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歌に名は

作者: 天野 進志

 カウンター越しにあるキッチンも温まったようだった。

 美味しそうな音に乗せて、妻が歌を口ずさんでいる。

 たまの休みに、一緒に摂る妻の手料理は、いつも私を元気づけてくれる。

 私は本から顔を上げ、楽しそうなキッチンの妻を見やると、その歌に耳を傾けながら再び本に目を落とした。


 大学を出、会社にも仕事にも慣れてきた頃だった。

 甘い予想とは裏腹に、仕事の責任や社会人という重たさは、心の視野を狭くしていた。

 その私が心の平衡を保っていたのは、帰宅に向かういつもの駅のいつもの場所で歌う彼女のお陰だった。

 彼女は駅から少し離れた所で、ギターを片手に流行りの歌とその合間に自作の歌をポツリポツリと歌っていた。

 決して美人とは言えない顔立ち。

 せめて愛想があれば何とかなりそうなものを、野暮ったい服に身を包み、自分にこもっているような歌いぶりで、足を止める者などいる訳もなかった。

 だが私は彼女に、自分と重なるものを感じていた。

 目の前、自分のことで精一杯で、周りを見渡す余裕なんてない。

 朝は押し潰されるような気持ちで仕事に行き、夜は疲れってそのまま倒れるように寝る。

 流行りの歌を歌うようにその場の空気に合わせてみても、一人になればどうして仕事をしているのか、危うい傾きの自分自身を説得する。

 流行りの歌を歌い、時にオリジナルで自分を歌う彼女の姿は、私そのものだった。

 だが彼女は、それを人前に出すだけの勇気があった。

 私は彼女の歌を聞き、自分をなぐさめ、心を取り戻していたように思う。

 何度も足を運ぶうち、数少ない聴衆として彼女も私のことを覚え、お互いに声をかけ合うようになった。

 お互いのことは何も話さない。

 世間話、歌のことなど小さなことだけ。

 私は彼女の歌を聞くと「ありがとう」と言い、時に彼女の自作の歌をリクエストし、口ずさみながら帰ることもあった。


 ある日の事だった。

 残業を終えて駅に向かうと、いつも以上に顔をうつむけ、ポツリポツリと歌っている彼女がいた。

 彼女は私に気がつくと顔を上げ、寂しそうに笑った。

 私は彼女を見、「大丈夫?」と聞いた。

 彼女の額に、暗がりでも見て分かるキズがあったからだ。

 彼女は黙ってうなずいた。

 「今日で、最後なの」

 私たちの後ろを早足に人々が通りすぎて行く。

 「ここ、出て行くの」

 彼女はもう一度、寂しそうに笑い、頷いた。

 それは自分への頷き、決心のように見えた。

 「だから、最後に会っておこうと思って」

 語りかけるような目で、彼女は言った。


 その日、私は彼女と一夜を共にした。

 枕越しに彼女は、自分の夢を語ってくれた。

 いつか自分の歌が、知らない誰かに口ずさまれるようになりたい。

 そして私がいつもリクエストしていた歌を最後に寂しく、しかし、嬉しそうに口ずさんだ。


 次の日から彼女を見かけることはなくなった。

 今どうなって、どうしているのかー。


 知らないうちに私は、その懐かしい歌を妻に合わせて口ずさんでいた。

 私の声が聞こえていたのだろう、妻が珍しそうに笑いかけた。

 「この歌を知ってるの?流行りの歌なんて興味ないかと思っていたのに」

 妻が料理の手を止めて、こっちを見ている。

 「ん、少しだけ」

 私の思い出の片隅で、じわりと幸せがにじんだ。

 私は本を置き、立ち上がった。

 「たまには手伝うよ」

 「どうしたのよ。何か隠し事でもしてるの?」

 妻が冗談っぽく言う。

 「いや。その代わり、その歌教えてよ」

 私は妻の隣に立った。

 曲名さえ知らないその歌。

 『おめでとう』

 私は心の奥から、彼女にその言葉を送った。

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