第十七話 あの人が私を愛してから、自分が自分にとってどれほど価値のあるものになったことだろう。
この結果を誰が予想しただろう。
こうなるとわかっていたら、私はリストに協力も手助けもしなかった。
彼女をわざわざ苦しめるような結果に導くようなことはしなかっただろう。
「お兄様、やっと帰れるわね。あたし、本当に嬉しいわ」
カリムによく似た女の子は、愛する兄の腕に自らのソレを絡める。見ようによってはまるで恋人同士の様だった。
本当なら、その隣に立てたのはひとりの少女であったはず、いや、いつか、そうあればと思っていたのに。
隣に居るリストを横目に見ると、彼は何の表情も浮かばせず、いつも通り何を考えているのかわからない。
ただ、真知子と同じように、キャンパスの外によ余程の用事がない限り出ることのない彼が、わざわざこうして、一応教え子の見送りに出てきたのだ。
いや、それは違うか。彼は彼女の為にしか行動しない。彼女の為に、彼はここに在るのだ。
「リスト先生、ミス・ウィンター、兄がお世話になりました。もうこれでお会いすることも無くなると思いますが、これからも手紙などで」
「カリム」
カリムの妹さんの言葉を遮り、リストは彼の名前を呼んだ。リストは煙草を取出し、火を点けて口にくわえた。
禁煙ですよと声をかけると舌打ちをして、煙草を懐にしまった。あのリストがマナーを忘れてしまう程、イラついているのだとわかった。
オリヴィアが少し不快な表情を一瞬見せた。
「お前、本当にこれでいいのか。前に言ったな? 次に後悔することがあれど、俺はもう知らんと」
カリムは先ほどから表情を変えない。
諦めた人間の表情。妹さんから聞いた話によると、これから輝かしい未来が待っているということだが、とてもその未来へ足を向ける人間の表情とは思えない。
しかし、彼の意思は固い。もう心に決めたのだろう。
これを動かすのは、私達では難しい。そう、私やリストでは。
「ええ、元々これが俺の成すべきことでしたから」
そう言いつつも、カリムは誰かを探すかの様に、時折目を空港のあちこちへ向けている。
カリムの探し人は誰かわかっていた。
「真知子は来ない」
彼の希望を一気に打ち砕く、容赦のないリストの一言。
彼はカリムをまっすぐに捉えた。そう、まさに鮫の様に。
しかし、カリムは動じない。むしろそうであるとわかっていたという風に、「そうですか」とただ一言答えた。
「お兄様、そろそろ搭乗時間です。行きましょ」
「ああ、」
「待ってください、カリム」
私はカリムを引き留め、彼女から預かっていたものを鞄から取り出す。
カリムに差し出すと、彼は私の手の中のものを見て、そしてそっと受け取った。
それは真知子がずっと折り続けていた、オリガミで作られた鮮やかな青薔薇だった。小さな青薔薇がたくさん透明な小瓶に詰められている。
カリムに渡してほしいと頼まれたとき、自分で渡さなくていいのかと問うと、真知子は困った様に笑って、頷いた。
手の中にある、青薔薇の小瓶をカリムはどういう想いで見つめているのだろう。私にはわからない。
カリムは一度それをぎゅっと握り、自身のコートのポケットに入れた。
後ろでオリヴィアが兄を急かし、呼んでいる。カリムはすぐ行くと返事をして、自身の荷物からあるものを取り出した。
「ウィンター夫人、俺からも、彼女に渡してほしいものが、」
「え?」
「本当は、これを渡すのは止めておこうと思ったんですが、……やはり、そうはいきませんね」
カリムがその手から私に授けたものを見て、目を見開く。
彼を見上げると、寂しそうに笑って「お願いします」と言った。
私は困惑してリストを見ると、彼ははあと大きくため息をするのみだった。
思うことは同じだろう。
「リスト、ウィンター夫人、短い間でしたが、お世話になりました」
「こちらこそ、お元気で。身体に気を付けて下さいね」
リストは何も言わない。
去っていくカリムの背中はなんだか物悲しい。
なんだかんだと、最初はいろいろあったが、彼は確かにJCCの一員だったのだ。
オリヴィアとカリムの姿が見えなくなる。
これで、本当にお別れだ。
私はカリムから預かったものを、リストに差し出す。
リストは私の顔を見るのみで、何も言わない。
「リスト、真知子を頼みます」
この役目は、リストにしかできない。
その意味を込めて、その鋭い目に視線を返すと、彼は珍しくすぐに折れて、私の手の中からモノを受け取った。
◆◆◆
搭乗口から離れ、待ち合わせ場所に向かう。
空港で一番ガラス窓が大きく、飛行機が飛び立つところを間近で見ることの出来る場所。
その付近に止まって、目的の人物を探す。
思いのほかすぐに見つかった。
真知子は真ん前に座って、目の前の飛行機が着陸、離陸していくのをぼんやりと眺めている。
そこに感動も何も感じられない。ただ見ているだけだった。
俺は真知子の隣に腰を下ろす。
三機ほど飛び去るのを見届けたぐらいになって、前を向いたまま声を発す。
「最後に、別れの言葉をかけなくてよかったのか。もう会えないんだぞ」
「会えば、行かないでって引き留めちゃいそうになるから」
「引き留めたらよかったんだ」
なぜそこで殊勝になってしまうんだ。俺は何度も言ったじゃないか。己の幸せのみを考えろと。
引き留めて、二人で生きていくことだけを考えたらよかったんだ。
もう一機、離陸し始めた。それを見つめ続ける真知子。
「私、自分の幸せしか考えてなかったよ」
俺の考えを見透かしたような答えが返ってきた。俺は目を見開き、真知子を見る。
やはり、真知子は俺を見てはいない。
ぽつりぽつりと、真知子は語り始めた。
「今まで、知らなかった。人を好きになるって、こんなにもあったかくて、嬉しくて、楽しくて、うずうずして、感じたことのない感情もいっぱいで、胸がどきどきして、彼のことばかり考えるようになって。
私が私じゃないみたいだった。ふわふわして気持ちよかった。
だから、もっと欲しいって思ったの。もっともっと、って。欲張って、あの時の私、自分の気持ちを満たすことしか、考えてなかった。
人を好きになるってことは、人と関わることで、それに伴う大変さも苦しさも、私は何よりも知っていたくせに、幸せすぎて、嫌な部分、都合の悪い部分は見ない様にしちゃったの。
だから、カリムが何を抱えているかだとか、何を考えているのかとか、私、自分のことばっかりで、聞こうともしなかった……。
人と関わりあうことで最も大事な部分を、避けてた。
カリムはいつだって、私に問い続けてくれてたのに……。
でも、最後に、カリムは教えてくれた。
好きになるって、楽しくて、つらくて、歯がゆくて、やきもきして、……相手の幸せを、一番に考えることなんだって
お互いに縛りあうんじゃない。相手にとっての一番の幸せが何なのかを優先することなんだって」
俺は、真知子の告白をただ黙って聞いていた。
俺からはもう、何も言うことは、出来ない。
懐から、夫人に任せられたモノを取り出す。じっとそれを見た後、手を伸ばし、真知子に差し出した。
それに気づいた真知子が俺の方を見て、その手の中にあるものを目にした。
すると真知子は徐々に表情をゆがめ、目いっぱいに涙を溜めた。
「……ごめんねぇ、リスト。私、告白出来なかった、色々助けてくれたのに、ごめんねぇ……」
ぽろぽろと大粒の涙を流し始めた真知子。
顔を覆い、身体を振るわせて嗚咽をもらす。
なぜ、この女はいつもそうなのか。いつも、昔から、何も変わらずに。
真知子を抱き寄せ、幼児を慰める様に頭を撫でてやる。
「この阿呆……」
俺の手の中で、折り紙で作られた歪な形をした赤い薔薇が、真知子の零した涙で濡れていた。
あいつが、誰を想ってこの赤薔薇を折ったのか、説明するまでもなかった。
第十七話 あの人が私を愛してから、自分が自分にとってどれほど価値のあるものになったことだろう。
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ『若きウェルテルの悩み』より




