第十八話 恋に狂うとは言葉が重複している。恋とはすでに狂気なのだ。
ああ、なんとここは汚泥に満ちた世界であるか。
空港に到着すると、ヘイデンの使者が俺達を待ち構えていた。攫うように荷物を取られ、いかにも高級なベンツに押し込められる。
誘拐の様だと思いながら、外の景色を眺める。
アメリカとは違う、己と同じ色を持つ肌の人間が大勢忙しなく生活している。活気のよい市場を通り抜ける際、信号で足止めを食らう。その際、視界の端に物乞いの女子供が観光客に絡んでいるのが目に入った。
軽くあしらわれ、女と子供は肩を降ろしてすごすごと下がる。その様子を町の人々は冷たい目で見つめていた。
市民は親子に何か怒号を飛ばし、塵などを投げつけている。
二人は慌てて、奥にある荒んだ暗い通りに入っていった。
その光景に、かつての幼いころの自分を思い出した。
あのときの自分はどうしていただろう。己に科せられた地位に抗えず、そこに在るべきではないという目で毎日見られていた気がする。
醜悪で、残酷で、惨めな己の世界に日々絶望し、そして諦めていた。
信号が青に代わり、車が動き出す。
じゃあ今の自分は何なのだ。俺は、今、過去の自分に打ち勝ち、希望に満ちているのだろうか。
今から歩む未来は確かに、幸福に満ち溢れている筈なのに、何故そんなことを考えてしまうのだろう。
◆◆◆
車から降りると、目の前には豪華絢爛なヘイデンの邸がある。オリヴィアは邸を見て嬉しそうにはしゃぎまわっている。
妹は喜び勇んで、邸へと向かっていったが、俺は足取りが重くて仕方がなかった。
俺達の到着をヘイデンの執事が重厚なデザインの扉の前で待ち構えていた。
そして中へと俺達を招き入れる。
執事が、俺達がアメリカに行く前に過ごしていた家は既に売りに出しており、これからはこの邸で暮らすようにとヘイデンから仰せつかっていると言った。
そんな話は聞いておらず、俺は眉を寄せる。
オリヴィアは喜び勇んで、自分の部屋はどこかと執事に尋ねている。執事はメイドを呼び、オリヴィアを案内するようにと指示している。
「カリム様はゼタ様と同じお部屋にと。……ご案内は必要ですか?」
「いや、いい。自分で行く」
自分で運ぶと言って、執事から荷物を受け取り、ゼタの部屋に足を向けると、俺とオリヴィアの名を呼ぶ、聞きなれた声が二階の踊り場から聞こえた。
「おお、おお、カリム、オリヴィア! よく帰ってきてくれた。アメリカは楽しかったか?」
「とうさ、お父さま!」
オリヴィアが荷物を投げ出して、小太りの男に嬉しそうに抱きつく。男もまたオリヴィアを抱きしめ、再会の喜びに酔いしれている。
俺はその場から動かず、二人の様子を下から見ていた。
男は下品に笑いながら、オリヴィアの腰を抱いて、俺の元まで近寄る。
執事は養豚場の豚を見る様な目で、男を一瞥した後、礼をしてその場を離れた。
男はしゃくりを上げながら、演技のかかった声で語る。
「カリムよ。長い間の厳しい勤め、ご苦労だった。何でもアメリカでは大変優秀な成績を収め、評判も高かったそうじゃないか。
いやいや、字も読めんかったお前がなあ。んふふ。父は誇り高いぞ」
バシンと音を立てて、思い切り俺の背中を叩く男からは、酒と、安い香水の匂いが染みついていた。
息をする度に酒気を帯びた匂いが辺りに充満し、不快感を誘った。
身体も、以前よりだらしなく脂肪がまとわりつき、服から肉がはみ出ているのが見える。
脂ぎった手がオリヴィアの腰を厭らしく撫でている。オリヴィアは気にしていない様だったが、俺がその手を強引に振り払うと、父は眉を寄せ、機嫌を損ねたのがわかった。
「なんだ? お前、それが育ててやった父親にとる態度か? ん?」
「もう、お兄様ったら。久しぶりに家族が全員揃ったんだから喧嘩は止めて。ねえお父さま。あたし、お父さまにお話ししたいことがたくさんあるのよ」
「おおそうかそうか。カリム、お前もオリヴィアを見習え。いくら頭が優秀でも、心根がその様に腐っていては人間として駄目だ。
いいか、親には感謝しろ。そして育ててもらった恩を返すのだ」
反吐が出る。お前を父親と思ったことはない。
そう吐き捨ててやりたかった。
昔から、俺を道具としてしか扱ってこなかったこの男を、どうして父と言えるのだろうか。
「ああそうだ。ヘイデン様にきちんとご挨拶しておけよ。なんせ我らの未来を輝きで満たしてくれる、神様のようなお人なんだから。
もちろん、お前の美しく、扇情的な奥方、ゼタ様にも。いやいや、俺もぜひ一度ゼタ様に、カリムの父としてご挨拶させていただきたいものだ」
そう発言する男の表情はこの上なく下品で、わかりやすい程に下心に満ち溢れたものだった。
下種め。この男の血が俺の体内にも流れているのだと考えると体中を掻き毟りたくなる。
「オリヴィア。今日は部屋でもう休むんだ。いいな」
「え? でもあたし、お父さまにお話ししたいことが」
「明日にしろ。……そいつはまだ自室に用事がある様だからな」
「そいつとは親に向かって何と言う言い草だ、カリム!」
「早く戻れよ。あんたの安い愛人達が迎えにきたぞ」
二階からこちらを覗き見下ろすのは、肌の露出が多い品のない布のような服を着た、化粧の濃い3人の女だった。
男の名を呼び、まだ戻ってこないのかと虫唾が走る程甘ったるい声で男を誘っている。
男は満面の笑みですぐに戻ると返事をして、オリヴィアにまた後でなと声をかけた。
オリヴィアは無邪気に頷いて、二階の女たちの元へと駆け上がっていく男を見送った。
「あらぁ? あれ、もしかしてアナタの息子さん? ……ちょっと、すごく美青年じゃない。紹介してよ」
「なにィ? 俺というものがありながら、欲張りな女だ。そんな悪い子にはこうしてやる!」
「やだ! ちょっと、こんなところで変なとこ触らないで頂戴」
「それにしても似てないわねぇ。本当に血は繋がってるの?」
「正真正銘俺の子だ。あいつは母親似なんだよ。
さ、部屋に戻って遊びの続きをしようじゃないか」
完全に姿が見えなくなり、俺もゼタの部屋へと足を向ける。
後ろからオリヴィアから声を掛けられる。振り向くと、オリヴィアが満面の笑みで俺に言った。
「お兄様。あたし達、これで本当に幸せになれるわね」
俺は、何も答えることが出来なかった。
◆◆◆
ゼタの部屋を訪れたが、どこかに遊びに出ているのか、彼女の姿は見えなかった。
なんとなく、胸の重りが下りた様な気分で、荷物を置き、彼女の父親であるヘイデンの部屋に向かった。
久しぶりに見るこの重厚な扉はやはり威圧感を感じさせる。おそらくこれからも、慣れることなどありはしないだろう。
ノックすると、入れとテノールの声で返事が返ってきた。
扉を開くと、目の前にヘイデンが仁王立ちで待ち構えており、思わず身を引くと、首を掴まれ、部屋の中へ投げ飛ばされた。
なんという男だ。そこそこにいい年をしている筈なのに、まだそんな体力があるのか。
床に投げ飛ばされ、ゆっくりと上半身を起こすと、後ろから嗅ぎ慣れた香水の匂いと柔らかい腕に包まれた。
「パパったらひどいわね。帰ってきてそうそう、私の旦那様を投げるなんて。手荒にも程があるわ。カリム、怪我は? まさか顔に傷なんてついていないわよね?」
「ゼタ……」
後ろを振り向くと、妖艶な笑みを浮かべたゼタが俺を包み込み、毒の様に甘い声で俺の身を案じた。
その眼は爛々としており、口調とは裏腹に余裕たるものだった。
「すまないね。ゼタ。しかし、私は裏切りと嘘を許さん性質でな。さて、カリム。よく帰ってきてくれたな。
お前の功績はよく耳にしている。私の後継者として、まあ、認めてもいいだろうと多少は思うぐらいに。
しかし、ひとつ確認しておかねばならないことがある」
ヘイデンが俺の前に片膝をつき、俺の前髪を掴んで強引に目を合わせさせた。目の前に聳える双眼はまるで、獅子の様に鋭いものだ。
「さて、何故私がこうして苛立ち、怒っているかわかるかね? 私が早期に帰国する様指示を出したのは、あの電話の内容が全ての理由だけとは思ってはいないだろう?
……これについて、説明してもらう為だ」
上等な服の懐から、男は数枚の写真を取出し、俺の上に翳し落とした。
頭上から落とされた写真がひらひらと舞い、表を向いた写真が足元に着地する。
その写真に写されていたものを見て、思わず息を止めた。
「クラブの行事というのは、どこぞの馬の骨ともわからん女との旅行をすることか? 随分と楽しそうじゃないか、カリム」
なぜ。なぜ、お前がそこに居るんだ。
思わず写真に手を伸ばし、指先で触れる。
そこには、まだ記憶に新しい鮮やかな青の着物を着て、はにかんだ笑みを浮かべている真知子と、俺の姿があった。
後ろに居るゼタが俺の首に絡まる様に、腕を回し、俺の耳元で甘く低い声を響かせる。
「ひどいわよねえパパ。私というものがありながら、こっそりこんな女に現を抜かしていたなんて。私本当に悲しくなるわ」
「ああ、ゼタ。私の愛しく可愛い娘よ。そんなに気を沈めるな。お前は誰よりも魅力的な娘だよ。この男はどうかしていたんだ。
そうだろう、カリム。
貴様は、私が、本当にただお前をアメリカに送り、野放しにしておくと思ったのか? 言っただろう。我らの目がいつもお前を見ていると。
飼い犬を首輪もつけずに自由に散歩させる飼い主がどこに居る」
指先で触れていた写真をヘイデンがするりと抜き取る。そして俺の目の前に翳し、煽るように揺らした。
「そこでとっておきの首輪を用意しておいたんだ。貴様にとって傍に在ることが当然である人物に、貴様の行動を全て見張らせ、事細かく報告させていた。
……出てきなさい」
部屋の暗がりから、その人物は戸惑う様な足取りで、俺達の居る明るみの方へ現れた。
その姿を見て、自分の中の何かが無残に砕かれることになる。
「……オリヴィア? なぜ、」
「お、お兄様が悪いのよ。あんな、あんな女に、日本人の女にすっかり入れ込むから。
あたし達は幸せにならなきゃならないのに。あのままだと、お兄様はあの女を選ぶかもしれない。
そんなことさせない。あたし、もう絶対あの生活に戻らない! もう飢えに苦しむのは嫌、絶対に嫌!」
「お前が、真知子のことを話したのか」
「そうよ……。何よ、あたしが悪いの? ちがうちがうちがう! あたしはあたし達の為にしたことよ。
カリムもアメリカに行く前はそうだったじゃない。あたし達の、あたしのことだけを考えていてくれて、その為だけに行動してくれていたのに。
変わったのは、おかくなったのはカリムの方よ!」
オリヴィアは俺が今までに見たことのない程、怒りに満ちた表情していた。
妹は俺が変わってしまったと涙を流して、ヒステリックに訴え始めた。
違う。お前は俺の知るオリヴィアではなくなった。変わったのは、お前の方だと、俺は口に出すことは出来なかった。
ただただ、やるせない気持ちに襲われ、吐き気を催すほどの、惨めさを感じていた。
「オリヴィア」
「は、はい。ヘイデン様……」
「泣きわめくのはよそでやりたまえ。私は女の泣きわめく声が嫌いでね。騒音以外の何物でもない」
「……! も、申し訳ありません! どうか、お許しを」
「いいからさっさと私の部屋から出て行け。お前の役目は終わりだ」
ヘイデンに強く言われたオリヴィアは涙を乱暴に拭って、扉へと駆け足で向かった。オリヴィアが俺に目を向けることは、一瞬たりともなかった。
バタンと音を立てて、部屋に三人だけになる。
ヘイデンが重い息を吐いた。
「なんと喧しく、厚かましい娘だ。育ちの悪さというのはどれだけ繕おうとも誤魔化せんものだ。
さて、いいか。カリム。この女について追及するのは止してやろう。どうせ、もう会うこともない。
ただし、お前の節操の無さは許されん。
2週間後、お前はゼタと婚姻を結んでもらうぞ。お前はゼタのものだ。
無理やり形にしないと、理解出来ん様だからな」
強く言い放ったヘイデンは立ち上がり、次の仕事があるといって、部屋を出て行った。
俺はその場から立ち上がることも動くことも出来ない。
ヘイデンの居た場所に代わりに座りこみ、俺の顔を楽しそうに覗き込んだのは、2週間後、正式に己の妻になるゼタの笑った顔だった。
ゼタはくすくすと笑いながら、床に落とされた写真の一枚を手に取り、覗き込んだ。
「こんなに良い女が妻になるとわかっているのに、他の女に目を向けてしまうなんて、やっぱり男っていうのは欲張りな生き物ね」
「……」
「大体、この女の何が良かったのかしら。特に美人でも、そこまで可愛いといえる顔でもないじゃない。見て、この間抜けで気の抜けた顔。
日本人ってみんなこんな顔なの? さっぱりとした味のない顔よね。こどもみたいだわ」
五月蠅い。外観のみでしか人を見ることの出来ないお前の様な女に、真知子の何がわかるというんだ。
込み上げてくる怒りを、必死に抑え込む。歯を食いしばると、血の味が口内に広がった。
女はそんな俺の様子を知ってか知らずかーーおそらく前者だろうーー、言葉を紡いでいく。
「私、自分より劣った女が、私が持っていないものを持っていたり、私のものを横から取るっていうのは本当に我慢ならないのよ。
ねえカリム。教えてくれない? この地味な女の何が良かったの? 貴方が喉から出るほど欲しい金でも積まれた? 意外といいとこのお嬢さんなのかしら。
それとも、いろんな意味での相性が余程良かったのかしら?
どうせ、たいした意味はないんでしょ?」
俺は答えない。応えずに、頭を上げ、ゼタの目を見返す。
握った拳が震える。腹のあたりが煮え返るように暑くてたまらない。
「……なに、その眼」
ゼタは、初めて真顔になった。
突然、胸元を手で押され床に倒れる。ゼタが俺を組み敷き、俺の顔を閉じ込める様に両手を置いて、何の感情も移さない瞳で俺を見下ろして言った。
「あんた、自分が誰のものかわかってんの?」
◆◆◆
その夜、あの忌々しい男が、俺がゼタの部屋から出てくるところを待っていたのか、そのぶよぶよとした手で俺の腕を掴んで、明らかに怒りを隠せないといった表情で俺を自室へと連れ込んだ。
今日一日で、何度部屋に連れ込まれるのか。
疲労も困憊し、俺は抵抗する気力もなく、一応父親という位置にある虫唾の走る男の部屋へ踏み込んでしまう。
ぼんやりとした頭で部屋を見る。
驚いた表情をしたオリヴィアが男のベッドに座って、俺を見ていた。
……それにしても何と趣味の悪い部屋だろう。中世のハーレムに憧れを抱き、その妄想を頼りに、作り上げたかのような、下品、下劣な部屋だった。
口にするのもおぞましい。
男が荒々しくドアを閉めた音が響き渡る。
「カリム……全てオリヴィアから聞いたぞ。お前は、何ということを、してくれたんだ!」
興奮した男が唾を撒き散らしながら、俺に拳をふりかざすが、所詮俺がこの家の”モノ”であることを理性で思い出したのか、その拳が振り下ろされることはなかった。
顔を真っ赤にして、男が喚き散らす。
「ヘイデン様が、珍しく俺のところに来たんだ。なんと言われたと思う?
俺に似て、色を好む血が流れているようだとお叱りを受けたんだぞ。
俺の、俺のせいだと、ヘイデン様はおっしゃられたんだ。このままでは、俺だけがこの家を追い出されてしまう。
カリム、お前は俺を路頭に迷わせたいのか。
これ以上、ヘイデン様やゼタ様の気を悪くさせる行動は絶対にするな! 俺がどれだけ、この家からお前の容姿が目にかけられる様に手を回してやったと思ってるんだ。
俺が居なければ、お前は今もあの惨めな生活をしていたんだぞ。それとも何か? あの生活に戻りたいのか? え?」
耳障りで仕方がない。この男は何を言っているんだ。
ベッドに座るオリヴィアは何も言わない。まるでこの男に同意する様に、涙目になって俺を鋭く見つめていた。
ふと、真知子の顔と声が、脳裏に浮かんだ。
別れる際に交わした会話と、そのときの真知子の表情を。
『幸せになってくれる?』
幸せってなんなんだ。お前と二人過ごした時間の俺は幸せではなかったのか?
俺にとってのそれが、今のこの光景なのか。
お前に出逢う前に、喉から手が出るほどが求めていたものの真髄は、こんなにも、悲しく、愚かで、惨めで、滑稽なものだったのか。
これが、俺の選んだ未来だったのか。
男が返事をしない俺に苛立ち、俺の隣をすり抜け、オリヴィアが手に持っていたあの写真を奪い取る。
そして無茶苦茶に破り捨てながら、俺にとっての毒の言葉を吐き出した。
「こんな、こんな黄色人種の女、安い女に、気を取られやがって。渡さないぞ、こんな女に俺の未来を渡してたまるか。
消してやる。こうしてこうして、ぐしゃにぐしゃに、滅茶苦茶に、くそくそくそくそ!!」
破り終えた写真を部屋中に撒き散らし、男は吐いた。
「人の人生に関わる大事な局面をかき乱しやがって。こんな女、死んでしまえばいいのだ」
気づいたときには、俺は目の前の男に拳を振りおろしていた。
簡単に殴り倒された男は何が起こったのか理解できていないのか、顔を腫らし、鼻血を垂らして、茫然と俺の顔を見上げている。
隙など与えず、男にのしかかって何度も何度も何度も何度もその顔を殴り続けた。
オリヴィアの悲鳴と叫び声が聞こえるが、俺は止めはしない。
男は最初は威勢よく何をするんだと抵抗してじたばたしていたが、太った身体は動きが鈍くく、抵抗に意味などなかった。
最後にはもうやめてくれと情けなく俺に助けを請う。
俺の腕を引っ張り、オリヴィアが本当に死んでしまうと泣き叫んでいるが、知ったことではない。
死んでしまえばいい。いっそ、くたばればいいのだ。
そんなに未来が欲しければくれてやる。そうだ、俺はあんたの道具だ、いつもいつだって、そうだったんだ。それはこれからも変わりはしない。なら、神の赦しを得られるその場所へ送り届けるその役目も俺が負ってやる。
精々、あの世で満喫するがいい。
俺もすぐに逝ってやる。
何の為に生まれ、生きていくのか。今の俺にはそれがわからない。
その道しるべは確かに、近くにあった筈なのに。
たったひとりの、ちっぽけで、臆病な女に出逢ったことで、狂わされるなんて、思いもしなかった。
俺の中に強く、深く、狂おしい程に根付いた彼女の一挙一動全てが焼き付いて俺から離れてくれない。
初めて、俺に”与えた”女。
触れたい。触れたくて、仕方ない。この腕に閉じ込めて、あの柔らかい唇を、肢体を、貪りたくて適わない。
男はもう虫の息で、既に意識を失っている。
オリヴィアも涙で顔を濡らしている。
突如、部屋に甲高い女の笑い声が響き渡った。
俺も息を荒げながらも、部屋の扉を振り返ると、衣服が乱れたままのゼタが俺達の様子を見て恍惚に笑っていた。
まるで、映画のワンシーンを見ているかの様な、そんな表情で。
「あは、カリム。カリム、ああ、カリム。貴方今とてもセクシーで素敵だわ。まるで狂犬ね。正気じゃない貴方ってそんなにも魅力的だったのね。
綺麗だわ。狂おしいほどの感情を解放する貴方、とってもそそられる。
綺麗だわ。やり場のない想いや怒りを無様に当たり散らす貴方、とってもいじらしい。
綺麗だわ。求めるものが手に入れないその劣情を、歪んだ色を曝け出した貴方の表情といったら!
まるで野獣の様だわ。
人形のような貴方も素敵だったけれど……どれだけこの瞬間を待ちわびたことか。銅像の様に変わることのない美しいその顔に、汚く歪んだ貴方が生まれることを、どれだけ想像したことか」
ゼタは面白いことを思いついたと言って、俺に近づき、オリヴィアを押しのけて、顔を近づけた。
「ねえ、貴方に選択肢をあげるわ。
私を選び、夫となり、この連中を抱えて、私と希望と富に満ち溢れた未来を取るか」
それとも、と赤い唇がにんまりと笑みを浮かべ、破り捨てられた写真の一欠けらを、その細い指でつまみ取った。
「この貧相な、たいして名誉も権力もないごく普通の女をとり、一生抜け出せないカーストの鎖に縛られ、貧困に喘ぐ生活に戻るか。
カリム、アナタが選ぶのよ。
前者を選べば、私は今迄通り、貴方をわたしの狗として可愛がってあげる。
そうね……正妻の座は譲らないけれど、この女を愛人として迎え入れることも許すわ。私も、貴方をここまで変えさせたこの女に興味が出てきたもの。
アナタにとっても、悪い話じゃないでしょう? だって、元々欲しがっていた富と権力、そして望んだ女の全てが手に入るんだから。
ただし、いかにも純情な顔をしたこの女が、そんな爛れた関係を受け入れられるとは思えないけれどね。
どう誑し込むかはアナタ次第よ。
さ。どうする?」
女は甘い誘惑を、高級な餌を、飢えた獣の前にぶら下げる。
この女は楽しんでいるのだ。人の感情を揺さぶり、破滅に導くことを。
それに真知子すらも巻き込もうとしている。
この女は、女王など生易しいものではなかった。
人間の本能や隠された狂気を、自らの手で引き出すこと得意とする、悪魔だった。
第十八話 恋に狂うとは言葉が重複している。恋とはすでに狂気なのだ。
ハインリッヒ・ハイネ『シェイクスピアの女たち』より




