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臆病者と野獣の恋  作者: 金剛陸奥
第一幕
11/23

第十話 恋愛が与えうる最大の幸福は、愛する人の手をはじめて握ることである。




 無言の圧力と言うのはかくも重いものなのか。

油断をすれば地に押し付けられるだろう。


 隣を見ると、尋常じゃない汗を垂れ流した女が、俯いて目を見開いて何とも説明のしづらい表情で正座で硬直している。

その前には、リストが全くの無表情で真知子を見下ろしている。


 JCCに戻ると、玄関にはリストが煙草をふかして待ち構えていた。

大丈夫だというのに、真知子は俺を支えていたのだが、リストをその目に入れた瞬間、真知子はこちらにも伝わるほどびくりと震え、尋常じゃない汗をかきはじめた。

リストも、俺たちの姿を見て、一瞬目を見開いたが、すぐにいつものポーカーフェーイスに戻り、煙草を消した。


 それからリストは真知子を有無を言わさず抱え上げ、中に連れていった。

俺にも中に入れと声をかけることも忘れずに。


 リストは真知子だけにとりあえずと言わんばかりに簡単な処置を施し、今に至る。


 真知子は自主的に正座をして、ぷるぷると震えていた。

リストが何も言わないからこそ怖いのだろう。

圧力が半端ではないというのはこちらにも伝わっていた。


 根負けしたのか、堪え切れなくなったのか。おそらく後者だろう。真知子がついに声を振り絞り、本当に小さい声で「ごめんなさい」と言った。

声を発すると何が起きるかわからない、そんな状況でよく出せたものだと思う。

男達に囲まれていたときよりも怯えている様に見えるのか気のせいか。


 リストはしばらく何も言わなかったが、やがて重い息を吐き、医療箱の消毒液をひっつかんでガーゼに少量まぶした。

そして真知子の顔をひっつかみ、切れていた目元の部分を拭った。

突然のことで油断していたのだろう。真知子は消毒液が染みるのか悲痛な声を上げた。

それが終わると、リスト俺に消毒液とガーゼを投げ捨てた。



「夫人を呼び出す。それまでに消毒は自分で済ませておけ」



 そういって、リストは電話のある部屋に行ってしまった。


 再び沈黙が走る。

しかし、すぐに真知子が医療箱を手に取り、俺の前に座った。

俺は真知子がこちらを見る視線から、思わず目を逸らしてしまう。



「簡単な手当だけ、させて、くれませんか?」



 か細い声は、確かに俺の耳に届いた。

返事をする間もなく、真知子は俺の顔に手を伸ばそうとした。

俺は、思わずその手を避けた。

真知子はびくついて、すぐに離れた。

困ったような、悲しげな表情が目に入る。


 違う。そんな顔をさせたいんじゃない。


 ただ、恐ろしいのだ。

この女が俺に施すものがひどく恐ろしい。

その暖かい手も、俺が感じ得たことのない重く苦しい激情も、全て全て、この女から与えられたものだ。

俺はそれをどう扱っていいかわからない。どう、受け止めたらよいのか、わからない。


 もっと欲しいと生まれるこの思いを、どうしたらいいかわからないんだ。


 目の前の女は、考える仕草をしたあと、意を決したようにもう一度尋ねた。



「簡単な手当だけ、させて、下さい。お願いします」



 何故、お前は俺をこんなに揺るがすんだ。




◆◆◆




 暖かい手が俺の身体の傷を確かめるために這う。

心地よい。

頬の傷を確かめるその手は、ゼタの様に装飾等の手入れなど施されておらず、どちらかというと子供の様な幼い手だ。

俺は思わず目を閉じる。

新しいガーゼを取り出そうと手が離れようとする。

その手が離れていくのが嫌で、思わず掴んだ。

真知子の戸惑いが伝わってくる。



「なぜ、追ってきた」

「……え、……え?」

「何で、俺を庇ったんだ。怖かったくせに」



 あんなにも、震えていたくせに。

今も眼に焼き付いている。

俺の前に立つ、小さな小さな背中を。頼りないその背中を。

けれども、その背中は、確かに俺を守ったのだ。



「わ、私、ただ、……謝りたかった、だけ、です」

「何を」

「最後まで、私の言動で、不快にさせてしまったことを、……です。庇ったのは、もう条件反射、というか」



 ……は?



「それだけか?」

「それだけって……私にとっては、結構、大事なことだったんで、はい、でも、それだけです、はい」



 ただ謝りたい、それだけの為にわざわざ追ってきて、痛い目をしたっていうのか。

そもそも、わざわざ謝る内容でもない。

真知子は大真面目な顔をしているが、やはり意味が分からない。

俺が戸惑っているのがわかったのか、真知子はたどたどしくも話し出した。



「私、最初から全く友達が居なかった訳じゃないんです。

小さいころから、内気で、人と上手く話すのが苦手で、いつもみんなを困らせてた。

いじめられるのもしょっちゅうで。


でも、優しい子は居るんです。こんな私でも、友達になろうって言ってくれる子が。まあ、後から知ったら、先生に言われてとか、可哀想だからとか、そういう理由がほとんどだったんですけど。

それでも、嬉しかった。だって、人に言われたからでも、こんな面倒くさい私と友達になろうと思ってくれたんですよ? それだけでもすごく嬉しかった。


だけど、それも最初だけだった。

皆、最後には遠くに行ってしまう。まともに話せないから面白いことも言わないし、なにかとすぐ落ち込んで泣いてしまうし、実は身体もそれほど良くなかったんで、満足に遊べないし。

ほんとにいいとこなしなんで、皆私に呆れて、嫌気がさして、遊んでくれなくなって、話もしてくれなくなって、最後には、もう置いて行かれました。


私は怖いんです。人と関わって、期待して、でも離れて行ってしまうことが。


貴方がこのJCCにやって来たときも、すごく怖かった。

私とは正反対の、綺麗で賢くて、主張も出来る、まっすぐに歩いて行ける人。

羨ましいと思ったし、憧れもした。貴方みたいに、強くなれたらって。


それで、貴方に言われた通り、俯くないで、すぐに泣かないで、出来るだけ大きな声ではっきりものが言えるように、私なりに頑張ってみたんです。

でも、駄目だった。


どうしたって、人は怖いし、委縮してしまって、駄目な自分が出てきてしまう。

貴方の言うことは全て正しいです。こんなんだから、いじめられるんです。いつまでたってもこんなんだから、逃げてばかりで、現状を変えられない。


貴方のことも、ごめんなさい。怖くて怖くて、怖くて仕方ないです。

でも、貴方は正しい。正しい、在るべき姿を、指摘することができる。

ごめんなさい。私はそれを直すことが出来なかった」



 そしてまた、真知子は謝り、苦悶の表情を浮かべている。

何故、そんなに苦しい顔をしているのか。


 ああ、そうか。

俺が、すぐに泣くなと、言ったからか。

そういえば最近、真知子が泣きべそをかいている姿をしばらく見ていなかった。

彼女は彼女なりに、戦っていたのか。そして今、この瞬間も。


 ごめんなさい、ごめんなさいと謝り続ける真知子に対して、俺は自分が恥ずかしかった。

何故、気づかなかったのか。

このところ、真知子が俺に話しかけてこなかったのも、自分を不快にさせまいと思っての行動だったのだろう。

話すときに、目を合わせようとして、それでも俯いてしまうけれども、何度も何度も顔を上げようとするのも。

全て、俺の言う”正しい”ことを、全うしようとしていたのだろう。


 俺は、いつの間にか、自分のことしか考えない、欲望に塗れた王族共と同じ人間になっていた。

人を見た目で判断し、価値をつけるゼタや、自分に利益をもたらす人間で、いかに利用価値があるかだけを考える傲慢なヘイデンの様に。

俺は、最もなりたくない人間に染まって、彼らと同じように、真知子を判断していたのだ。


 この震える手は、俺を恐れながらも治療を施そうとする、強い人間の手なのに。

何が、弱いものか。何が臆病なものか。

この女は、俺よりずっと、強いではないか。


 掴んでいた真知子の手を、ゆっくりと己の頬に当てさせる。

そしてそのまま目を閉じ、その暖かさを、己に感じさせた。


 この女は、聖域だ。全てを許し、改めさせる、聖域だ。



「すまなかった」



 憑き物が落ちたようだった。

目を開けて、真知子を見ると、予想通り、何を言われたのか理解していない、茫然とした顔をしていた。


 もう一度、謝意を述べる。

先程の真知子と同じように、何度も何度も謝り続ける。

彼女が、その意味を理解してくれるまで。


 暫くすると、その丸い目からぼろぼろと大粒の涙が流れ落ちはじめた。

真知子はその涙を止めようと、空いていた手で目を抑えようとした。

それをやんわりと制止し、その手も取る。

止める術を無くした真知子は、またあの苦悶の表情をした。



「泣いていい、泣いていいから」



 声も出せないほどに、我慢しているのだろう。ぷるぷると震えている。

取ったばかりの手を優しく撫ぜた。



「ほんとうに、すまなかった」



 それを聞いて、真知子はとうとう我慢が出来なくなったのだろう。

まるでダムが決壊したように、ぼろぼろと涙が出てきた。

綺麗な涙だな、と思った。

そしてすぐに堰を切ったように、子供の様にわんわんと泣きだした。


 俺は真知子の頭を撫で続ける。

子供を慰めるように、優しく、そっと。




◆◆◆




 何事でしょうか、これは。


 突然、リストから、今すぐ阿呆と馬鹿の手当をしにこいと電話があり、とりあえずその傲慢な物言いにいらっとしたので、物を頼むなら迎えにこいと電話を切ると、リストはすぐに家にやってきて、私を車の中に押し込んだ。

彼らしくなく、かなり焦っていた様子だったので、私もただ事ではないと察し、とりあえず真知子に何かあったのだろうと追及し、何か怪我をしたのなら病院に直接連れていったほうが良いのではないかと尋ねたがリストはそんな必要はないと首を振った。

JCCに入るや否や、子供の泣き声が聞こえた。わんわん、と転んでしまった子供がその痛みを誤魔化すかの様な泣き声。

リストが急いでJCCに入り、声のする方へと向かった。

私もありったけの医療品を抱え彼の後に続いた。


 ぼろぼろで傷だらけの真知子とカリムが居た。

泣き声の原因は真知子で、かなりの感情を爆発させている。

その光景を見ていたリストから、珍しく困惑している雰囲気が感じ取れた。

それもそうだろう。最近はめっきり真知子が涙を見せることもなくなっていたのに、今は打って変わって、どこに溜めこんでいたのかという程の涙を延々と流し続けている。


 私もそのことに驚いてはいたが、それよりもそんな真知子の頭を撫で続けるカリムの姿と、その表情だった。

彼のそんなにも柔らかい表情を見たことはない。

真知子を撫でるその手つきは明らかに不慣れなもので、まるで生まれて初めて赤ん坊に触れたような若者の顔をしていた。


 は、とする。

いや、それよりも、何故こんな怪我をしているのか、何があったのか、数時間前はあれほど険悪な雰囲気を漂わせていたのに、現状に反してこの朗らかな空気は何なのかと疑問は尽きないが、とりあえず、私が今するべきことは一つだ。



「お二人とも、とりあえず、ばい菌が入る前にきちんと治療しましょうね」




◆◆◆




 服装を整え、皺を伸ばし、不自然に跳ねた髪を撫でておさえつけてやる。

身だしなみを整えさせたら、次に顔に触れ、怪我の調子を確認する。

右目を覆うガーゼやら、頭に巻きついた包帯やら、なかなかに痛々しいものだったが、本人はそこまで気にしていないらしい。

目元は赤く腫れ、明らかに昨夜の大泣きが後を引いていた。



「……よし、とりあえず頭は皮膚が切れていただけだったが、もし気持ち悪さや眩暈、他に何かおかしいと感じたらすぐに俺に電話しろ。

いくら夫人が医師免許を持てども、きちんとした医療環境で見てもらう方が確実なんだからな。すぐに病院に連れて行く」

「リスト……朝から6回も同じこと言われたら流石の私でも覚えてるよ……」

「お前は物忘れの激しい阿呆だからな。ただでさえ頭を打ったことで脳細胞がいくらか死滅しているんだ。これぐらい言い聞かせんと忘れるだろう」

「馬鹿にされてるのか心配されてるのかわかんなくなってきた」

「それすらも判別出来なくなっているのか? 重症だな。車を出す。今すぐ乗れ」

「い、いい、いい! 大丈夫、大丈夫だから。言うよ、おかしいなと思ったらすぐ言うから」



 真知子は、己の頭に巻かれた包帯に触れ、締め付けられている感じがあまり好きではないとのんきに発言する。



「今日は確か試験があると言っていたな」

「? うん。ひとつだけ前の期間中には実施されなかったのが」

「……一人で平気か」



 前の試験シーズンの最終日、真知子は赤い赤い液体に塗れてJCCに戻ってきた。

あれ程胆が冷えたことはない。

真知子は俺に見つからない様に自室のある2階へコソ泥の様に上がろうとしていたが、あいにくと俺はその後ろ姿を捕えていた。


 どこを怪我したのかと真知子の身体を弄った俺に、真知子は見るからに慌ててただのジュースだからと必死の説明をして俺を制止させた。

馬鹿言え、と。

そもそも、何故飲み物を全身に被ったんだと問い詰めるが、飲み物を買って歩いていたら転んで頭から浴びたと阿呆の言い訳を述べた。

そういう阿呆なのだ。こいつは。

一人で抱えて、一人で持って行ってしまう、阿呆。



「だ、大丈夫だよ。ぱーっと終わらせてすぐ帰ってくるから、」

「試験はしっかり受けろ。お前のぱーっとは充てにならん」

「あっはい」

「……」

「……」

「やはり行きは俺がついていこう」

「ええええ」

「俺じゃ不満か。贅沢な奴だ。夫人でも構わんぞ。どうせ彼女も暇だろう」

「や、やめなよ。夫人も忙しいんだよ。そうじゃなくて、その、変な噂立ってるから」

「……ほう、噂。どんな噂だ。言ってみろ」

「んん!? いや、それは、ちょっと」



 顔を青くして慌てふためく真知子だが、俺はその噂がどういったものか知っている。

くだらない、不埒な噂だ。年頃の若者がそういった発想に至るのは無理もないが、それを真実の情報としてすぐに受け入れてしまう現代の若者らしさに辟易する。

何とか話題を変えようと頭から煙を出しているーー様に見えるーーこの阿呆の頭を撫でてやろうと触れる寸前、JCCの扉が開かれる音がした。



「夫人かな?」

「……いや、違うな」



 さて、もうひとりの馬鹿はどんな顔で何を言いにきたのか。


 俺の予想通り、JCCに現れたのは、真知子と同じように、あちこちに手当を施されたカリムだった。

頬のあたりはガーゼが貼られ、いつもの美しい顔を全てを拝むことは叶わない。

真知子は驚きで目を見開き、ぽかんとだらしなく、みっともなく口を開けている。その口を閉じさせ、俺はカリムに向き合う。



「随分と男前になったじゃあないか。カリム」

「お褒め頂きありがとうございます」

「嫌味じゃない。本心だ。俺は完璧な美しさよりも、ミロのヴィーナスの様に少し欠けているぐらいが調度良いと思うん性質タチでな。

で、何しに来た。お前は昨日付でこのセンターを抜けたはずだと思うが」

「彼女を迎えに来ました」



 カリムは俺の横を通り抜け、真知子の前に立った。

真知子は突然目の前に来たカリムに驚き、少し後ずさった。



「試験会場まで一緒に行こう」

「……へ?」



 素っ頓狂な声を発した真知子に動じず、カリムはまっすぐと真知子に向き直っている。



「俺もひとつ、前シーズンで延期になっていた試験項目がある。

お前の試験項目も同じ会場だった。一緒に行こう」

「え、え、あの、……えっ、と」

「……嫌なら別に」

「い、嫌じゃない! いやじゃにゃい、」



 焦りのあまり舌を噛んだのか真知子が口を押えて身悶えている。

その様子を見てカリムはほくそ笑んでいたな。なるほど、確信犯か。

眉目秀麗な青年に物憂げな表情をされて、誘いを断ることの出来る女が世界にどれだけいるだろう。

少なくとも真知子にそれを見抜ける器量さはない。



「嫌じゃない、けど、でも、……私なんかと歩いてたら何言われるかわか」

「そうと決まればさっさと行こう。お前の荷物は、……これか 」

「あの、私の話を。っていうか私のリュック……」

「あと、リスト。昨夜の発言は忘れて下さい」



 真知子の荷物を手にし、カリムは俺にそう発言した。



「俺はJCCここを辞めない。……TCO(奴ら)に屈するのは気に食わない」



 何たる身勝手。何たる傲慢。

その目は反吐が出るほど生意気だった。今まで感じられなかった獣の匂いを感じる。

笑みが止まらない。そうだ、俺が見たかったのはお前のその眼だ。高潔、身勝手で、傲慢で、誰にも頭を垂れることのない気高き獣の魂。

多少の歪は生けとし生ける者の証。



「はははは! 馬鹿め、好きにしろ。ただし、これまで以上に働いてもらうぞ。次に後悔することがあれど、俺は聞く耳はもたん。騒動の責もそれで果たせ」



 殊勝な顔をしているが、俺は知っている。

カリム、お前は俺に歪んだ嫉妬を抱えているのだろう。お前の隣に居る、か弱く臆病な、だが確かな強さを持つ女に惑わされて、揺るがされて、心を抉られて。

真知子の隣に居る俺が憎くて憎くてたまらないという思いを抱えているのだろう。

わかっている。わかっているとも。

その美しい澄ました顔の下に、どれだけの歪んだ表情が隠れているのか。

それでいい。

そして気づけばいい。俺から、攫ってみせろ。暗澹たる我が生涯に色を与えた愛し子を。



「真知子、とっとと行け」

「え」

「試験の鉄則だ。早めに行動し、現地に待機し、心を落ち着かせ、本番で最善を尽くせ」



 虫を追い払うように真知子とカリムに手を振る。

まだ不安げに俺を見る真知子の目線を塞ぐようにカリムは俺の前に立ち、真知子の腕を掴んで半ば強制的にJCCから連れ出していった。

二人が出て行ったのを見届け、俺は煙草を取出し火をつけた。

宙に舞う煙を見つめる。

それはゆらゆら、ゆらゆらと天へと昇って行った。




◆◆◆




「ま、待って、あの、一人で歩けるから、」

「……」



 腕を離せと言いたいのだろう。離してやると、真知子は歩を止めてしまった。

遅れるぞ、と声を掛けると、真知子は顔を上げて何か言いたそうにしている。


 頭に巻かれた包帯が痛々しい。先に怪我の容体を尋ねると、すぐに「殴られるのは慣れてるから平気」と返事が返ってきた。

それはそれで、どうかと思うが。


 己の言いたいことを口に出すか出すまいか、迷っているのだろう。目線があちこちをさまよっている。

少し経って、意を決したのか、俺にまっすぐに目を向けた。



「あ、あの、辞めないの!? ……です、か!?」



 ……。



「辞めてほしかったのか?」

「え? いや! ちがう! そう、じゃなくて、そうじゃなくて……、」



 少し後ろに立つ真知子の方に足を進める。

わかりやすい程、びくつかれたが、まあこれも今までが今までだった為仕方がないだろう。


 俺は真知子に黙って手を差し出した。


 真知子は顔に疑問を浮かべてその手と俺を何度も見比べた。



「カリムだ。年は、……多分24で、出身はインドのムンバイ。……カレーはそこまで好きじゃないから頻繁には口にしないが、インドのカレーはアメリカよりは辛い、と思う」



 なんだか、照れくさい。

目の前の女はさっきまで呆けた顔をしていたのに、今は何を考えているかわからない表情をしている。

だが、退いたりはしない。だって、お前はもっとたくさん、俺のことを知ろうとしてくれたのだから。


 何故あのとき、彼女の勇気を切り捨ててしまったのかと考える。

なんと浅はかだったのか。今となっては、差し出した己の手が取られないことを恐れて情けなく震えているというのに。


 ただ、今はこれだけで許してくれ。俺が今できる最善を、どうか、受け止めてくれ。

無様に差し出したこの手を取ってくれないか。俺にもう一度機会をくれ、与える者よ。


 真知子は俺の手を見つめ、そして自分のその小さな手を見た。

彼女の手も震えていた。俺の手に近づけ、触れようとするが、その直前で離れてしまう。

それを何度か繰り返されて、焦れた俺はその手を掴んだ。

振り払われるかもしれない。

だが、握った手は俺の手を握り返したのだ。



「……名前を聞いても、いいか」



 上擦りそうになる声を抑えて、尋ねる。

もう一度やり直そう

ここから、最初から。

俺に受け止めさせてくれ、今度は、切り捨てたりしないから。



「……真知子。真知子、っていいます。早生まれで、22歳で、日本で生まれました。私は、カレー大好きです」



 目に涙をいっぱいに浮かべて、少し鼻水を垂らしたその顔は決して女性として可愛らしとは言えないものだったが、俺には全てがいとおしかった。



「よろしく、真知子」

「こ、こちらこそ、よろしくうえええん」





第十話 恋愛が与えうる最大の幸福は、愛する人の手をはじめて握ることである。

スタンダールより



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