第6話 悪夢の世界
悪夢の世界
口が耳まで裂けた魔物が、俺に向かって鋭い爪を振るってきた。
飛び退いてかろうじてその攻撃を避けた。
かわしたとほっとしたのもつかの間、魔物が真正面に飛び跳ねてきた。
魔物の鬼気迫る表情が目の前に大写しになった。
飛び散る粘りっけのある汗と腐った口臭をまともに浴び、俺は心底いまいましく思った。
だが、俺の感じているこの瞬間は、現実ではない。
はっきり言えば、夢の中の出来事だ。
リアルの俺は、今頃は全身に電極を取り付けられ、経過を記録している研究員と看護士に見守られながら熟睡中だ。
だが、この目の前の光景は、それが夢であるとは思えないほど真に迫っていた。
いや、実際には夢とは言い切れない。
なぜなら、この世界で死ねば、状況によっては本当に死ぬこともあり得ると聞かされたからだった。
ーー死ぬ。
正直言って、言葉ではしょっちゅう耳にするこの響きが、今までこんなに身近に感じられたことなど、生まれてこの方ない。
幸いにも今まで生きてきて、死ぬほどの病気や事故とも無縁だったし、入院したことと言えば、腕を骨折したぐらいで死の憂き目にあう事態など一回もなかった。
だから、今に至るまで生死の縁に立ったという経験は全くなかったのだが・・・。
現実では想像もしてなかったその瞬間を、皮肉にも夢の中で体験しようとしていた。
冗談じゃない!
こんな訳の分からない所で、訳の分からない状況のままで死んでたまるか!
俺は気合いを入れなおす。
目の前にあった野球のボールぐらいの大きさの石を手に取った。
これを思いっきり魔物に向かって投げつけた。
普段はコントロールは良くなかったが、このときはたまたま運良く魔物の足に当たった。
「グギャ」
と叫び声をあげて、魔物は飛び退いた。
俺は目の前の魔物から、離れて様子をうかがった。
これで逃げてくれたらいいのに、と思ったが、魔物の足はみるみるうちに傷が元に戻っていく。
どうなってるんだと戸惑っている間に、すっかりダメージはなくなっていた。
ここは夢だから、こっちの攻撃は意味がないとか?
それとも特殊な武器でないと効かないとか?
俺がそんなことを考えている間にも、魔物はすっかり体勢を整えていた。
魔物の方も俺を警戒しているのか、すぐには襲ってこない。
「グルルルルルル」
とうなり声をあげながら、鍵爪の生えた両手を掲げ、俺を威嚇していた。
改めて観察すると、大きく裂けた口から見えるよだれにまみれた犬歯、狼のようにとがった耳、つり上がった細い目に赤い眼球が油断なく俺を睨んでいた。
体中を緑の鱗が覆い、二本足でいそがしく足を動かしながら立っている。
昔見たグレムリンという映画に出てきた魔物によく似ているが、大きさはあれより大きく五歳児ぐらいもある。
確か出発前のレクチャーでは、この魔物をインプとか言っていたな。
いや、夢世界の生物だから、夢魔になるのか。
まあ、名称なんかどうでもいい。
俺はこの悪夢に入ったとたんに、このインプとかいう夢魔に襲われ、絶体絶命の危機に陥っていたのだ。
俺とインプはしばらくにらみ合っていた。
インプは今にも飛びかかってきそうな様子を見せていたが、得体の知れない存在、つまり俺を見て、こいつの強さがよく分からないとでも思ったのか、警戒しているようだ。
もし、俺の真の実力、攻撃能力なしのうえに地の利もないと気づかれたら、俺の命は風前の灯火だ。
だから、俺は最善の方法を取ることにした。
曰く、三十六計逃げるに如かず。
俺は回れ右をすると、一目散に逃げ出した。
「キィーーーーーッ!」
と甲高い声でがなり立てながら、インプが後を追ってきた。
俺は岩だらけの荒野の大地を無我夢中で駆けた。
俺はようやくインプをまき、岩山の陰でひっそりと隠れ潜んでいた。
隙間からこっそりと覗くと、インプたちが俺を捜しているのが見えた。
しかも、厄介なことに特有の甲高い
「イィーーーーッ」という声を発している。
この声で仲間を呼び寄せているのは明らかだった。
しだいに上からインプどもが舞い降りて来た。
数にして十数匹、事態は悪くなる一方だ。
「どうする?」
俺は自分自身に質問した。
このままここに留まっていても状況がよくなるとも思えない。
かといって迂闊に逃げ出せば、見つかって集中攻撃されるのは目に見えている。
悪夢へのダイヴ前に行われたレクチャーでは、ここでは攻撃を受けてたとえ殺されても、普通死ぬことはないそうだ。
ただし、問題は死に方による。
急所を攻撃されて致命傷に至ったときに、死を迎えることになるというのだ。
つまり、心臓や脳を直撃されて絶命したときのみ、現実でも死んでしまうということだ。
「とりあえず、夢の中なら自分の思い通りになるんじゃないのか?」
俺はそう思って、夢の中でいつもやっているように武器を創り出そうとした。
普段見ている明晰夢なら、自在に好きなことが出来るはずだったが・・・・・・。
「やっぱり、ダメか・・・」
俺の手にはオモチャのプラスチック刀の方がまだマシといった代物しかできなかった。
この悪夢の中では、俺の意識が全く通じない。
「そもそもここは何なんだよ! 誰の、何の夢なんだ!?」
思わず俺は大声でグチった。
そんなことをしても何の解決にもならないばかりか、敵の注意を引きつけるだけに過ぎなかったが・・・・・・。
「出発前に何の注意も受けてないぞ。悪夢を調べるとか言って眠らされたら、こんなことになりやがって・・・、どうしたらいいんだよ?」
結局俺ができることは、助けを待つこと、それまでは逃げることしかなかったのだった。
さんざん考えたあげく、また最初の結論に堂々巡りしていた。
「ゲームみたいにリセットできないものかな。詰んでるだろ、これ」
俺は一人でつぶやいた。
その時だった。
いきなり俺の目の前にインプが飛び降りてきた。
空から見ていた奴らが俺に気づいたのだ。
しかも、三匹も。
お終いだ。
一度に三匹など相手にできない。
俺は死にものぐるいで逃げ出した。
俺が物陰から出て走りだしたのに気づいて、インプが例の高音の声で仲間を呼んだ。
すぐに岩山の陰から、インプの群が俺を追ってきた。
うごめく蟻のように丘を降りてくるインプたちは、ホラー映画のワンシーンさながらだった。
追いつかれたら、なぶり殺しにされる。
とにかく逃げて逃げて逃げて、気が付けば俺は高台にいた。
下を見れば周り全体からインプたちが押し寄せてきている。
もう、逃げ場などなかった。
俺は天を仰いだ。
これで俺も終わりか、と。
なんで俺一人のために、ここまで大勢で押し寄せてきてるんだよ。
そこまでする必要あるのか。
人員の無駄だろうが。
俺はそう思いながら、この光景を他人事のように眺めていた。
岩の陰からインプたちの姿が見えてきた。
すでに岩山を登り切った連中が、高台の上までやってきたのだ。
インプは俺をめざとく見つけると、一目散に襲いかかってきた。
俺は思わずうつ伏せになり、手で頭を覆った。
そんなことをしてもただ死ぬのが、ほんのちょっと遅くなるだけだと分かっていたけれど。
「ギエエエーーーーッ」
という叫び声とともに、インプたちの群が容赦なく鍵爪で俺を突き刺し始めた。
痛みが全身に伝わり、俺は絶望の悲鳴をあげた。
「もうダメだ」
俺は自分の死を覚悟した。
何の前触れもなく、急に攻撃がなくなった。
上に乗っていたインプどもの動きが止まっていた。
ぐらりと体が揺らぎ、全員がドサッと地面に倒れた。
俺は驚いて周りを見回した。
袴姿の少女が俺の前に立っていた。
肩まで伸びた流れる黒紫の髪が風にたなびいていた。
少し大きめで切れ長の目だ。
整った鼻筋から桜色の小さな唇がキリリと結ばれている。
意志の強そうなきつい表情を浮かべているが、整った美しい顔と凛々しさはどんな人も引きつけそうな魅力があった。
何よりも目を引いたのは、その服装だ。
袴姿の上は白の和装、下は黒いゆったりした袋状ズボンになっている。
どこかで見たことがある。
どこだったか…。
俺は昔の記憶からこれまで見た女の子の映像を引っ張り出した。
……思い出した。
初めて日向と出会い、一緒にいたときにビルの下でちょっと見かけた子だ。
この荒野の世界でその姿は、俺には女神が舞い降りたかのように思えた。
少女は俺を見ると、少し髪を上げた。
耳に掛かっていた髪の毛がかきあげられ、ほのかな香りが漂った。
「君は一体…?」
「和泉瑞穂」
小さいけれどはっきりした澄んだ声だった。
その声は安心感とともに俺の胸にじんわり染み込んでいった。
俺が礼を言おうとして口を開く前に、和泉は早口で、しかしよく響く口調で俺の目を見て話しかけてきた。
「武蔵尊君とか言ったわね。みんながあなたを捜している。それまで私が持ちこたえる」
「持ちこたえるって、どうやって?」
俺の問いに和泉は短刀を見せた。
小振りの単純な木の柄に鋭い刃が付いていた。
これでインプの喉元を一閃したのか。
それにしてもあの瞬間で数匹のインプを絶命させる腕前は、はっきり言ってすごい。
戦い慣れているというか、場数を踏んでいるのか、とにかくかなりの経験をここで積んでいることは明らかだった。
それでも数十匹のインプを二人、いや俺は戦力に入らないから、たった一人で迎え撃つというのは、ほぼ無理ゲーに近い。
「そんな武器じゃ、ちょっと苦しいんじゃ・・・」
俺がそれ以上の言葉を口にする前に、和泉は手に力を集中していた。
やがて手から光り輝く物体が現れ、しだいに長細い形を帯びていく。
半円形に外側がしなり、ピンと張った弦が両端にしっかり結ばれている。
2メートル以上、和泉の身長より長い大きな白い弓が現れた。
その手には矢筒が握られており、美しい矢が少なくとも12本は入っていた。
「これなら問題ないわ」
和泉はそう言い放ち、キッと前を向いた。
その姿は神話に出てきた戦いの女神が甦ったかのようだ。
和泉は弓を左手に、矢を右手に持った。
一番近くまで迫ってきていたインプを真っ正面に捉えた。
そのまま、左足を軽く前に踏み出した。
右足をくっと開き、右に90度踏み開いた。
左足も同じように右に揃えた。
体は右の方になっているのに、狙いはそのまま真っ正面を捉えている。
弓を正面に構え、膝辺りに下ろしていた切っ先を前へと向けた。
右手には手を守るための革手袋が取り付けられていて、その親指辺りに弓の弦を当てた。
よく見ると矢の後ろに縦に溝が入っている。
そこに弦を引っかけた。
そのまま思いっきり引き延ばした。
思ったよりも後ろまで引き、和泉の後頭部よりも深い。
まるで和泉が両手を広げるかのように軽々と弦が広がっていた。
あのまま引くと耳に当たるんじゃないかと、見ているこっちが不安になるほどだ。
和泉が弓を引いたことで改めて気付いたが、和弓は弓の中央で打つんじゃなく、下から三分の一あたりで打つということを知った。
和泉の動作がいったん止まった。
獲物を狙う肉食獣が飛びかかる前の溜めのように、タイミングを伺っていた。
一瞬の静寂の後、シュッと音が響いた。
ビンと空気を切る音がして、弦がしなった。
同時に狙いを付けられたインプの頭に矢が吸い込まれ、脳髄まで深く貫いていた。
「キシィーーー」
という悲鳴があがり、そのまま下に落ちていきながら悲鳴はかき消えていった。
「す、すごい・・・・・・」
俺は呆然として和泉の矢を放つ姿に見入っていた。
魔を打ち払う巫女のように、その姿は神々しく見えた。