第六話
もう知らん、と言い残し相田さんは自室へと帰っていった。
大人の癖して向かいのアパートの管理人さんに相当キツい説教を貰ったのが存外堪えたのかも知れない。相田さんの背中はやけに小さく見えたのが少し面白かった。
俺としては管理人さんの言い残した「これだからガラパゴスアパートは……」という科白が気になったが、それを言っている般若の如き顔付きが僕に質問を許さなかった。
僕は目まぐるしかった一日を思い返し溜息を吐く。地面へと重そうに落ちていく言葉は蛍光灯に照らされる。僕の足元に落ちる頃合いには雲散霧消して消えていた。
さて帰ろうか、そう思いくるりと背を向けたところで嫌な予感がした。背中がぞわりと撫でられる。僕は息を吸う。今日はまだ終わりの告げてはいないらしい。
「もーみーじー君。美味しいご飯作ってぇー」
言葉が僕の足をからめ捕った。言ったのはにこにこと笑う黒川さん。
「……あの、眠くないんですか?」
僕は黒川さんに訊く。相田さんの言葉を真に受けるのならば黒川さんは五日も寝ていないらしい。それでどうして正気を保っていられるんだろう。
「眠いわよー。でもお腹もすいている。腹が減っては良い夢は見られぬって言うじゃないの。あたしはお腹を一杯にした上でカツ丼の夢を見る」
「…………カツ丼、作ってきます」
「二人前お願いね」
「……黒川さん、そんなに食べるんですか?」
「良いから」
黒川さんは右手をひらひらと振りつつ僕を見送る。まあ本当に五日間も断食していたんだとすれば、二人前くらいぺろりと平らげてしまうのだろう。
僕は階段を昇り、自室に取って返す。確かスーパーに行った際、買った食材には豚ロースなんかもあった筈。調味料も大抵の物は買ってきてある筈だし、何とか作れるだろう。
僕は豚ロースや卵、玉ねぎなんかを取り出し、小麦粉などの各調味料をスーパーの袋から探し出すと、手早くカツ丼を二人分作った。調理器具の後片付けを済ませてから僕はカツ丼をトレイに載せて102号室へと運ぶ。
「ああーん、待っていたわ! この匂い、胃酸過多でおかしくなりそーう!」
玄関を開けると黒川さんが多少危険な発言をしつつ、迎い入れてくれた。
さっき台所で水を入れた時は急ぎ過ぎていて目に入らなかったが、意外と整理整頓が出来ていて、この辺は女性という感じがする。透き通った空気の中に甘い香りが鼻腔を通り抜けて僕はちょっとだけ心臓の動きを早めた。
「じゃあ一つ貰うわよ」
黒川さんはトレイの上からカツ丼を一つ、ひったくると部屋の中心に置いてある卓袱台の上に置いて、台所から箸を持って来る。
そしていただきまーす、と言ってカツ丼を凄まじい勢いで食べ始めた。見る間にカツ丼が黒川さんの口の中へと吸い込まれていった。
「え、もう一つは?」
ここで僕はようやく黒川さんが僕を気遣って二つ作るよう言い渡したのではないかと気付く。打ち水をぶっ掛けられたような思いだ。
まさかこのアパートに気遣いの出来る人間が居るなんて…………ッ!
僕はどうやら黒川さんを誤解していたようだ。相田さんとセットで馬鹿だと思ってすいませんでした。これからは知的なお姉さんという認識に改め――――
「じゃ、そのカツ丼は201号室に持って行って」
「……え? 僕が食べて良いんじゃないんですか?」
「誰がそんな事言ったのよ。さあ、行った行った。せっかくの美味しそうなカツ丼が冷めちゃうじゃないのよ」
「…………………………………………」
僕は訂正を訂正する。このアパートに住んでいる人達は僕の事を小間使い以上、人間以下くらいにしか思っていないらしい。
「――――って、201号室? そこって誰か住んでいるんですか?」
僕は黒川さんの言い間違いかと思い、聞き返す。
「あれ? 智久から聞いてないの? 菫ちゃんの事」
「……菫?」
僕は首を傾げた。それを見て黒川さんは箸を持ったまま顔に手を当てる。
「……あの馬鹿。面倒だからって説明を省きやがったわね。後でしめる」
「その、えと……菫って人にこのカツ丼は届けてあげれば良いんですね?」
僕は取り敢えずやるべき事を確認する。一応、このカツ丼の届け先は201号室で間違いは無いようだ。
「あ、ちょっと待って、椛君」
早速、僕がカツ丼を運ぼうと踵を返したところで呼び止められる。
「何ですか?」
「……えーと」
黒川さんは神妙な顔付きでやけに気まずそうな目をしてこう言った。
「その、えと…………気を、付けてね」
僕が酷く不可解な顔をしたのは言うまでも無い。




