第十二話
入学式が無事済んだとあって、僕の目下の悩みは一つだけ。
無論、詩菜菫に関する事だった。
始めてカツ丼を持っていき、いちゃもんを付けられたあの日から僕はどうすれば詩菜菫が僕の持っていく晩御飯を口にしてくれるかを考えている。
最初こそ僕は消化に良い食べ物を持っていけば問題無く食べてくれるだろう、とそう思い立ちネットで色々と調べた上で晩飯を作って持っていった。
二度目に持っていった晩御飯の献立は卵とネギのおじや。基本的に卵は消化に良い食べ物な上、おじやとなれば腹持ちも良く、胃に優しい。薄口の味付けながらだし汁で調節した旨味は食欲をそそる一品だ。
これを201号室に持っていった後、僕は手応えさえ感じていた。あのメニューで食べて貰えない訳が無いと。
そして次の日の朝。僕は意気揚揚と空の食器を回収する為に201号室を訪れる。
「何で全く以て一口すら手をつけてないんだよ――――――ッ!!」
昨日と寸分違わぬ場所に虫の死骸みたいな切なさで冷めているおじやを見て僕は半狂乱の面持ちだった。
叫んだよ。そりゃ叫んだね。
すると詩菜菫は鉄板よりも冷たく硬いカーテンの向こう側から、
「こんなゲル状みたいなご飯食べられるものか」
とおよそ人間とは思えない残酷な一言を突き付けてきた。
僕は多分、この時点で相当意固地になっていたんだと思う。
「……上等だよ、糞野郎」
そんな憎まれ口を叩きながら僕の頭の中で次の献立の構想が練られていたのだから。
様々なものを試した。まず胃腸に優しい事、食欲をそそる香り立つ食材を使う事は当然として、綺麗な盛り付けや飾り付けにも拘り、食べ合わせなんかにも気を遣った。
しかしながら白峰館に入居してから五日が経った現在も空になった食器が返ってきた事は無い。ついさっきもかき玉ネギのあんかけうどんを持っていったばかりだが、レシピを舐めるように見つめながら苦労して作った晩飯が明日、少しでさえ手が付けられずに返ってくるかも知れないと思うと少々鬱になる。
「よくやっていると思うぜ、お前はさ」
酒のつまみを作ってくれ、と夜もすっかり更けた頃合いに僕を自分の部屋に呼び出した相田さんはそう口にした。
ちなみに相田さんの部屋は五日前に比べるともう見違える程に綺麗にしてある。ゴキブリの卵なんかは僕が必死になって片付けたし、ゴミも殆ど回収した。何とか人類が生きていける環境は整えてある。
そんな部屋を通り過ぎたベランダの縁側に腰掛けるようにして相田さんは焼酎を上手そうに飲んでいた。この縁側も物置になっているのを僕が片付けたのだ。相田さんにはもっと感謝して欲しいと思う。
「相田さんの部屋の片付けなら僕は家賃どころか金一封を貰っても足りないくらいだと思いますが」
僕は刺身の盛り合わせを作りながら口にする。
「違えよ、菫の事だ」
サンキュー、と僕の作った刺身の盛り合わせを笑顔で受け取りながら相田さんはそう言った。
「つまり相田さんの部屋を掃除した事は特に評価に値しないと……」
「椛君、今日はいつに無く卑屈ね」
そうカラカラと笑いながらウィスキーを片手に一杯やっているのは黒川さんだ。僕が呼び出された時には既に一緒になって呑んでいた。
先日は向いのアパートの大家から説教を貰うくらいに口汚く罵りあっていた二人だったが、割合上手くやっているようだった。喧嘩するほど、と言うかどうかは知らないが、少なくとも険悪な間柄ではどうやら無いらしい。
「卑屈にもなりますよ。この部屋を掃除する四日間の間、僕は文字通り死にもの狂いでしたからね」
「そんな大げさな……」
「そうは言いますが黒川さん。ならばぐっちゃぐちゃになって腐った野菜類がごっちゃになって入っていたビニール袋を見て僕がどう思ったか切々と語ってやりましょうか?」
「……悪かったよ。だから無駄に怖い顔見せんな、酒が不味くなる」
あんたのお陰で僕は四日もの間、ご飯が喉を通りづらかったんですけどね。
ゴキブリの死骸を大量に見つけた時はさすがに相田さんを殺してやろうかと思った。
「智久は椛君を便利に使い過ぎなのよ。奴隷じゃないんだからもっと優しくしてやらないとね」
「……深夜三時にプリンターのインクが切れた、とか言って僕の家の戸を大声張り上げながら叩く黒川さんもいかがなものかと」
あの時はプリンターのインクを探して朝までコンビニを練り歩く羽目になった。まあ実際、コンビニなんかにインクが置いている筈も無く、朝一で電気量販店まで買いに行ったのだが。「ある筈も無い……」なんて泣き言を口にする僕に対し「じゃあコンビニにプリンターのインクが無い事を証明しなさい」と何処ぞの悪魔の証明みたいな言葉を言ってのける黒川さんによる僕への扱いを僕は決して良心的とは言えない。
「テメェも大概じゃねえか、椛は俺達半引き籠りにとって外の世界を繋いでくれる優秀なファクターなんだから大切に扱おうぜ、なあ?」
「びっくりするぐらい他人任せですよね、あんたら」
これからもこんな生活が続くかと思うと、僕はこれまで以上に引き籠りの事を嫌いになりそうで嫌になってくる。
「…………話は戻すけれど。何だ? 菫の奴は未だに駄々を捏ねているのか?」
「そう、ですね……。今の所晩御飯持って行っても口にしてくれた試しが無いです」
「しょうがない奴だな……」
相田さんは頭をぼりぼりと掻くと冷たい溜息を吐いた。
「実際、何で飯、食べてくれなんでしょうね……」
意固地になって詩菜菫の晩飯を作り続ける僕だが、何故一口でさえ口にくれないのか分からなかった。
詩菜菫の枯れ枝みたいな手を見れば幾ら鈍い僕でも分かる。彼女は今、どんなものでさえ美味しく食べられる筈だ。空腹は最高のスパイスであるというのは僕だって知っている。
ではどうして、意固地に料理を作る最中はこの疑問が沸々と沸いてくる。
「自分を最底辺の人間だと自覚したく無いんじゃないかな?」
とウィスキーを喉元に流し込みながら言うのは黒川さんだ。
「最底辺の人間?」
「椛君も少なからず覚えがあるんじゃないの? 引き籠りである事により自分がヒエラルキーの底辺を這いつくばって、床を舐めまわしているみたいな感覚」
「そりゃあ…………」
それぐらい僕にも自覚はあった。一年前のこの時ぐらいなんて下手すればリストカットしかねないぐらいに人生に絶望していた。
僕が存在していたところで、存在していなかったところで世界は変わらない事を自覚してしまっていた。
だからこそ…………、そういう訳でも無いが自傷行為に走ってみれば何かが変わるんでは無いか、と。この暗い沼の底にいる理由だけでも分かるんじゃないか、とそんな事を考えていた事が無いなんて言えば嘘も甚だしいくらいだ。
つまり詩菜菫の絶食とも言える行動原理は自傷行為に近いものなのか?
「えっと……そうなると詩菜菫は……最底辺の人間である事を自覚したくなくて、でも最底辺の人間である事を自覚しなくてはいけなくて。そんな鬱屈した軋轢が絶食なんて自傷行為を生んでいると」
「そんな難しいものじゃないわよ。もっと単純な事」
「単純……」
「つまり自分が他人によって生かされている家畜以下の存在だと思われたくないわけ。晩御飯を作って貰って、自分はそれを受け取って、それで生きていっている……。それはもう生殺与奪の権利を相手に委ねていると言っても過言じゃないのよ」
「だって実際、そうじゃないですか……。それより食べないと死んじゃうし……」
「そう言う事なのよ。食べないと死んじゃう、それを自分自身の手で選び取っていると勘違いしているかも知れないのよ、あの娘」
「それは…………相当、きちゃってますね……」
言うなれば詩菜菫は死ぬ事で自分の存在価値を見出していると言う事か。
――――――馬鹿げている。
素直にそう思った。
ただ気持ちは分からなくも無かった。
だって僕もあの頃は――――――死ぬ事でもしかすれば自身の存在を誇示出来るんじゃないか、なんてそんな妄想に捉われていた一人だったから。
「引き籠りって外の世界と隔絶された中で生きている。もっと言えば考え方がより鬱屈した、より画一的な、より極端な考え方になってくるのよ。一歩間違えれば新興宗教並の性質の悪い発想しかねないわね」
「なら――――皆で止めないと」
考え方を改めさせる。矯正させる。
そうしないと詩菜菫が死んでしまうかも知れないから。
そう思って提案を口にした僕を黒川さんと相田さんはきょとんとした表情で見ていた。
あたかも極端な考え方で以て僕の言葉に驚きを抱いている、みたいな。
そんな鉄板みたいな顔をしていた。
「止める? 何でだよ?」
いかにも不思議そうな言葉を口にする相田さんの言葉こそ僕は不思議に思った。
何で? そんなの決まっている。
人が一人、死のうとしているのにそもそも理由が必要なのか?
「そりゃあ…………ッ、同じアパートの住民が大変な事になっているんですよ! それを止めなくてどうするって言うんですか!?」
「…………椛。一つ訊いていいか?」
「何ですか?」
「――――――菫は俺達に助けを求めていたのか?」
「…………え? い、いや……」
僕は相田さんのその余りにも冷たい、北極の海水みたいな言葉にゾッとする。
鳥肌が立って、背中に刃物でも突き付けられたような感覚に僕は思わず眩暈がした。
「菫が助けを求めて無かったんなら、そもそも助ける必要は無い。それは単なるお節介の迷惑だ。それ以上でもそれ以下でも無い」
「そんな悠長な……。こうしている間にも倒れているかも知れないのに…………ッ」
「そうなったらそれまでだろう。俺達の出る幕じゃあ、無い」
「そんな…………」
僕は落胆した。この人は――何でこんなにも冷たい言葉を平気で口に出来るのだろう。
この人は何でこんなにも人間味が無いのだろうか。
僕はこの人達と数日関わって扱いこそ荒いものの、決して悪い人達じゃないとそんな風に思っていたのに………………ッ。
「…………黒川さんは?」
僕は悲愴的な面持ちで黒川さんの方に顔を向ける。
彼女なら――――――そんな思いで視線を向ける黒川さんの目は伏せられていた。
僕は深い谷底に突き落とされたような、そんな絶望を覚える。
「ちょっと辛辣な事を言うようだけどね、椛君。あたしも智久と同意見だわ。他人は死にそうだからってそう容易く助けられるもんじゃ無いって思うのよ」
「い、いや…………。詩菜菫は同じアパートの住人じゃ…………ッ」
「同じアパートの住人で、それでいて赤の他人よ……。それを乗り越えるのは必要以上のエネルギーが必要なの。それで無くたって菫ちゃんは死にたがっているのかも知れない。それを助けて余計な事すんなって罵られたらそれこそ溜まったもんじゃないわ。こっちとしては全く以て得にならないのよ」
「死にたがっているなんて…………。それなら止めないと……ッ」
「あたしは別にこれと言って生命礼賛を唱えるような、そんな思想は持ち合わせていないわ。特に人間の自殺がいけない事だとも思わない。正直な事を言えば死ぬ権利は生きる権利と同じ、平行線上に存在しているものだと思う。違わないかしら?」
「違いますよ」
僕は夜に吹き付ける海風みたいに白々しい事を言った。
引き籠りの頃にリストカットする事を何度と無く考えた人間が死ぬ権利が生きている人間には存在しないと考えているか――――馬鹿らしい。そんな訳が無い。
「まあ菫の事は奈々子に報告して置けば後はある程度対処してくれるだろう。それ以上は他人のお節介だな。椛、俺達はこの件に関してはノータッチだ。分かったか?」
「………………………………」
打ちのめされたボクサーのような顔で僕は頷いた。
「でもさ、椛君」
実に軽い口調で黒川さんは僕に対して、言う。
「椛君はあたし達みたいな同じアパートの住人ってだけの赤の他人じゃないわよ」
「……え?」
僕は動揺が漏れた声色を見せた。黒川さんは構わず続ける。
「椛君は少なからず世話係として菫ちゃんの了承を受けている。それは赤の他人以上の関係だよ。例え口約束程度の関係性であったとしてもね。でも言葉にした以上、それはどうしたって否定出来ない。それは菫ちゃんだって心得ているわよ」
「でも詩菜菫は決して僕の作った晩御飯を口にしてはくれませんよ?」
「なら何で201号室のドアには鍵が掛けられないの?」
僕はその言葉にはっとした。胃がせり上がってくるような感覚に僕は思わず身悶えする。
「椛君を完全に拒絶するのなら鍵を掛けるに決まっているじゃない。必要ならチェーンロックだって掛けるだろうし、それ以上の事だって幾らでもやれるわよ。でもそれをしない。無意識かも知れないけどね。それでもあの娘は少なからず椛君の存在を認めている」
「で、でも…………世話係なんて……それこそ奈々子叔母さんに言われただけのままごとみたいな関係で……」
「口約束がままごとなら恋人はごっこ遊び、友人に至っては綿毛で編んだみたいな頼りない絆ね」
黒川さんはそう言った。相田さんも焼酎を呑む手を止めて、口を開いた。
「そう言う事だ、椛。お前なら俺達引き籠りみたいなどうしようも無い連中を外の世界に繋いでくれる。繋ぎ、止めてくれる。期待してんぜ、新入りよう」
相田さんは油断している僕の背中を思い切り叩く。
膿んだ痛みは熱に変わって、僕の中に取り込まれているような気がした。
夜はもう更けていくばかり。僕は遠くで詩菜菫の沼の底をがりがりと削る、そんな隔絶された音が聞こえた気がした。




