第七話
一つ分、階段を降りる前よりも軽くなったカツ丼を持って階段を昇り、201号室の前に立つ。そして左手にトレイを持ってノック。
そのまま暫く反応が無いか待つが、何も起こらない。僕はドアの取っ手を回し、鍵が開いている事を確認してドアを開いた。
「ノックして反応が無かったら入っても構わないわ。……と言うか多分、反応無いだろうから構わず入っちゃいなさい。あたしが許すわ」
僕は黒川さんが言っていた言葉を思い出す。本当に反応が無くて、そして無断で侵入する事になるとは思わなかった。黒川さんの許可を貰った以上、無断という事は無いのかも知れないが、家主の許可が無い以上、失礼には違いないだろう。罪悪感が後ろ髪を引いたが、これで長い一日がようやく終わると思うと、躊躇する事は無かった。
201号室の中は薄暗かった。電気がついていないのか、そう思うが部屋の奥、壁際付近に電気がうっすらと見えた。どうやら部屋を二分して、さながらベルリンの壁が如く遮光カーテンが部屋の手前に取り付けられているらしい。
埃っぽい空気が頬を撫でた。舌がざらつく。独特の空気が頭を揺らす。懐かしい、そう思えた。相田さんの部屋の埃っぽい汚さとは違う、異質な空気だ。まるでこの部屋は外の世界と隔絶されているようだった。
僕はこの空気がどうやって出来るのか知っている。やり方は簡単だ。閉め切ってしまえば良い。何日、何十日、何百日も外気に触れないと、空気は次第に重くなっていくのだ。日光に晒されなければ空気は渇き、ほぼ一定に保たれ続けた温度はべたついていく。結果、沼の底深くに沈んでいるような、そんな場所になっていく。
だが誰もいなければ、こんな空気は決して出来ない。誰かが一人で沼の底をがりがりと削るから次第に張り付いていた苔が剥がれていく。その苔は沼に溶けて、更に沼を濁らせる。人間が居るからこそ、この空気は作れるのだ。
人が部屋に閉じ籠るからこそ、こんな空気は生まれてしまう。
僕は確信を持って言えた。この部屋にいる奴は本物だ、と。
本物の引き籠り――――嘗ての自分と同じ、意味の無い、価値を生まない人間。
201号室の住人、詩菜 菫は本当の意味での引き籠りだった。