第四話
食器類の後片付けをしている途中、
「ついでに少し部屋も掃除してくれないか?」
と冬の雨にも匹敵する無慈悲な言葉を背中に受けて相田さんの部屋を掃除しに行った僕はここでようやく彼が駄目人間の一人である事に気付いた。
「これは、また…………」
相田さんの部屋は子供がおもちゃ箱を引っくり返し、そこを台風が通過していき、最後に巨人にでも部屋を足蹴にされたかのような大惨事になっており、今までこの大惨事の中でどうやって生きていたのか半ば分からないくらいの状態になっていた。
「いや、俺って片付け苦手なんだよね」
いや、そういう問題じゃない……。
僕は心中でそう思ったが、絶句していてそれどころでは無かった。
ゴミが片付けられていない、そこまではまだ序の口だ。割れたガラスだったり、画鋲だったりが平然と落ちている相田さんの部屋はもう既にブービートラップの巣窟だ。
そもそもゴミをゴミ箱にっていう概念が無いらしい。煙草の吸殻がそこら中に散らばっていて、都心のゴミ問題の方がまだマシに思えてくる惨状だ。
「いやー……仕事していると部屋の片づけだったり、飯だったり、そういうのが疎かになっちゃうんだよ。お前も少しは経験あるだろう?」
「…………いや。僕はれっきとした人間ですので」
これは人間の為せる所業じゃない。ゴミがゴミとしてゴミゴミしてなければどうにもならない奴だ…………。ああ、もう頭が混乱してきた。
取り敢えず頭を落ち着かせて「……逃げちゃ駄目だ。逃げちゃ駄目だ。逃げちゃ駄目だ。家賃の為なんだ。しいては生きる為なんだ……」と気合を入れた後、まずはゴミから片付ける事にした。
部屋を片付ける場合、大抵部屋にある物を要る物と要らない物に分ける作業から始めるのが最も効率が良いとされているが、相田さんの部屋の場合、目に映るゴミ山の表層にあるものは僕が客観的な視点に立ったところでほぼ確実に要らない物――と言うかゴミだったので、まずゴミを大方片付ける事が効率の良い作業となった。
煙草の吸殻を始め、画鋲、割れたガラス、煙草の灰、カップラーメンの空の容器、ティッシュ、大量のチラシ、スーパーのレジ袋、画材か何かの空箱、鉛筆、筆数本、書き損じ等々を見つけた辺りで僕はようやく相田さんが画家を名乗っていた事を思いだした。
「そう言えばゴミ……じゃなかった相田さんって……」
「お前、今俺の事をゴミって言いかけただろう?」
「ああ、すいません。失礼しました」
「まあ謝るんなら特に咎めはしないがな……。本当の事でもあるし」
「相田さんみたいな人の事を社会の屑、とそう呼ぶんでしたね」
「椛……、お前、びっくりするぐらい辛辣だな……」
目が笑ってねえもんな、とそう口にする相田さん。
そりゃそうだよ。大量に出てきたゴキブリの卵を見つけた辺りで僕はもう貴方を一般的な常識を持ち合わせた節度ある大人とは見做しませんよ。
黒い悪魔と畏れられる奴らが暴れ回る季節で無くて本当に良かった……。いや、それでも何匹か普通に居たんだけどさ。もしも夏にこの部屋を訪れていたら、それこそゴキブリ達の狂乱の宴を目にしていた事だろう。こんな糞部屋を掃除させる時点で、相田さんに良識があるとは到底思えなかった。
「そう言えば相田さんに対する怒りが湯水のように溢れてくるもんで、さっき訊こうとしていた事を忘れてしまいましたよ。相田さんって画家なんですよね?」
「俺って普段から怖い顔ってよく言われがちなんだけどさ。そんな俺よりもお前、今怖い顔だからな。分かっているのかよ? ……まあ、そうだな。画家。食うのに困らないくらいは稼げている筈だが」
今月は幾ら入っていたっけか……、とうわ言を言う相田さん。成程、どうやら今月の稼ぎを確認しなくても良い程にはどうやら稼げているらしい。
「相田さんってお幾つなんですか?」
「二十七歳。……煙草吸って良いか?」
「……片付けの邪魔にならないのでしたら」
それを聞いて相田さんは慣れた手つきで煙草に火を点けて咥えた。顔が若干緩んだところを見るとどうやら相当のヘビースモーカーらしい。
「それで、あの、相田さんって……」
「うん?」
「相田さんって、そのう……引き籠り、なんですよ……ね?」
僕はうすら寒い氷でも吐きだすかのようにして、言う。
相田さんはそんな僕を睥睨とした後、
「そうだ。まあ半人前程度だけどな」
と呟き、煙草を吸った。
「引き籠りで画家って……そのう、出来るもんなんですか?」
「……どういう事だ?」
「い、いえ。特に意味は無いんですが…………画家ってもっとアクティブに活動している印象があったんで……」
「まあ間違っちゃいないな。俺だって旅は好きだし、そこで見る風景に心動かされる事は多い。でも別にそれが全てって訳じゃねえ。絵を描くだけなら方法は幾らでもあるもんだ」
相田さんは床に煙草を押しつけて火を消すと、吸殻をこちらに投げ渡した。
「……それ、掃除するの僕なんですが」
「百が百一になったようなもんだろう?」
そう言って相田さんはシニカルに笑う。……いや、真実そうなんだろうけれども。
「それに引き籠りだからと言って絵が描けないなんて事は絶対に無い」
僕はその言葉に心臓を鷲掴みにされたような衝撃を覚えた。零度以下の真水に飛び込んだら多分、こんな衝撃を覚えるのだろう。
「椛。引き籠りだからと言って別に無能って訳じゃないんだぜ?」
僕を見透かしたかのように言う相田さん。相好を崩した表情の中に僕は猛禽の荒々しい目を見つける。
その後、僕は一時間かけてある程度、ゴミを纏め終わる。だがそれで片付けが終わったわけじゃなく、相も変わらずゴミは所々に散見している。
百が八十になったくらいのものだ。実質、この部屋を片付け終わるのは相当骨だろう。
「今日は取り敢えずこんなもんかな。また明日、掃除しに来てくれよ」
えげつない事を相田さんは平気で言った。
僕も僕で引っ越し後の片付けが沢山、残っているんですけれど……。
「お前の部屋の片づけなら俺が手伝ってやるからよ」
「……いや。ならこの部屋の片付けも手伝って下さいよ」
「やだ。汚い」
お前はその汚い場所に一体どのくらいの期間、生存しているんだよ。
少なくとも五年(五年前が賞味期限になっているカップめんの容器を発見した)はこの糞部屋で生存しているであろう事は確認済みだ。本当に人間か、この人。
玄関から外に出ると陽はとっくに落ちていたのか暗闇に包まれていた。
相田さんの部屋は窓までもがゴミで覆われているので、集中していたのも手伝って気付かなかったのだ。本当、天然の穴倉みたいな部屋だ……。
「じゃあ僕は部屋に戻ります……」
精も根も尽き果て僕は階段を一段ずつ登る。
カン、カン、と一段昇る度に聞こえる音が子守唄に聞こえてくるのは何故だろうか。
「あ、おい。ちょっと待てよ、椛」
背中に相田さんの呼ぶ声が突き刺さった。僕は能面のような顔で振り返る。
「さっき言っていただろう? 住人の一人を紹介するよ」
「……ああ、そう言えば」
そんな事もあったなぁ……、と僕はおぼろげな記憶を掬い取る。
「相田さん。すいませんが、その、明日でも良いですか? 今日はちょっと……」
だが僕は覇気のない声色で返した。こちとら疲労感はもうピークに達しているのだ。部屋に帰ればもう倒れるように眠るだけだろう。多分、枕一つ出す余裕も無い。
しかし相田さんは僕の顔色を見て尚、首を振った。
「いやぁ……。アイツは今日辺り、様子を見に行った方が良いと思うんだ」
「今日で無ければならない事情でも…………あるんですか?」
「ああ」
相田さんは首を縦に振った。
「事態は急を要するかも……知らん。もしも機を逃せば――――」
「逃せば…………何です?」
「――――逃せばあいつは死んでいるかも知れない」
「……は?」
僕の素っ頓狂な声が星々に吸い込まれるようにして消えていく。