第五話
「作家なんだよ、そいつ」
結局、一個の生命の危機ともなれば僕に断る度胸なんてあるべくも無く、僕は相田さんに付き添われて、その住人が住んでいるという102号室の前に立っていた。
「後、ついでに言えば俺と同じく半引き籠り」
「………………………………」
またも言葉が僕の胸を穿つ。血潮が垂れているように感じた。
「それで五日前から姿を見ていないんだ。多分、締め切り前とか言っていた気がするから籠ってずーっと書いているんだろうな」
「…………それは分かりましたけれど。でもそれで死ぬ事なんてあるんですか?」
僕は当然の疑問を隣に居る男に投げかけた。
「集中していると周りが見えないって奴が居るだろう?」
すると相田さんは唐突にそんな事を言ってきた。
「ええ、まあ」
生返事を返す僕に対して、
「つまりそういう事だ」
とまた夜の暗闇に隠すかのような文言を唱えつつ、102号室の扉を叩いた。
こちらのインターホンも使わないところを見ると、どうやらこのアパートに着いているインターホンはただの飾りらしい。少しはメンテナンスをしろよ、奈々子の婆。
ノックをしてやけに長い時間が外気に触れて熔けた。僕が相田さんに留守なのでは、と尋ねようとする寸前、102号室の扉が軋みながらも開いた。
瞬間、扉の隙間からどさっと何かが倒れてきた。
ドアの前に物を置いていると言う事はこの人の部屋も相田さん同様の糞部屋か……と僕は言いつけられるであろう部屋掃除を想像して辟易したのだが、倒れてきたものを見て僕は危うく悲鳴を上げるところだった。
僕ら二人の前に倒れ込んできたのが人だったからだ。
「………………あ、あああ…………ああ……」
うつ伏せに倒れながら呻き声を上げる様子はホラーゲームのワンシーンにしか思えず、僕は身を竦めた。唾を飲み込んで、ようやく平静を保つ。
対して、
「……おいおい。しっかりしろよ、真紀。眠るんならもうちょっと柔らかい場所で眠れよ」
相田さんは至って冷静に倒れ伏す人の頬をぺちぺちと叩いている。
「ちょ、ちょっと!? 大丈夫なんですか、この人!? 本当に死んでません!?」
「死んでねーよ。大方五日間寝てなくて、その間飯も食わず、水も殆ど飲んでないくらいだ。衰弱死寸前くらいの勢いだろう。問題無い」
「それで問題が無かったらあんたにとって何が問題なんだよ!?」
衰弱死寸前の人間を前にしてそうも冷静に居られる神経は驚嘆に値するが、どうにも常識的な観念からは地球と月の距離以上に外れているようだった。
「いや、まあ、これが真紀以外だったら俺も驚くところだが……。不眠と絶食はこいつの趣味みたいなもんだ」
「何、その、究極絶無の一人我慢大会みたいな趣味!?」
これが趣味ならトライアスロンは赤子のままごとに等しい。
「ヤバいですって、相田さん! この様子じゃあ、この人、次の瞬間には昇天しちゃいますよ!」
僕はあくまでも平常心で頬を叩き続ける相田さんを押し退け、代わりに声を呼びかける。
「大丈夫ですか、しっかりして下さい!」
「あ……あ……水、水を…………」
「水ですか!? 直ぐに持ってきますんで、その、台所借りますね!」
僕は少しだけ開いたドアを大きく開け放ち102号室へとお邪魔する。普通なら勝手に人の部屋に立ち入るなどという真似は常識知らずも良いところだが、緊急事態の為、そんな事は言っていられない。
このアパートの間取りはどの部屋も一緒らしく、台所はすぐに発見出来た。流し台に置いてあったコップを取って、水道の蛇口を捻る。そして直ぐに玄関へと取って返した。
「お待たせしました! これ、水です! 早く飲んで下さい!」
「……あ…………あ、ちょっと……」
「はい、何ですか!?」
僕は明らかに衰弱している力無い声を汲み取り、言葉を返す。
102号室の住民であろう女性は僕を弱弱しい光を帯びた瞳で以て見つめ、そして言った。
「……水は、……ミネラルウォーターで……お願い……。薬で消毒しただけの汚水は…………あたし、水と認めないわ…………」
あ、この人、意外と大丈夫そうだわ。
「な。こういう奴なんだって」
相田さんは呆れた顔で肩を竦めた。僕も多分、同じような顔をしていたのだろう。
まあ、しかしこの人が死にかけである事には違いないようなので、僕は近くの自動販売機に売っていたミネラルウォーターを買ってきて、女性に手渡した。
女性は血走った眼でそれを受け取ると、喉をポンプみたいに動かして500mlのペットボトルに入っていた水を一気に飲み干した。
「……んぐっ、んぐっ…………ぷはー! ああ、死ぬかと思ったわ!」
「むしろ死なないのが不思議です」
不死身か、あんたは。
「まあ落ち着いたようだし、紹介しよう。こいつが102号室に住んでいる黒川 真紀だ。見て分かる通りの人間失格だ。まあ宜しくしてやってくれ」
「はあ!? ちょっと、智久に言われたくないわよ、それ! テレビで特集されるゴミ屋敷が可愛く見えるようなゴミの城を形成してる癖してさあ! いい加減片付けなさいよ。何年間掃き溜めみたいな場所に住み続ける気!? あんたに会う度、腐臭がするのよ!」
「あぁ!? 自己管理も碌に出来ない、俺が居なきゃ死んでいたようなカスにそんな事言われる謂れはねぇよ! 大体、いい歳こいて引き籠ってばっかで売れない小説書いている奴が人間失格で無くて一体何なんだよ!」
「あんただってあたしと大して変わらないでしょうが!」
「俺はお前より稼いでいる! テメェと一緒にするな、カス!」
「それだって偶々ニッチな層に受けただけでしょう!? そもそもあんたの絵って情緒に欠けるのよ! 売れている事が偉いと思わないで!」
「なら一作品でも良いからヒット作出してみろよ! 出来ねえよなぁ!? それがお前の限界なんだよ! 一生、売れない貧乏作家やってろ!」
「あ、あの…………」
僕は口汚くお互いを罵る二人の間に挟まれて、凍てつく空気を直に感じる。
……って言うかここまで思い切り喧嘩し合う大人ってのを僕は始めて見た気がする。
「……もう屑は放って置きましょう。ごめんなさいね。馬鹿の相手は大変でしょう?」
「ええ、まあ…………」
僕は黒川さんの言葉を引き攣った笑顔で迎える
。
馬鹿の相手が大変というのは、まあ、その通りではあるのだが……。
しかし黒川さんには悪いが……。多分馬鹿と言う人種には貴方も登録されています。
「話には聞いていたわ。貴方が今日から202号室に入居するお手伝いさんね。色々と大変でしょうけれど、これからよろしくね、椛君」
僕は黒川さんの握手に応じ、ようやく彼女の姿をしっかりと目視した。
ざっくらばらんとした竹箒のようで、色素が抜けたみたいな薄い茶髪。頬が痩せていて、目は何処か虚ろげに閉じ気味で、隈が酷く、病人のような女性だった。体格は細身。姿勢は若干、猫背だがしっかりとすればそれなりに映えるモデル体型のように思える。
服は黒色のスウェット上下。女性らしい気品が一切感じられない恰好である。
「おい、気を付けろよ、椛。こいつ、今、もんのすごい猫被っているから。後で俺以上にキツく扱き使われるだろうし、性格はこれ以上無いくらいの根暗。あんまり近づかない方が身の為だぞ」
「何言っているのよ、智久! あたしの何処が猫被っているのよ!」
「テメェが澄ました顔で『よろしくね』とか言っているのがキメェつってんだよ! 俺にそんなしおらしい挨拶してなかっただろうがッ! 色目使ってんじゃねえよ! 二十六になって遂に焦り始めたか!」
「女性の年齢、何の断りも無しにバラしてんじゃないわよ、屑! それにあんたに挨拶しなかったのは初日から馬鹿やらかしてたからでしょう!? 何が『将来、日本を代表する画家になる予定の相田智久です』よ! そんな不遜な言葉を言い放つ馬鹿相手に何をどうしおらしくしろって言うのよ!」
「なったじゃねえかよ! 俺、ちゃんと売れてる画家になったじゃねえかよ!」
「馬鹿言わないでよ! あんたの知名度なんてたかが知れているじゃない! 少し売れているからって良い気にならないでよ! 調子乗っていると直ぐ消えるわよ!」
ぎゃーぎゃーと闇夜を切り裂く罵り合いはその後十数分にかけて続き、向いのアパートから苦情が入るまで終わらなかった。
僕は新たな生活が底深い井戸の暗闇のように真っ暗である事に頭を痛めていた。