ファブニル後半戦ー14
エルシー・サンドフォード飛行兵曹はオルレアンに着艦した後ずっと、航空機格納庫の隣にある搭乗員待機所の床に座り込んでいた。何しろ初めて乗り込む艦である。うかつに歩き回ればすぐに迷子になってしまう。元の母艦に戻してもらうまで、動かないでいるのが賢明だった。
一方のアリシアはと言うと、すぐに出て行ったかと思うと、何を思ったのか2つのカップを持ってまた戻ってきた。戦闘直後の軍人とは思えないほど呑気な顔をして、口笛まで吹きながらだ。そんな彼女に向かって、エルシーは叫んだ。
「スミス、何回も言っているようにね。私はスペアじゃない!」
実のところエルシーはサンドフォード家に対して特に愛着がある訳では無かったが、「スペア」と言う言葉だけは納得できなかった。その言葉は家中で、最悪の蔑称として使われていたからだ。
対するアリシアは、迂闊にも見惚れてしまいそうになる程可愛らしく小首を傾げたかと思うと、あっさり返答した。
「ああ、分かったわよ。『スペア』は撤回するわ」
「え?」
エルシーはアリシアがさっきの発言をあっさり引っ込めたことに、喜ぶというより戸惑った。アリシアは自分を「スペア」呼ばわりした。絶対に許すことはできない。
「もしかしてエルシー、気にしてたの? だったらごめん」
アリシアはさらに謝罪の言葉まで述べ、エルシーを更に混乱させた。一体どういうことなのか、さっぱり分からなかった。
「ああ、その… こっちこそごめん。いきなり大きな声だして」
エルシーはそう言うしかなかった。もしかしたら本当に、アリシアに敵対の意思はないのだろうか。スミス家とサンドフォード家の確執を考えれば、そんなはずはないのだが。
(こんな人だったんだ)
アリシアの姿を見ながら、エルシーは何となくそう思った。飛行学校時代には、エルシーはアリシアを間近で見たことが無かった。
2人の血筋を考えれば、どんな危害を加えられるか分かったものでは無いと思い、出来るだけ顔を合わせないようにしていたからだ。だからアリシアとエルシーが面と向かって言葉を交わすのは、これが初めてかもしれなかった。
そのアリシアは間近で見ると意外な程小柄だった。そして何より、スミス財閥の人間らしさが全く無かった。
顔立ちにはスミス家の面影が少しだけあるが、表情や仕草が全くもってかけ離れている。スミス家の人間によく見られる悪い意味での貴族趣味が感じられず、時折エルシーが見惚れるほどに無邪気な表情を向けてきた。
エルシーは幾らか不本意ながら、彼女に好感を覚えずにはいられなかった。いや、飛行学校で始めて見かけた時からそうだったかもしれない。
エルシーは従兄弟を強制収容所送りにしたスミス家を憎悪していたが、アリシアの事は不思議と嫌いになれなかったのだ。年齢的に彼女がスミス家の悪行に関与しているはずがないという事実もあるが、それだけではない。
何となく、彼女には憎悪というより仲間意識を感じたのだ。大財閥の出身者であり、周囲に畏怖、恐怖、憎悪の視線を向けられる者同士としての。アリシアが一向にエルシーに危害を加える素振りを見せなかったことも、そんな感情を後押しした。
飛行学校での日々がもう少し続いていれば、アリシアとは仲間になれたかもしれない。そんな感情すら、エルシーは感じていた。両家の仲を考えればそんなはずがないと、理性では判断していたのだが。
そのアリシアは結局、戦場でもエルシーに危害を加えようとしなかった。それどころか、帰還不能になっていたエルシーを助けてくれた。全くもって不思議だった。
もしかしたら、アリシアもまた同じ感情を抱いていた。サンドフォード家を憎んでいても、エルシーの事は憎んでいなかったのだろうか。だから助けてくれた?
そんな思考が不思議な温かさと共に胸中に浮かんだ。エルシーは慌てて甘い考えを振り払おうとしたが、一旦浮かんだ思考はすぐには消えてくれなかった。もはやアリシアの顔をまともに見ることも出来ず、彼女は顔を伏せた。
一方のアリシアは、エルシーの内心など全く理解せずにこんなことを言い出した。
「ところでエルシー、紅茶持ってきたから飲まない? どうせ機体の点検が終わるまで、あたしたち暇だし」
「は、はああああああ!?」
「あれ? エルシーって紅茶嫌いだっけ? それとも、コーヒーの方が良かった?」
アリシアが持っているカップからは、確かに紅茶の甘い香りが漂っていた。『共和国』宇宙軍の軍艦には大抵、居住区にコーヒーと紅茶の製造機が取り付けられており、非番の将兵が周囲にたむろして戦闘糧食のサンドイッチや艦内の売店で売られているケーキを流し込んでいる。
味としては、食事への不満からくる士気低下や暴動を抑制するためか、驚くほどまともだと評判である。
ちなみにエルシーの元の母艦であるCシップは突貫工事で作られたので飲み物が水しかなく、将兵の不満の種となっていたりする。だからエルシーが宇宙軍の紅茶を飲むのはこれが初めてだ。
いや問題はそんなことではない。何故、アリシア・スミスが父親の仇敵の娘であるエルシーに対して、紅茶を一緒に飲もうと言い出したかだ。訳が分からなかった。
「私は、コーヒーも紅茶も好きなんだけど…」
衝撃の余り、そんな間抜けなセリフを口にしたエルシーに対し、アリシアは相変わらずの優し気な表情を向けてきた。
「それじゃ、決まりね。取りあえず、あたしの部屋に来ない? この部屋、格納庫からの音でうるさいし」
確かに搭乗員待機室には、隣の格納庫からの騒音が大音量で響いていた。整備員が艦載機に取り付き、いろいろな部品をチェックしたり、場合によっては付け替えたりしている音である。壁を防音仕様にしなかったのは明らかな設計ミスだと、エルシーはくだらない感想を抱いた。
「う、うん。って、あ!」
何となく毒気を抜かれたエルシーは、とりあえずアリシアに付いて行こうとして大きくよろけ、搭乗員待機室の床に倒れこんだ。
着艦した途端にぶり返してきた戦闘の恐怖に加え、アリシアの余りにも意外な言葉を聞いたせいで、平衡感覚がおかしくなったらしい。スミス財閥の娘の前で醜態をさらしたことに、エルシーは青ざめた。
「ちょっと、大丈夫なの? 体調が悪いなら、艦内の医務室に案内するけど」
嘲笑されることを予想していたエルシーだったが、そうはならなかった。代わりにアリシアはカップを近くの机に置いて、心配そうにエルシーに向かって手を差し伸べてきた。一瞬、アリシアの翡翠色の目とエルシーの琥珀色の目が合った。
エルシーはしばらく躊躇った後、その手を取った。エルシーが知る限り最強のエースパイロットの手とは思えない程、華奢で柔らかい感触が伝わってきた。それにも増して感じたのは、手から伝わって全身を包み込んでくるような暖かさだった。
「大丈夫よ。えっと、その… ありがとう、スミス」
ずっとこの手を握っていたい。そんな感情を辛うじて振り払いながら、エルシーは立ち上がった。その途端、アリシアは少し不機嫌な顔になった。
「さっきから言おうと思ってたんだけど、その『スミス』って呼び方は止めてくれない? はっきり言って不愉快だから」
「え、『スミス』はダメ? …あ、申し訳ございません! スミス飛行曹長殿!」
これまでは全く意識していなかったが、アリシア・スミスの階級章を見ると自分より一つ上だ。そのことに気づいたエルシーは慌てて言い直した。するとアリシアは呆れかえったような顔になった。
「そういう意味じゃない! 『アリシア』と呼んでって言ってるの!」
どうやら軍における階級とかそういう話ではないらしい。
「分かった。ところで、何で『スミス』と呼ばれるのが嫌なの?」
エルシーは首を傾げた。軍に入る前には他の財閥の子女とも何度か会ったことがあるが、彼らは全員出身財閥を誇りにしていた。だからアリシア・スミスが、出身財閥の家名で呼ばれることを嫌がる理由が、エルシーには理解できなかったのだ。
対してアリシアは、不快極まりないといった表情で彼女の質問に答えた。
「いや、だって… あんな連中の血を引いてるなんて不愉快だし」
「…え?」
「だから、嫌なの! 数百人単位で愛人を作ったような人間の子供と思われるのも、趣味が拷問で、最後には自分が拷問された挙句に銃殺されたような人間の妹だと思われるのも」
おそらく前者はスミス財閥に幾つあるか分からない分家のうち一つの当主をしているアルヴィン・スミス。後者はその長男で、クラーク政権の粛清に深く関与した挙句に自らも粛清されたエイベル・スミスのことだろう。
「サンドフォード家がどうだかは知らないけどね、スミス家というのはそんな連中の集まりなのよ。『スミス』と呼ばれる度に思い出すのよ! あたしがあの連中の血を引いてることをね!」
これで清々したと言わんばかりに、アリシアは続けざまにそう言うと、少し表情を変えた。その顔は笑顔にも、泣き顔にも見えた。
「だから… 『アリシア』と呼んで。あたしは、あの連中の仲間でもないし、エルシーの敵でもないから」
アリシアは小さくそう言った。そんな彼女はどこか儚げで、とても寂しそうに見えた。そう言えばこんな様子のアリシアを、エルシーは一度だけ見たことがあった。
その時のアリシアは、飛行学校の寮への帰り道で、触らぬ神に祟りなしとばかりに彼女を遠巻きにしている同期生の集団を悲しそうに見ていた。そして同じく遠巻きにされているエルシーと目が合うと、少しだけ微笑んできた。
あの時の自分は、アリシアに微笑み返すことが出来ただろうか。エルシーはふと、そんな事を思いもした。
「…サンドフォード家も同じよ」
自分でも訳のわからない衝動に駆られながら、エルシーはそう言った。言わずにはいられなかった。
傍系の人間に対する冷酷さは両家に共通している。両家の当主は大抵大量に子供を作るが、その大半には相続権が与えられず、「スペア」として保管される。そして大半が、不祥事や陰謀が発覚した時に当主に代わって銃殺されるのだ。
さらに「スペア」を作りすぎた場合は、一部を軍に送り込んで処分する事もある。両家は財閥には非常に珍しいこの習慣を、「高貴なる者の義務」として宣伝しているが、実際には厄介者を処分しているに過ぎない。
道徳性、あるいはその欠如についても両家は共通している。スミス家の行状についてはサンドフォード家の中で散々あげつらわれていたが、そのサンドフォード家とて他家の事を言えた義理ではない。エルシーはそのことをよく知っていた。
彼女の父であるエリオット・サンドフォードの愛人の数は流石に数百人単位ではなかったが、程度問題でしかない。
彼の後継者であるエドワード・サンドフォードも、道徳性ではエイベル・スミスといい勝負か、それ以下だろう。
エドワード・サンドフォードは遠い祖先にあたる『首狩り公妃』、エレミア・サンドフォードを尊敬していると公言しており、その行状を模倣することを生きがいとしていた。気に入らない使用人を殺してはその首を切り取り、ホルマリン漬けにして寝室に飾るのが彼の趣味だったのだ。
3年ほど前に、初めてエドワードの「コレクション」を見せられたエルシーは、恐怖と衝撃で気絶しそうになったものだ。そんな彼女を見ながら、エドワードは楽しそうに笑っていた。
「お前の首もコレクションにしたい」、彼はそう言いながらエルシーの髪を撫でた。この男は狂っている。病気ともまた異なる純粋な意味で狂っている。エルシーはそう確信した。
何より恐ろしいのは、その狂人が彼女の兄であることだった。漂白された生首それ自体も恐ろしかったが、このような凶行を為す人間の血が自分にも流れているという恐怖は、それを遥かに上回っていた。兄の狂笑を聞きながら、彼女は陳列されたガラス容器を見つめ続けていた。
意識して忘れようとしていた忌まわしい記憶を思い出したエルシーは再びその場に崩れ落ちそうになったが、何とか耐えた。その様子を怪訝そうに見ているアリシアの姿が、エルシーのぼやけた視界に入った。
彼女は純粋にエルシーを心配してくれているように見えた。少なくとも、サンドフォード家の人間がエルシーに示した態度よりはずっと。
「エルシー、本当に大丈夫なの? とりあえず横になる? あたしのベッドでいいなら貸すけど」
「あ、いや。何でもないわよ。ありがとう、アリシア」
エルシーは辛うじてそう答えた。
「…ごめん。アリシア。本当に…ごめんね」
ひどく罪悪感が湧いてきた。戦場で逢った時アリシアが嬉しそうだったのは、エルシーを同じ境遇の仲間だと思っていたからなのだろう。それなのにこちらは、アリシアを初めから疑ってかかっていた。
アリシアは最初から好意を示してくれていたのに、自分は彼女に突っかかるだけだった。本来なら宇宙で遭難しかけていたところを、助けてくれた礼を言わなければならなかったのに。
「な、何を急に言い出したの? 本当に熱でもあるんじゃ?」
そう言うとアリシアは、いきなりエルシーの額に手を当ててきた。
「うーん、熱はないみたいね」
「わ、私は大丈夫よ。ちょっと、ぼんやりしていただけで。行きましょう。紅茶が冷めるといけないから」
思わぬことに緊張しながら、エルシーは辛うじてそう答えた。アリシアの大きな翡翠色の瞳が目の前にある。綺麗だなとふと思った。
そして少し泣きたくなった。サンドフォード家の誰も、アリシアのような言葉はかけてくれなかった。
「えっと、どうせならケーキも食べない? 私がおごるから」
エルシーは僅かに涙が伝うのを感じながらアリシアに微笑みかけた。綺麗に笑えたのかは自信がなかったが、アリシアも嬉しそうに笑い返してきた。




