プロローグ
新シリーズですが既に書き溜め済みですのでガンガン更新していきます! 気に入って下さった方は続きを暫くお待ちください。多分近日中に完結します。
そんな訳で応援の程、宜しくお願い致します!
『引き籠りってカンガルーの赤ちゃんに似ているよな』
僕が十六歳の頃。世間とは隔絶された穴倉みたいな六畳一間で沼の底をガリガリと引っ掻いているような、そんなトンチキな生活を送っている頃に見たインターネットのとある掲示板で僕はこんな投稿コメントを見つけた。
僕は大層、暇で暇で仕方無く、こんなコメントにも反応してしまうぐらい精神が摩耗していたので、何となくこのコメントを投稿した奴宛てに返信してみた。
「カンガルーの赤ちゃん? 僕らがそんな可愛らしい様かよ。僕らは皆、泥沼に片足を突っ込み続けて、進もうとしてもがく度に翼を片翼から沼に浸らせて、気付いた時には飛ぶ事さえ忘れている弱い弱い雀の雛みたいな存在だよ。そして灰も胃も内臓も喉も口の中も――――全部が全部、泥に塗れて生き汚い姿のまま徐々に溶けていくんだ。カンガルーみたいに愛玩動物らしい可愛さなんて微塵にも持ち合わせていない。そんな幸せそうな奴と一緒にするなよ」
僕がそんな腐ったリンゴみたいなコメントを返して数分後、直ぐにソイツから返事が返ってきた。
妙に早いところを見ると、どうやらコイツも僕と同じ人種らしい。
『違うよ。俺が言いたいのはそういう事じゃあ、無い。カンガルーの赤ちゃんは生活のほぼ全てを母親の温もりの中で過ごす。酷く狭い、だけど温かい、そんなぬるま湯の中で。それはまるで俺達、引き籠りのようじゃあないか。世界に触れるのが怖くて、繊細な振りしてその実、打算が出来て、親や妻や兄弟や友達なんかの優しさにかまけて、自ら狭い世界に閉じ籠る。お前も引き籠りなのか? なら俺の言っている事が分かるんじゃないのか?』
僕はこのコメントを見て押し黙る。
確かにそう言えなくもないからだ。
肌に心地良く纏わりつく泥から抜け出すのは並大抵の決意で出来るものじゃあ、無い。
カンガルーの赤ちゃんは隔絶されたあの狭い世界で生きている事を良しとしているのだ。母親の優しさにかまけて。それは僕達の状況によく似ていた。
「確かに」
僕はコメントを返す。
『なあ、お前に訊くよ。俺達、引き籠りって何となく才能だと思わないか?』
「はあ?」
僕は同じ奴が残したそのコメントを見て渋面を作った。
どれだけモニターに浮かんだ燃えカスみたいな黒色のドットを覗き込んでも僕にはその言葉が全く理解出来なかった。
どうやらコイツは分かっていないらしい。僕達がどれだけ意味の無い場所に取り残されているのか。価値の無い時間を生きているのかを。
才能なんて前向きな言葉、僕達には似合わないだろう?
「才能なんて有り得ない。それが無かったから僕達はこうしているんだ」
僕はコメントを返した。酷くぞんざいなタッチで紡ぎだされた文字はLANケーブルを通じて、広大なネットの海へと、汚染された生活排水のように垂れ流された。
だが僕はそんな光景を目の当たりにしたところで特に何とも思わなかった。
目に見えぬ血なんてものは幾らでも流した。もう今更汚水を垂れ流したところで何かを思うようなマトモな神経は持ち合わせてはいない。
『後ろ向きだな。酷く後ろ向きで、そして味気ない言葉だ』
返ってきたコメントはいかにも理解し難かった。
いや、そもそもそんな事を言われずとも分かっていると僕は思った。
僕達のような人間が後ろ向きで無くてどうすると言うのだ。
前を向けない、未来に想いを馳せる事がままならない。
――――だから引き籠った。
だから僕は泥水を自ら啜った。
自らの喉から手を突っ込んで食道を通り越して胃を存在に引っ掻き回すが如き、そんな気持ちにさせられた。漏れた息は血の匂いに塗れている――――気がする。
『分かってないな。引き籠りは才能だよ、これは紛れもない真実だ』
もう一度、同じようなコメントがモニターに表示された。つまらない冗句に僕は嘆息すると、
「引き籠りの才能か? それは笑えない冗談だな」
と返した。
『そうさ。笑えないが、しかしこれは冗談では無く紛れも無い俺の本心だ』
「…………頭、大丈夫か?」
僕はコイツを紛れもない気じるしだと思った。
きっと窓もドアも、そして心も閉め切った部屋の中で居る内に呼吸が出来なくなって、酸素欠乏症になって、脳内麻薬で満たされた脳内でお花畑なんかを想像している内に思考がトンじまったんだと、そう思った。
けれど後になって考えると、こいつは存外まともな奴だったんじゃないか、とそう思う。
引き籠りってのが才能だなんて今でもまったく僕は思わないが、それでも素質ではあると思うのだ。
引き籠りには引き籠りなりの考えと矜持がある。当時、僕は引き籠りというのは全て逃げる事と同義だと思っていたので、全くその考えに至らなかったのだ。
……と言うか。今でも九割九分九厘くらいは逃避行動としか思っていない。人間なんてのは所詮は社会と関わり合う事しか出来ない生物だ。だからそれを怠っている奴なんてのは怠け者か間抜け、良くて余生を楽しみ死を待つばかりの爺くらいのものだと。
――――でもちょっとだけ。本当に少しにしか満たない可能性だが。
僕は引き籠りを――――――――生き方だと認めている。
でもこんな考えに至るのは後数年も先の話なので、今この時はコイツを只の妄想癖だとばかり思って、そして僕は滅茶苦茶引いていた。
僕の表情が永久凍土から削りだした氷塊のように凍り付いている中で、こいつはこんなコメントを言っていた。
昔過ぎて微妙に忘れかけているが、概要は忘れていないと思う。
それくらい僕にとってコイツの言葉が衝撃的だったからだ。
『引き籠りってのは息も出来ないような、暗く陽も指さない沼の底に沈んでいるようなもんだ。普通の生活を送っているのであれば普通に身につくような、そんな好奇心や常識、喜び、愉しみ、出会いなんかをちょっとした傷と引き換えにして全て失ってしまったかのような、そんな感じ。繊細なのは分かるけれど、それでも度が過ぎるって話だよ。普通の神経の奴なら一年と持たない。皆、何処かで「人間らしくしなきゃ」って恐怖心に駆られて外に出ていっちまう。そんな心を叩く常識的な声に耳を塞いでいられる時点でソイツはもう引き籠りとしての才能は及第点だよ。後はマトモな神経をどれだけ保っていられるか。どれだけ泥に塗れても、どれだけ身体の内側から刺さる剣山みたいな痛みに顔を顰めても、決して気が触れない、己を保ち続ける。そんな絶対的な自己。これは才能と言うより他に無いよ。そうは思わないかい?』
「思わない」
僕は端的でつまらない、それこそ泥から救い出したかのようなコメントを返すと、ノートパソコンを閉じた。ノートパソコンはシューシュー、と蛇の呼吸音みたいな音を残してスリープモードに以降した。
そして部屋を見渡して愕然とする。六畳一間の中、舌がざらざらとする感触に僕は身悶えする。息が詰まりそうな閉塞感だけでも僕がマトモな人間で無い事だけは理解出来た。
こんなものが――――――才能な訳が無い。
僕は静かで深く、そしてちんけな絶望をだき抱えつつ六畳一間の面積を多く奪い去っているベッドに沈み込み、そして静かに闇に没した。
僕はこの後もおよそ一年、泥の中で身を沈める事となる。
引き籠った、息の詰まるような生活を一年間も送る事となる。