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第八話

 遮光カーテンの奥から衣が擦れる音が聞こえてくる。奥に居る人間が身動ぎ一つする度にカーテンに音がぶつかっては落ちていく。


 僕は黒川さんの言っていた通りに持っているカツ丼を遮光カーテンの手前にそっと置く。



「……あの、カツ丼、ここに置いておきますよ」

 薄暗い部屋で見えないが湯気をホクホクと立ち昇らせているであろうカツ丼は昼から何も口にしていない僕のすきっ腹をドラムのように叩いている。正直に言ってしまえば引き籠りなんかに与えるよりも僕が数秒で全てを平らげてしまいたい、そんな欲求に駆られた。


「…………分かった」

 カーテンの向こうから透き通る少女の声が聞こえてきた。水晶のような声は遮光カーテンに阻まれず僕の耳まで届いたが、やがて暗闇に染み渡るようにして消えていった。


 僕は少女の声が再び耳に届くのを待った。


 だって僕は無償の優しさなんて提供する気は更々無いのだから。


 …………いや。このカツ丼を奥に居るのであろう少女に届けたお礼は後日、家賃を払わなくて良いと言う形で奈々子叔母さんから支払われる。だから現時点で僕は少女から一切見返りを貰えなくても決して不自然な事は無いのだ。

 しかしながら僕は普通に浅ましかった。


「ありがとう」――――そのたった一言を奥にいる少女の口から聞きたかったのだ。

 何故人は働くのだろうか。生きる為? お金を貰う為? ――無論、その通りだ。突き詰めていけばその事実に辿り着くのは当然で疑いようが無い。


 だがそれだけで人は他人に対して働き続ける事は出来ない。苦汁を舐めて、泥を啜って、その後に待っている見返りの為に人は自分を犠牲にし続ける事は難しいのだ。いつか何処かで糸がぷつりと切れるようにして、仕事を辞めてしまうだろう。では何故人は働き続ける事が出来るのだろうか。


 その答えは簡単だ。働いた瞬間、熱を帯びた御礼を他人から貰えるからだ。言葉の温かさを喉元に流し込み、それを糧へと変える事により人は何度でも頑張る事が出来る。


 僕も勿論そうだ。働いた瞬間、後に貰える見返りとは違う形で熟れた果実のような甘い御礼を貰えるからこそ、僕はこれからも働けるのだ。


 相田さんと黒川さんに飯を作り、相田さんの汚らしい野糞のような部屋を片付けた時もちょっとした笑顔や簡単なお礼を貰ったからこそ、僕は今も動き続けていられる。…………いや、まあ、本当の事を言えば家賃如きに働くにしては割に合わない労働を強いられたような気がするが、それでも御礼による熱を貰えたからこそ僕は不貞腐れないで済む。



 だからこそ、僕は遮光カーテンの奥に居る筈の少女の御礼が聞きたかった。


 しかし、

「……………………………………」

 幾ら待てども遮光カーテンの奥から言葉が紡がれる事は無く、城壁のように築かれたカーテンがその重々しい姿を見せつけるだけだった。


「…………あの」

 とうとう僕は辛抱堪らずに弱弱しい言葉を投げかけた。


 後でよくよく考えてみれば僕の言葉は酷く矮小で醜い人間性を如実に表す行為に他ならなかった訳だが、それでも我慢出来なかった感情が絞り出すようにして口から音を発した。


「……カツ丼、温かい内に食べた方が良いですよ」

「用が済んだら早く出て行きたまえよ」

 僕の浅ましさを一蹴する鋭い刀の如き言葉がカーテンの奥から聞こえてきた。僕はそれを聞いて憤慨し、逃げるようにして201号室のドアを荒々しく閉めた。


「……クソッ! なんだ、あの言い草は! こっちはずーっと働き詰めだったのにも関わらず眠い目擦って飯を作ってやったのに……」

 自然、濁りきった感情が口から漏れでた。胃の中でくだを巻いている苛立ちは頭へと上がってきて、視界をぐにゃりと曲げた。


 僕は勢いそのままに階段を降りていき、102号室のドアを荒々しくノックして開いた。


「黒川さんッ! 何、あいつ!? ひとっことも御礼言いやがらないどころか素っ気なさすぎるだろう! ……ああああああああッ、殴りてぇ!!」

「……ちょっと、ちょっと。どうしたのよ」

「どうしたもこうしたも――――――――」

 口から呪詛を噛む一方で僕は事実を冷静に受け止めた。


 部屋の奥付近に立っている黒川さんが衣一枚すら着けていない裸のままの状態で髪をタオルで拭いているところだった。

 濡れた薄い茶髪、桜色に火照った頬、ほんのりと膨らんだ胸、痩せていて浮き出た肋骨、しなやかに伸びた脚――――黒川さんの一糸纏わぬ細身の肢体は僕の網膜を焼き尽くした。



「うわ、うわあッ! す、すいませんッ!」

 僕は脱兎の如く後ろに飛び退き、躓いて玄関先で派手に転んだ。コンクリートに頭を強く叩きつけ、火花が目の奥で散った。


「ちょっと、ちょっと大丈夫、椛君?」

「い、いや…………ッ! 本当、不可抗力でして……ッ。決して覗きなんて真似をする気は更々無かったんです。本当です。許して下さい。只々、怒りで頭が一杯でそういう可能性があるのを見落としていたんです、すいませんッ!!」

「ほう…………」

 僕は視界の端に映る黒川さんの瞳が好奇心の色を帯びたのに気付いた。


「何、何、何? 椛君、あたしの裸見て興奮してくれるの? 初心だねー、初々しいねー、男の子だねー。そういう反応してくれるの、割と嬉しいよ」

「ちょッ! あのッ!」

 黒川さんが廊下をぺたぺたと歩き玄関に近づいているのが見えた。僕の頭は膿んだ傷みたいな痛みを感じて、ごちゃごちゃに掻き回されているようだった。思考が艶めかしい肌で埋もれていく。僕が必死に首を横に振っても黒川さんは微笑みながら僕に近づいてくる。



「最近は本当、こういう事が無くてさー…………。あたし、今の今まで自分が女である事を忘れていたわー……。二十六にもなってどうかと思うけれど、その反応は本当に新鮮であたし、面喰らっちゃった。たまーに何かの拍子に智久に下着姿なんか見られても、あいつ、なーんにも反応せずに普段通りに接してくるし、奈々子さんなんて抱き着いてきておっぱい揉んで『うん? 真紀ちゃん、また痩せた? 駄目だよ、もっと食べないとー。おっぱい大きくならないよー……しょうがないなー、おっぱい大きくなるように私が揉んであげるわよー。そら、私の妙技に酔い痴れなさい!』とか言い出すし……。だから椛君。御礼にもうちょっとだけなら観察しても良いのよ? すこーしだけなら触っても…………」

「い、良いから服を着て下さいッ!」




 僕のやっとの事で口に出来た言葉は黒川さんの柔らかそうな肌に食い込み、そして彼女の顔を寂しそうな色に染め上げた。

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