第二話 キスをするときに、目を閉じない女を信用するな。
「ようこそ。カリム。今日も美しいわね」
ひらひらと透ける、下着同然の衣服を身に纏った扇情的な女に部屋へ招かれる。こちらにと誘うその手は汚れひとつなく、指先は紅に染められている。
女の手を取り、部屋へ足を踏み入れると、女はは俺の首にその細腕を絡ませてくる。
頬を撫でられ、熱い吐息を間近に感じた。
「アナタのその彫刻の様な美しさはまさに奇跡だわ。神様からの贈り物ね。本当に、私に相応しい。ふふ」
「ええ。貴女の隣に立ち、貴女の美しさに辱めを受けることのないのは、この世で俺しかいないでしょう」
そう言うと、我が婚約者であり、飼い主であるゼタは満足げに、うっとりと、しかし不適に笑みを浮かべた。
きちんと切り揃えられた黒髪はさらさらと指通りがよく、ぷっくりとした唇は指先と同じく赤い紅が塗られている。
この女の父親は、娘を現代のクレオパトラだと表現したことがある。それはあながち間違いではないだろう。
ゼタは生まれながらの女王である。女王は全てを所有し、欲しいものがあればどんな手を使ってでも手に入れるのだ。
ゼタは女王の本質を全て兼ね備えていた。
「ねえ、カリム。何か欲しいものはないかしら。私、アナタが望むなら何だってあげる。お金でも、宝石でも、土地でも。前にあげた家はもう飽きたでしょ? もっと豪華なものを用意させましょうか。なんなら、今すぐにでも此処に住めばいいわ」
華奢な身体を抱きしめる。柔らかい体は戸惑った様子も見せず、俺の頭の髪を厭らしく撫ぜた。
「何も要りません。貴女以外、必要ありません」
模範解答。
腕の中の女は俺の言葉を聞いてくすくすと笑いだす。まるで、俺がそう答えるとわかっていた様に。
「そうよね。私以外何も要らないわよね。ふふふ。いい子ね、カリム。ほんとうにいい子。」
香を纏った女の髪に顔を埋める。
きっとこの女は、俺がどんな表情で睦言を交わしているのか気づいているのだろう。
砂を吐くような甘い言葉を並べたところで、それらがただの愛の言葉ではないことも、わかっているのだろう。
そうだ。俺にはこの女しかいない。この女が居なければ、もう生きてはいけないのだ。
そんな諦念を、ゼタという女王は楽しんでいる。
「今日、俺がここに呼ばれたのはどういった御用です?」
「用があるのは私じゃないわ。今日はパパがアナタに会って話したいことがあるんだそうよ」
「ヘイデン様が俺に?」
「ええ。私達の結婚の準備にやっと重い腰を上げてくれたのかしらね。パパは執務室に居るわ。行ってきて」
ゼタから身体を離し、礼をして背を向ける。
ドアノブに手をかけると、背中にゼタが飛びついてきた。
何事か、と後ろを振り向くと、唇に柔らかい感触が広がる。角度を変えて、ときには潤いを交えて、そのまましばらく、唇を交わした。
ゼタはわざと音を立てて唇を離すと、不敵に笑みを浮かべて俺の首筋をなぞった。
「パパとの話が終わったら、もう一度ここへ。……ね?」
誘いを断る権利を俺は持ち合わせておらず、大人しく頷くと、ゼタは満足げに笑った。
◆◆◆
ゼタの父親、ヘイデンは、この国の王族の中でも一二を争う権力者である。
的確で確実な、時に冷酷ともいえる判断力は彼の財力を増幅させ、元々恵まれていた彼の人生をこれでもかと溢れんばかりに潤わせた。
しかし、デスクに突っ伏してえぐえぐと泣き言を言い、何度もちり紙を取って鼻を拭い続けるこの男がヘイデン本人であると言うことを、誰が信じるのだろうか。
「なにゆえ……なにゆえ、私の可愛い可愛いゼタは貴様の様な見てくれだけの男を見初めてしまったのか。なんということだ……ああ、ゼタ……私の天使……」
鼻声で念仏の如く恨み言を綴り、机に項垂れ、どんよりとした空気を漂わせている。
その姿は威厳も何もなく、愛娘を溺愛するただの父親の姿だった。
「それも、よりによって下位カーストの男を結婚相手に選ぶなんて。美しい男が欲しかったのなら、もっとゼタに相応しい身分の男で最上級の美しさを兼ね備えた人物を世界中探させたのに」
「俺をここに御呼びになられたのはどういったご用件です。御養父様」
「まだ貴様をゼタの婿には認めていない! 口を慎みたまえ!」
「俺をここに御呼びになられたのはどういったご用件です。……ヘイデン様」
ヘイデンは舌打ちをすると、こちらになんらかの紙面を差し出した。しかし、直接手渡しするのが嫌だったのか、そのまま投げ捨ててしまい、イライラを掻き消すためなのか葉巻に火をつけた。
床に散らばった書類を拾い上げ、中身を軽く眺める。
「字は流石にもう読めるな?」
「はい」
「そこに書かれている通りだ。貴様にはアメリカに留学してもらう」
「アメリカ」
「アメリカといっても、最東部の田舎だ」
外の世界。海を渡った、その向こう。
「貴様はその卑しい生まれのお蔭で、一般的な常識も、知識も教養も圧倒的に足りていない。最近になってやっと字が読める様になったなど、恥以外の何物でもないのだ。
もし、貴様が本気でこの家に入りたいのなら、王族に成りたいのなら、私のゼタと結婚したいのなら、アメリカに行き、全てにおいてパーフェクトを達成しろ。妥協は許さん。一点のミスすらも、私は認めない。
完璧を掴め。一番を成せ。
自身の生まれを晒すようなこともしてくれるな。勿論、王族の婚約者であるなど吹聴もするな。ゼタの婚約者として認めるかどうかは、貴様がこの条件を達成できるかどうかにかかっている」
「わかりました。全てを完璧に、一番に、何事においても欠けることなく成せば、俺は貴方の養息として、在れるのですね」
「気に食わん話だが、私も悪ではない。娘の望むことは何だって叶えてやりたいし、叶えてやるつもりだ。たとえそれが、私の人生の汚点に成りうることだとしてもな」
「ご安心を。失望はさせません。ところで、俺がアメリカに行っている間、妹と父はどうなります」
「妹は連れていけばいい。嫁ぎに出せないにしても、最低限教養は身に着けておいてもらわねば困る。父親は知らん。酒でも女でもなんでも与えてやるから、あの家から極力出させるな。あの様に堕落したロクデナシの男など見たくもないし、関わりたくない。口にしただけでも吐き気がする」
「ご厚意感謝いたします。妹も喜びます」
感謝の辞を述べながら頭を下げると、葉巻の煙を吹き掛けられる。
顔を上げると、そこには氷柱の如く鋭く目を光らせる王、ヘイデンの姿があった。
「いいか、若造。
海の向こうに行ったとして、我らの目が傍に無いと思ってくれるな。
貴様はゼタのものだ。ゼタの所有物だ。ゼタの飼い犬だ。
妙な気を起こすなよ。自由がそこにあると思うな。
そのことを常に、胸の中にしまっておけ」
◆◆◆
ヘイデンの部屋を出て、誰も居ない物置部屋へと真っ直ぐ向かう。誰も立ち寄ることのない、忘れられた部屋。
電気は点かず、埃っぽく暗い部屋で立ち尽くす。
「ふっ、ふ、ふはは、はは、はははは!!」
顔を隠し、笑いをこらえていたが、抑えきることは叶わなかった。
笑いが止まらない。あの男は何を言っているのだ。
そうだ、あの男はこのカリムのことを何も理解していない。
わかろうともしないのだろう。だがそれでいい。
見ていろ。何も持ち得ない、汚濁にまみれた世界に生まれ落ちた卑しい子供がいつか貴様の喉を食らい、全てを手に入れるぞ。
富も名誉も、食糧も、女も、家族も、全て、全て、全て!
「俺には何もない。俺は伽藍だ。俺は空だ。俺は飢えた獣だ。
だからこそ、貴様の持ち得る全ての財産をいつか喰らい尽くし、俺を満たしてやる。
欲に埋もれた獣め。見ていろ。見ているがいい」
俺はいつか、自分だけのものを手に入れてやる。
◆◆◆
開けていた窓から水滴がぽつぽつと入り込んだ。薔薇を折る手を止めて、窓から空を見上げる。さっきまで真っ青に晴れていたのに、淀んだ暗い雲がこちらに向かっていた。
「ひと雨くるな」
銀色の髪を持つ男が、私の背後から窓の外を覗き呟いた。午後に洗濯物を干す予定が崩れたと不貞腐れている。
天気予報でも今日は一日中晴れだと言ってたのに、突然の雨雲だ。
ふと、前に受けた英米文学の授業で、この物語での天気の移り変わりは登場人物の気持ちを表しているのだと勉強したのを思い出した。
「雨が中に入るからさっさと窓を閉めろ。湿気のじめじめとした匂いが部屋に染みついでもしたらたまったもんじゃない」
「うん。今閉めた。雨の匂いってなんか独特だよね。私もあんまり好きじゃないや」
窓を閉めてからしばらくすると、雨音共に水滴がたくさん窓に当たり始めた。
もしも、あの本の様に、この雨が誰かの心象を表しているのだとしたら。
「真知子、珈琲を淹れるからカップを出せ」
「三人分?」
「夫人はこの雨で遅れるだろう。とりあえず二人分でいい」
きっとその人は、今、どうしようもない程に泣きたいのだろう。
第二話 キスをするときに、目を閉じない女を信用するな。
H・J・ブラウンより