第七話 この無限の空間の永遠の沈黙は私に恐怖を起こさせる。
決意の旨をリストに話すと、彼は不器用ながらも邪悪な笑みを浮かばせて喜んでくれた。
本当にこの人は表情の作り方不が器用だと思う。
中身は鮫の様な人なのに、そのギャップがときたま可愛らしく感じる。
……本人の前では口が裂けても言えはしないが。
「とはいえ、彼と同じ場所に所属する人間として恥ずかしくない見た目は持ち合わせてないし、というか彼の外見偏差値限界突破しすぎててどうにかなるものじゃないし、……どうにかなる?」
「今は顔を作り変えることも容易に出来るそうだぞ」
「ええ……痛いのは嫌だなあ」
「ちょっとちょっと、お二人とも。なんてことを言うんです。いいですか、人は外見ではなく、中身です。中身の美しさがその人の存在を輝かせるのですよ」
JCCのもう一人のメンバーであり、この地元に住むウィンター夫人がぷりぷりと怒りながら、私達に珈琲を持ってきてくれた。
夫人はこの館の管理を受け持ってくれており、運営の手伝いもしてくれている。所謂管理人さんだ。
上品で優雅な振る舞いはまさに貴婦人の如し。確か今年で40手前になると言っていたが、まだまだ若々しく、見た目からはとても想像できない。
「冗談だ。顔を作り変えることはないぞ。そんなことはさせん」
「いいですか。真知子。人間の美しさというのは、身から出るもの。貴女は確かに内気で臆病ではありますが、人間性は極めて輝かしいものです。
こんな傍若無人の独裁者の言葉など聞き入れることはないのです」
「夫人よ、お前が俺の言葉を聞き入れたらどうなんだ」
ひくりと口元をひきつらせて、青筋をたてたリストをスルーして夫人は私の手を握り、まっすぐと力説してくれた。
私はそのまっすぐな目に照れてしまい、俯いてしまう。
「か、過大評価しすぎだと思う。私なんか、中身もどろどろのぐちゃぐちゃで、めんどくさいし、自分でも私とは関わりたくないし、友達になりたくないって思える程根暗だし……」
「そんな悲しいことを言わないで。私は真知子のことが大好きですし、お友達だと思っていますよ。真知子は年の離れた友人は嫌かしら」
「嫌じゃない! 光栄です。夫人にはいつも色んなこと教えてもらったし、感謝してる。ただ……、私はいつも呆れられて、面倒くさがられて、皆最後には離れて行ってしまったから」
その続きを言おうとしたら、リストがその大きな手で私の口を塞いだ。目の前に居る夫人も怒った様な表情で私を見ている。
「私達を舐めないでください、真知子。私は貴女を見捨てはしない。それに、その男は貴女が自分から離れようものなら、地の果てまで追ってくるでしょう」
口を塞がれているので答えることは出来ないが、手を当ててくるリストを見上げると、彼は夫人の言葉に肯定も否定もせず、ただ黙って私を見ていた。
そしてひとつ息を吐いて、手をはずした。
新しい空気を吸う。
夫人は満足げに笑った。
「さて……私はまだお会いしておりませんが、学生の方がこのセンターの新たな一員になるのですね。そして、真知子はその方と仲良くなりたいと」
「なかよく、というか、せめて普通にお話出来るようにはなりたい。私すぐに委縮しちゃって話せなくなっちゃうから。失礼だと思うし……」
「それならば練習しましょう。大丈夫。すぐにそうなれますよ。だって、私やリストには普通に話せているではないですか」
立ってください、と声をかけられ、私はおずおずと立ち上がる。
すう、と夫人は息を吸い、かっと目を見開いた。
「さあ! 真知子、背筋を伸ばして!!」
「うえ!? は、はい!」
「いいですか、いつも下を向いて歩いているから背筋が曲りがちで、自信無さげに見られてしまうんです。それに、人によっては真知子の言動は無愛想と取られてしまいますよ!」
「はい!」
「そして胸を張って! たとえ張るものが無くとも!」
「はい! ……張るものがない? 」
「顔は前を向いて、あら、前髪が少し目を隠してしまっているわ。リスト、散髪を!」
「俺に命令するな。真知子、少し上を向け。切りづらい」
「はい!」
「何より大事なのは、貴女の良さをもっと表に出すこと。憂いを帯びた様な、困った表情はひっこめて下さい。さ、笑って」
言われるがままに、口角を上げて笑ってみる。
するとリストに頬を引っ張られて、奇妙な声を発してしまった。
「違う。そうじゃない」
「いひゃい」
「今の顔はひきつった顔だ。笑んだんじゃない」
頬を引っ張っていた手が離され、そのままゆっくりと撫ぜられる。
「俺の前でなら笑えるだろう。自然に」
そう言われて、安心感が高まった。
おずおずとはにかむ様に笑ってみると、夫人も笑みを浮かべてくれた。
「合格だ。その阿呆面でいいんだよ」
夫人は素直じゃない人とリストを詰ると、リストがうるさいと照れていた。
この人はぶっきらぼうで皮肉屋だが、こういうところが優しいのだ。
二人の為にも頑張ろう、背筋を意識し、顔を上げて、胸を張る。
なんとなく上手くいきそうな気がしてきた。
すると、JCCの扉を開く音が聞こえた。きっと、彼だ。
慌てて、衣服の皺や乱れを直す。
部屋に入ってきたのはやはりカリムで、今度はきちんと靴も脱いできていた。
夫人がそっと私の背中を押した。
「あ、あの、こんにちは、お帰りなさい」
「……ここは俺の家じゃない」
「え? あ、えっと、その、JCCは家の様なものだから、その」
「リスト、少しお時間いいですか。話が」
カリムは私に目を向けることなく、私の前を通り過ぎて、珈琲を淹れなおしているリストの前に進んだ。
嫌な汗が、背中を伝った気がする。
既視感。
彼はもう私を見ておらず、背を向けている。
既視感。
私はただその背中を見て立ち尽くしている。
既視感。
「……JCCの行事予定? 何もそんなに急いで確認することはないだろう」
「いいえ、俺は極力必要なときにだけここへ立ち寄る様にしたい。家には妹も居る。まだ不安定な状態なんだ。あまり一人にしたくない」
「それはお前の事情だろう。俺は知らん」
「リスト」
「行事があるときはその時に発表する。急くな」
明らかに気分を害したのだろう、カリムの雰囲気が歪みを放った。
そんなカリムの前に、夫人が立った。
「こんにちは。お帰りなさい。カリムですね。私はウィンター。JCCの運営管理のお手伝いをしている地元の人間です。
お見知りおきを」
「カリム。前に話したもう一人のJCCのメンバー、ウィンター夫人だ」
夫人がカリムに握手として手を差し出している。
カリムは戸惑いなく、その手を握り返した。
「よろしくお願いします。カリムです」
「ええ、こちらこそ。そうそう。カリム、このJCCでは、訪れる人には基本的にお帰りなさいと声をかける様になっているんです。文化を否定しない、自由を重んじる館ですから?
どうか、ここは自身の家でないなんて、そんな野暮なことは言わないでくださいな」
「そうですか。わかりました」
あっさりと返事をしたカリムに、にっこりと上品に微笑み続ける夫人。冷たいものを感じるのは気のせいだろうか。
「リスト。先ほど、イベントの話はないと言っていましたが、今日はそのイベントの開催日程のお話が。なので、カリムにも手伝ってもらうことはたくさんありますよ」
「ほう。ならお前から説明しろ」
「ええ、今度の日曜に地元の方々を招いて、日本文化のベーシカルな部分を体験してもらいましょう。今回カリムさんも初めての参加ですし、ちょうどよかったと思います。
真知子にはいろいろたくさんのペーパークラフトを引き続き作っておいていただいて、サンプルとして皆さんにお見せしましょう。
カリムはまずは日本の基礎知識をリストに教わってもらって、」
「なぜ俺が、」
「リスト」
夫人が強めにリストの名前を呼ぶと、リストが私の顔を一度見た後、舌打ちで「了解した」と返事をした。
「それから、真知子にオリガミを教わってください。真知子はオリガミがとても上手ですから」
「えっ」
夫人は私を見て可愛らしくウィンクする。
慌てていると、カリムは淡々と「わかりました」と返事をした。
きっと、夫人は私にカリムとコミュニケーションをとる機会を与えてくれたのだろう。
おそらく、私の得意なことで、そしてあまり言葉を必要としないやり方で。
確かに、日本の基礎知識を彼に教授するのは私には難しいかもしれない。だからリストに任せたのだろう。
本当にいろいろと気を遣わせてしまっている。
ただ、不安なのは、カリムはこのJCCにやってきてから、一切私の方を見ないことである。
まるで、私がここに存在しないみたいに。私のことを無いものとしているみたいに。
被害妄想かもしれない。
ただ、この感覚はいつも私が味わってきたものだ。
”関わりたくない”
そんな感情が、ひしひしと伝わってくるのだ。
ぎゅ、と手を握りしめる。
だめだだめだ。まだ始まったばかりじゃないか。
挫けてはいけない。私はリストの期待に応えなくてはならないのだ。
頑張るって決めたんだから。
そんな私を、リストが少し眉を寄せてこちらを見ていた。
◆◆◆
リストは大学の会議へ行き、夫人は次のイベントの為の詳細確認で、地元の人たちに急きょ呼ばれてしまった。
夫人は、カリムと私と三人でペーパークラフトの作成を手伝ってくれると言っていたため、ひどく申し訳なさそうにしていた。
きっと大丈夫だと言ってくれたが、実際は、
「……」
「……」
全然、大丈夫じゃなかった。
とりあえず、折り紙の基本中の基本である鶴の折り方をたどたどしくも、簡単に説明したら、カリムはわかりにくい私の説明もすぐに理解して、簡単に完成させてしまった。
頭が良ければ要領もいいのだろう。
今はクラフトの形を見るだけで、どう折ればよいのかわかるらしく、一人で黙々と様々なクラフトを作り上げている。
よって、わたしの仕事は15分程で終わってしまった。
無限にも続くような、無言の空間が出来上がってしまった。
私は透明なペーパーを使って、ひたすら薔薇を折り続ける。
市の偉い人の一人に、日本文化に傾倒している人物が居るらしく、折り紙で出来た花束が欲しいと注文を前に受けたのだ。
その偉い人が次のイベントに来るらしく、私はそれまでに花束を何とか完成させなくてはならない。
もう薔薇の折り方は手に染みついてしまった。
気まずい。
いつものセンターが、センターじゃない。
カリムが居るというだけで、初めて来た場所の様だった。
何か、話題を探そう。
初対面の人間同士で交わす話題といえばなんだったか。
名前、年齢、出身地、そうだ。順を追って会話をしていこう。
「あ、あ、あ、あの……」
震える声で、カリムに声をかけると、気だるげにカリムがこちらを見た。
「真知子です」
「……知ってるが」
「え、えあ、あ、ですよね」
何を言っているんだ、こいつ。と黒真珠の目が言っている。
本当に頭のおかしい人に思われている。
「お、おいくつ?」
「さぁ」
さぁ!?
「え、あの年齢は、」
「……」
「い、いや。やっぱりいい。じゃあ、あの、ご出身は……」
「インド」
「アアアッ、そ、そうなんだー!」
「……」
「……」
会話の切り口が、全く思い浮かばない。
汗がだらだらと流れる。
なんで出身地で驚いたリアクションをとってしまったのか。何となく想像できたじゃん……肌の色とかで大体その辺りからなーとか当たりつけられるじゃん……。
いつのまにか手元の薔薇はいじりすぎによって、ぐしゃぐしゃの塵屑になってしまっていた。
仕方ないので、新しい紙を取り出した。
「インドでは、その、どんな暮らしをしてたの?」
その質問に、カリムの動きが止まった。
「JCCには色んな国籍の人が遊びに来てくれるんだけど、インドの人は初めてで……。や、やっぱりカレーとかすごく辛かったりするの? 他の国のカレーはカレーじゃない! 邪道だ! とか考えたり、するの?」
カリムが私を見た。今日ここに来てから初めてかもしれない
少しは興味を持ってくれたのだろうか。ほんの少し嬉しくなり言葉を紡いでいく。
インドのどこら辺で生まれたのか、生活スタイルはどんなものなのか、どんな文化が根付いているのか、人気の観光地はどこかなど、私にしては珍しくすらすらと疑問を口に出すことが出来た。
もともと、異文化に興味があったために、隠れていた好奇心が表に出てきたのかもしれない。
カリムは黙ったままだ。
しかし、私も子供のようにあれは? これは? と必死に尋ねていた為に、彼の変化に気づかなかった。
そして、私はこのとき調子に乗っていたことを、次の質問をしたことで、ものすごく後悔することになる。
「妹さんがいるって言ってたけど、二人でアメリカに来たの? ご家族は、心配しなかった? ……あ、そうだ。君の将来の夢は、」
「貴女は、さっきから何なんだ」
身体が、固まる。
声も出なくなった。
ひゅっと、息が止まる。
へたくそに浮かべていた笑みが、そのまま固まる。
「楽しいか? そうやってへらへら笑って、人の領域にずかずかと土足で踏み込んでくるのは」
「……え、あ……ご、ごめんなさ」
「無遠慮も大概にしろ。不愉快だ。何を勘違いしているのか知らないが、俺は貴女と仲良しごっこをするために此処に入ったんじゃない。
行事に関すること以外の最低限、俺に関わろうとしないでくれ」
……。
「……ごめんなさい」
俯いて、縮みこまり、手元の薔薇を折る作業に戻る。
でもおかしい。工程がわからない。あれ、薔薇ってどう折るんだっけ……。
手も震えている。胸も苦しい。風邪でも引いてしまったのだろうか。
おかしいな。
「そういうところが、いじめられる原因なんじゃないのか」
ぼそりと、呟かれた言葉が、私の耳に大きく響き渡った。
前かがみになって、下を向いて、元の木偶の坊に戻ってしまった。
そうか、彼はやはり知っていたのか。
私がこのJCCから出られない、外に踏み出そうとしない理由を。
私が、虐げられる側の人間だということを。
震えが止まらない。
彼がどんな目で私を見ているのかわかってしまい、怖くて怖くてたまらなかった。
何を浮かれていたのだ、私は。
自分の立場も弁えずに、馬鹿みたいに、何を。
「……」
また、沈黙。
沈黙が痛い。
先ほど感じていた既視感の正体がわかった。
憐みの目、関わりたくないという感情、私がそこに居ないものと目を逸らす。
全て、私の近くから離れて行った人達の最後の行動だった。
青薔薇は、折りかけのまま完成されなかった。
第七話 この無限の空間の永遠の沈黙は私に恐怖を起こさせる。
ブレーズ・パスカル『パンセ』より