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第九話

 閑話休題。


 僕は黒川さんの部屋に通された後、お茶を飲んでいた。

 卓袱台を挟んだ対面に座るのは当然、黒川さん。恰好は裸――なんて事は勿論無く、スウェットの上下着用。どうやら普段着はスウェットが常らしい。


「さっきの椛君、可愛かったなー。頬が収穫期の苺みたいに染まってさ」

「…………忘れて下さい」

 僕は艶めかしい肌を思いだしながら呟く。


「それで?」

 黒川さんは訊いた。


「201号室……菫ちゃんはどうだった? 多分、さっきはその話をしに来たんでしょう?」

「本当のところ食器を取りに来たついででもあるんですけれどね」

 それがあんな事になるとは思いもしなかったが…………。

 しかし、女性の裸を見てまず思う所が興奮するかどうかよりも、女性に対して申し訳なく思う気持ちが先行しているのは一体どういう事なのだろうか。


 僕は思春期の青年として将来に一抹の不安を覚えた。


「まあそうですよ……そうです。何なんですか、あの態度? 部屋の奥に居たらしい、あの少女の顔を拝むどころか僕は礼の一つも貰わなかったんですよ。確かに僕は家賃の代わりとして働いているような身の上ですけれど、彼女の不遜な態度は正直どうかと思います」

「菫ちゃんは正直難しい娘だから…………。でも椛君」

「……何ですか?」

「君なら分かってあげられるんじゃないの? 元、重度の引き籠りとしては」

 黒川さんの言葉を受けて、僕は心臓を万力で締め上げられたような声を発した。


「……知っていたんですか?」

「知っていたよ、奈々子さんから大筋の話は聞いているわ」

「……………………本当にあの人は」

 僕は憎々しげに呟いた。あの人にはデリカシーってものが無いのだろうか。


「あたしも知っているし、智久も――勿論、菫ちゃんも貴方の事は知っているわ。一応、あたし達の世話係が来るって聞いてね、どんな人柄か知っておきたかったのよ。それを察して奈々子さんも話してくれた。決して悪い事じゃあ、無いわ」

「でも…………」

 動揺の声色が十畳の部屋に広がる。頼りない言葉は直ぐに形を失くして消えていった。


 言葉に覇気が無いのは当然だ。引き籠っていた過去なんてものはおいそれと人に聞かれたい話では決してない。


 そう――――僕は現在高校一年生にも関わらず年齢が十七歳。


 詰まる所、一年間もの間、僕は引き籠りとして暮らしていた。

 理由は色々あったが…………。結局理由なんて下らないものだった。


 僕は逃げ場所が欲しかったのだ。

 逃げて――逃げて――結局、自室にしか居場所が無いと思い込んで。


 そして――――引き籠った。


 意味の無い日常、価値の生まない毎日。

 苦痛だった。自分が酷くどうしようも無い人間だと蔑み、そして全てを呪いながら生きていた。


 生きる意味なんて無いと毎日毎日…………考えていた。

 今はどうにか立ち直ったが…………。あの日々は僕にとって消し去りたい過去だ。


 だから触れて欲しくない。傷に触れられ喜ぶような奴はマゾだ。そしてマゾであれば、そもそも引き籠りなんてなっていない。

 傷を作りたくないからこそ、僕は引き籠りに甘んじたのだから。



 ただ…………傷を作りたくないからこそ引き籠りになって自分を傷つける――――そんな矛盾にすら気付かない、そんな馬鹿だったのだ、僕は。


「椛君は引き籠りをいけない事だと思う?」

「……………………」

 黒川さんは神妙な顔付きで言った。だがその質問の意図が僕には分からなかった。


 何故そんな分かりきった質問をするのか、僕には分からなかったのだ。

 答えなど簡単だ。引き籠りは負け犬だ。


 あの触れれば潰れてしまいそうな存在を僕は肯定なんて出来ない。


「ちなみにあたしは引き籠りをいけない事だとは思わないわ」

「…………え、どうして?」

「どうしても何も…………。寧ろ何処がいけないの?」

「何処がって…………」

 僕は少しばかり逡巡して、言った。


「他人に迷惑を掛けているから…………じゃないですか?」

 僕は引き籠った時、色々な人に迷惑を掛けた。

 両親。兄妹。親戚。教師。その他諸々。


 他人に迷惑を掛ける人間なんて…………よっぽどのクズだと思う。


「椛君、違うわ。それは違う」

 しかし黒川さんは僕の言葉を否定した。その表情には一点の曇りも無い。


「言って置くけれど、あたしも殆ど引き籠りみたいなものよ。作家って職業上、仕事は自宅に居れば出来てしまうし、外に出るのも億劫。一ヶ月自宅から出ない事なんてざらよ。その点で言えば智久もそうだわ。あいつも外に出る頻度はあたしと似たようなもんよ」

「なら…………」

 ならば何処かで他人に迷惑を掛けているのではないか?


 僕はそう思った。人間が生きる為には何らかの形で他人と、社会と関わらなければならない。それを放棄した引き籠りはどうしたって他人に迷惑を掛けるものだ。


「でもあたしは基本的に他人に迷惑を掛けているとは思っていない。大抵のものは通信販売で買えば良いし、生活雑貨や食糧はいっぺんに沢山買う上、それも今までは智久と分担して行っていた。あいつとは持ちつ持たれつだから、これは迷惑にはならないわね。そしてこれからは椛君が買い出しには行ってくれるんでしょう? そしてそれも相互理解の元に成り立っている」

「…………まあ僕は叔母さんに半ば騙された訳ですけれど」

 とは言っても、一応、僕自身ある程度の納得をしている以上、それは迷惑には当たらないのかも知れない。

 でも迷惑を掛けていないという言葉をおいそれと受け入れる事は出来なかった。


 僕の持っている引き籠りへの否定要素は一年間、泥団子でも作るが如く、凝り固めたものだ。それを長い期間を掛けて乾燥させて徐々に徐々に固くしていった一つの価値観。


 それを崩すのはそう簡単な事では無い。


「得心いかぬって表情ね……。まあいいわ。引き籠りってのはどうあれ自身を傷つけるようなネガティブ要素の塊な上、閉め切った世界の中で自傷行為に励む、愚かな輩っていう認識はある意味では間違っていないしね。けどいずれ……分かるでしょうよ」

「…………どうですかね」

 僕は泥を吐き出すように、言った。


「何はともあれ…………あたしは貴方が昔、引き籠りだったところで別に気にしないわ。多分、智久もね。あたしは社会的に言えばアウトローだろうけれど、それでも一々自分を卑下するような真似はしないわ」

「……………………………………」

 僕は彼女の言葉に疑問を覚えた。


 どうして黒川さんは引き籠りであるにも関わらず、そうも強く生きられるのだろう。

 どうしてそうも自身を肯定出来るのだろう。


 僕は一年前のあの時、自分を傷つけてばかりいたのに。


「それにこのアパートであたし達住人の世話をするのであれば、その過去は大いに役立つかもね――――――特に、菫ちゃんを相手にする時には」

「…………そうですかね?」

「絶対そうよ。痛みを本当に理解するにはその痛みを経験した者じゃないと。菫ちゃんはあたしと智久なんかと違って、すっごく繊細で、それでいてすっごく厄介だから。引き籠りらしい引き籠り。あ、部屋から一歩も出ないって奴ね。もう五年くらい前からだから」

「五年!?」

 五年間も引き籠り――――――そりゃあ随分と鬱屈しているのだろう。


「そう言えば奈々子さんの話だと貴方が世話係に来るって聞いて菫ちゃんは随分と嫌がったって話よ。菫ちゃんにしてみれば知らない他人が自分の部屋に入るってだけで身の毛がよだつのかも知れないわね」

「それを聞いて俄然、雑務係を引き受けたのは失敗だったと思いましたよ」

 上擦りだけでしか無かった不安がどんどん重くなっていくのを感じる。


 何だろう……僕は一人暮らしにそこはかとなく希望を持っていたのだけれども……、それは今やトイレットペーパーの芯ぐらいの価値しかない儚い望みだ。


「菫ちゃんに関して言えば、多分一日一回ご飯を持っていくだけで良いと思うから……。あの娘、長い引き籠りで胃が弱っているからか、それぐらい食べれば十分らしいのよね。本当に大丈夫なのかしら?」

「…………黒川さんは詩菜菫に会った事ってあるんですか?」

 僕は何となく気になったので尋ねてみた。


 詩菜菫が重度の引き籠りだとして、黒川さんが軽度の引き籠りだとしても、会う機会はそれこそ一度や二度くらいしか無いんじゃないだろうか。



「ちょっとだけ、ね」

「ちょっとだけですか? それじゃあ殆ど他人みたいなものじゃあ…………それで何でそんなにも気に掛けるんですか?」

「そうね。言われてみれば理由なんて無いわ」

「じゃあ何故…………」

 僕の言葉を受けて黒川さんは顎に手を当てた。そして数秒程沈黙した後に、

「しいて言うなら放って置けないのよ、あの娘は」

「…………よく分からないですね」

「じゃあちょっとだけ分かりやすく言うわ。引き籠りって他人に感心が無いようでいて、その実寂しがり屋な人が多いのよ」

「……………………そう、かも知れませんね」

 僕はその言葉にちょっとだけ納得した。



 沼の底に沈んだ時、時折、人の温もりを求める事がある。

 それを僕は経験上、知っていた。



 何となく底を知られたようで、僕は恥ずかしい気持ちになった。


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