第十九話 そなたのために、たとえ世界を失うことがあっても、世界のためにそなたを失いたくない。
休日、JCCでは午前のイベントを無事こなし、片付けを済ませたあと、いつも通り各々の時間を過ごしていた。
各々といっても、ゲストが帰ると、このJCCに居るのはもはや三人しかおらず、キャンパスの学生がこの館に立ち寄ることもない。
夫人はキッチンで、趣味である料理という名の科学実験の腕を磨きーー最近は日本料理を中心に修行中らしいーー、俺は珈琲を飲みながら途中まで読んでいた本の続きを読む。
俺の居る位置からは、真知子の姿が目に入る。
真知子もまた、いつもの窓際に座り、窓の向こうを見つめながらぼんやりとしている。
その手に例の赤い薔薇の折り紙を握りながら。
阿呆な女だ。いつも通りの行動をして、いつも通りの顔をして、いつも通りの日常を過ごしている風に見せかけているつもりなのだろう。
だが、俺や夫人にそれがわからぬ筈がない。
そうとわかっていつつも、真知子の行動に合わせている俺達もまた、阿呆だが。
再び本に目を落としたとき、JCCの扉が開かれる音がした。
靴を脱いだ音がしない。そのまま戸惑いなく上り込むその音から傲慢な気配がする。
夫人が手を拭って、玄関に向かっていく。
このJCCに寄り付く学生は居ないに等しい。
視界に移る真知子がまるで猫の様にびくつき、慌てて俺の近くに駆け寄り、俺の背後に隠れた。
夫人と男の声がする。声がこの部屋に近づいてくるのがわかった。
現れたのは、このキャンパスを取り仕切る権力の権化である、全てを持ち得る男、アレックス・オーウェンだった。
後ろに居る真知子が大きく震えたのが伝わってくる
アレックスは靴も脱がず、JCCの中を物珍しそうに、眺めたおしている。
俺は真知子を隠すように立ち上がり、アレックスの後ろで呆れた顔をして立っている夫人に、日本語で話した。
「夫人、この招かざる客に靴を脱ぐ様言ったか?」
「すぐに出て行くからいちいち脱ぐ必要はないと仰いまして」
「成程、郷に入らば郷に従え。それを理解しようともせん男だな」
突如異国語で話し出した俺達に対して、少しも気にする素振りも見せず、アレックスはズボンのポケットに突っこんでいた手を俺に差し出した。
「初めまして。貴方がこの館の長であるリスト教授ですね。お噂はかねがね耳にしていますよ。
俺はアレックス。よろしくお願いします」
企みを持つ人間の目をしている。
手を差し、軽く握手を交わす、。
夫人がアレックスの為に茶を用意したのかーー用意せずともよいのにーー彼に差し出す。
アレックスはどうもと礼を言って、茶を口に含むと顔を歪め、そしてファンタは無いかと夫人に要求していた。夫人が笑顔ながらも青筋を立てているのが目に見えてわかる。それにしても、何と自由な男だ。
「人気者は忙しいだろうに。わざわざこんなところまで何の用だ」
「ちょっと、このクラブに所属している学生に話がありまして。
今日は居ないんですか。あの、ほら、日本人の女の子ですよ。ええとアヤコだったかな?」
「真知子だ」
「ああ、そうそうそんな名前だ。彼女は今どこに?」
アレックスはわざとらしくJCCの中を見渡す。微妙に口角が上がっている。
俺の後ろに震えている真知子が居るのをわかっていてやっているのだろう。
しかし中々出てこない真知子に待ちくたびれたのかーー人のことは言えないが随分短気な男だーー、俺の後ろを覗きこみ、真知子の姿を捕えた。
「ああ! こんなところに居るとは。全然気づかなかったよ、かくれんぼが得意だなあ、マチコ」
「……」
仕方なしにおずおずと出てきた真知子の表情たるや。
まるで苦虫を潰した様だった。
しかしアレックスは気に介さず、真知子の腕を強引に掴んで、人の良さそうな顔をする。
「マチコ。話したいことがあるんだ。ちょっと外に出ないか? なに、数分で終わる」
「で、でも、わた、わたし、」
「真知子は今から私と買い物に行く予定なんです。急ぎなので、ここで手短にお話しを終えていただけませんか」
怯える真知子をアレックスと二人きりにはさせまいと、夫人が助け舟を出す。
アレックスはそうなのか? という目で真知子を見ると、真知子は全力で首を上下に振った。
もちろん、そんな予定はない。
「まあ、それなら。真知子、今度我がクラブTCOでパーティーがあるんだ。
良かったら君も来ないか。今日はそのパーティーに誘いに来たんだよ」
「……でも、貴方のクラブは、アジア系はだめだって聞いたことが」
「ああ! 君は特別だ。なんてったってあのカリムの彼女なんだろう。俺はカリムの友人でね。
あいつから、自分が帰国して君が寂しい想いをしているだろうから慰めてやってくれと頼まれたんだ。その思いを汲んで、君の為にわざわざ俺が企画したパーティーなんだよ。
だからこのパーティーが君が主役だ。……おおっと! これはサプライズだったのに、俺としたことが口を滑らせてしまった」
「ご、ごめんなさい。私、カリムの彼女じゃ」
「おいおいまさか断るなんて言わないよな? 俺達TCOは君を歓迎すると言ってるんだ。君を我がクラブへ迎え入れると。
何を不満に思うことがある? 皆が入りたがるフラタニティの一員に、君がなれるんだ」
アレックスは断りを入れようとする真知子を幾度も遮り、満面の笑みを浮かべた。
真知子を慰めるパーティーなのだから、そこまで気負わなくてもいいし、ラフな格好で来てくれたらいいと言うアレックスは、はた目からみたら親切で優しく、紳士的な学生ととられてもおかしくはないだろう。
だがその腹の中には何を隠しているのか。
あれほどの選民意識を隠さず演説をこなしてみせた男が、まるで人が変わった様に、もっとも忌み嫌っているはずの人種である真知子をこのように歓迎する筈がない。
大方、予想はついていた。
こいつは食い物にする気なのだ。真知子を、パーティーでのひとつの余興の一環として。
「パーティーは2週間後だ。夜の八時から始まるから、三十分前には迎えに来る。
きちんと用意しておいてくれ。それじゃあ」
アレックスは俺に目配せをして、夫人にも気障っぽくウィンクをし、そのまま立ち去って行った。
目の前で怯え震える真知子の背中が痛々しい。
床には奴が残した靴の泥がこびりついている。
聖域を犯す不届き者の匂いが、纏わりついてしまった。
それを見て、感じて、俺は気づいた。
そうか、もうここに留まる理由は、どこにもないのか、と。
◆◆◆
アレックスが突如JCCにやってきてから数時間が経った。真知子とリストは何も言葉を発さない。外の人間である私でも、アレックスのことはよく知っている。
完全なる白人主義を主張し続ける議員の息子であり、彼もまた父と同じように選民の意思を掲げる一人。
彼の紡ぐ言葉は、国の人間が心の内に秘めている感情をあぶり出し、それが恥ずかしいことでなく、正しいことだと、自身に協調意識を持たせる。
しかし、アレックスや彼の父親が主張する世界は、独裁的で、かつてのドイツの支配者の言葉を彷彿とさせる。
犠牲の上に成り立つ社会を良しとする人間だった。
未だ、アレックスが現れ、突然のパーティーの誘いに混乱しているのか、真知子は窓際でせわしなく手元の折り紙でよくわからないものを生産しつづけている。
私はそんな真知子の前に屈んで手を取り、言葉を紡ぐ。
「真知子、まさかあの学生の言う通り、パーティーに行くなどとは言いませんよね? 私でも彼のことは知っているわ。
外見は良くても、彼の中身は、人間の醜さが凝縮されたもの。カリムとは違う人間です。彼があの人と友人である筈がありません。
あんな誘いに乗ってはいけない。貴方が居なければ成り立たないだなんて、あんな脅しの様な言葉、きっと何か裏がある筈」
「アレックス(奴)に、裏のないものは在り得はしないぞ。夫人」
「リスト! 貴方からも何とか真知子に言ってくださ」
「真知子。荷物を纏めろ。今すぐに。この国を出るぞ」
一瞬、この男が何を言ったのか理解できなかった。
リストは机の上にあるものを手当たり次第、必要なものを鞄にいれ、要らぬものは戸惑うことなくゴミ箱に入れている。
前から決まっていた旅の準備をするがごとく、迷いのない動作だった。
しかし、リストの言葉に困惑しているのは私だけではなく、真知子もまた目を丸くしてリストを見ていた。
私はリストの前まで急ぎ足で駆け寄り、作業を続けるリストに詰め寄る。
「今、何と言いましたか。リスト」
「この国を出るから荷物を纏めろと言った。夫人も手伝ってやれ。そいつは荷造りが苦手だ」
「い、いきなり何を言い出すんです!」
リストはいつも何を考えているかわからないが、今はもっとわからなかった。
いくらなんでも突拍子すぎる。
理由を問うと、リストはただ「もうこの国に留まっている理由はない」とだけ答えた。
リストは机の上のものを全て片付けてしまい、戸惑いを隠せないでいる真知子に近づいた。そして窓際に座る真知子の前に屈んで彼女の手を取り、見上げた。
「真知子。次の国に行こう。もう俺達がこの国に居る意味も、理由もない。俺はお前が晒し者になるのを見過ごすつもりはない」
「……次の、国?」
真知子が不思議そうな顔をして呟くのを見て、リストが顔を歪める。眉を寄せ、悲しみに耐える表情だった。リストのそんな顔を見るのは私も初めてで、真知子もまたそんな彼のただならぬ様子に心配そうにしている。
「頼む」
振り絞るような声で、リストが真知子に懇願する。
低く重いリストの声が部屋に虚しく響いた。
リストは縋る様にして、真知子の手をぎゅっと、閉じ込める様に握りこんでいる。真知子を見つめる目は、どこまでも深く、彼女を貫かんとする程だった。
真知子もまた、リストの目を見つめ返して、そして俯いた。
リストに包まれた手の中にある赤薔薇を見透かすように。
しばらくの沈黙の後、真知子がゆっくりと顔を上げて、そして小さな声で、リストに応えた。
「ご、ごめんなさい」
「真知子」
「ごめんなさい。リスト。私、ここから、離れたくない。ここに居たい」
真知子は自分の意思を訴え、まっすぐにリストを見た。
声は小さいけれども、はっきりと自分の想いを告げた。
いままで一度も、リストの言うことに反対することのなかった、最初こそは反対すれども、最後には従順にしていたあの真知子が、初めて意見したのだ。
その姿を見て、リストは珍しく目を見開くも、彼もまた譲れないという風に立ち上がり、真知子の両肩を強く掴んだ。
「真知子、頼むから。居場所ならまた俺が作ってやる。だから!」
「そうじゃない! そ、そうじゃないの。私は、居場所とか、そういうんじゃない。ただ、」
真知子が、手の中に在る赤い薔薇を見つめた。
「ごめんなさい。本当に、ごめんなさいリスト。でも、どうしても、これだけは譲りたくない。
私を置いて行ってもいいから。ごめんなさい」
自身の両肩を掴むリストの手をやんわりと退かせ、真知子はそのままJCCの庭に出て行ってしまった。
リストはそこから動くことなく、ただ真知子が居た空間を見つめていた。
彼もわかっている筈だ。わからない筈がない。誰よりも真知子を理解している彼が。
『リストが居るのなら』と言って、どこへでも彼に着いていった真知子が、リストと離れることになったとしてもこの場所に留まりたいという執着を、何故JCCに抱くのかなんて、彼にわからない筈がないのだ。
二人きりになった空間はとてつもなく重苦しい。居心地のいいJCCはどこへ行ってしまったのか、
私は重いため息をつく。
「いったい、どうしたというんです? 貴方らしくもない。いくら真知子が貴方に信頼を置いていたとしても、突然あんなことを言われたら、真知子だって戸惑います。リスト、何をそんなに焦っているの」
「……今度真知子が、人の悪意に呑まれるようなことがあれば、もうJCCの外に出られないなんて話では済まなくなる。
今までは近くに支えがあった。だが今はもうそれが無い。だからこそ、朽ちるのは早い。
当然、何があっても真知子はこのJCCを離れることを良しとしないだろう。そうさ、何があったとしても、離れることが出来なくなるんだ」
目の前の男が、何を言わんとしているのか、わからない。
「……、リスト。貴方、何か真知子や私に隠していることがあるんじゃないですか?」
リストはそれに何も答えない。それは肯定ともいえる。
私は、リストと真知子がなぜ共にあるのか、何故いつも二人は一緒なのか、事情は知っていても、その過程は知らない。
リストと真知子は、時にちぐはくだ。時に何かが噛みあっていない。
真知子が自分のことで知らないことをリストが知っていたり、先ほどの様に、二人が共有している筈の思い出をリストが語り、しかし真知子は疑問符を浮かべていることも幾度かあった。
そのたびに、苦しそうな顔をするリストを、私は知っている。
彼は何か一人で抱え、秘匿している。
しかし、私にそれを暴く様なマネは許されない。私がJCCにやってきて、リストに与えられた役割の中に、それは含まれていない。
そういう約束なのだから。
しばしの無言の後、リストが私の方を振り向いていつもの様に指示を出した。
「真知子の荷物を纏めておいてくれ」
「無理やり、引きずってでも連れて行くおつもりですか?」
「今すぐじゃない。そうなるとしたら、……パーティーの後だ」
「まさか! 真知子がそんなものに参加する筈がないでしょう」
「あいつにその意思がなくとも、周りはそれを許さない。それこそ、アレックス達が無理やり引きずってでも、JCCから連れ出すさ」
「それを私達で止めるんです」
「学生の力は民衆の力と同等だ。民衆の力は剣の如く。どうせ大勢でやってくる。俺達だけで止められはしない。前もって阻止するにしても、時間が足りない。いくら裏で手を回せども、間に合わない」
「それなら、しばらく真知子をどこかへ隠しましょう。なんなら私の家にでも」
「あいつは意地でもここを離れん。外へ連れて行くと言えば、俺に無理やり海外へ連れ出されると考えてしまうだろうしな。
……ただまあ、このまま黙って見ているつもりはないさ」
何故、そう淡々としているのか。リストの目は暗く濁り、彼の姿は勢いを失った鮫の様だった。
実際にどうなるのかはわからない。ただ、彼の反応を見て、次に真知子に何かあれば、彼女にとってただならぬことが起きるのであろうことは彼の反応を見てわかった。
彼女に何か起こりうるというのであれば、パーティー前に彼女をここではないどこかへ連れ出すべきだという考えに私も至る。
だが、そうすることをリストは良しとしなかった。
その理由を、リストが苦しげに語った。
真知子が、己に初めて意思を表し、その決意を揺らげんとした。
俺はその意思を汲まねばならない。蔑ろにしてはならない。拒否してはならないのだと。
私は今まで、真知子がリストに従順とし、彼女がリストという鳥籠に囚われているのだと思っていた。
だが、それは違った。
実際は、真知子という鳥を籠に閉じ込めることで守り続けていたリストこそが、真知子と言う存在に囚われていたのだ。
第十九話 そなたのために、たとえ世界を失うことがあっても、世界のためにそなたを失いたくない。
ジョージ・ゴードン・バイロンより




