第一話
何処かで鳥の羽ばたく音が聞こえた気がした。
力強く風を切る音が耳を貫く。それはもしかしたら僕の空耳だったのか知れないが、瞼の裏側には飛び立った鳥の後姿が浮かんでいて、何となく元気が出た。
僕は荷物を肩に担いで、見知らぬ土地に足を乗せる。足先が熱を膿んでいるような感覚を覚えた。
この日は僕にとって少しばかり特別な日だった。
もっと砕けた言葉で言うなら始まりの日――と呼ぶのは大袈裟だが概ねあっている。
今年の四月から高校生になる僕は地元を遠く離れた高校――私立有翅学園へと入学する事になっている。だが地元を余りにも離れすぎた為に僕は有翅学園より徒歩十五分ぐらいのところにアパートを借りて一人暮らしをする事に決まった。
詰まる所、今日はそのアパート――白峰館の入居日だ。朝早くから新幹線で移動し、目的の駅に着いたのは昼も大分過ぎた頃だ。
「…………思ったより時間掛かったな」
詳しい下調べなど何もしていなかった僕は新幹線の移動速度に対して文句を付けたい気持ちもそこそこにバスへと乗り込む。新幹線の次はバス……。乗り物酔いの心配が必要だ。
目的のバス停へは四十分くらいで着いた。僕の地元は本当に田舎且つ狭い地域なので、四十分そこそこのバス移動ですら煩わしく感じられる。肩に担いだ荷物が食い込むように重く感じられたが、ここからまた二十分程徒歩で移動しなければ目的の白峰館へは到着しない。都会の不便さを痛感したかのような思いにおもわず肺の中から溜息を零れ落ちた。
足を引きずりながら歩く最中、様々な光景が目に飛び込んでは過ぎ去っていく。
満開の桜。公園で遊ぶ子供達。ジョギングする青年。犬と散歩する女性。
鼻腔を新しい匂いがくすぐっていく。見知らぬ土地での新たな生活は暗い山道を通るような不安定な寂寞を僕に与えていたが、道すがら見る景色は僕に安心感を与えていた。
知らない人々ではあるが、根のところでは変わらないな――――と。
他人ってのは僕が思っている以上に優しい温もりに満ちているのだ。
きっと大丈夫だろう、そう感じた。
「……っと、そうだった。一応、連絡入れておかないとな」
白峰館まで後半分というところまで来た最中、僕はようやく奈々子叔母さんに連絡する事を思いだして、空いている方の手で携帯電話を取り出して番号を呼び出し、耳に当てる。無機質な電子音が耳を撫でた。
美浦 奈々子。僕の母の妹に当たる親戚だ。そしてこの度、僕が入居するアパート、白峰館の大家もしており今回色々と便宜を図って貰っている。これだけ良くして貰ったのにも関わらず連絡を入れないのはさすがに不味い。僕はそんな事すら今まで忘れていた自分の神経を疑った。疑って、いや疑う以前に知っていた。僕の記憶力は鶏を超えてノミ波にポンコツだった。僕は項垂れながらも叔母さんが電話口に立つのを待つ。
『にーはお、ミスター椛。げんきはつらつぅ?』
「………………。相変わらず脳味噌が丁寧に湯でた温泉卵並にホクホクですね。文化が色々と混じっていますよ?」
僕は電源ボタンに指が伸びかけたのを必死で抑える。
恩義を感じていなかったら確実に切って即着信拒否リスト行きだった……かもしれない。
ちなみに椛というのは僕の名前だ。櫻井 椛。生まれる直前に晩秋の椛が美しかったから、なんて微妙な理由で与えられた名前だが、存外気に入っている。
『ああ、ごめんごめん。椛ちゃんの可憐でキュートでチャーミングな声を聞いてお姉さん、テンション上がっちゃったの。もうドキがムネムネどっきんこなの。許してくれる?』
「許さない」
電源を切った。
御年三十九歳の人間の喋る言葉とは到底思えない。死に際のコオロギの方がもっとマシな言葉を喋っているだろう。知識を持った動物として余りに情けない。
恩義を感じていると言っても許せないモノは許せない。
ラインは明確にしてこそ意義があるのだ。
まあそんな感じに着信拒否リスト行きにしようか真剣に頭を悩ませていた頃にリダイヤルが掛かってきた。一応、連絡に応じる。
『はろー、みすたー椛、はーあーゆー?』
「ここは日本です。日本語じゃなければ応じません」
『ぬぅ……。その思い切りの良いツッコミ……。さては椛ちゃんだな?』
「貴方は今まで誰と話しているつもりだったんですか……」
いや、さっきまで椛ってちゃんと呼んでたじゃん。
微妙に会話の成立していないやり取りに僕は辟易する。
「しっかりして下さいよ、奈々子叔母さん。僕は貴方と漫談がしたくて電話しているんじゃないですから」
『のんのん、椛ちゃん。奈々子お姉さん――よ。りぴーとあふたみー?』
「…………………………奈々子お姉さん」
「いえー! よく出来ました! いえー!」
「いえー…………」
蛭に血を吸われるが如く精力を奪われている感覚に僕は眩暈がしたが、どうにか胆に力を籠めて足を踏ん張る。こんな事でめげていてはこの人の相手は務まらない。
「……ええと、それじゃあ本題に入りますけれど。無事、白峰館の近くまで着きました。もうそろそろ白峰館も見えてくると思います」
『そうなの、それは良かったわ。椛ちゃん、遠出始めてでしょう? ママもう心配で心配で………………』
「いつからテメェは僕の母親に為り変わったんだ」
いや、顔は結構似ているんだけどね。姉妹だし。
「それよりも、その椛ちゃんっての辞めてくれませんかね?」
『えー、何で? 椛ちゃんってば可愛い顔立ちしてて、お姉さんキュンキュンしちゃうのよ。久方使ってない子宮がキュンキュン言っちゃってもう堪らないの』
「絶句する気持ち悪さですね」
『酷いッ! 褒めたつもりだったのに!』
「……いや、そもそも僕は男なんで、そんな事言われても一ミリたりとも嬉しくはありませんし、気持ち悪いだけだし、でもまた通話切るのも面倒臭いしで一杯一杯です」
『いやん。そこまで罵詈雑言を言う時は面と向かってじゃないと。お姉さんの性癖的に考えて電話越しなんてつまらないわ』
「………………………………………………」
『ちょっと! いつも通りツッコんで! お姉さん、放置プレイだけは看過出来ないわ。そういう女を手の平で転がせる遊びを覚えるのはもっと大人になってからにしなさい!』
「ならそういう事言う相手はもっと選んでくれませんかね?」
僕はこれでも思春期真っ盛りの健全な男子なので、そういう直接的過ぎる下ネタはNGでお願いしたいところである。
「…………それで話を戻しますけれど。奈々子叔母さんは――」
『奈々子お姉さん』
「…………。奈々子さんはもう白峰館にいらっしゃるんですか? なんか手続きとかってする必要あるんですよね?」
前日聞いた話によると奈々子叔母さんが前以て白峰館にて僕を迎えてくれる手筈になっている…………らしいが、何やら彼女の様子からじゃ色々と心配になってくる。
『ああ、椛ちゃん。その件なんだけれど、お姉さん、ちょっと急な仕事が入っちゃってそっちに行けそうにないの。ごめんね』
「え? ……奈々子さんが居なくても大丈夫なんですか?」
『え、それは何!? 椛ちゃんはお姉さんが居ないと不安なのかな? 寂しいのかな? 駄目になるのかな? それはもうお姉さんへの愛の告白だと受け取って――――』
「極めて事務的に奈々子さんが居なくても入居して大丈夫なのか、と僕は訊いているんです。決して貴方が考えているような理由ではこれっぽっちもありません」
電話越しにうぐっ、と奈々子叔母さんが怯む声が聞こえた。
僕は内心でガッツポーズをしつつ、叔母さんの返答を待つ。
『振られちゃったわー、お姉さん。椛たんってばいけずなんだからー……』
「そういう話は良いからさっさと事務的な答え返せよ」
『おおふ、これは良いSッ気のある言葉。よーし、お姉さん、椛ちゃんのその素晴らしい才能に免じてキチンとした答えを返してあげるわ』
「…………そんな才能は要りませんからさっさと話しを進めて下さい」
『ええとね、事務的な手続きなんかは特に要らないわ。大抵の事は事前にお姉ちゃんと話しているし、書類みたいなのもこっちでちゃちゃーっとでっち上げるから問題無し。椛ちゃんは大手を振って我が家みたいに白峰館でくつろいで良いのよー!』
「……でっち上げるて」
それで良いのかよ、と僕はカキ氷を全身で喰らったかのように頭を痛くした。
……まあ他ならぬ大家がそう言っているのだから間違いは無いのだろう。
『あと白峰館に着いたら、すぐに103号室を訪ねなさい』
「へ、103? 僕の部屋って確か202号室ですよね?」
事前に聞いていた部屋番号は確か202号室だった筈だ。僕の聞き違いだったんだろうか。
『ああ、違うの。私の代わりの案内役を103号室に居る相田 智久って人にお願いしているから。まずはその人から詳しい話を聞いてね』
「ああ、そういう事でしたか」
ありがとうございます、と僕は電話越しにお礼を述べる。
奈々子叔母さんは怪電波によって頭の中枢を侵食されたような人ではあるが、やるべき事はキチンとやれる人らしい。それは事前に準備してくれた、こちらに向かう為の道程を記した地図やら様々な手続きやらで察してはいたものの、人柄を宛がうに当たって疑問の色を拭い去る事が出来なかったのだ。
だって奈々子叔母さんと僕は親戚ではあるものの、顔なんて殆ど合わせた事が無いのだ。最後に顔を合わせたのは十年以上も前になり、三ヶ月前に電話で話をするまではその存在すら忘れていたくらいだ。しかし奈々子叔母さんは何年振りかに話す筈の姉の息子に対しても最初から先のような様子だった。これはもう頭を疑ってもしょうがあるまい。
しかし結構な人見知りをする僕に対しても最初からずけずけと土足でさも親友かのように踏み込んでくる神経は逆に言えばありがたい。
恩のある身でこう言うのも失礼だが、奈々子叔母さんには畏まらずに接する事が出来る。
『まあそういう事だから。色々と頑張ってね、椛ちゃん』
色々と、のニュアンスが少しばかり強くて気になったものの、次の叔母さんの言葉によってそんな疑問は頭の片隅に追いやられた。
『では――――――ようこそ、白峰館へ』
丁度、白峰館らしき姿が僕の目に飛び込んできた頃合いで奈々子叔母さんの歓迎の言葉が耳を介して血液に乗り身体中に広がる。僕はこれから新たな生活が始まる事に全身が泡立った。
様々な期待を胸に僕は白峰館のアーチを潜る。