フルングニル星域会戦ー3
とは言っても、生まれも育ちも異なるソニアと第一司教の間に共通する話題など殆どない。今日は何を話そうかとソニアは迷った。
この前はフリートウッド家でどんな歴史教育が行われていたかの話をした。中々興味深そうに聞いてくれて嬉しかったが、今日はフリートウッド家ではなく自分自身についての話でもしようかと、ソニアは思いついた。
「あ、あの、紅茶でもお淹れしましょうか。それだけは自信あるんですよ」
ソニアは緊張しながらも、第一司教に言った。紅茶やコーヒーを美味しく淹れるのは、ソニアの数少ない特技なのだ。
そんな特技が見に付いた理由は簡単で、軟禁されている間にすることと言えば面白くもないフリードウッド家公刊歴史書を読むことと、部屋にあった湯沸かし器で飲み物を作ること位しか無かったためだ。同じ茶葉や豆で、淹れ方によってどれくらい味や香りが変わるかを実験するのが、ソニアの日課だった。
しかし言ってしまってからソニアは、それがとんでもない失言であることに気付き、全身から血の気が引くのを感じた。心臓に激痛が走り、頭の中が後悔と恐怖で埋め尽くされる。
第一司教は国家の最高指導者であるにも関わらず、ソニアにはいつも親し気に話しかけてくれる。そのせいでうっかり、飲み物を勧めるという行為の意味を忘れてしまったのだ。
『連合』の財閥における慣習では、契約の場で相手が勧めてきた飲み物を口にすることは、契約の受け入れを意味する。毒を盛られているかもしれないのに敢えて口にすることで、相手への信頼を示すのだ。
そこから派生した慣習として、政争で敗れた者に勝者が飲み物を手渡すことがある。これは以後に忠誠を誓うなら助命するという意味である。
敗者は毒が入っているかもしれない杯を受けることで一度儀礼的に死に、その後勝者の部下として生まれ変わるのだ。
どちらにせよ、飲み物を勧めるという行為は『連合』のマナーでは対等以上の立場の者がやることだ。囚人のソニアが最高指導者である第一司教にそれをするのは、その場で処刑されても仕方がない位に非礼なことなのだ。
「その… 猊下、申し訳ありません!」
数秒か数十秒かも分からない時間が経過した後、ソニアは我に返って謝罪した。弾みとはいえ最悪の不敬行為を働いてしまった。一応とはいえ大財閥の娘には、決して許されないことをしてしまったのだ。
ソニアは何度も頭を下げた後、恐る恐る顔を上げた。当然、第一司教は怒りの表情を浮かべているだろう
何しろ財閥の慣習において、露骨なマナー違反をすることは「絶縁」を意味する。「自分は貴方を、同じ儀礼を共有出来る人間とは見做していない」、儀礼の無視とはそういう意味だからだ。
第一司教も当然そのことは知っているだろう。彼女はソニアの言葉を「もう会う気はない」という意味として受け取ったはずだ。
第一司教の顔をすぐに見る勇気が湧かず、ソニアは夢遊病者のように自室を見つめた。かつて軟禁されていたよりはずっと快適な部屋だが、今はあの牢獄と同じくらい殺風景に見えた。第一司教がこの部屋を二度と訪れることはない。そう考えただけで気が狂いそうになる。
(自分は我儘だな)、ソニアの精神に僅かながら残されている冷静な部分が囁いた。かつての処遇を考えれば、処刑されずにまともな衣食住を与えられているだけで感激すべきだ。
それなのに今、ソニアは第一司教が訪問してくれなくなることに心からの恐怖を覚えている。
「本当に申し訳ありません! わざとでは無いのです。ついうっかり、言葉が…」
ソニアは謝りながら出来る限りの勇気を出し、そっと第一司教の顔を見た。そして驚愕した。憤怒の表情を浮かべているはずの第一司教は、穏やかな微笑を浮かべたままだった。
「何故、謝るのですか?」
第一司教が不思議そうに、本当に不思議そうに聞いてきた。
「え、それはもちろん、事もあろうに猊下にお茶をお勧めするという不敬な真似を…」
第一司教はひょっとして、『連合』の財閥階級における慣習を知らないのだろうか。ソニアは不敬とも言える推測を思いついた。
第一司教は『共和国』暮らしが長かったし、新政府の要人は中流階級以下の人間が中心だ。『連合』の財閥におけるマナーを知らなくても不思議ではない。
(いや流石にそれはない)、もう一つの声が安易な推測を打ち消した。『連合』の財閥の中で新政府に協力的な姿勢を見せた家は存続しており、その一部は新政府の一員となっている。マナーのこと位、彼らに聞けば分かるはずだ。
しかしそれなら何故、第一司教は激怒していないのだろうとソニアは訝った。財閥同士の会談でこのレベルのマナー違反をすれば、即座に関係が取り消しになる位なのだが。
「分かっていますよ」
第一司教の声が聞こえる。何が分かったのだろうとソニアは思った。
会いたくないという気持ちは分かったから、もう来ないという意味だろうか。そう考えた瞬間、ソニアはまた凄まじい恐怖を感じた。「また一人きりになってしまう」、その感情が心臓に激痛をもたらし、無意識に全身が痙攣する。
「私は気にしていません。その程度の間違いなど、誰にでもあることです。もちろん、貴方と絶縁する気もありません」
「で、でも…」
だが次の第一司教の言葉に、ソニアは先ほどから全身を苛んでいた恐怖と不安に、安堵と疑念が仲間入りするのを感じた。
第一司教の気にしていないという言葉は果たして本心なのだろうか。本心だとしたら、彼女は何故ソニアにそこまで優しくしてくれるのだろうか。
「私はこの部屋では神の代理人でも、『連合』の最高指導者でもありません。貴方と同じ1人の人間です。ですから、そのような事は気になさる必要はありません」
「え、猊下。しかし…」
次の第一司教の言葉に、ソニアは更なる困惑を覚えた。第一司教とソニアの間に、最高指導者と囚人以外の関係など存在しうるのだろうか。
「それで、紅茶は淹れて頂けますか?」
第一司教の口調はあくまで穏やかで、まるで対等か目上の人間に頼んでいるようでさえある。彼女は世界最大の国家の指導者であり、ソニアなど指一本でどうにでも出来るはずなのに。
「はい、猊下!」
だがソニアは出来る限りの力を込めて答えた。第一司教が何を考えているかは不明だが、とにかく彼女はソニアが淹れた紅茶を飲みたいと言ってくれたのだ。ソニアはそれだけで満足だった。
「全艦針路、俯角10度、方位角マイナス35度。敵艦から遠ざかれ。さらに本艦は機雷を射出」
敵艦15隻が追撃してくるという報告に対し、リコリスはすぐに対処を命じた。
「機雷ですか? ミサイルじゃなくて?」
「ええ、ここで切り札を使いつくすのは避けたいから」」
リコリスはリーズに説明した。追撃してくる部隊をミサイルで始末することは可能だが、その場合再装填が終わるまでの約8分間の間、第66巡洋艦戦隊はミサイル攻撃が出来なくなってしまう。
第66巡洋艦戦隊の砲力は巡洋艦部隊ながら駆逐艦部隊程度でしか無いので、8分間ミサイル攻撃が出来なくなるのは、その間味方に意味のある貢献が出来なくなるのと同義だ。
そのためリコリスはミサイルではなく、オルレアンに搭載されている機雷を利用して敵の追撃を遅らせるよう命じたのだ。
機雷は味方を巻き込む可能性がある危険な兵器だが、幸い第66巡洋艦戦隊と敵の間に味方部隊はいない。使用しても問題は無いと判断した。
やや細長いドラム缶のような物体が、オルレアン後部のカタパルトから連続して撃ち出されていく。それを確認した後、リコリスは中央モニターに表示されている戦況を眺めた。
「良いとは言えないわね」
リコリスは顔をしかめた。第66巡洋艦戦隊が敵艦9隻を脱落させた宙域は別だが、他の場所で起きているのは撤退というより潰走だ。家主に発見された空き巣のようにパニック状態で逃げる『共和国』軍部隊を、『連合』軍部隊が勝ち誇ったように追い回している。
無論『共和国』軍も後部砲塔で反撃しているが、投射されている火力は明らかに『連合』側の方が大きい。数の差自体はそれほどでも無いが、『連合』側の砲撃には巡洋艦の主砲とは比較にならない程野太い光が混ざっているのだ。
「ドニエプル級…」
『連合』軍の隊列先頭で鮮やかな光の束を放っている巨艦の姿を確認し、リコリスは呻いた。『連合』軍が誇る世界最大最強の戦艦が、『共和国』軍巡洋艦を追い回している。
中にはミサイル攻撃で形勢を逆転すべくドニエプル級に接近する駆逐艦部隊もいたが、彼らは『連合』軍の駆逐艦部隊及びドニエプル級自身の副砲群に阻まれていた。
スマートな艦形を持つ高速艦の群れは、砲陣地に向かって突撃した騎兵隊のように片端から蹴散らされ、ドニエプル級の前方に残骸の山を残していく。
一方、『連合』軍巡洋艦を攻撃目標に定めた部隊は、それに比べればかなり良い結果を出していた。
もともと『連合』軍の新鋭巡洋艦コロプナ級は主砲の旋回速度が遅く、高速の小型艦との戦闘を苦手とすることが、オルトロス星域会戦の戦訓として分かっている。駆逐艦部隊による攻撃は、その弱点を衝く形になったのだ。
「方位角をプラス5度、機関出力40%。敵戦艦にミサイル攻撃を敢行する」
状況を確認したリコリスは、第66巡洋艦戦隊の行動方針を決定した。敵主力のドニエプル級戦艦さえ仕留めれば、この宙域での形勢は逆転とは言わずともかなり優位になる。
「方位角プラス5度ですか!?」
リーズが確認するように聞いた。
「何か問題でも?」
「残骸だらけですよ。本当に通れるんですか、この場所?」
言ってリーズは当該宙域の情報を指差した。敵味方の艦多数が沈没しており、その一部は四分五裂の状態になって虚空を漂っている。
このような場所を通れば、敵艦と交戦する前に残骸に衝突して沈んでしまうのではないかと、リーズは危惧しているようだ。
「本艦の航宙科の能力なら、何とか大丈夫だと思うけど」
「ポルタヴァ級はどうなんですか? はっきり言って練度が…」
リーズが懸念材料を述べた。ポルタヴァ級巡洋艦はオルレアンより小さくて小回りが利く分、障害物が存在する宙域を進みやすいはずだが、問題は乗員の能力だ。慣熟航海が済んだばかりのような将兵たちに、残骸群の中を進むという高度な機動が出来るのかを、リーズは不安に思っているらしい。
「レーザー通信機を使って、 本艦の機動を後続の艦に指し示せば大丈夫なはずよ」
リコリスはリーズの懸念に対してそう答えた。先頭に最ベテランの艦を配置し、後続艦には自動航行機能を使ってその艦の機動をそっくり真似させる。練度的に怪しい部隊が、障害物の多い宙域を通る時に使う方法である。
(このオルレアンが最ベテランと言うのも、考えてみれば酷い話だけどね)
感心したような表情のリーズを見やりながら、リコリスは内心でため息をついた。
オルレアンは前の戦争には参加しておらず、乗員も宇宙暦690年代初頭からの大軍拡で入隊した者が大半を占める。熟練と言えるほど軍歴の長い下士官兵も、艦の全てを知り尽くしたベテラン士官もいないのだ。
自分の部署についてのみ促成訓練を受けた将兵の寄せ集めというのが、近頃は武勲艦と呼ばれることもあるオルレアン乗員の実態である。
しかしそれでも、オルレアン乗員は第66巡洋艦戦隊の中では最古参だ。理由は単純で、ポルタヴァ級巡洋艦の乗員たちはもっと新兵が多いからである。
軍が戦闘力を維持できるかは、究極的には新兵の育成が古参兵の消耗に追いつくかで決まる。現在の『共和国』宇宙軍が新兵の相対的増加による劣化を免れているかについて、リコリスは確信を持てなかった。
リコリスが考え込んでいるうちに、オルレアンは残骸が無数に漂う宙域に突入した。艦体が3つに折れた駆逐艦、艦上構造物を全て吹き飛ばされた巡洋艦等が、周囲を監視するモニターに映し出されている。
乗員が艦載艇で脱出中の艦もいれば、既に退去が終わって無人と化した艦、さらにはほぼ瞬時に沈んで誰も助からなかったと思われる艦もおり、象の墓場さながらだった。
なお多くの艦が未だに小爆発を繰り返しており、辺り一面に破片と人体の残骸を撒き散らしている。飛び散る破片には宇宙船の外板を貫くほどの威力はないが、時折派手な衝突音を立てて将兵の肝を冷やした。
「20秒後、対艦ミサイルを発射。目標は左舷前方の敵戦艦。発射後は逐次回頭で反転し、脱出する」
「反転ですか? そのまま抜けるんじゃなくて?」
リーズがやや青ざめた顔で質問してきた。残骸だらけかつ、細かな破片が大量にぶつかってくるこの宙域から、一刻も早く抜けたいようだ。
「残骸の中に戻ったほうが、いろいろな意味で安全なのよ」
リコリスは素っ気なく答えた。破片の衝突は恐ろしく思えるが、実害は少ない。せいぜい塗装を引き剥がすか、運が悪くても光学機器のレンズを割る程度だろう。
対して残骸の外、敵味方が現在交戦している場所にはあらゆる危険が待ち構えている。ここは回りくどいようでも、いったん反転してから脱出すべきとリコリスは判断していた。
「敵戦艦、光学的に確認しました」
索敵科が報告を入れてくる。残骸が散乱している場所ではレーダーが当てにならないので、ミサイルは光学照準で発射せざるを得ない。その光学装置が、目標の姿を捉えたらしい。
リコリスは敵戦艦の姿を見据えた。遠方からの撮影であるため小さく、儚くさえ見えるが、実際には戦艦ですら数斉射で戦闘力を奪うことが出来る世界最強の戦闘艦だ。
その巨艦に、珍妙な姿をした7隻の巡洋艦が挑もうとしている。屈強な大男に、子供が喧嘩を挑むも同然だ。
こちらの強みはただ1つ、爆発を繰り返す沈没艦たちの陰に隠れて接近していることだ。体格差がいかに大きくても、忍び寄って背中にナイフを突き立てればこちらの勝ちだ。
「右舷下方、敵機です。恐らくわが隊を発見したものと思われます!」
「やられた!」
しかし索敵科から送られてきた緊急信に、リコリスは凍りついた。現在航空戦は『連合』側が押し気味だ。彼らはそれを利用して、戦場に偵察機を送り込んできていたのだ。
リコリスは考えを巡らせた。対空砲火で撃ち落とすのは現実的ではないし、今から艦載機を出しても間に合わない。ならば…
「全艦、妨害電波を輻射して敵機の通信を妨害せよ。さらに機関出力を55%に変更し、敵の裏をかく」
命令するや否や、7隻の軍艦の機関出力は残骸の中を安全に航行できる最大値まで上昇した。敵に発見された以上、出来るだけ早くミサイルを撃たなければならない。
さらに各艦のアンテナが、目まぐるしく周波数が変わる電波を最大出力で発信し始める。妨害電波を最大出力で出すとこちらのレーダーや通信機も使えなくなるが、どのみち航行も照準も光学的手段で行っているので問題はない。
対して敵機の方は、第66巡洋艦戦隊の位置と針路について報告を送るのが不可能になる。撃ち落とせなくても、通信を妨害してしまえば偵察機は無力化できるのだ。
機動力は航空機の方が大きいのでその場しのぎに過ぎないが、こちらにとってはそれで十分だ。敵機が妨害電波の影響圏を脱して報告電を打つ前にミサイルを発射してしまえば、何も報告されなかったのと同じなのだ。
「対艦ミサイル発射。その後機関出力を30%に落とし、反転」
妨害電波から逃れようと離れていく敵機を見ながら、リコリスは待ち望んでいた命令を出した。先ほど使用されなかった分の発射筒が各艦の艦上で旋回し、青白い光の矢を吐き出していく。
「敵巡洋艦4、わが方に接近中!」
発射を終えた7隻が反転を開始する前に、新たな危機についての情報が入ってきた。ミサイル発射を見た敵巡洋艦が、第66巡洋艦戦隊の姿を確認して接近してきたのだ。
「いい勘をしているわね」
リコリスは感心した。妨害電波の発信が続いている以上、レーダーは互いに利かない。ということは、相手は光学的手段だけで第66巡洋艦戦隊を発見したことになる。
『連合』軍の個々の将兵の能力は『共和国』軍に勝るとも劣らない。ファブニル星域会戦の時から実感している不快な事実を、再確認させられた思いだった。
「ど、どうします? ミサイルは今撃てないですけど」
一方、隣のリーズは顔を引き攣らせていた。第66巡洋艦戦隊はミサイル攻撃に特化した部隊であり、砲火力は乏しい。
敵巡洋艦のクラス名は不明だが、たとえ『連合』軍最弱の艦であっても同じことだ。ミサイルの装填が終わっていない第66巡洋艦戦隊を蹴散らすのは、毒針を持たない蜂を捻り潰すのと同じくらい容易なのだから。
「心配ないわ。相手はミスを犯した」
だがリコリスはリーズに微笑を返した。第66巡洋艦戦隊を発見したところまでは大したものだが、その後の行動は拙速に過ぎる。敵は単縦陣を組みながら最大速力で接近しているのだ。
開けた宙域における通常の戦闘であれば合理的な行動だが、現在の状況は通常戦闘とはかなり異なっている。状況を考慮して行動を選択しなかった報いを、敵は今から受けることになる。




