第十話
僕は引き籠りを経験した身の上であったにも関わらずどうやら大事な事を見落としていたらしい。それを僕は白峰館に来て二日目、春の陽ざしが全てシャットアウトされた牢獄みたいな201号室で悟った。
「……何で晩御飯、全く手をつけてないんだよ」
朝になってから僕は昨日届けた食器を片づける為に詩菜菫の元を訪れていた。ノックしたが当然かのようにドアには鍵が掛けられてはおらず、軋む音を小耳に挟みつつ、部屋の中に入る。そして昨日置いた場所と寸分違わない場所に昨日と同じように盛られている冷めたカツ丼が置かれてあった。
正直、僕の声は震えていた。噴火前のマグマみたいな感情を一体何処にやって良いものやら分からなかったからだ。折角作った料理を無下に扱われる気持ちというのは多分、味わった事のある者しか分からないだろう。
踏み躙られた徒労感、料理の腕を馬鹿にされたような屈辱、そして食材を無駄にしてしまったという申し訳無さ。様々な感情がどろどろに攪拌された挙句、怒りという感情となって構築された。
「おい、詩菜菫……。僕は一生懸命作ったんだぜ…………それを何だ、テメェ、あんまりじゃないか…………」
「…………………………君は」
遮光カーテンの奥から冷たい闇夜に拭く風みたいな声が届いた。
僕は正直に言うと、彼女が起きているとは思っていなかった。生活が不規則であろう引き籠りは太陽が昇ってそう時間が経っていない頃は眠っていると思っていたからだ。
「君はぼく達の事を何も分かっていない」
「…………何だと?」
僕は怒気を孕んだ瞳を遮光カーテンに向ける。視線を尖らせ、磨き上げ、刃物と出来るのであれば遮光カーテンなんてあってないが如く貫通していただろう。
「君は引き籠りの事を何も分かっていない、そう言ったんだ」
遮光カーテンの奥からはあくまでも冷静な少女の声が返ってきた。
僕はその言葉に血管がぷつりと千切れる音を聞いた気がした。
「……おい。ふざけるなよ、引き籠りなんて低俗な奴がよくそんな口を聞けたもんだな。いつもいつだって寝て、だらけて、好き勝手やっているような糞野郎なら糞野郎なりの態度ってもんがあるだろう。少しはへりくだってみせろよ。『ぼくは外の世界が怖くて、怖くて仕方ない弱い人間だから、一人じゃ生きていけません』って泣き言を言ってみせろよ」
「…………下らない。君はやっぱり引き籠りの事が何も分かっていない」
「つまらない戯言言いやがって」
「戯言かも知れない。しかし君の言い分も変わらないよ」
「僕の言葉を戯言と言うかよ、引き籠りが」
少し気を抜いたら、僕は遮光カーテンを引き千切って向こうにいるであろう少女の掴みかかってしまいそうだった。
彼女の不遜な態度が僕の脳内をどんどん攻撃色に染め上げていく。
「聞いたところ、君は一年間、ぼくと似たような生活を送っていたそうだね」
「……だからどうした?」
「それで結局君は一年間を泥に埋めてしまった訳だ。滑稽だね」
「お前も同じだろうが」
「一緒にしないでくれ、そう言っただろう?」
僕はその言葉に思わずカツ丼の入った丼を蹴っ飛ばした。丼が遮光カーテンの下を潜り抜けて見えぬ向こう側へと転がっていく。やがて丼が勢いを失って止まった音が聞こえた。世界が始まった時、もしくは終わった時、こんな音が聞こえるのかも知れない。そんな感じの音を僕の耳は捉えていた。
「もう一度言う、詩菜菫。ふざけるなよ」
「ふざけてなんかいないよ。これだってそうさ」
衣が擦れる音が聞こえる。どうやら身動ぎしたらしい。
「この――――カツ丼を見れば分かるよ。君がつまらない理由で一年間、引き籠ったなんて事はもう隠しようも無いくらい見透かせる」
「…………不味そうだとでも言いたいのか? それはお前が放置していたからだろう? そりゃあ一日も立てば傷んで不味くも見える」
「違うよ」
否定の意が飛んできた。僕はその言葉を聞いて息を呑む。
「ぼくが言いたいのは、カツ丼なんてものを晩御飯に作ってくるのがもう無神経そのものだと言う事さ」
「どういう事だよ?」
「こんな消化に悪いものをぼくは食べたくも無いと、そう言っているんだよ。どうせ君は引き籠っている間、大して深くも無い悩みの中、親の持って来てくれるご飯を養鶏場の豚みたいにがつがつ食べていたんだろう? そりゃあ胃も健康そのものだ。ぼく達みたいに不安で眠れない夜も嗚咽を吐いてご飯が喉元を通らない日も味わった事が無いのだろう。そんな奴だから考えもせずにこんなものを作ってくるんだ」
「……………………………………」
正直、言い掛かりだと思った。
だがその一方でその通りだとも思ってしまった。
言われてみればその通りだった。僕も母親が精がつくよう作ってくれたのだろうステーキを四分の一すら食べられなかった事を思いだした。そしてその後は胃がもたれてもたれて仕方なかった。消化の悪いモノを口にした時は決まって吐いていたような覚えもある。
何で忘れていたんだろう? それとも忘れたかったのだろうか。
…………そうだ。僕は忘れたかったのだ。悲しい事は一刻も早く忘れたかった。だから忘れた振りをしていた。カツ丼を食べる相手が重度の引き籠りである事を失念していた。
黒川さんは言っていた。詩菜菫は僕が来る事を嫌がっていた、と。
だから詩菜菫はこんないちゃもんをつけているのかも知れない。これ以上、僕を自身の部屋へと近づかないように。引き籠りはガラス細工のようだ。酷く繊細で、引っ掻いたら簡単に壊れてしまう。
本当に些細な事で傷ついてしまうのだ。
「もう来ないで良いよ」
詩菜菫はカーテンの隙間から手だけを突きだして丼を床に置いた。
僕はゆっくりと見ていた――――遮光カーテンの奥から突き出す少女の手の具合を。
「人の助けなんて要らない。ぼくは好き勝手生きているだけだから」
「………………そうか」
多分。
昨日まで――いやさっきまでの僕がこの言葉を聞いたら途端に詩菜菫の拒絶の姿勢を受け入れていただろう。
でも、今の僕は違っていた。
「いや、これからも世話をさせて貰うよ」
僕はそう言ってやった。カーテンの奥で少女が息を呑む音が聞こえた気がした。
「…………何で? 君は嫌々やっていたんだろう?」
「悔しいからさ」
そう――僕は悔しかった。
価値無く、意味なく僕が一年間引き籠っていた――――そう言われるのは構わない。
だって引き籠りなんてそんな下らない人間でまず間違いないからだ。
引き籠りなんて人種は蔑まれて当然だと思えたからだ。
しかしながら僕が引き籠った理由を下らないものと一蹴されたのは聞き捨てならなかった。
下らない理由で簡単に心が折れるような、そんな低俗な人間と見られるのは嫌だった。
そして理由はもう一つある。
カーテンの隙間から覗いた手が風雨に晒されればぽっきりと折れていまいそうな枯れ枝のようだったから。
あんな手を持つ少女を放っては置けなかったのだ。
あんな手を見せられては元、引き籠りとして――いや、一人の人間として放って置く事なんて出来ない。
僕は手を差し伸べるのに理由が必要な矮小な人間だけれども、その理由はこんな些細なモノで良い。そう思える自分であれた事はちょっとだけ嬉しかった。
「僕は必ず君に食べて貰えるようなご飯を作って来るよ。そして世話をしてみせる」
「……………………ふん、勝手にしろ」
詩菜菫はそう言うとそれ以降、口を開かなかった。
どうやら僕の行動が予想に反したのが癇に障ったらしい。
子供っぽいな、僕はそんな風に思った。
僕はカツ丼が盛られていた食器をトレーに載せて201号室を出た。来る時はこれ以上無いくらい憂鬱だったが、今は少しだけ気分が晴れていた。
目標が出来たからだろうか。そう思ったけれど、本当のところはよく分からなかった。
自分の事なんてよく分からない。それは昔からずーっと一緒だった。引き籠っていた頃も、そして引き籠りを克服した今もそれは変わらない。
「まずは消化に良くて、美味しいご飯にどんな物があるか調べるとするか」
僕の決意の言葉は心地よい春風に乗せられて運ばれていく。
小鳥がその風に乗って、空高く舞い上がった。




