第二十話 恋は多く人生の苦痛を包むオブラートなり。
私は臆病で、弱虫で、うじうじとして、肝心なときに一歩を踏み出すことが出来ない。
これが生まれつきなのか、いつからこうなってしまったのか、私は覚えてない。
いつも誰かの機嫌を損ねて、不興を買っていた。
私はずっとひとりぼっちで、こうして惨めに生きていくんだなと、思っていた。
誰も、私のことなんて気に留めず、好きにならず、私はただ息をして生きて行かねばならないのだと。
それでも、昔から、夢の国のお伽噺を読んで、いつか、誰かがきっとと、夢を見ていた。
この世界のどこかに居る誰かが、こんな私を見つけて、傍にいてくれるんだと。
私は恵まれてる。
だって、リストや、夫人や、カリムに出逢えた。こんな私の傍にいてくれた優しい人たち。
でも、お伽噺の最後には、いつだって魔法は解けてしまう
長い間、私は魔法にかけられていたのだ。
それこそ、私には勿体ないぐらいの期間を。
だから、きっと、今この瞬間が、私にかけられた魔法が消えてしまうその時なのだろうなと、わかった。
「やあ、マチコ。迎えに来たよ。さあ、パーティーを楽しもうじゃないか」
パーティーの当日、予告通り、十九時半調度に、アレックスとダイアナ、そしていつもダイアナと一緒に居る女の子達がJCCにやってきた。
私は着飾ることもなく、いつも通り夫人と過ごしていた。リストは朝からどこかへ出かけていて居ない。夫人曰く絶対に外せない用事があるのだと言っていた。
ダイアナは私の姿を見て、眉を寄せるが、それも一瞬で美しい笑顔を繕った。
「私、行かないって、言いました」
声を振り絞って、JCCに踏み込んできたアレックスに告げる。
アレックスは無邪気に笑って、JCCの外に控えていた厭らしい笑みを浮かべる若者達を呼んだ。
彼らは土足でJCCに入り込み、私の周りを囲む。
「お前の意見なんか聞いてないんだよ。イエローモンキー」
アレックスはすっと笑みを消して、私を連れ出すようにこの男の人たちに命じた。
後ろで夫人が怒った声で、叫んでいる。それと同時に暴れる音と、男達の悲鳴が聞こえた。
「あなたたち、恥を知りなさい! 真知子に怪我をさせたらただじゃおかないから!!」
「うぐおっ! ちょ、この女強え! 妙な技使いやがんぐう!!」
「お、抑えろ抑えろ! この人数なら抑えこめる! あがっ」
「真知子! 何かあったら全力で逃げるんですよ!! いいですね!」
夫人は会得している合気道で男達を投げ倒しているが、私だって夫人にけがをしてほしくない。それを伝えようと後ろを振り返るも屈強な男の背中に阻まれて叶わない。
そして私の前を歩く、アレックスが無情に言い放った。
「JCCに閉じ込めろ。パーティーが終わるまで絶対にあの女を出すんじゃないぞ。それに見張りもつけとけ。しつこい様なら女と気にせず殴って黙らせろ。だあいじょうぶ。俺が親父に頼んでもみ消してもらうから」
「や、やめて! 夫人には何もしないで。お願い」
私の訴えを聞いたアレックスは嫌らしく笑って、私に条件を言い渡した。
「だったら、パーティーの間、絶対に逃げる様なマネはするなよ? お前が主役なんだから、お前が居ないと意味がないだろ?
それを守ったら、とりあえずあの女性には手を加えないでやる」
その条件に、私はただ頷くことしかできなかった。
大丈夫。だって、前にはこんなこと毎日のようにあったじゃないか。
私なら大丈夫。だって、慣れてる。
虐げられるのは仕方ない。だって、私はそういう存在なんだから。
諦めて大人しくしておくべきなんだから。
……あれ。それを教えてくれたのは、誰だったっけ。
◆◆◆
TCOのクラブハウスのホールはネオンが輝き、中から大音量の音楽が外に漏れ出している。重低音が響き渡る。外からでも中で皆がパーティーを楽しんでいることがわかる。
乱暴に腕を掴まれ、中に連れられると、そこには大勢の人が派手な恰好をして、ダンスをしたり、飲み交わしたりして陽気に楽しんでいる。
私達がハウスに入ってきたことに気づくと、皆が私の名前を呼んで歓声を上げる。おかしい、だってどの人とも私は面識はないのに、何故そうも親しげに駆け寄ってくるのか。
もみくちゃになりそうになるのを、アレックスが手を上げて皆を制止した。
「やあ皆、パーティーを楽しんでるか?」
アレックスが煽るように叫ぶと、皆がその煽りに応え雄叫びを上げる。ライブ会場の様だった。
そして私の腕を彼が強く掴み、ホールの真ん中にある階段のところまで引っ張って、私をそこに立たせた。
「主役は遅れて登場するとはこのことだ。みんなお待ちかねだったろう! 今夜の主役である真知子だ!!」
つんざくような歓声が上がる。私は多くの視線に耐えきれずに階段を下りようとするも、少し下に居るアレックスが私の前に立ちふさがり、阻まれる。
「どうした? 照れることはない。TCOの一員として相応しくありたいと思うなら、自信を持てばいい。
あのカリムと付き合っていた女なんだ。儀式だって容易にモノにできるだろ?」
「テスト……? 待って、私、TCOに入りたいなんて一言も」
「皆、どうか彼女が日本人だからと言って、手加減することはない。何故なら、彼女は我々と同じ、優秀な白人の血を持つ者と同等でありたいという強い想いの下に此処にやって来たんだ。
その想いを無駄にしてはいけない。俺達は誠意をもって、彼女を審査し、もてなすんだ」
そして、全員がにやにやと笑って、一斉に食べ物や飲み物やガラクタをその手にかざす。
「さあ、皆、彼女が我々の仲間に相応しいか儀式をしよう。乾杯!!」
人の悪意が、怖い。
私はいつだって、それを受ける側だったから。
数々の食べ物や飲み物が遠慮もなく、私に投げつけられた。
ひっきりなしにモノが飛んでくるので、私は上手く立っていられない。
床に滴るジュースに足を滑らせて転んでしまい、立ち上がることもままならなくなる。
大きく固い果物が頭にぶつけられ、ふらふらする。
笑い声は絶えない。
私は動けない。
頭の中で、何か映像がフラッシュバックする。
大勢の民衆が私を見て笑っている。私にありとあらゆるものを投げつけ、笑っている。
縛られ、動けない。
手がガクガクと震える。
嫌だ。怖い。
人が怖くて、怖くてたまらない。
もうやめてよ。どうして私がこんな目にあうの? 私が貴方たちに何をしたっていうの?
「おい! アジア女!」
うっすらと目を開けると、金髪の男が厭らしい笑みを浮かべて私を見下ろしている。
そして投げつけられるトマト。まるで血の様に滴った。
「お前らみたいな下等人種は生きてるだけで迷惑なんだ。生きている価値もない。お前らに与える酸素すら勿体ない。
見ろ。誰がお前を必要としてる? 誰がお前を助けようとする?
そうさ。いいか、価値のない人間はせめて俺達の嗜好品として働くべきだ。
感謝しろよ。俺達は役割をわざわざ与えてやってるんだ。
誰もお前なんか好きになる訳ないだろ!」
息が止まる。
おかしいな。何度も何度も言われてきた言葉で、慣れていたと思っていたのに。
今は、抉られる様に痛い。
新たに投げられた果実の汁が目に入り、目を覆う。
そしてまた笑いが怒り、次々とものが投げられ、冷たいジュースをだばだばと掛けられる。
私は目を覆ったまま、身体が硬直して、動けなかった。
震えも無い。
まるで、石になったみたいだった。
「ねえ、アレックス。この子全然動かなくなっちゃったわよ。泣いてんじゃないの?」
「ピクリともしないんだけど」
「何だよ、おい。ちょっとは反応しろよ。つまんねーだろ」
ぼやけた視界に、上等な革靴が目に入り、次にきらきらとした青い瞳が私を覗き込んだ。
アレックスは私の前髪を思い切り掴み、揺さぶった。
「何寝たフリしてんだよ。ほら!!」
片頬を思い切り殴られ、私は抵抗する気力もなく、横に倒れる。
じんじんと頬が熱い。
アレックスは倒れた私の首元に足をかけ、ぐっと力を入れた。
首が圧迫されて苦しい。
「前か……気に入ら……かったん……よ。お前が。
カリムがJCCなん……に入ってから随……抜けになりやがった。
……他人なんかどうでも……すかした態度……傲……奴だった。
だからこ……合う価値があったってい……、あいつは妙に柔……色の悪い雰……りやがって。
……も俺はあいつに勝てない。……に俺が劣るだなんて虫唾が走る。
……せいだ。お……をより惨めにさせたんだ。
責任……お前は一……奴隷として……もらう。
劣った人種とーーーーーー!!」
最後は、何も聞こえなくなった。
足が振り上げられるのがわかった。このまま喉を潰されてしまうかもしれない。
痛いのかな。もしかしたら死ぬかも。
首の大事なところに骨が入って、それで。
これで楽になれたりするのかな。
一生目覚めることのない夢を、見られたりするのかなぁ。
一度魔法を味わってしまったら、それが解けたとき、なんて絶望だろう。
どうしてお伽噺のお姫様たちは、そのことに耐えることが出来たんだろう。
ああ、そっか。
魔法が解けても、隣に大好きな人が居るからだ。
靄がかかったような音が、止んだ。静かになった。
私はぎゅっと目をつぶっていたが、衝撃はいつまでたっても来ない。
代わりに、上で、戸惑う様に足がどけられたのが微かにわかった。
そしてこちらに向かってくる、何か。
目は開けられず、何も見えない。真っ暗だ。耳もほとんど聞こえない。何もわからない。無音。
怖い。
私の目の前に誰かが屈みこみ、こちらに手を向けてくるのが空気でわかり、思わずびくつく。
縮み困って、触れられるのを拒否する。
まるで芋虫のように、石のように、目を閉じ、耳を塞ぎ、全てを閉ざした。
しかし、全てを塞ぐ私の手に、暖かい手がゆっくりと触れた。
涙が、出た。
だって、見えなくても、聞こえなくてもわかる。
まさかとは、思った。
でも、私はこの手の暖かさを知っている。わからない筈がない。
現実から目を逸らして都合の良い夢を見ているのだろうか。
しかし、その人物は私の身体をそっと起き上がらせ、軽々と子供を抱える様に持ち上げた。
手足が動かず、まるで私は人形の様にその人に身体を預けるしか出来ない。
私の頬を撫ぜる手が優しくて涙が止まらない。
もしかして、私は死んだのか。
打ち所が悪くて、すっかりお陀仏して、それで、それで。
初めて、神様に感謝したくなった。
その人に触れられた瞬間、耳が微かに音を捉える様になり、目も瞬きを繰り返すことで、視界がぼんやりとだが見えてきた。
そして、やっと、私を抱える人の顔を、ちゃんと見ることが出来た。
「かりむ……」
声は霞んで、自分でも聞き取れないぐらい小さなものだったが、カリムは私を見て、笑ってくれた。
どうしてここに居るの。どうしてここがわかったの。どうして、戻ってきてくれたの。
色々聞きたいことがある。でも、力が抜けて、何も言いだせなかった。
「……カリム、お前、帰ってきたのか。いや、もういい。そんなことはどうでもいい。
その女を寄越せ。そいつの儀式はまだ終わってない。始まってすらいないんだ」
「断る。真知子は俺のものだ」
「おいおい。冗談言うなよ。まさか、本気じゃないだろ。アジア系だぞ」
「アレックス。俺は心底お前に同情するよ」
「……あ?」
カリムは私をぎゅっと抱えて、私の顔についた果実やジュース、血を拭う。
「以前、お前に言ったな。俺とお前は根本的に違っていると」
「……」
「そうさ。根本的に違う。だって、お前は生まれながらに全て持っているじゃないか。富も名誉も、名声も、権力も、裕福な家庭も、誇り高い両親も。
俺は、お前と真逆だ。何も、何も持っていなかった。奪い、奪われるだけの、毎日だった。
お前は想像もつかないだろう。
毎日ごみ溜めの中から食べものを漁り、人に金や物を乞い、あしらわれ、自身に定められたカーストが最低というだけで厭われ、無視され、そこに居るというだけで迫害される生活を。
父親に、道具として扱われ、自分の身体を切り売りすることでしか生き抜くことが出来なかった、毎日を。
お前に初めて会ったとき、羨ましかった。妬ましくてたまらなかった。
なぜ、人はかくも平等ではないのか。なぜお前はそんなにも恵まれていて、なぜ俺はただ奪われるだけなのか。
だから、俺はお前には一生適わない。
でも、もうそんなことはどうでもいい」
私を抱く手が、きつく、でも優しかった。
カリムが私をその黒曜石の瞳で見た。
「俺は、その人生があったおかげで、唯一の存在に出逢えた。
俺は、俺だけのものを手に入れることが出来た。
それはどれだけの富や名誉よりも、ずっと価値あるものだ」
その選択がどんな結末を招くのか、どんな運命を辿ることになるか、この人はよくわかっている筈なのに。
「アレックス。お前は恵まれているよ。
恵まれているからこそ、その貴重さを理解できない。
だから、お前は、これから先、本当に大事なものを見つけても、それが大事だと気づくことができない。
人の形をした、ただの野獣だ。
成り立ちは違えど、俺もかつてそうだった。……それは本当に悲しいことだ。
だから、同情する。俺はお前が、いつかそのことに気づいてくれることを願っているよ」
カリムはアレックス達に背を向け、扉に向かって歩き出した。
それを呼び止める、苛立ちと憎悪に満ちた声。
立ち止まり、カリムは後ろを振り向く。
「ふざけるな。ふざけるな! お前が、お前なんかが、俺に同情するだと!?
俺を見下げるなよ。カリム、俺に逆らうとどうなるとわかってるのか?
ただじゃすまないぞ。俺の親父がお前をこの世に居られなくしてやる。
社会的に殺してやる!」
「俺は、とっくに社会的に死んだ人間だ。今まで、運が良すぎた位なんだから」
アレックスの挑発をものともせず、カリムは再び歩みを進めるが、突然、ああそうだと思いだしたかの様に、カリムはアレックスの方に向かっていく。
そして、その長い足でアレックスの顔を蹴り上げた。
突然のことで油断していたのか、アレックスはものの見事に吹っ飛び、無様に血を這うことになった。
ダイアナやアレックスの取り巻きが彼に駆け寄り、カリムに怒号を浴びせる。
しかし、カリムのただならぬ雰囲気に彼らは怖気づき、手を出すことが出来ない。
「俺のものに傷をつけたんだ。……殺されなかっただけマシだと思え」
低く、重い声は私も聞いたことのないものだった。
しかし、私がそれに驚いて震えたのがわかると、カリムはすぐに踵を返して、私に「ごめん」と小さく謝った。
私達が去っていくのを数人の男達が止めようと飛び掛かってきたが、その時、私達を避けてたくさんの鳥がクラブハウスに入り込んできた。
色とりどりの鳥たちに襲われて、ハウスで余興を楽しんでいた人たちが混乱して悲鳴を上げる。
足元をすり抜けて、兎やリスも中へと入りこんで彼らは自由にクラブハウスを蹂躙する。見覚えのある顔がちらほらと居る。
果ては、大きな鹿も現れ、若者達が大きな悲鳴を上げる。隣の森に居る雄鹿だ。鹿は慰める様に私の頬を撫で、中で暴れる動物達と同じ様に混乱を誘った。
カリムはその騒ぎの内に、私を連れて外に出て行った。
第二十話 恋は多く人生の苦痛を包むオブラートなり。
国木田独歩より




