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第二話

 実のところ、僕は白峰館に訪れるのは始めてだった。



 それと言うのも有翅学園に合格が決まった時、奈々子叔母さんが学校の近くにアパートを経営している事が分かり、そのままトントン拍子に決まったのだ。


 だからどのような部屋になるのか、どのようなアパートなのかと言う事を全く知らない。下見の一度も行ってはいなかった。

 奈々子叔母さんから「住み心地抜群の素晴らしいアパートだよ」と言っていた事を僕は完全に鵜呑みにしていたのだ。ちなみにこの言葉を聞いたのは僕が叔母さんと久方振りに電話して、その狂乱振りに頭を痛める前の話だ。



 つまりどういう事かと言うと。


 家に住む時ぐらい、下見はきっちり済ませた方が良いという話だ。


「……………………………………」

 僕は白峰館を始めて目の当たりにした時、その姿に唖然とした。


 僕の様子や前振りから察して戴けるとは思うが、当然悪い方にである。



 まず白峰館は名付けられた名前にKO負けを喫するぐらいに名前負けをしていた。白い塗装で塗り固められているのは違いないのだが、煤けて見える上に所々手入れ不十分により塗装が剥げ欠けていた。また、まるで廃墟にでも足を踏み入れたが如く、雑草が鬱蒼と茂っているし、蜘蛛の巣が掛かっているところも見受けられた。何故かアパートには不釣り合いの広い庭みたいな、その実ぽっかりと空いているだけの隣接した空間も雑草だらけで、それを超えたところにはこれまた庭に生えている雑草以上の二メートルぐらいはある草花で視界が塞がられていた。近づいて気付いたが、ひび割れが所々走っている事にそこはかとない恐怖を感じる。



 …………地震が来たら一発で崩れるんじゃなかろうか、このアパート。


「畜生、あのイカれ婆め……」

 僕は悪態を吐きつつ、肺の中の鬱屈した泥を掻きだす。何が住み心地抜群だ。お化け屋敷並の低スペックじゃねえか。……いや、母に聞いたところ家賃は相当安いそうだし、相応と言えば相応なのだろう。……が。騙されたようでいかんせん納得し難いところである。


「…………まあ契約しちまった以上は仕方無いし、かと言って他に住むところの宛てがある訳でも無し……か」

 後は野と為れ山と為れ、だ……。僕は半ばヤケクソ気味に奈々子叔母さんに聞いていた通り、103号室を訪ねた。


「…………失礼します」

 僕はノックをしつつ、103号室の前に立つ。


 ちなみにインターホンは壊れていた。全く以て期待を裏切らないアパートである。

 そわそわしながら待っている僕の元に103号室の中から何やら金具でも引っ繰り返したのか、耳に響く酷く不快な音が聞こえてきた。その直ぐ後に聞こえてくるのは男性の太い悲鳴。「糞がァ!」と聞こえてくる怒声を聞いて、僕は不安が一気に僕の脳味噌を突き抜け、臓腑が引っ繰り返るような感覚を覚えた。


「おい、誰だよ! こっちは忙しいんだ! 訪問販売だったら、そんなもん買う金は持ってねえし、宗教勧誘なら俺は生憎無神論者だ。つまらねぇ用事だったら足の小指の分まで痛い目見て貰うぞ、コラ」

 ギィ、という立てつけの悪そうな開閉音と共に現れたのは一見ヤクザのような出で立ちをした酷く粗野な外見の男だった。


 強面で眼光が鋭く、無精ひげを生やした黒い短髪の男だった。ガタイも僕と比べて二回りくらいは大きくて、そして何故か甚平を着ていた。余りのソレらしい姿に僕は足元が地面に縫い付けられたかのように動けなくなった。蛙は蛇に睨まれれば本当に動けなくなるのだ、という事をこの時僕は身を以て知った。


「……ガキ? おい、ガキが何の用だ。俺は子供に知り合いなんて一人もいやしないぜ?」

「え、いや、あの、その……僕は、大家であるところの奈々子さんに、言われまして、ここにいらっしゃるらしい相田さんという方に用が合って来たんですけれど」

 冷や汗が僕の気弱な部分を表すかのようにどっと溢れた。


 呂律が回らない僕を見て甚平姿の男は「あぁ!?」と怒鳴る。

 こ、殺される――――――僕は内心でそんな事を思った。



「奈々子さんに言われて…………ああ! テメェ、もしかして椛って野郎か?」

 訊かれて僕は首が取れるんじゃないかってくらいの勢いで何度も頷く。

「ああ、そうかそうか。もう遅いからテッキリ今日はもう来ないとばかり思っていたぜ。直ぐ気付かなくて悪いな、俺がその相田 智久だ。今日から宜しくな」

「あ、え、と、その……宜しく、お願いします」

 腰が引けていた俺を引っ張り上げるような形で握手を交わす相田さん。


「ちょっと待ってな」

 相田さんは一旦、踵を返して部屋の中に取って返した。そして直ぐに戻ってくると「じゃあまずは部屋を案内するわ」と言いつつ、サンダルを履いて部屋を出てきた。


「今年から高校生なんだってな。学校いつからだ?」

 アパートの階段を昇りつつ、相田さんが訊いてくる。後ろをついていく僕は「五日後です」とやや上ずった声で返した。



「五日か。まあ荷物片付けて、徐々に慣らしていくんならそれぐらいが丁度良いか。荷物はもう部屋に届いているだろうけれど、大きな物を整理したい時なんかは呼べよ。手伝ってやる」

「あ、ありがとうございます」

 外見を見る限り恐ろしい風貌だったが、相田さんはどうやら悪い人では無いらしい。


 僕はほっと胸を撫で下ろす。



「ほら、これがお前の部屋の鍵だ。開けてみな」

 202号室の正面で僕は部屋の鍵を相田さんから受け取った。


 僕は会釈をしながら、受け取ったばかりの鍵を回し、ドアを開けた。

 部屋の中で充満していた新しい部屋独特の空気が僕の身体にぶち当たった。香りが鼻を通り抜け、頭の中を駆け抜ける。中は外程酷い印象は受けなかった。綺麗に掃除されているし、くすんだ所も見られない。


  部屋に足を踏み入れるとまずは概容を確認する。十畳一間のキッチン、風呂トイレ付き。至って平均的な広さだ。窓の位置や差し込む陽の具合も悪く無い。部屋の隅にどかっと積まれている僕が送った荷物が結構な量になっていて、苦笑いを浮かべた。


「どうだ? 外に比べると中は大して酷く無いだろう?」

 相田さんはシニカルに笑う。僕は内心を言い当てられたようで、晩秋の烏瓜みたいに顔を赤く火照らせた。


「え、ええ。良い部屋……ですね」

「だろう? 俺みたいな人種だと外より中の方がよっぽど重要ってもんだ」

「俺みたいな?」

「ああ。俺、実のところ、引き籠りでさ。中が快適でさえあれば外なんて荒れ放題であっても問題無いんだよ」

 郷愁が熱を帯びて僕の全身を焼けつくした。心臓が鼓動を早めるのが分かる。


「……ひ、引き籠りですか?」

「ああ。……と言っても半引き籠りみたいなもんだけどな、俺は。部屋からは出るが、アパートの外からは殆ど出ない、みたいな微妙な立ち位置」

「な、成程。そういう事ですか」

 鼓動の波が静まっていく。僕は焼け付いた肺の空気を入れ替えるように溜息を吐いた。


「俺、画家やっててさ。大半の仕事は家の中で出来ちまうのよ。そうやって何日も家を出ないまま過ごしていると、外に出るのが億劫になってさあ。だからお前みたいな奴が来てくれるとすげえ助かるわ」

「どう…………致し、まして…………?」

 相田さんの言葉に僕は訳も分からず言葉を返す。


 僕が居てくれると助かる? どういう事だ?

 相田さん流の歓迎の意でもこもっているのだろうか。そんな風に僕は変な納得をした。


「え、ええと……、そう言えば僕と相田さんの他にはこのアパートってどれくらい人が住んでいるんですか?」

「そうだな。俺とお前の他にはもう二人住んでいる。一人は201号室、もう一人は102号室だ。102号室の住人は後で紹介してやるよ」

「お願いします――――って201号室は?」

 僕の質問に相田さんは何故か複雑そうな顔をした。そして実に色の無い寒々しい言葉で、

「色々と、な。じきに分かる」

 と口にした。



 どうやら気軽に触れられる話では無いらしい。僕はちょっとだけ苦虫を噛み潰したような違和感を覚えた。

 気を取り直すようにして相田さんが口を開いた。


「……そうだな。まずはお前がこれから頻繁に使うだろう場所を説明するわ。お前、バス停から歩いてきたんだろう? ならスーパーは確認したか?」

「ええと……すいません、憶えてないです」

 来る途中は奈々子叔母さんと電話しながらだったので、途中に何があったか、というのは殆ど覚えてはいない。


「スーパーはお前の立場上、よく使う事になるだろうから、ちゃんと覚えておけよ。アパートを出て左に真っ直ぐ歩いていくと五分ぐらいでスーパーが見えてくる。セールも頻繁にやってるから、上手く買い物してくれよ?」

 立場上? 上手く? 僕は違和感の覚える言葉を手の平から捉えられず零しながらも、相田さんの説明に聞き入る。


「後は正面にある中華料理屋は結構美味いから暇があったら行ってみると良い。確か学割効いた筈だしな。それと洗濯機は持っていたっけ? コインランドリーが直ぐ左にある。俺は結構、世話になっているけど……」

「洗濯機とか冷蔵庫とか大きいものはこっちで買うつもりです」

「そうか。なら買うまではコインランドリーだな。そういや買う時はどうすんだ? 電気量販店は結構遠い場所にしか無いから運ぶのは苦労するぞ?」

「その辺は奈々子叔母さんにトラック出して貰えるそうです」

「……奈々子か。下手な事は言わないから買いに行くときは俺を呼べ。トラック運転してやるから」

「どうしてですか?」

「あいつ、すっげー運転下手な上、暴走すんの。下手したら死ぬぞ」

「成程……」

 すごい納得した。考えても見ればあの人がマトモに車を運転出来る図が全く想像出来ない。嬉々として「赤信号はフルブーストよぉ!」とか言いそう。



「色々ありがとうございます。本当、助かります」

 僕は再度、相田さんにお礼を述べた。最初はヤクザが出てきてどうなるかと思ったが、随分と親切な人で安心した。これなら新しい生活も上手くやっていけそうだ。


「いやいや、こっちこそ本当ありがたいよ。じゃあ早速なんだけど……」

「はい」

「スーパー行って飯買ってきてくんない? 腹減って死にそう」

「……ええと、はい?」

 僕は一瞬、意味が分からず聞き返した。


「いやさ……。実は大きいの仕上げたばかりで二日ぐらいマトモな飯食ってねえの。正直、外に出るのも億劫でさ。だから買ってきて欲しんだが……何かやる事でもあったか?」

「………………うん?」

 何度聞いても相田さんの言っている言葉はやはり『飯買ってきて』で間違いなかった。


 詰まる所パシリ!? パシリなの!?

 ヤクザな見た目はやはり内実あってのものだったのだろうか……。


 疑問と不安で脳内を攪拌されている僕の様子に気付いたのか、相田さんは首を傾げた。



「……ん? どういう事だ? 俺は奈々子に『椛ちゃんって言う雑務係を雇ったから、酷使しない程度に使ってやってね』って言われたんだが……。もしかしてお前、奈々子から何も聞いてないの?」


「あんの糞婆ァアアアアアアアアアアアッッ!!」




 アパート内に響く僕の悲しい叫び声は春の木洩れ日の中に散っていった。

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