第一話 希望がなくなると、絶望する必要もなくなる。
早朝であるにも関わらず、蒸し蒸しする熱さだ。そういえば、そろそろ雨季に入ると店主が言っていた。
頬を滴る汗を拭うことなく、空になった瓶を無心で箱に詰めていく。
微々たる給料だが、このご時世、仕事があるだけいい方だ。路頭に迷うよりましである。
詰め終えた箱を店内に運び終わり、水汲みの仕事を始めるころには、町の人間も覚醒し、皆が外に出て仕事を始めていた。
外を動き回る人間が増えたため、砂埃があちこちで起こる。先ほどの静けさはどこへ行ったのか。
何をさぼっているのかと店主に怒られる前にさっさと水汲みを終わらせよう。
慌ただしい道路をよたよたと歩く。
途中寄ってくる物乞いをやんわりと避けるが、子供はしつこいのが多い。
適当に追い払っていると、目の前に現れたこじんまりとした家ーーしかし非常に質の良さそうな家であるーーから、ひとりの若者が出てくるのが見えた。
若者は家の前の階段を下りて、まっすぐこちらに歩いてくる。
彼の知り合いでもないので、言葉を交わすこともないが、隣を通った際、ちらりと彼の顔を盗み見る。
この若者はこの町一番、いや、もしかしするとこの国一番の美貌を持つ男である。
太陽に愛された褐色の肌に、すらりとしながらも程よく鍛えらえた身体、艶を放つ黒髪、黒曜石のような色に鋭さを放つ瞳。鼻筋もすっと通っており、薄い唇は少女の様だった。
絵画に描かれている様な男だった。
表情が無いに等しいのが玉に瑕と言いたいところだが、その無表情すらも彼の美しさを引き立たせている。
彼の登場により、町の人間たちはざわめき始める。
色めきと、中傷、そして妬み。
俺は勿論、町の人間は噂を好む。
神に愛された容姿を持つ男、名をカリム。
全てに恵まれている様だったが、そうではなかった。
カーストが重視されるこの国において、彼の身分は最下層だった。
誰もが、その身分には触れようともしない。不浄の存在とされているからだ。
仕事にありつくのも容易ではない。どれだけ容姿が優れていようとも、全うな仕事に就くことなど出来ない。
そこらで野たれ死んでいる者達を見るのもそう珍しくない。その体が拾い上げられることもないからである。
そんな身分に生まれ育った彼がなぜ、あの様な、ほどほどにーー少なくとも自分の家よりはーー立派な家を持つことが出来たのか。
王族に”買われた”のだ。
彼はその美しさを王族の娘に見初められ、”買われた”のだ。
それから、彼の生活は一変したのだろう。家を与えられ、家族も十分に養える様になった。
まさにシンデレラストーリーだろう。
しかしカリムは喜ばしい顔をしない。いつも町を歩く際、無表情だ。つまらなそうな顔だ。
町の人間は嫉妬する。奴は、生まれ持ったその美しさで王族を誑し込んだのだ。
町の人間は愚弄する。奴は、富を貰い受けて当然だと思うから、あの様に傲岸不遜なのだと。
俺はなんとなく、水を汲みに行くのを止めてカリムの後を追った。
カリムは今から、王族の娘の元へ向かうのだろう。この先は富裕層の住宅街に繋がる道だ。
スラムと住宅街を隔てる壁の門は、国の許可が無ければ自分達があちら側に行くことは叶わない。
彼の後をついていけるのはそこまでだ。
カリムは途中、物乞いの醜い老女に話しかけられていた。
どこで手に入れたのか、あるいは盗んだのか、この町では珍しい、美しく咲き誇る一輪の真っ赤な薔薇をカリムに買わないかと差し出した。
きっと想い人も喜ぶよと老女はカリムに勧めるが、カリムは何も持っていないからと首を振っていた。
……あの男は何を言っているんだろう。
今のカリムなら、なんだって手に入れることが出来る筈。一輪の薔薇すらも買えないなど、在り得ないだろう。
カリムの言葉を聞いていた周りの人間も同じことを考えたのだろう。訝しげな視線がカリムに集まっている。
しかし、カリムはその視線を振り切って足を進めた。
いつの間にか、赤い薔薇を持つ醜い老女は消えていた。
第一話 希望がなくなると、絶望する必要もなくなる。
セネカ『メディア』より