第六話 臆病でためらいがちな人間にとって、一切は不可能である。なぜなら、一切が不可能なように見えるからだ。
「お兄様、JCCに入ったって、本当?」
JCCの一員になって、数日がたった。
あの忌まわしい出来事があって以来、オリヴィアは夜遊びに出かけることもなくなり、王族に提供されたアパルトマンで大人しく過ごす様になった。
リストが約束通り手をまわしてくれたのか、オリヴィアが何らかの被害を受けて帰宅することもない。
代わりにアパルトマンに戻るのが遅くなったのは俺の方だった。
今まで授業が終われば真っ直ぐ帰宅し、本を読んでいた兄の姿を見ていた妹のオリヴィアがその変化に気づかぬわけがなかった。
その結果、夜遅く戻った兄の俺を玄関で迎え入れ、その疑問を打ち払う為の問いかけを投げてきた。
「ああ」
特に隠すこともない。正直に答えると、オリヴィアは顔を真っ青にして、「どうして」と呟いた。
「異国の文化を学ぶのも悪くないと思っただけだよ。たいした理由じゃない」
「そういうことなら、別にJCCじゃなくたって、お兄様なら独学でも可能でしょう?」
「それこそ、キャンパス内にそういった施設があるのなら活用すればいい話じゃないのか」
「お兄様はJCCの噂を知らないの?」
「噂?」
オリヴィアは口をつぐんで、その先を言わない。
とにかく、今から夕食を作るからと家に上がる。後ろからオリヴィアが慌てて付いてくる足音が聞こえた。
「お兄様、異文化を学びたいなら、このオリヴィアが手伝います。だからどうか、JCCだけはやめて下さい」
「悪いが俺にも事情がある。そういう訳にはいかないよ」
「その事情とはあたしのお願いよりも守らねばならないことですか」
オリヴィアが見ていたのだろう、アメリカで人気のある有名な医療ドラマの音楽がリビングにむなしく流れる。
「JCCの噂とは、なんだ?」
「あたしの口からは言えません。だって、お兄様に嫌われるかもしれないもの……」
オリヴィアは俯く。しかし、そうだ、と思いついたようにその顔を上げた。
「キャンパスでは有名な噂ですから、明日ご学友にでもお聞き下さい。ただこれだけはどうか覚えておいて。
JCCなんかに入ったとヘイデン様に知られたら、きっとお怒りになるだろうということは」
彼女は怯えているのだ。この生活を失うことを。またあの侘しく、寒々しく、惨めな生活に戻ることを。
俺は悟った。オリヴィアはきっともう、昔のオリヴィアに戻りはしない。
妹もまた、俺と同じように、肥えた豚共から与えられる餌に飛びつくことしか出来ないのだ。
◆◆◆
JCCの噂とやらを耳にすることは容易だった。授業を受けていると、前に座る女生徒二人がこそこそと話をしているのが聞こえ、話題は俺が求めているものだった。
キャンパスに来てから間もないのか、まだまだ初々しさの抜けきれていない学生がJCCの話をしている。
「あたしさあ、日本のアニメとか漫画が好きだから、それに関係あるクラブに入会しようと思ってたんだよね~」
「へぇ~。でもあんた、コスプレを極めたいとかで結局ファッション関係の方に入ってたじゃん。確かこのキャンパス、日本文化を学ぶためのクラブかなんかあったでしょ? そっちの方が漫画とか好き人集まりそうなのに」
「あたしも最初はそっちに入るつもりだったんだけどさぁ、先輩からJCCはやめとけって言われちゃった」
「なんで?」
「すんげえ陰気で暗くて、この世の不幸を抱えたようなだっさい地味子ちゃんが棲んでんだって。あそこ」
授業に必要な項目をメモしつつ、耳だけは彼女らの会話に集中させる。
「住んでるって何。寮住まいじゃないの?」
「詳しいことはしんないけど、たぶんほら。あれ。……病んでるんじゃないの?」
「あ、ああ~……」
「授業に出ないらしいし、たぶんJCCで特別に先生に付いてもらってんでしょ」
「確かに、そういう子が居るなら入会はパスだね。なんか変に友達とか思われたら、鬱陶しそうだし」
「それもあるんだけど、その先生らしき人物ってのがまた怪しくってさ」
「怪しいってのは?」
学生は、友人の耳に口を近づけた。
「デキてるんじゃないかって。その根暗ちゃんと」
ペンを走らせていた手が止まった。
「ええ? なにそれ、アブナイ関係ってやつ? 泥沼じゃん」
「いつも一緒にいるらしいよ~? その教授が家に帰ってるところも見たって人もほんとに居ないらしいし。もしかして一緒に住んでんじゃないかな」
「やっだ~。乱れてる~。確かにそんなとこに割って入れないわね」
何故か、逸りだした心臓が痛い。
俺は何を動揺しているんだ。意味がわからない。
心なしか、ペンを掴んでいる手に力が籠る。
「それがマジなんじゃないかっていう根拠がまだあってさぁ。先輩曰く、その教授と学生って、数年前にこのキャンパスに突然どこからともなくやってきて、いつの間にか、その教授が主体になってJCCを設立してんの。つまり、二人で始めたJCCを今も二人きりで運営してんの。愛の巣としか思えないって」
「どこからともなくやってきてってもう訳わかんないんだけど。完全にデキてんじゃん。教師と根暗ちゃんの恋ってことは駆け落ちでもしたんじゃない?」
授業の終わりを告げるベルが鳴り始めた。
ベルを聞いて教師が今日の授業の終了を告げると、皆が後片付けを済ませ、次のクラスへ向かうべく次々に退出し始めた。
前に居た学生二人も、次の授業はもう無いのか、ランチの話をしながら行ってしまった。
俺は動けずにいた。
胸のわだかまりが取れず、正体不明のイライラが胸やけを引き起こす。
手に湿った感覚が染み渡る。
ペンが折れていた。インクで手が汚れている。
はあ、とひとつため息をついた。
オリヴィアがJCCをやめてくれと言ったのはこの噂が原因だろう。
確かに、そんな場所に俺が入会したと王族に知れれば、ただでは済まないだろう。
もしかしたら、ゼタとの婚約も切られるかもしらない。
しかし、オリヴィアの為にも今、約束を反故にするわけにもいかない。
なるべく、深入りはしないでおこう。
そうだ。JCCでは最低限のことだけ参加し、滞りなく責任を果たせばいい。
リストも、ただ居るだけでいいと言っていた。
あの女とリストが爛れた関係であろうと、そんなもの俺には関係ない。
気にする必要だってないのだ。
なのに何故、こんなに心臓が痛いのか。
どうしようもない不快感と、このイラつきは何なのか。
「くそ……」
鬱陶しくてかなわない。
◆◆◆
「リスト……ほんとうに、彼をセンターに入れるの?」
「何度同じ答えを聞いたら気が済むんだ。ああそうだ、奴は書類にもサインした。既に正式にJCCの仲間入りだ。いい加減しつこいぞ」
やはり変わらないリストの返答に項垂れる。
そうか、彼は頻繁にこの館へやって来ることになるのか。
どうしよう。もし二人きりになってしまったら何を話せばよいのだろう。
見たところ、彼は無口な様だし、私はこんな調子だし、息苦しい空間になるだろうことが簡単に想像出来てしまう。
そもそも何だって彼はJCCに入ってきたのだろう。不思議なくらい、この館にはイベントにやってくる地元の人たち以外、キャンパスの学生達は立ち寄らないし、近づきもしない。
そのことに助けられてはいるのだが。
あのカリムという人はキャンパスで圧倒的一位を誇る綺麗な人で、勉学についてもいつもトップ争いをしている人物だということは私でも知っている。きっと何もかも恵まれた人なのだ。そんな人がJCCに入るメリットとは何なのだろう。
実は日本大好きな人だったりするのだろうか。いやいや、それはない。それならば畳ぐらいわかる筈だ。ならば何故。
私の噂も、耳にしているはずだ。そんな人間と同じところに所属していると知られたら、周りからどんな目で見られるかわかるだろうに。
「そう思い詰めるな。大丈夫だ。成るようになる」
「そんなこと言ったって……。私と彼は何もかもが違いすぎる。彼はすごく綺麗な人で、私はこんなんで。リストはああは言ったけど、どうせ彼も私のことそこらへんの埃か塵かす程度にしか思ってない。
私は、リストと夫人以外の人とはまともに話せないし、うまく接することも出来ない。同じ空気を吸っていい人じゃないんだよ。住んでる世界が違うよ。上手くいきっこない。
彼はヒエラルキーの頂点で私はど底辺なんだよ……。お近づきになるのも申し訳ないし、土下座するレベルなんだよ……」
「勝手に悪い方向に想像を膨らませてしまうのは、お前の悪いところだぞ。真知子」
「ご、ごめん……。でも、本当のことだから……。私は彼に相応しくないの。
ごめんなさいリスト。私は貴方の期待には応えられない」
リストは一瞬悲しそうな表情を見せた。それに心がちくりと痛む。
窓際から降り、イベントに使用する大量のクラフト達を手渡す。
それらをリストは受け取り、私を見た。
「お前は、幸せになりたくないのか。外に出たくないのか」
「別に……私は今のままで、じゅうぶ」
「幸せになりたいだろう」
「……今のままでじゅ」
「なりたいだろう」
「あのリスト」
「なりたいな?」
「……」
何て人だ。その鷹の様に鋭い目で有無を言わせない。言わせようとしない。
暫く黙っていたが、その鋭い視線に耐えきれず、根負けして「はひ」と返事をしてしまった。
その返答に、満足げ、とまではいかないが、何故かほっとしたような顔をしてリストは私の頭を撫でた。
くしゃくしゃと髪が乱れる。
「少し庭に出たらどうだ? 今の時間帯なら学生達も授業中だ。外に出ている者はほとんどいない。人目に触れることもないだろう」
「本当?」
「俺は嘘はつかん」
「そうだね。そうだったね。ついでに水やりもしてくる」
◆◆◆
JCCには、そこまで大きくはないが、日本庭園がある。梅の木や桜が植えられており、季節ごとにその表情を変えて楽しませてくれる。
わびさびをリストなりに研究した結果、それなりに形にーー私も、日本庭園にそこまで詳しいという訳ではないがーーなっていると思われる。
池の鯉に餌をやり終え、水を入れたジョウロで草花に水を与える。
何となく、JCCの外を覗き見る。リストの言うとおり、皆今は授業中なのか誰一人外には居ない。
もう少し出ていても大丈夫だろうか。
桜の木の下が丁度いい影になっていたので、座り込む。
気温も適切で、ぽかぽかとしている。
すると、鳥やリス、鹿がどんどん集まってきた。
自然に囲まれた田舎の中にあるキャンパスの隣には森がある為、動物はたくさん居る。
鹿は滅多に見られないが、今日が運がいいのか、というよりも人間の姿が見えないからだろう、何頭かその姿を見せている。
膝に乗ってきたリスの背中を撫でると、リスは手にすり寄ってきた。
小鳥は桜の木に降り可愛らしく鳴き、鹿は私の傍で腰を下ろしていた。
大所帯になってしまったなあと笑う。
「あのね、私達の場所に、新しい人が入ってきたの。すごく綺麗で、かっこいい男の人。
リストはね、その男の人と私が結ばれれば、私は幸せになれるっていうの」
手に乗せたリスにそう言うと、当たり前だが怪訝な顔をした。
それでもいい。ただ私は誰かに聞いてほしかった。
「リストはいつも言ってた。私がいつか外に出られるようになって、普通に生活できる様になって、自由に、幸せになってほしいって。
私は今のままで十分幸せだし、ここで充実してるのに。
ここが好きなの。生きていくために必要なものも、それなりの娯楽だってあるし、することだってたくさんある。ご飯の支度とか、洗濯とか、勉強も、行事のお手伝いだって。
私はそれで十分だし、これ以上を望んだら贅沢って思う。
でも、たまに、本当に、たまに、私の中の何かが言うの。
外に出て、世界の一部になりたいって。もっとたくさんの景色を見て、自然の息吹や大地の暖かさを感じて、駆け回って、飛んで、感じたいって。
変な話だよね。私はそれを恐れて、ここに居るのに。
それでも私の中の何かが、せめぎ合うの。
私は外に出られなくていい。静かに、ここで、怖いものに触れず生きていたい。
世界の一部になれなくたっていい。
それも本心なのに。
リストは私を一番理解してるって言う。私もそう思うの。
不思議だよね。まるで、私より、私を知ってるみたい」
いつの間にか隣に寄って来ていた鹿が私の頬を慰めるように舐めた。
くすぐったくて笑っていると、私を呼ぶリストの声が聞こえた。
「……うん、うん。そうだね。きっと、大丈夫。リストが期待する様な関係にはなれないと思うけど、せめて、JCCの仲間として、」
私はリストがいる。リストは私を見捨てない。
リストはいつも私を守ってくれる。
「頑張ってみる」
彼の期待に、応えてあげたい。
第六話 臆病でためらいがちな人間にとって、一切は不可能である。なぜなら、一切が不可能なように見えるからだ。
ウォルター・スコットより