている。その他に、店に客は居ない。

「んー……森見がてんで役に立たないから、俺から説明させてもらうとだな」

「まぁ、予想は付きますよね。大方、最初に桜井さんが先輩を呼び出したのはあなたの差し金なのでしょう」

「ねぇ森見俺この子こわいなんでわかるの」

 宮田に後頭部をばしばしと叩かれながら、密かにいきさつを振り返る。

 まず俺は、朝のあの疑問を解消するための時間をいつにしようか、と桜井と相談した。その結果、明日は土曜日だし今日が良いね、となったのだが、生憎今日はバイトが入ってしまっていた。じゃあまた今度……となりかけたその時、名案が思い浮かぶ。

 バイトをしながら解消すればいいじゃないか。どうせ暇――じゃない、余裕を持った時間があるのだから。

「その結果がこれ痛ぇよおまえ宮田!いつまで叩いてんだ頭皮剥がすぞ!!」

「うわこっちもこわい別の意味で」

「その反応を見る限り、合っていたようで何よりです。それでは、出入り口はあちらですので」

「ありがとうございました。またのご来店をお待ちしております」

「仮にも客に対する対応じゃなくないかなぁ?!」

 じゃあお前本買うの?と言ったら黙ったので、この辺りで許してやる。俺も朝霧も、本気で帰れと言っている訳じゃない。それは伝わっているはずだ。

「でも、どうしてここに?その疑問はまだ消えませんね」

「ん……暇そうだったから。せっかくだし」

「こいつ暇だけは有り余ってるからな。それにせっかくだし」

「うん、暇だったから。話すこともあったし、せっかくだし」

「順繰りに頬っぺたを腫らしてやりましょうか」

 ……大丈夫。ギリギリ冗談。まあやらないでおいてやるけど、くらいの。

「まぁ、舞幌ちゃんの言う通り。何日か前、っていうかもう先週か。森見が桜井さんの机から落ちた紙を拾ってやったろ?」

「あぁ、覚えてる。紙の内容とかは覚えてないんだけどな」

「あれは、哲学?の問題が書いてあったの。人生の意味とか検索してたら出てきたから」

 びっくりするほど安直。

「でも全然意味わからなかったから、捨てようと思ってたの」

 びっくりするほど素直。

「それが偶然舞い落ちて、偶然俺が拾ったと」

「そう。その時、森見くんが『面白いもん見てるんだな』って言ってたから、こういう方面に詳しいのかもと思って」

「そこで俺が登場する。それっぽい紙を持った桜井さんに『森見くんってぇ、こういうの好きなのぉ?』と質問を受けた俺は、『森見は日頃から訳わかんないことしか考えてないからたぶん好きだ』と答えた」

「私そんな風に言ってないよ」

 適当な事を言いやがって。

「そしたら桜井さんが森見を呼び出して話をしてるみたいだから、おっこれは……と思ったが、そういうんじゃなかったみたいだな」

「あー。だから告白だったかとか、必要以上に聞いて来たのか」

「いやまぁ、それがなかったとしても聞いてただろうけどな」

「今時落とし物を拾っただけで惚れられるとかないですから。そのうえ先輩ですから……ねぇ」

 否定はしない。否定はしないが、肯定したくない。いつもは断言するくせに今だけぼかす朝霧の言葉が心に食い込む。

「で、桜井さんが森見に興味を持ったのはそれだけじゃあない。なんか、一年前くらいに、雨の中を走るお前を見たんだってさ」

「なんですと」

「紙を拾ってもらうまでは気づかなかったけどね。その時にようやく思い出したの」

 俺そこまで影薄いかな……いやそういう問題じゃないか。クラスメイトの顔全部覚えるのなんか普通しないな。しかも桜井だし。

「それはあの日ですかね。9月終わりころの……まぁ、先輩が雨の中疾走する趣味をお持ちなのでしたら……」

「そんな趣味は無い。雨の日に傘を差さずに家を飛び出したのは後にも先にもあの日だけだ」

 おかげで携帯壊れるし。二度とやらん。

「何、そんな過去を持ってるの森見?何しに?」

「あー……何か、朝霧が家出もどきをしてな。親御さんから捜索依頼が来て探してたんだ……そういえば、色々な所を回ったか」

「舞幌ちゃんが?想像できねぇ……」

「あの頃の私は若かったですから」

 俺がバイトに入って半年弱くらいだ。秋雨の冷たさは今でも鮮明に思い出せる。

「あの人何やってるんだろう、って思ったけど、まあいいかって感じで」

「俺も好きだよその言葉。全てを一瞬にして片付けられる魔法の言葉だよな」

「色々な物を捨てた人の言葉ですけどね」

 ともあれ、雨の下を血眼で走り回る男、なんて特徴的なものを完全に忘却してしまうほどの桜井さんではなかったようで一安心。それがふとした拍子に思い出されたと。

 しかも問題の哲学的な考えが好きだというではないか。なんか面白そうだし、聞いてみよっと。という感じで、あの日俺を呼び出すに至ったらしい。

「とっても私の参考になった。人が疑うのはその後に信じるため、っていうのは目から鱗だった」

「その公式はいろんなのに使えるから大事にしてくれよ。攻撃するのは何かを護るため、とかな」

「虐げる悦びを得るためという可能性もありますけどね」

「お前が言うと説得力が違うな」

 あの日の3枚の紙は、桜井が思う『それっぽい』ものをただ書いただけだったという。特にたくさん考えたりはしていないらしいが、だからこそすごいと朝霧は褒めていた。

「人生に意味は無い、って言葉には賛同できる。けど、それで完結しちゃうのは不完全な気がして。それが真理なら、私は何のために生きてるのかなって」

「そもそも意味が無いからなんだって話だよな。それって悪い事なのかと。意味が無いってつまりゼロだと思うんだが、プラスであることを基準に考えてないと死ぬなんて選択肢は――」

「はいはい先輩の持論は置いといて。確かに、桜井さんの意見に私も概ね同意です。白い部屋の中でひたすら食べ物が運ばれてくるような生活だったら私は迷わず命を絶ちます」

「舞幌ちゃん、さらりと衝撃的な発言するのこわいよ」

「こうして何人もの他人と毎日触れ合っているからこそ、人の生には何かしら意味があるのです。私にとって私は無意味ですが、他人にとっての私は多少なり有益な存在でしょう」

「事実だけど、ちょっと考え方変えるとアレな物言いだな」

 他人にとっての自分に意味があるのならそれでいい。自分の価値や意味なんて、自分で決めるものではない、と。

「まあ、他人の評価なんて無意味だなんて言われたら何とも言えませんが。じゃあくたばってどうぞ」

「いきなり辛辣じゃない?なんかそんなこと言ってる心理学者居たよ?」

 自分の事は自分で決めろ、ていうか今もう既に決めてるんだぞ、みたいな。名前は忘れたけど。

「少なくとも私は、純粋に私の為に生きているわけではないと思っています。全人類誰からも必要とされなくなったら消えます。そうなったら消えたいです」

「俺が生きてここへバイトに来ている限りは安心しろ。俺にはお前が必要だ」

「主に話し相手的な意味で、ですよねわかります。はいはい、いてあげますよ」

 そう言って、今度は朝霧がカウンターへ突っ伏してしまった。俺の渾身のサムズアップに注がれるのは、桜井と宮田のどこか冷たい視線。

「……で、宮田。お前の話したいことって、桜井の質問に答えたことだけか」

「ああいや、忘れてた。あの猫の里親の件だ」

「見つかったのですかっ?」

「おう。って言っても、俺の家なんだけど」

 言いながら、宮田は携帯を取り出して一枚の画像を見せてきた。

 一匹の子猫がブランケットに包まれて、つぶらな瞳でこちらを見つめている写真。この子が例の猫か。

「元々昔猫を飼ってたんだけど、1年くらい前に……な。その時のノウハウもあるし、きっちり幸せにしてやるつもりだ」

「そうだったのですか。それなら一安心です……うちでは飼ってあげられませんからね」

「また家出するんじゃねぇかとヒヤヒヤしてたが、宮田のおかげで助かったな」

「ん……?それ、どういう意味?」

「朝霧が家を飛び出したのは、うちじゃ猫は飼えないって親御さんに言われたからなんだ。ちょうど今回みたいに、捨て猫を見つけてきてな」

「見つけすぎじゃない?捨て猫レーダーでもついてんのかな」

 確かに、ここ一年で二回だ。俺など一度もみつけたことがないというのに……まぁ、それが普通で良い事なのだが。

「元いた場所に返してきなさいとか言われたら、意地でも里親探しますよ」

「それ結局どうなったんだ?戻して来たの?」

「まさかだろ。一時的に俺の家で飼ってたけど、学校で張り紙させてもらってちゃんと里親を見つけたよ」

「あの2週間は至福でしたね。先輩の家に行けばいつでもあの子に会えましたしもふれましたし」

「ばあちゃんが居ない今となってはもう無理だな。日中家に誰もいない」

 まぁ、何はともあれ。

「じゃぁまぁ、今回はめでたしめでたしだな。猫も桜井も、俺も朝霧も宮田もみんな幸せだ」

「勝手に他人を幸せにしないでくれますか……まぁ、不幸せだとは思いませんが」

「俺は何時でもどこでもハッピーだぜ」

「私はまだ目的達成してないよ」

「そうだった」

 あの日桜井に提示された疑問には答えたけれども、そもそもその疑問を提示するに至ったのはある目的があったから。

 そして、それは……少しは進捗状況に進歩はあっただろうが、達成はされていない。

「って言っても、何をすればいいのかわかんないからなぁ。何すればいいんだろ」

「一緒に考えて」

「俺が?」

「みんなで」

「みんなで……ですか」

 ……それは、つまり?

「私が疑問を作るから、それに答えてほしい。ここに居る4人で、一緒に」

「おお、俺も一緒か。いいぜ、俺はいつでも暇を持て余してるからな」

「バイトしろよ。それか俺に金を払え」

「その二択おかしくない?」

「待って、待ってください……ここにいる4人でということは、必然的にそれについて考えるのは放課後になります。そして先輩がここでバイトをしている以上、私と先輩はほぼ参加できません」

 俺がバイトをしている間は朝霧が横に居る、というのは確定らしい。

「となると、つまり――」

「うん。ここですればいいんじゃないかな」

「だめです」

「なるほど。だったらいっそ同好会的な位置づけにしようぜ」

「名前は……昨日ネットを調べてたら出てきた『ニヒリズム』で」

「思いつきだけで話さないでください!ここは私の家ですよ、何勝手に居座ろうとしてるんですか!」

 勝手に活動すればいいから別に学校に認めてもらう必要はないし、場所も選ばないしな。いやいや選んでください、個人宅ですよ。じゃあ本を取り寄せて、それについて話そう。そういう問題じゃあ――

 楽しげに話を繰り広げる3人を前に、俺は頬杖をついてそれを眺めている。

 人は何のために疑問を持つのだろうか。疑うという文字が入っているように、その疑問が生まれるに至った何かについて理解したいからだろうか。

 いや……俺は、こう考える。

 疑問を解消しようと議論を重ねることこそ、俺達が求めて止まない『意味』を生む行為なのではないだろうか、と。

「ちょっと……先輩も何とか言ってください。内容によってはあなたの給金も変わってきますよ」

「完全に脅しだよな、それ……んー、何とかって?そうだな、じゃあ……ちょっと言いたいことがあるんだが」

「ええ。言っちゃってください。うちは本を手に入れる場所なのであって、その解体場所ではないと――」

「ニヒリズムは人生に意味はないとする主義だろ。そうじゃなく、桜井は意味を持とうとしているんだから『ムズリヒニ』とでもしよう」

「時給マイナス5000円です!」

「働くのに逆に金を払わなければならないとは……いた、痛い!脇腹つつくなくすぐったい!」

 いつになく元気な朝霧と、それを微笑みながら眺める桜井。宮田がそれを撮影してたりなんかして、朝霧書店の店内はおそらく過去最高に賑わっていた。

 その後もその活動についての議論は続き、結局発案者である桜井を会長として、この日、とある一つの集団が結成された。

 その名はむずりひに。それは人生に意味を求め続ける少年少女の集団であり、そして何故か動物愛護の活動も含まれている。

 ある日、そこにベジタリアンを名乗るある少女や生粋のニヒリズムの少年が突撃してきたりもするのだが――

 それはまた、別のおはなし。

もはや私が楽しく書いただけ。たのしかったです。

ありがとうございました。

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