第四話 怒りの結果は、怒りの原因よりはるかに重大である。
カフェテリアで昼食をとっていると、視界の端で、気に食わない男が近づいてくるのが見えた。
にやつきそうになる口を、ハンバーガーを大量に口内に満たすことで防ぐ。
褐色の男、カリムがわかりやすく怒気を纏った雰囲気で俺の前で立ち止まった。
「どういうつもりだ」
怒りを抑えた声だったが、残念。抑え切れてはいない。
俺は白々しく、昨日とは逆転してカリムを見上げて、バーガーをもう一度口にしてから、「何の話だ」と答えた。
カリムは鋭い目を更にぎらつかせて、ばんとテーブルを叩いた。
突然の大きな音に何事かと周囲の注目が集まり、しんと静まり返る。
「とぼけるんじゃない」
「おいおい、此処が何処か見境もないのか? カフェテリアで、周りはみんな食事中だ。空気を読めよ」
「昨夜のパーティーで、お前らはオリヴィアに何をした」
口答えは許さないと言いたいのだろう。
肩を竦め、俺も立ち上がり、此処じゃなんだから別の場所へ移動しようと促す。カリムは俺をじっと睨んだままだったが提案を受け入れた。
いつものすかした表情が余裕なく歪んでいる。
愉快極まりない。
◆◆◆
人の群れから離れた場所、カリム達と話していた昨日の庭に案内し、自分で言うのもなんだが、とぼけた様に問う。
「で? お前の妹に何かしたっていうのは?」
「昨夜、お前たちの余興から、塵屑や生ごみに塗れてオリヴィアが泣きながら帰ってきた。衣服もぼろぼろに、無残にあちこち破り捨てられて、震えていた」
「おいおい、俺たちは暴力をふるった訳じゃないぜ」
「だったら何をしていた」
「儀式だよ」
顔をしかめるカリム。
この男は俺とは対照的に、積極的に何処かに所属して人と関わることはしない。
だからこそ俺の言っている意味がわからないのだろう。
形勢逆転。
「お前の妹、…ああ、名前はなんだったかな。確かオリーブみたいな名前だ」
「オリヴィアだ」
「そう、オリヴィア。オリヴィアは前々から、我らがTCOに入会したがっていたんだ。ダイアナに何度も何度も頼み込んでいたよ。
彼女が入会したがるのは無理はない。TCOに入れば、将来エリートの道に進むための繋がりやコネがあるからな。
まあそのオリヴィアにだ、ダイアナがチャンスを与えたんだよ。本来は純潔のアメリカ人しか入れないTCOに入会する、な」
カリムは俺を睨み続けている。
「そのチャンスをオリヴィアは受け入れ、昨日TCOのクラブハウスで行われたパーティーに参加した。
そこで、TCOに入るための儀式を彼女に受けてもらった。それだけだ。以上」
「何が儀式だ。あんなもの辱めだ。見せしめにすぎない」
「馬鹿にされては困る。選ばれし人間として生きていくには困難がつきものだ。そんなちんけなテストすらクリアできなくって、選ばれし人間などなれるものか。
TCOはただの社交クラブじゃないんだ。優秀な人間だけが集まる、いわば世界を担う可能性のある者達の為の組織だ。
彼女はその一員になりたいと言ってテストを受けた。それで、ピーピーと”お兄様”に泣きついているようでは、たかが知れている」
いつも澄ました顔の男が、拳を強く握り、今にも俺に襲い掛からんとするのを必死に食い止めているのが見て感じ取れた。
愉快、愉快、愉快!
「オリヴィアをそんなくだらない集まりに入らせはしない」
「おいおい、馬鹿言うなよ。もう儀式は始まったんだ。まだまだ見極めの期間なんだよ」
「知ったことか。儀式だかなんだか知らないが、俺の妹を巻き込むんじゃない」
人差し指をカリムに向け、次に自分を指した。
「それを決めるのはお前じゃない。TCOのリーダーである、この、アレックス・オーウェンだ。いいか、部外者は黙ってろ。
先に首を突っ込んできたのは、身分を弁えなかったお前の愚かな妹だ」
ははっと嘲笑うと、カリムは先ほどから握り続けていた拳を俺に振りかざそうと腕を上げたが、ぴた、と不自然に止まった。まるで、何かに押し留められたかの様に。
その表情は、戸惑いと焦りに満ちている。
そのまま暴力を振るってくると思っていた俺は、拍子抜けした。
そうか、こいつは。
「何だ。腰抜け。口では大きいことをいっておいて、ここぞのときに行動には移せないのか?」
氷の様に身体を硬直させたカリムの隣に立ち、肩をぽんぽんと二度叩いてやる。まるで長年の相棒に接する様に。
カリムは振り上げていた腕をゆっくりと、諦念を感じさせながらだらんと降ろした。
「毎日泣き崩れて帰ってくる可愛い可愛い妹を、慰めてやるんだな。”お兄様”」
◆◆◆
一人になった庭で、自分の手を見つめる。固く握りこんでいた為か、手の平には爪による傷で、少し血が出ていた。
もう一度握りしめると、じわじわと傷みが広がり、不快感で埋め尽くされる。
そのまま立ち尽くしていると、突然、後ろから声がかかった。
「殴らなくてよかったのか。俺はてっきり喧嘩沙汰になると思っていたぞ」
振り向くと、仕立ての良いスーツを着た、銀髪の男が、壁にもたれかかって、醜悪な笑みを浮かべ、こちらを見つめていた。
男は病的な程に白い肌と、そして猛禽類の如く、鋭い眼差しをしており、どこか人間離れした雰囲気を放っている。
銀髪の男は、煙草を取出し、火を点けた。数秒の沈黙のもとで、彼は煙草の煙を堪能し、ふうと、白い煙と共に息を吐き出した、
「いや、実際に殴ろうとはしていたのか。結局はお前の内にある何かに抑えつけられた様だがな」
「……貴方は?」
「俺はリスト。キャンパスの遠い離れ、隅に追いやられたJCCの館長をしてる」
「JCC?」
また、何かのくだらない学生クラブだろうか。
しかしJCCとは聞いたことがない。キャンパス内にある施設の館長、というからには、大学の関係者であることは間違いない筈なのだが。
リストと名乗った男は、煙草を銜えながら口元に笑みを浮かべている。
全てを見透かされているみたいだ。ただでさえ不快感で苛立っているのに、更に気分が悪くなってくる。
「お前の妹も不幸なものだ。とんでもない輩に足を掬われてしまったな。あのアレックスとかいう青二才、外見だけが優れ、中身は汚物にも勝る男の先導する組織だ。碌なことにならんぞ。
もっとも、奴の言うとおり、儀式とやらを辞退するのもまあ不可能だろうな。アレックスが許したとして、周りの人間はそうはいかんだろう。
学生クラブというのは意外にも権力がある。なんせ、大学側が学生に運営を丸投げしている。何か問題が起こったとしても、見て見ぬフリ、臭いものには蓋をしろ、という風に責任逃れが出来るからな」
「それは貴方にも言えるのではないですか」
そう愚弄の言葉を吐く貴方も、この学び舎の運営者の一人なのだろうと吐き捨てると、男はにんまりと歯を見せて笑った、
何が面白くてそのような歪な笑いが出来るのか。昔オリヴィアに読み聞かせた絵本の猫の様な笑みを思い出させた。
気味が悪い。
早く立ち去って、オリヴィアの元へ向かおう。こうしている間にも彼女は非道な者達に辱められているかもしれない。
軽く礼をして、学生寮の方へ足を向け、不気味な教員に背を向けると、またも声をかけられる。
「諦めるのか? 可愛い可愛い、妹を救うことを」
足を止めざるを得なかった。
「……だったら、どうすればいいんです。貴方もさっき言ったでしょう。妹を救いだすのは不可能だと。助けを求めたとしても、大学側は見て見ぬフリをするのだと」
「俺ならば可能だ」
「何を」
「くだらん学生どもの粋がった遊びを、権力という暴力で抑えつけることが、だ」
息を止める。
この男は今何と言った?
少しでも食いついてしまった俺の目を見て、リストはまた不適に笑った。
「藁にもすがる思いなんだろう。どうだ? 会ったばかりの、そしていかにもな男の手を取ってみるのも一興だぞ」
「キャンパスの隅に追いやられている人が、どうしてそんな自信に溢れた応えが出来るんです」
「いいか。どんな組織にも権力者は居るが、そこには必ず裏で組織を操る真の権力者が存在する。真の権力者はその姿を表に出しはしない。表舞台に出ることで、人の目という縛りを受けてしまうから。
裏に溶け込むことのなんと厳かなことか。なんと強力なものか。力を振るいたいときに振るえども、人々はその存在を知らぬが故に、否定も批判も出来ない。それは真なる権力だ」
「それが貴方だと」
「好きに取るがいい。俺の手を取るか否か、それを決めるのもお前だ」
「条件は」
リストが一瞬笑みを止める。すぐに元のニヒルさを取り戻すも、俺は見逃さなかった。
この男は、この機会を利用して、俺に”何か”をさせようとしている。
「話が早くて結構。お前にはJCCの一員になってもらう。心配するな。儀式なんぞくだらんものはない。お前はただ、JCCに留まってくれたらいい」
「さっきから、そのJCCとはいったいどんな学生クラブなんです」
「学生クラブ? ははは! なんだそれは。奴らの組織と同じ類のものだと思っていたのか? 安心しろ。異文化を体験する館、とでも思ってくれたらいい。
詳細については、JCCを実際に訪れてから説明してやる」
JCCが何たる組織であるかは、俺がイエスと言わない限り説明する気はないのだろう。
上手いように言っているが、このリストという男も、アレックスのことは言えないぐらいに何か鼻持ちならない存在感を放っている。そんな男が支配しているという館なのだ。
アレックスのTCOと同じくらい、あるいはそれ以上に碌でもないものである可能性も拭いきれない。
ただ何故なのか、この男が紛れもない権力者であることだけは信用出来た。
「さて、俺はお前に問うたぞ。まだ答えを聞いてはいない。
悪いが、俺はかなり短気だ。返事は後日、などとは言ってくれるな。イエスかノーか、今、お前が決めろ」
ただ何故なのか、この男が紛れもなく、俺が今まで持ち得なかった選択権を与えていることだけは、わかったのだ。
俺はリストの問いに、一言返事をした。
答えを聞いたリストは更に笑みを深める。
「明日の14時、キャンパスの外れにある、草木に囲まれた館の前に来い。地図は自分で確認するなりしろ。決して遅れてくれるな」
煙草の匂いを空気に漂わせ、リストは去って行った。
第四話 怒りの結果は、怒りの原因よりはるかに重大である。
マルクス・アウレリウス『自省録』より