壊された日常
8歳になり、ヒューと出会って一年が過ぎていた。
彼らは、飽きることなく、私の勉強の邪魔をしにやって来る。ヒュー、あんた、どんだけボッチだったんだ。てゆうか、私とだけ遊んでたら友達増えないよ? いいの? おねーちゃん心配。
そんな理由から、最近は図書館に行く際に、最低限の荷物しか持って行かなくなっていた。
だってどうせ邪魔されるし。数枚の紙とペンだけで十分じゃない? どうせこの紙も、半分ぐらいはヒューの落書き用として消費されるだけなんだけど。
「これ、おねえちゃ描いたの!」と差し出してくるヒューが超可愛いんだよ。差し出される絵は、どの角度から見ても人間に見えない物体が描かれてるけど、「わー上手上手」と一応褒める。うん、別に画家になれとか思ってないから、画力なんてどうでもいい。笑顔が可愛いから、別にいい。あれ、これ親馬鹿……じゃなくて、姉馬鹿?
もはや図書館に通う本分を見失っている気がしないでもないが……でもまあ、あと一年もすれば、ヒューも学園に入学する。そうなったら、また静かに勉強する日々の再開だ。そこから巻き返せばいいだろう。今は、ちょっと息抜きの時だと思おう。
さて今日は、何のお菓子を持ってってあげようかな。
******
私は図書館には基本、朝に来て、夕方に返る。昼食は持参して、中庭で食べたりしている。いちいち帰る時間がもったいなくて。
最初のころは午前中だけ来ていたヒューたちも、いつの間にか昼食を持って来るようになっていた。昼で帰ってくれれば、半日だけでもまともに勉強できるのに……! と思っていたのは序盤だけ。私の分の昼食も持って来てくれたので、許した。はい、餌に釣られました。お貴族様のピクニック的なお昼ごはん、美味しかったです!
いや、そんな事を言いたいわけじゃない。
もうすぐ昼になるというのに、ヒューが来ない。
今までにも、ヒューが風邪を引いたとかで、来ないことはあった。でも、わざわざ侍女さんがここまで連絡に来てくれていた。ついでに私の分の昼ごはんを持って。いや、ごはんから離れようか。
そんな訳で、連絡もなしにこの時間まで来ないというのは、初めてで。
何かあったのか、それとも―――飽きた、のか? 私に、飽きた?
おお、これが、これが捨てられた女の気持ち……! 恋愛もしてないのに、捨てられた女の気分が味わえた! お得!
……嘘です。ちょっと寂しい。いや、結構寂しい。せめて、せめて「もう来ない」の一言ぐらいあっても良くないですかね?! 放置は切ない! せっかく静かなのに、陣を描く手が進まない! メンタル弱いな私!
そう悶々としていると、閲覧室のドアが開き、いつもの侍女さんが息を切らせて飛び込んで来た。
来た! 来たよ! 捨てられてなかった! ……いや、まだ油断はできないけど。
「シー……デ、さん。ぼ、っちゃ……が」
「だ、大丈夫ですか? ちょっと、ゆっくり、息を整えてください」
肩で息をしつつ言葉を発しようとする侍女さんを、落ち着かせるべく近寄ると、逆に手首をガシッと掴まれ。
そのまま部屋の外へ引きずり出され、気が付けば引っぱられながら走る羽目に。
ちょ、待って、どこ行くの?!
******
侍女さんに手を引かれ連れ出されたのは、図書館の外。
図書館の真ん前にどかんと停められたヒュー宅の馬車(超でっかい)に、押し込まれるようにして乗り込むと、そこに、怪我をしているらしき護衛が座り込んでいた。傍らに居るのは、その白衣からして医者だろうか。
「ちょ、どうしたんですか?! いったい何が?!」
一緒に乗り込んだ侍女さんを見るが、彼女はまだ息が整わず、言葉が出てこないようだ。私? 鍛えてるから、あの程度の走り、何の影響もありません。
「るせぇ。怒鳴んな」
護衛が、いつもより少し掠れた声を私に向ける。いや、いつも怒鳴ってる人に言われたくないし。
「聞け。坊ちゃんが、攫われた」
「……は?」
まるで吐息のような、間抜けな返答をしてしまった。待って、今、何て?
「ヒューが、何ですって? 触られた?」
「攫われたっつってんだろ! 誘拐されたんだ何度も言わせんじゃねえよクソガキ!!」
「どっ、どういう事ですか?! 誰に?! 何で?!」
「簡単に話す。今日ここへ来る途中、襲撃に合った。馬車に魔法を打ち込まれた上で、斬りかかられた。俺は、坊ちゃんを守り切れなかった。坊ちゃんは、襲撃者に連れて行かれた」
待って。
待って!
誘拐?!
ヒューが攫われた?!
「うそだ。嘘ですよね? ……嘘ですよね?!」
「……ぜんぶ、俺のせいだ」
縋るように見つめると、目を逸らさぬまま、彼は、それが真実であると告げた。
どうして。どうしてヒューが。
……違う。動揺してる場合じゃない。
「それで、あなたは、どうしてここへ?」
医者の付き添いが必要な程の怪我をしているというのに、なぜわざわざ私の所へ来たのか。
「テメェにやらせてえ事がある」
そう言う彼の目は、恐いぐらいに真剣で。
「私に? 何ですか?」
「テメェがやってる魔術で、坊ちゃんの居場所を割り出せ」
「……魔術は、万能じゃない。ましてや、私が知ってる事なんて、たかが知れて」
「うるせえ! テメェの弱音なんざ聞いてねえ! 何とかしやがれっつってんだよ!」
「えらっそうですね本当に! できる事とできない事があるって言ってるんです! 私は、誰かの居場所を探すような術は知らない! そんな術があるのかどうかも知らないんです!」
そんな術があるんなら、誰か今すぐ私に教えて!
「あるじゃねえか!」
「は?!」
「俺が協力してやって実験しただろうが! あの転移の術なら、坊ちゃんの所に飛べるんじゃねえのか?!」
「あ……」
忘れてた。
『紙に込められた魔術パターンの主の元への転移』の陣を実験したことがあった。あまりにも使い勝手が悪い術に仕上がったせいで、記憶の隅に追いやってた。でも、ヒューの魔力パターンなんて……って、そうだ!
肩から下げていた鞄の中を慌てて漁る。確か、この内ポケットの中に……。
「あった! ひゃっほうあった! イケる! 取っといて良かった!」
実験の際、ヒューに魔力を込めてもらった紙は、結局使わなかった。それを、鞄に入れたまま忘れ去っていた。隅っこに『ヒュー』と書かれたその紙を取り出し、立ったまま話していた私は、思わずその場でくるりと一回転。これでヒューのとこに行ける!
「回ってる場合じゃねえだろとっとと陣を描きやがれクソが! 一刻を争うんだぞ!」
護衛の容赦ない罵倒に、頭が冷える。
そして、湧いてきたのは、疑問。
「……あなたの懸念は、どこにあるんですか?」
「ぁあ? いいからさっさと」
「あなたは、誘拐犯の目的が何か、知ってるんですか?」
「……っ」
「怨恨からだったら、その場でヒューは殺されている可能性が高い。でも連れ去られた。こういう場合は金銭目的、もしくは人身売買の可能性を疑いませんか? そのどちらも、一刻を争うというほどではないはずです。もちろん、急いで探し出すに越したことはありませんけど、数日程度の猶予はあるはず。あなたはなぜ、一刻を争うと断言したんです? どうして、怪我を押してまでここへ来たんですか?」
「チッ……犯人の目的が、金銭でも、人身売買でも無いと思うからだ」
ああ、嫌だ。
ものすごく、嫌な予感が、する。
「……それはもしかして、性的な話、ですか?」
こんな予感は、外れてほしい。頼むから。
「てっ……めぇは、ほんとにガキかよ。しれっと嫌な単語ブッ込みやがって」
「当たりかよクソが死ねや犯人……」
「ぁあ?! てめっ、今なんつった?!」
「空耳です。それより、そっち方面が犯人の目的だと思う、根拠はどこに?」
「犯人が、単独だったからだ。金絡みなら、確実を期す為に複数人で行う事が多い。人身売買なら尚更、組織立った犯行になる」
「でも単独だった。つまり、そいつの目的はヒュー自身、という推測ですか」
「そうじゃねえ事を願ってる。だが、願ってたところで埒は明かねえ。だからここへ来た。急いで陣を描け」
「分かりました。床を借ります。あとひとつ聞きたいんですが、あなたは、短剣を持ってますか?」
「ぁあ? 一応持ってるが、それがどうした」
「いえ、ただの確認です。では描きますので、少し静かにしててください」
鞄からペンを取り出し、床に座り込むと、ヒューの魔力が込められた紙へ陣を描き込んでいく。急いで、でも、間違いのないよう確実に。
待っててね、ヒュー。すぐに、おねーちゃんが助けるから。
「―――っし、できました」
「描けたか! じゃあとっとと俺を送れ! もたもたすんじゃねえ!」
「は? あなたを送ってどうするんです?」
「どうするもクソもねえだろ! 俺が坊ちゃんを助けねえで誰が助けるっつうんだ!」
「しかし、今無理をしては、君の体が……」
そう食い止めようとする医者に、護衛の彼は叫び返した。
「俺の体なんざどうだっていい! 坊ちゃんを守る為なら、命なんざ惜しく無え! いくらだってくれてやる!!」
……何言ってんだこいつ。
「ばっかじゃないの」
「ぁあ?! ンだとテメェ!」
「命を賭ける? そんなのただの自己満足でしょうが」
「自己満足だと?! っざけんなこのクソガキが!!」
「命を賭けられた方の身にもなってみろっつうのよ。自分を助けるためにあんたが死んだとなったら、ヒューはどう思う? 一生癒えない傷をヒューに付ける気? あんたの陶酔じみた自己犠牲のせいで、今後ずっと辛い思いを抱えて生きていく事になるのがヒューにとって最良だとでも言うの?! ふざけてんのはあんたでしょうが!!」
「っ……!!」
ああもう、私にこんな、子供らしからぬことを言わせないでほしい。侍女さんと医者が、目を丸くしてこっちを見てるじゃないか。
でも、言わずにはいられなかった。自分を助けるため、誰かが犠牲になったなんて、あの甘ったれな天使には耐えられないだろう。ましてやあの子は、この護衛にかなり懐いていたから、余計に。
「あなたが今すべきなのは、医者の治療を受ける事です。分かったら大人しくしていてください」
両の拳を握りしめうつむく護衛に、そう告げる。
「……だったら、誰が坊ちゃんを助けるっつうんだ。俺以外の誰に坊ちゃんを助けられるっつうんだテメェは!」
折れない心を持ってんな、この人! 折れなさいよ!
「短剣、持ってるって言いましたよね? 何本あります? ちょっと見せてもらえますか?」
「ぁあ? こんなときに何言って」
「早く出してください。急ぐんでしょう?」
「何だっつうんだ……ほら、俺は長剣使いだから、短剣は念の為で二本しか持ち歩いてねえぞ」
ナイス! ナイス二本! 訓練で使ってる短剣より少し刃が長いけど、この程度なら支障はない。
「おい待てテメェ。何で自分の腰に差してやがる?」
受け取った短剣二本を腰の左右に差していると、それを見咎められた。時間がないんだから、絡んでこないでくれ。
「おいこら返事しやがれクソガキ!」
「うっさい黙ってろ」
「んだとゴラァ!! まさかテメェ、自分が行く気じゃねえだろな?!」
「てゆうか、もう行きますね」
「行かせるわけ無えだろクソが!」
怪我人だと、油断してたのがマズかった。あと、いくら広いとはいえ、ここは馬車の中。勢いよく伸ばされた護衛の腕は、あっさりと私の手を捕まえた。くっそ、この人の腕の長さが憎い! 縮め!
「テメェが行って何になるんだ! 死体が増えるだけだろうが!」
「ちょ、不吉なこと言うの止めてもらえませんか馬鹿なんですか脳味噌詰まってないんですか口から出す前に考えるってことしなさいよこの脳筋が!!」
何で死体になること前提なのよ。
「テメェが死んだらそれこそ坊ちゃんが悲しむだろうが! さっき俺に偉そうに言った事は何だったんだ!」
「分かった、分かりましたから、一旦落ち着いてください。ふらふらしてるじゃないですか」
血が足りていないのか、体がぐらついてる。背中を馬車の壁に預け、眉間に皺を寄せている様は、どう見ても辛そうだ。だが、手はガッチリ掴まれ、振りほどけそうにもない。この野郎……。
「テメェが行くぐらいだったら、怪我人の俺が行った方がまだマシだ。やっぱ俺を送れ。異論は認めねえ」
「……じゃあ、死なないでもらえます?」
「ぁあ?」
「死なないと、約束してください」
「……分かった。約束してやる。死んだりしねえし、坊ちゃんも助ける。これでいいか」
「不安ではありますが、良しとしましょう。じゃあ、支度してください。靴、履いた方がいいんじゃないですか?」
足にも怪我を負っていたようで、ブーツを脱ぎ素足でいた彼に、用意をするよう告げる。
「ああ、そうだな」
そう言い、私の手を放し、護衛は馬車の隅に置かれていたブーツを引き寄せ、足を入れ―――るために、下を向いてる今がチャンス!
ガツッ!
―――どさっ。
両手の平を合わせ、振りかぶり、無防備な護衛の首筋に打ち込んだ。
結果、彼は物言わぬまま、床へと崩れた。前傾姿勢のまま落ちたから、デコ打ったかもな。ま、些細なことだ。
「な?! ななな何をするんだ?!」
「シーデさん?!」
医者と侍女さんが悲鳴じみた驚愕の声を上げる。
「こうでもしないと、聞かないじゃないですか、この人」
「でもっ、じゃあさっきのやり取りは何だったの?! 彼を行かせる気になったのではなかったの?!」
「油断させるための嘘に決まってます。こんなふらっふらな怪我人、何の役にも立ちませんよ。連れて帰って治療してやってください。何ならベッドへ縛り付けてやった方がいいですよ。暴れると治療にならないでしょうから」
後半は医者へと向けたお願いだ。目を覚ましたら、ヒューを探すとか言って無理しそうなんだもん、この人。
「じゃあ、坊ちゃまはどうなるの?! 誰が坊ちゃまを……!」
「えっと、私、確実じゃない約束はしない主義なんです」
「それはどういう意味?!」
「だから、何も約束できません。でも、自分にできるだけの事はします」
「ま、待って、シーデさん、あなたもしかして」
「じゃあ、行ってきます―――転移」
侍女さんが伸ばした手が触れる前に、私は、助けるべき可愛い天使の元へと転移した。
私が己の迂闊さを呪い、痛みに呻くことになるのは、すぐ後の話。