天国に行く人間はいない
全ての人間の中で、死後にいい目を見たいと思わない人間がいるだろうか。天国は行くべきものであり、地獄は行くべきものではない、とは固定した思想である。
死後の報酬を確固たるものとするため、人々は生きている間努力する。天国に行く条件は、多くの場合善人であることであると思われる。何が善人であるかというと、それはしばしば宗教の戒律を守ったり、宗教にかなった行為(意味深)を尽くしたりすることだったりする。
宗教のためになす善行は、それは他の宗教を実践している人にとってはまるで悪行でしかないことが多々ある。そんなことのために善人と呼ばれるのはたまったものではなかろう。もっともこれは宗教以外、例えば国家のためになす行為についても同様である。
善人になろうとして、善を行っているはずの者が、全く逆の結果を招いていることが時としてあるのはなぜか。人間は自分を察ることにかけては他人を察ることより甘いだろうから。
善人に見えてもある部分への傷を探ろうとすると、結局この人は悪人ではないか、と思うことなどしばしば。
たとえ善に向かって努力しようとしていても、身近な悪については見過ごしがちである。
僕自身、自分の悪行を探れば探るほど、悪行ばかりが出てきて、とてもその全てを反省しきれそうにない。もしかしたら、自覚していない悪行もあるかもしれない。そこまで考えつくと怖ろしいことだ。
そもそも人から嫌われている時、それが不当なものかどうか確認するすべがあるのか。自分が不当に感じても人からすればそうなって当然、ということがありはしないか。
一体どこにいい人がいるのだ。悪い奴らばかりではないのか、この世界は。
悪い人間同士で、善人か悪人であるかを、決めつけるとは、これこそ地獄。
そのくせして、死んだ後はそう悪い目は見ないだろう、いい世界に行きたい、と僕は期待しているのだ。
そのように考えて行くと、天国に行く人間などいない。いや、天国はあってはならない。そんなものは自分が正義であると信じて疑わない人間が造りだしたものだ。そして、あってほしいことは、死後の世界は存在しないということ。少なくとも天国と地獄という二分法は嫌だな、と思う。
それを考えると、輪廻転生説と言うのはなかなかよくできてるなあ……