第九話 人生は悟るのが目的ではないです。生きるのです。人間は動物ですから。
どうにも、おかしい。
「マチコおねえちゃん。これ教えてー」
「……えあ!? ご、ごめんごめん。うん。えっと、ここはこう折って……」
「熱でもあるのー? なんかぼーっとしてる」
「そんなことないよ。元気元気。ちょっと寝不足なだけだから!」
どうにも、おかしい。
ここ数日、真知子の様子が、おかしい。
横目でリストを見ると、彼も不振がっているのか真知子の様子を眉を寄せて見ている。
彼も違和感を覚えているのなら、間違いはないだろう。
最近、真知子は上の空だ。何を考えているのかわからない。
いつも考え事をしているようだ。
二、三度声をかけなければ彼女は自分が呼ばれていることに気づかない。
ぼうっとしているにも程がある。
元来、彼女は臆病で内気な性格である。
しかし真知子は意外にも警戒心がかなり強い。例えるならハリネズミの様な女の子だ。
一度信頼を寄せた相手には腹を見せるが、見知らぬ人間に対してはその針を露出させる。
彼女はああみえて、いつも針を見せているのだ。容易には心を開くことができないからこその、防衛策として。
だからこそ、おかしい。
彼女は頼りないが、その針の如し警戒心が故に、いつも気を張り詰めており、あの様に呆ける子ではない。
真知子は地元の子供に囲まれ、オリガミを折り続けている。
その横顔は笑ってはいるが重苦しい。というか、顔色がひたすらに悪い。やつれて、目に隈が出来ている。
眠れていないのかもしれない。
態度だって変だ。
顔を赤く染めた女の子達の着付けを手伝っているカリムによそよそしいのはわかるが、最近私達にまで距離を感じる。
そうだ。なんだか、頼られることがなくなった気がする。
何でも自分でしようとしているような。
それに伴い、リストの機嫌も最近絶好調に悪い。理由はわかりきっているのでわざわざ言うこともないだろう。
何だろう。急いで独り立ちをしなくてはと、焦っている様な気がする。
そして、カリムも。
これは近いうちにひと騒動あるかもしれない。リストの我慢の限界もそろそろだろう。
私の予想は当たることになる。思っていたよりも、早くに。
◆◆◆
「俺はJCCを辞めます」
イベントの終了後に、スモークチェアに座るリストの前に立って、カリムが退会届を差し出したのを見て、頭を抱えた。
このタイミングで、とんでもない爆弾をぶちあげてくれたな。若造め。
無表情のリストが、目の前に立っているカリムを見上げる。これは本気で怒っている。
真知子もそれに気づいているのか、硬直気味だった。安心させるため、そっと隣に立つと、真知子は困った様に笑った。
……いや、これは、諦めた様な、笑顔だった。
「理由を聞こう」
「もう此処に居る理由がない。妹はもう安全圏に入っている。これから彼女が虐げられることもありません。
リストには色々と手を回していただいて感謝しています。しかし、もうこれからは不要です。貴方の手を煩わせることもなくなった。
俺は他に成さねばならないことが山程ある。このJCCでぬるま湯に浸かっている暇は正直、無い」
「そうかそうか。それはおめでたいことだな。
妹が”安全圏”に入ったか。良かったじゃあないか。
俺はお前を止めやしないさ。しかし、なんだ。手土産にひとつ教えてくれないか」
「何でしょう」
いつだったか、真知子は私に、リストを何か動物に例えた。
私はそれにひどく納得したのをよく覚えている。
そうだ、確か。
「それは、誰を生贄にして得た”安全圏”なんだ?」
鮫だ。
彼は今、獲物に食いかからんとする、獰猛な、鮫だ。
この獣に一度喉元に食いつかれれば、獲物はもう逃げられない。
目をぎらつかせて、歯を見せて笑うリストは邪悪極まりない。完全にキレている。
私は察した。
リストは去る者は追わない。ただし、彼はただでは逃しはしない。
致命傷を相手に与え、一生の苦しみを与えてから、手放すのだ。それは捕食されるよりも、いっそ殺してくれとせがんでしまう程残酷極まりない。
だってほら、見てみなさい。
美しき青年の顔が、これ以上なく歪んでいるではないか。
動揺を見せることのなかった若者は、今まさに喉元に噛み付かれているのだ。
「なに、お前を責めたい訳ではない。
大事な家族が苦難から掬いだせるなら何だってする覚悟を持つ慈悲深い人間だからな。
まったく涙ぐるしいものじゃないか。それは美徳だ。誰だって涙を誘われるだろう。
俺は何だって差し出すお前を称えよう。崇めよう。
何故なら、お前は、何の罪もない、関係の人間を家族の為に、畜生にも劣らぬ悪魔どもに売ったんだ。ああ、卑劣だとも。だが、お前は許される。
お前の成さねばならないことというのは、いつも何かを犠牲にしてまで成さねばならないことだからな。
仕方ない、仕方ないとも。それがお前の望む、納得の出来る未来を手に入れる為の手段なのだから。
……おい、なんて顔をしているんだ。
もっと喜んだらどうだ。俺は褒めているんだ。
良かったじゃあないか。ずっとJCCを出たかったんだろう?
喜べ。声を上げて喜べばいい。
なあ? ……真知子」
突然リストに呼ばれた真知子が身体をびくつかせた。
何故、自分が呼ばれたのかわからないのだろう。
それは当然だ。真知子は何故カリムがJCCに入ったのか、何故辞めるといいだしたのか知らない。
リストは全てを知っている。知らないわけがない。
彼は真知子に関わりうることなら、全て掌握しているのだから。
「もうJCCから出なくていい」
「……え?」
「悪かったな。前は無茶なことを言った。これからはカリムと関わりあうこともなくなるだろう。
もう俺の為と頑張る必要はない。全て忘れろ。元の形に戻ろう」
「リ、リスト。何言って、」
「俺はお前が望む限り、離れて行かん」
真知子の顔が驚きに満たされる。
リストがおいで、と真知子に優しく声をかけると、彼女は戸惑いつつも従順に近づいていく。
気づいていたのは私だけかもしれない。このとき、カリムの表情は一番、歪みに歪んでいた。
自分の前に来た真知子の手を優しくとり、リストは困った表情を浮かべた真知子を見上げた
「真知子、俺はお前がどんなに強い人間か、よく知っている。
確かにお前は臆病者の阿呆だ。しかし、ただの臆病者じゃない。
慈悲深い心を持ち、人に”与える”ことの出来る人間だ。
人は生まれながらに欲深く、業の深い生き物だ。いつも何かを求め続け、無残に消費する。
だからこそ差し出すことは至難だ。”与える”ことの、どんなに難しきことか。
お前は、それが簡単に出来てしまう人間なんだよ。
俺はそんな真知子が大事だ。もちろん、夫人だってそう思っている。
現実がなんだ。社会がなんだ。馴染めないからといって何だというんだ。そんなものの為に、お前の自己を犠牲にしてどうする。
俺たちが一緒に居てはならないという理由になるのか。
だったらそんなもの捨ててしまえ」
真知子が”与える”人間ならば、リストは”捨てる”人間だと、私は思う。
彼はしがらみがあるもの、煩わしいものは戸惑いなく切り捨てていく。しかし、彼には切り捨てていいと思うものが多すぎた。
でも、リストは真知子が与えるものだけは捨てることはなかった。真知子は知らないだろうが、リストは彼女からもらったものは全て彼の机の中に大事に保管されている。
人から見てどんなにつまらないものでも彼は置いておいた。
そして真知子が切り捨てられないものを、リストが代わりに切り捨てていく。
捨て続けた彼は空っぽだ。だからこそ、真知子を大事にする。与えてくれる真知子を、このJCCという鳥籠の中で、大事にしまっておくのだ。
彼らはお互いに足りないものを、互いで補う。
いったい何がきっかけで二人がそういう関係になったのか、私は知らない。
だから、リストは真知子が必要とするなら離れはしない。
「リスト、貴方がそうやってこの女を甘やかすから、いつまでたってもこの館に依存してしまうんだ。
貴方が彼女をこの館に縛り付けて離そうとしないんだ」
憎悪に満ち溢れたカリムの声。
私は不覚にも驚いた。先ほどもそうだが、彼はこんなに歪みのある人間だったのか。
いつも飄々としていて、喜怒哀楽もそうは見せない。
しかし今は違う。
重たすぎる怨念の様なものを、リストと真知子に、向けていた、
真知子も無意識にそれを感じ取っているのか、恐怖で青ざめている。
だがリストには利かない。
「そうだろうな。反論の余地もない。だがそれももうお前には関係ないだろう? なあ?」
重たい重たい沈黙が流れる。
しばらくして、沈黙を打ち破ったのは、カリムだった。
「”カリム”という人間には、権利など存在しない」
表情はまるで人形の如く、無に近かった。
「元々、選択権も何もない。俺は俺という存在を、この肉体を、自らの意思で操ることは許されない。
俺は空だ。伽藍だ。
俺を所有する主だけが、俺を動かす。
成せと命じられたことを、確実に、完璧に、滞りなく、成さねばならない。でなければ未来は、無い。
俺は俺が在るべき道へ還る」
まるで呪詛だった。自分で、自分に言い聞かせている様な呪いの言葉。
カリムを縛り付けているものは、こんなになるまで押さえつけている主とは、何なのか。
リストは何ら反応は示さなかったが、その隣に立つ真知子は違った。
何か言いたげにしているが、何を言い出せばいいのかわからないのだろう。
口を小さく開くが、そこから言葉が紡がれることはなかった。
カリムは遂に背を向け、そのままこの館を出て行くための扉へと向かった。
何となく、このままではいけないと感じた私は、カリムを引き留めるも彼は聞き入れず、出て行ってしまった。
彼が去ったあと、リストは苛々を隠せず大きく舌打ちをして、彼もまた自室へと戻ってしまった。
私も真知子も、そんなリストに声をかけることはなかった。
「真知子……」
声を掛けると、真知子は悲しげな、しかし何か迷った表情をした。
そして、彼女は自分の手の中に持っていた青薔薇を見つめた。
◆◆◆
これでいい。これでよかったんだ。
これで全て元通りだ。在るべき形へと戻ったんだ。
なのに、何故、この心を覆い尽くす靄は消えないのだ。
抑えきれない感情を打ち消すかのように、街灯を殴ると、光がちかちかと明暗を繰り返した。
見上げると、星空が煌めく夜空から、ぱらぱらと雪が降り、街灯の明かりできらきらと反射している。
気は晴れないものの、降り積もった雪の上をざくざくと進んでいく。
しばらく歩いていると、前方から数人の騒がしい輩がこちらに向かってくるのがわかった。
酔っぱらっているのか、げらげらと喧しい。
素通りしようとするも、輩の一人が俺の肩を掴んで引き留める。
「おいおーい。無視すんなよォ。……ンだよ。男かよ。ンン? あれお前……」
「何してんだよ。絡んでやんなよ。もうキャンパス内なんだから。バレたらやべえだろ。……ってなに、お前コッチ系だったの」
「ちっげーよ!! 見ろよ。こいつカリムだ。こんな夜遅くに出歩いてナニしてんだよ。お前も夜遊び? 優等生が意外とやるじゃん~」
「あ。ほんとだ。ギャハハ! 一人? 女にでも会いに行ってたのかぁ? 夜這いってやつ? さっすがインドはやるねぇ~」
酒臭い。服装も乱れており、大方街のクラブにでも遊びに行っていたのだろう。
下劣な笑いが響き渡る。……こいつには見覚えがある。確か、アレックスとよく一緒に居る連中で見る顔ぶれだった。
肩に置かれた手を振り払い、無視して再び歩き出すも、まだ何か言いたいことがあるのか目の前を塞がれる。
先ほどとは別の人間が俺の身体に腕を絡ませ、動きを止めた。
「ンだよ。つれねえなあ。もっと俺らとお話ししようぜ」
「いつもシケた顔で、俺らのことを見下しやがってよォ」
俺に腕を回す男の手を捻りあげると、男がみっともなく悲鳴を上げる。
離してやると、よろめいて雪に突っ伏して激昂した。
「っにすんだよテメエ!! ナメんじゃねーぞコラア!!」
「離してほしかっただけだ」
「ナメてんのかゴラ!」
……語彙力が無いのかこいつらは。
無駄に関わりあうのは避けたい。相手も理性があるのか微妙なところだ。
酔っ払いは相手にしない方がいい。
背を向けて再び歩き出すと、今度は突然視界が反転し、冷たい雪に投げ飛ばされた。
殴られたのか。
頬のあたりが熱い。
「お、おい顔はやめとけって。バレたらやべえって!!」
「うっせーな!! おい、この腰抜け。ちょっとツラがいいからって容赦しねえからな。むしろその綺麗な顔ぐちゃぐちゃにしてやるよ!」
五月蠅い。蠅がたかって何を騒いでいるのか。ごし、と口当たりを拭うと手に血が付着した。口内が切れているかもしれない。
「そうそう、そういやお前JCCとかいうナード共が群れるクラブに入会してんだってなあ? お前実はオタクだったのかよ!」
「え? まじ?」
「まじまじ。そういや、ダイアナ達に次のオモチャにされた日本人の女が居たなあ~。なあカリム、お前知ってんだろ?」
血を拭う手を止める。
「その女、どうなのよ。噂通りあそこの館長とデキてんの? 結構ふしだら系だったりすんの?」
「オレ前にちらっとそいつ見たけど、めちゃめちゃ気弱そうだったぜ。押して押しまくって頼み込めばもしかしたら……」
「バッカお前サイテー!! ぎゃはは。でもあんなダサい女こっちから願い下げじゃね? アジア系だし。まあ一回ぐらいなら……ぶべっ!!?」
その先を言おうとした男の一人が倒れ、そのまま雪の中に倒れて起き上がらなくなった。
しん、と静まりかえる。
きつく握りこんだ右手がじんじんと熱く痛む。
「ってんめ、やりやがったなこのォ!! 容赦しねーぞ!!」
一番最初に俺に絡んできた男が拳を振りかざしてくる。それを避けて男の懐に潜り込んで腹部に一撃を入れると、悶え苦しむ声が上から聞こえた。
一緒に居た男達が鉄棒を振りかざして、一気にこちらに向かってくる。一気に重心を下にし、男達の下を潜り抜け、後ろから回し蹴りを食らわせた。
よろめいた男の首を掴んで、笑って見ていた三人組に投げつける。
しかし、そこそこのガタイのいい男に後ろから捕まり、身動きが取れなくなる。
やはり多勢に無勢だった。
「くっそいってえ……飛んだり跳ねたりちょこまか妙な動きしやがって……。猿かてめえは……」
仕留め損ねた数人の男達がよろよろと起き上がり、怒りに満ちた真っ赤な顔で俺の目の前に迫った。
そして容赦なく体中に殴りかかり、蹴りを入れてくる。
無作法で、勝手な、一方的な暴力だった。
型などありはしない。ただただ、自分の感情を人に当たり散らすこいつらはただの獣だった。
目も霞みだしたころ、男達も体力をつき始めたのか、殴るのを止め、俺を雪の上に投げ飛ばした。
流石に体中が重く、身体を起こすこともままならない。ぼたぼたと血が溢れ、雪を赤く汚した。
「はあ、はあ、これでもう生意気な口も、きけねえだろ。……おい、最後だと思うなよ」
リーダー格の男が俺の髪を掴んで持ち上げた。そして俺の顔をじろじろと不躾に見つめ、下劣に笑った。
「はっはは。ご自慢のお美しい顔も血が滴ってさらにイケてるぜ? おい。パイプ持って来い」
「…は? いやいや、ケイン。そりゃあやりすぎだろ。マジで死んじまうかも」
「うっせえ! 持って来い!!」
ケインと呼ばれた男はパイプを受け取り、俺を乱暴に雪の上に落とした。そしてニヤニヤと歯を見せて俺を見た。
「死ねや」
頭に向かって一気に振り下ろされたパイプを見て、俺は来るだろう衝撃に抵抗する気力もなく目を閉じた。
そして、何か温かいものに包まれると同時に、鈍い音が響き渡った。
予想された衝撃は、なかった。代わりに与えられたのは、震えと共に伝わる暖かい何かだった。
「……、お前、」
小さく頼りない身体で、俺を守ろうと包み込んでいたのは、真知子だった。
真知子は俺の背中に顔を押しつけていたため、表情は見えなかったが、頭から血を流して、痛みに歯を食いしばっているのだけはわかった。
俺は茫然として、言葉も出なかった。
真知子はよたよたと起き上がり、俺を守るように男たちに手を広げ、向かい合った。
その背中は震えている。
「へ、へへへっ!! なんだよ、びっくりしたじゃねえか。誰だァこの女」
「こいつ、JCCのアジア女だ!」
「これがか? へえ~お仲間を守りに来たのか。うっぜ。今お前に興味ねえよ。そこどけ」
真知子は退かない。
拒否を示すその行動に、男達はニヤニヤと笑い、真知子の顔を覗き込んだ。
「……んだよ。その眼、気に入らねえなあ」
男は真知子に拳を振りおろす動作をした。
殴られる。逃げろと叫ぶも真知子は退かない。怖いくせに、震えているくせに引かない。
拳は真知子の顔すれすれで止められた。
脅しのつもりで真知子の反応を楽しもうとしたのだろう。
「やめろ、その女に、手を、出すな」
「何言ってんだよ。死に損ない。このアジア女が刃向ってきてんだよ」
「お前も、さっさと逃げろ。……俺のことは、放っておけ」
「ほっとかない!!!」
突然、真知子が大声を発した。
クリアに響き渡った声。
「……ほ、放ってなんて、おけない」
再び発せられた声はいつもの萎んだ声だったが、意思の強さだけは感じられた。
顔は見えない。俺からは、彼女の小さな背中しか、見えない。
「いいから退けよ!!」
痺れを切らした男は、今度は確実に容赦なく真知子を殴った。
やめろと叫ぶも、こいつらも聞く耳など持たない。
だが、殴られた真知子がよたよたと、また俺の前を塞いだ。
男達は思わずたじろいだ様子を見せた。
それでもなお真知子を殴り続ける。今度は一発ではなく、二、三発。
それでも、彼女は這い上がって俺の前を塞ぎ続ける。
イラつきを隠せない男がもう一度と、拳を上に掲げると、取り巻き達がそれを止めた。
「なんだよ!」
「カリムはともかくその女はマズイって。こいつが先生にチクってみろ。女だってことを楯にされたら明らかにこっちのがやべえって!」
「んだよチクショウ! 覚えとけよカリム、アジア女も! TCOがただじゃすまさねえからな!!」
「お前こいつ引っ張れ。急ぐぞ!!」
「こいつ、完全に酒回ってやがる」
バタバタと慌ただしく、男達は走り去っていった。
それを見届けた真知子が荒い呼吸を繰り返して、身体をよろめかせ倒れた。
雪の上に落ちる前に、懇親の力を振り絞って起き上がり、受け止めた。
「おい、しっかりしろ。頼むから、」
今度はジュースなどではない、本物の血が真知子を染めている。
まだ意識はあるのか、真知子がバッと勢いよく起き上がる。
目に血が入ったのか、右目を煩わしそうに閉じている。
「だい、じょうぶ?」
何を言っているんだこの女。
頭がくらくらするのか真知子は朦朧としている。ふらふらとしながら、俺の身の心配をし続けている。
頭が、真っ白になった。どんな言葉をかけたらいいのかわからない。なぜ此処に居るんだとか、何故かばったんだとか、聞きたいことはたくさんあるはずなのに、この女の前では、何も、声が出せない。
恐ろしい、怖ろしい、畏しい。
初めて、人を怖いと思った。
俺は、この女が恐ろしい。俺とは全く違う場所に居る、この女が。
女は返事をしない俺を見て、顔を俯かせた。
震える俺の手を、その血だらけの手で包み込み、ゆっくりと引っ張った。
俺は抵抗できず、ふらふらと前を歩く女の後ろをついて、JCCを目指すしか出来なかった
その道の途中で、リストの言っていた言葉を思い出していた。
真知子は”与える”人間だと言っていた、リストの言葉を。
第九話 人生は悟るのが目的ではないです。生きるのです。人間は動物ですから。
岡本かの子『母子叙情』より




