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後編

 

 



 バルコニーから熱を孕んだ赤い空を見上げ、わたしはうっとりと息を吐きました。


 今日はわたしの、二十歳の誕生日です。


 誰にも言ってはいなかったから、それを祝うのはわたしだけ。

 最高の贈り物を目の前にして、抱きかかえるように両腕を広げました。


 炎に舞い上がる血の匂い。

 ここまでは聞こえない怒号と悲鳴。

 それに微笑んでしまえるということは、わたしはもう、すっかり変わってしまったのでしょう。


 ここにくるまで、わたしは少しずつ自分を削り取って前に進んできました。

 終焉という結末に。

 目立たないところから始めた浪費はどんどん国庫を食いつぶし、それを補うために税を上げ、権力欲ばかりで仕事のできない人間を重要なポストに就かせては漏れ出る不満を踏み潰しました。

 国を憂う優秀な人々も、多くいました。彼らにはことごとく難癖をつけて陥れ、失脚させ、投獄し、あるいは家ごと取り潰させて。敵対派に擁立された姉姫を処刑に追い込んだ頃には、もはや恐怖政治といってもいいほどの体制が完成していました。


 ――ここまで来れば、もう後は、わたしが何かをする必要もありません。

 雪崩のように自壊を始めたこの国が、他国に攻められるのを待つだけでした。


 もうどこにも戻ることはできない。

 わたしはもうどこにも行けない。

 それでもいい。こうして、望む復讐を遂げることができたのだから。


 今日、この国の名前は地図から消えるのです。

 そして歴史に刻まれる。

 異なる世界から災厄を招いた、愚かな国として。


 もう二度と、わたしみたいな人間が出ることはないでしょう。

 ここまで徹底的に悪名を轟かせたのです。異世界召喚なんて馬鹿な真似をする国が出てくるはずがありません。


 深い満足の息を吐いて微笑み、懐から硝子の瓶を取り出しました。

 「傾国」の最後といえば、自害と相場が決まっています。

 最後の幕をこの手で下ろすために、わたしは毒の蓋を抜きました。


 瓶の向こうに見えるのは、炎に包まれたファラドエイル。

 そのとき初めて、わたしはこの国を美しいと思ったのです。










 目を開けると、すっかり見慣れてしまった天蓋が広がっていました。


「……これで夢オチってどうなの……」


 寝ぼけ眼でぼんやりしながら、わたしは、「誕生日ってどうやって計算したんだろう」とどうでもいいことを考えていました。

 なにしろ暦が全く違うので、実際いつが誕生日なのかは全く分かりません。三百六十五日かける年数プラス閏年日数で六年分数えてみたんでしょうか。

 すごいなわたし。うんすごい。拍手してもいいです。


 それにしても、とてもリアルな夢でした。

 これからわたしが進むべき道を、そのまま懇切丁寧にシミュレーションしてくれたかのように。


 なんだか疲れてしまって、身体にずっしりとした重さを感じながら身を起こしました。

 サイドチェストの引き出しをあけると、メタリックピンクの筐体がそこにありました。

 見ないですむようにしまい込んでいたスマートフォン。

 ひんやりした重みが、この世界にはない感触を手のひらに与えて、胸を締め付けます。

 無駄にだだっぴろいベッドの上で膝を抱え、わたしは久しぶりにスマホの電源を入れました。


 他愛もないメールのやりとり。

 漫画の貸し借りだとか、今度カラオケに行こうだとか、あのアイドルの新曲は微妙だっただとか、どこそこのメーカーのリップがいいだとか、お母さんからの早く帰りなさいメールだとか。

 あとは……誕生日おめでとうという、数少ない友達からのメールだとか。


 ちなみに話したこともない男子や見知らぬお兄さんからもなぜだかおめでとうメールが届いていたのですが、メアドを教えた覚えは一切ないので読みもせずゴミ箱行きでした。

 ……あれ。もしかしてわたし、元の世界でも結構めんどくさい状況なんじゃ。

 いやいやいや。ここまでアレな感じの人はせいぜい十人に一人ってとこでした。


 うっかり気付きかけてしまったそれはその辺りに放り投げておくとして。

 ――だから見ちゃいけなかったんだと、泣きたい気分になりました。


 電池残量が気になったからなんて言い訳です。

 見てしまったら、そっちに引っ張られてしまうから。

 戻りたいと思ったら、復讐なんてできないから。悪女になりきる事なんてできなくなるから。


(泣くな……泣くな泣くな泣くなっ、泣くんじゃない!)


 爪が食い込むほど手のひらを握りしめて、奥歯を噛みしめ、わたしは自分を怒鳴りつけました。


 ――帰りたい。


 帰りたいよ。

 寂しいよ。

 どうしてわたしが、こんな目に遭わなきゃいけないの。


 この世界では、誰もわたしのことなんて見ていない。

 わたしがわたしである必要なんて、元の世界以上にどこにもない。

 どこかで変な力が働いて、わたしという存在に妙な引力を与えただけで。


 わたしが何を言ったって、何をしたって、わたしに対するあのひとたちの感情は微塵も変わらない。わたしがわたしである意味なんて、どこにもない。

 嬉しくなんてなかった。腹が立ったから全部壊してやろうと思ったのに、帰りたいという気持ちが溢れ出すと、自分が間違ってるんじゃないかって思ってしまう。


 ぐちゃぐちゃした感情に押し流されそうになって、枕に顔を押しつけてそれに耐えました。


 そのまま、いつの間にか寝てしまったのでしょう。

 気づけば窓から朝日が差し込んでいました。


 のろのろ起きあがって、重い足を洗面台の前に運びます。

 鏡の中のわたしはなんだかぼろぼろで、ひどい顔をしていました。

 大きなため息を吐いて、気を取り直すために頬を叩きました。


「……よし」


 腹は決まりました。サチなんとかさんに会いに行きます。








 緊張を飲み込んで扉を叩いたものの、しばらく反応が返ってきませんでした。

 気合いを入れてきただけに予想外です。ですが、留守だろうかと考えたそのタイミングで扉が開き、サチさんが顔を見せました。

 彼女は眠たげな目でわたしを捉え、不思議そうに首を傾げました。


「早かったね。どうぞ」

「……おじゃまします」


 時刻は昼近くになっていましたが、サチさんは周りの人の話に聞いたとおり、自室に籠もっていました。

 部屋の中は雑然としていて、そこかしこに走り書きされた紙やノートが無造作に積み重ねられていました。

 はっきり言えば汚いです。整理整頓とか張り紙したくなるレベルです。


 《智恵の託宣官》という名前の役職についているこの人は、わたしとは別の意味で、特別扱いをされているのだそうです。

 下手をすると一日中部屋から出てこないのだとか。

 それは別にサボっているのではなくて、彼女の《託宣》がそういう性質の――睡眠を必要とするものなのだと。


 わたしはこちらに来る前も来てからも、夢だろうが何だろうが神様なんてものにお目見えした覚えは一切ありません。しょっちゅう罵詈雑言吐いてるのに丸無視です。

 なので、神様なんてものは実際のところやっぱりいないんじゃないかと思うのですが。


 サチさんはわたしに椅子を勧め、思い出したように訊ねました。


「何か飲む?」

「え……いいです。喉、かわいてませんから」

「そう。じゃあそっちの用件を済ませようか。電池だけでいいよ、抜いて貸して」


 警戒して、すぐには動けませんでした。

 それを不安だと感じたのか、サチさんは肩をすくめて、差し出した手をひっこめました。


「大丈夫、本体に影響はない。データが飛ぶようなことはないから。原理は単純なんだよ。リチウムイオンを正極から負極に動かせばいい。電圧かけてもできるけど、魔法術式的には、安定した電圧を作るより化学反応式を実行する方が簡単なんだよね」

「……どうしてそんなこと、知ってるんですか?」


 固い声で問いかけると、彼女は眉を上げました。


「電池とか、携帯電話とか、この世界にはないのに。どうしてそんなこと、知ってるんですか」

「あたしの冠位は知ってる?」

「……《智恵の託宣官》、ですか?」

「そう。他の冠位と違って一代限りのね。つまり『智恵』ってのはこの世界のものじゃない。異なる世界の知識をこの国に還元するのが、あたしの仕事ってわけだよ」


 ひどい失望感に、わたしは言葉を失いました。

 ……少しだけ、ほんの少しだけ、期待していたのです。

 この人は、わたしと同じ世界の人なのではないかと。


 いいえ、もっとはっきり言ってしまえば――この人は、わたしが、元の世界に帰る方法を知っているのではないかと。

 そんな期待が打ち砕かれるのを感じて、また泣き喚きたい気分が喉をせり上がってきました。

 ここで泣いてはだめだと唇を噛み、わたしはうなだれて、スマートフォンを握りしめました。


「他に質問は? ないなら、こっちからも聞いていいかな」

「え……」


 内心、きた、と思いました。

 ここに呼び出した時点で、ただの親切であるわけがないのです。


「随分とあちこちで男を誑し込んでるみたいだけど。教えてくれないかな。今の自分の立ち位置がどんなものか、本当にわかってないの?」


 ぶつけられたのは、予想以上に直接的な言葉でした。

 わたしは瞳を揺らせ、傷ついたように首を振ります。


「そんな……ひどい、わたし、そんなつもりじゃ……」

「ふうん、そう」

「突然ここにつれて来られて、右も左もわからなくて……わたしが不安だったから、みんな優しくしてくれただけです」

「じゃあ、それがどういう事なのか、一から説明しようか。君にかまけてどいつもこいつも、ろくに仕事をやろうとしない。大事なお役目って奴を放り出して、君の周りに侍ってるわけだ。おまけに人の説得や説教を全く聞こうとしない。この状況が続いたら、何が起きると思う?」


 わたしは俯き、沈黙を守りました。

 どこまで読まれているのか分からない以上、下手なことを口走ってはいけません。


「まずは、その障害を排除しようとする。つまりは君を殺そうとするってことだね。……それがわかってるから、今このときまで、一人になろうとしなかったんだと思うんだけど。違うかな」


 息を呑み、わたしは逃げるように後ずさりました。

 やっぱり罠だった……!?

 そう。女性用の宿舎に、わたしを守ってくれる人を連れてくることはできなかったのです。彼女がそれを狙って釣り針を垂らしたのだったら、わたしはまんまとそれに引っかかったということです。


 だけど、どこかで、そうじゃないという気持ちも残っていました。


 この人は理性的です。

 犯人がはっきり分かってしまうような状況で、わたしを殺そうとしたりはしない。

 だから、これはただの脅しだと思うのに――手の震えが止められず、わたしは拳を握りしめました。


「ここで、わたしを……殺すんですか」

「いいや。とりあえずは、状況を理解して欲しかったってだけ。それで、できるならもうちょっと考えて、穏便に落としどころを見つけて欲しいね。君が悪いかどうかじゃない。誰かが簒奪を目論むより前に、誰かがその手順を踏むだろうって話だから」

「そんな……わたし、なにも悪い事なんてしてないのに……! なのにどうして、そんなこと……」


 喚き散らしたい思いを必死で押さえ、わたしは困惑した声で返しました。

 彼女はどこか、悲しむような目でわたしを見返しました。


「悪意があってもなくても変わらない。君はもう、純粋な被害者じゃない」

「わたしは……!」

「ねぇ、お嬢ちゃん。大人っていうのはきっと君が思ってるより、狡くて恐いものだよ。自分を切り売りするだけの覚悟はある? 命の危険にさらされながら、好きでもない男と寝るような真似ができるなら構わないけど、そうじゃないなら、もう少し考えた方がいい」


 悲鳴になりそうな声を飲み込み、わたしは唇を噛みしめました。

 どうしてそこまで言われなきゃいけない。何が分かるんだと、呼びつけておいて勝手な事を言うなと、心が大きく軋んでいます。


 混乱と衝動を押しとどめ、わたしは睨むようにサチさんを見据えました。


「わたしは……わたしは、信じてますから。わたしが知ってる優しい人たちは、わたしを傷つけたりしない。絶対にちゃんと守ってくれるって、見返りなんて求めるような人たちじゃないって。わたしのことはどう思われたっていい。彼らを侮辱するのはやめてください」

「……そう。それが答えか」


 わたしの演技を見透かしたように言葉を吐いて、彼女は目を伏せます。

 苛立ちに任せて踵を返し、扉に手を掛けたとき、力の抜けた声を背中にかけられました。


「充電の話は本当だから、気が変わったらいつでもどうぞ。あたしも、見返りは求めないよ」


 答えずに扉を閉め、大きく息を吐いて、わたしはおもむろに石畳の廊下を走り出しました。


 悔しくて腹が立って悲しくて、ぐちゃぐちゃになった感情が行き場もなく身体の中をぐるぐると回ります。

 叫びだしたいのにそんなことはできない。すれ違う人が驚いたように見てきましたが、構っている余裕はありませんでした。

 いつの間にか涙腺が決壊して、涙が次から次へと頬を伝い始めました。

 走ったせいだけではない息苦しさに喉を詰まらせながら、わたしはひたすらに、目的地に向かって走り続けました。


 たどりついたのは男性用の宿舎でした。

 入り口で管理人さんが驚いたように呼び止めましたが、わたしはぼろぼろ泣きながら「急用です!」と叫んで突破しました。

 部屋番号は頭に入っています。

 今日は久々の非番で、でも出かける予定もなく部屋で仕事をしているという情報もとっくの昔にゲットしています。

 その人の部屋の扉を、力任せに叩きました。


「ハース! いるのはわかってるんだからさっさと出てきて!」


 部屋の中で何かを倒すような音がしました。

 あわてた足音が近づき、いらいらと睨んでいた扉が放たれます。

 泣き顔で怒っているわたしを見て、普段着姿のハースさんはあからさまに狼狽えました。


「マ……マナミ!? 一体どうして――」

「いいから入れて。おじゃまします!」


 問答する気ははなから一切ありません。

 ハースさんを押しのけるように部屋に入り、切れた息をぜいぜいと整えて、それから、唸るように言いました。


「部屋貸して。そんで出てって」

「は……!? いや、ちょっと待ってくれ。何がしたいんだ」

「いいから出てって! でないと、ハースさんに襲われたってあのお姉さんに吹き込んでやるから!」

「おい!」


 あわてるハースさんをぐいぐいと部屋の外に押し出し、ついでに鍵をかけて完全に閉め出します。

 もっと怒られるかと思ったのですが、ハースさんは何度か扉を叩いた後、思ったよりもあっさりと諦めました。

 何を言っても逆効果だと思ったのでしょう。

 盛大なため息を吐き、扉越しに呼びかけてきました。


「……わかった、しばらく留守にする。頼むから、あまり荒らさないでくれよ……」


 知ったことではありません。

 床にへたりこんだまま答えないわたしに、もう一度ため息を落として、足音が遠ざかっていきました。


 わたしの部屋では、王子様あたりの入室を止めることができないのです。そんなところでわんわん泣けません。

 邪魔されないところで一人になれたら、思う存分、泣こうと思っていました。

 それなのに、どうしてでしょう。ぼろぼろと溢れてくる涙は一向に止まらないのに、泣き叫ぶだけの気力が出てきません。

 全力疾走したせいで落ち着いてしまったのでしょうか。それにしては本当に、涙腺が壊れたんじゃないかってくらい涙がどばどば出てくるんですが。


 どのくらいそのまま床に座り込んでいたでしょう。

 わたしはゆっくりと息を吐き出して、両膝を押さえながら立ち上がりました。


 色々ひどいことを言われたのは腹が立ったけれど、どうせあれって挑発なんです。しっぽ出させようとしたんです、きっとそうです。

 っていうか挑発じゃなかったとしても、これくらいどうってことないです。女の人に嫌われるのなんて慣れっこなんだから、いちいち傷ついたり怒ったりする方が無駄だって、分かってるはずなのに。


 なんだかすごくくたびれました。よっこらせ、と親父くさいかけ声も出てきます。


「はーあ……とりあえず家捜(やさが)しでもするかー……」


 脈絡がないなんてことはありません。だってまだ泣き止めてないので、それまで暇つぶしをしないといけませんから。

 ああいう人畜無害っぽくて真面目そうな人ほど妙な性癖があったりするのです。

 ちなみにこれは、おくてだと信じていた彼氏の部屋で金髪巨乳もののエロ本を発見してしまった実姉(推定AAカップ)の受け売りだったりしますが。ご愁傷様です。


 とりあえずタンスの中からタオルをゲットし、ベッドの下と枕の中と、マットレスの隙間と、本棚の本の中身を一通り探してみたものの、びっくりするくらい面白いものは見つかりませんでした。


 なんでしょうね、婚約者の写真でも枕元に忍ばせとけばいいと思うんですけど。微妙に使用済みだったりしたらもう爆笑してあげたんですけど。

 うーん、面白くない。

 お宝の隠し場所って他にどこかあるでしょうか。経験値が少なくて思いつきません。


 というかいまだに涙が止まらないんですけど、これどうしたら。

 泣きすぎてちょっと頭が痛くなってきました。

 気分は大分落ち着いたのに、頭がぼーっとしています。脱水症状を起こしているかもしれません。


 水でも飲もうかと、戸棚に足を向けたときでした。

 扉が、丁寧なノックを受けたのは。


 ――あの野郎、誰かにチクりやがったなというのがとっさに浮かんだ感想でした。


 一体誰でしょう。

 王子様か神官様か騎士団長様か、いや、誰だってよくないわけですが。

 居留守使おうかと真剣に考えていると、涼やかな響きの声が聞こえました。


「フェア・ルスークです。ここを開けてもいいかしら?」

「ふぇっ!?」


 まさかのクールビューティなお姉さん登場です。思わず妙な声が出てしまいました。

 は、恥ずかしい。失態です。

 どう考えてもハースさんを訪ねてきたとは思えません。でなきゃ、開けていいかなんて言わないでしょう。

 くそうハースさんめ、見事に保身を図りおって!


 どうしよう。そりゃ普通怒りますよね、婚約者の部屋に勝手に居座ってたら。

 この泥棒猫!とか言われたりするんでしょうか。

 お産前の熊のごとく狭い部屋をうろうろし、わたしは結局、沈黙という名の忍耐力に負けて「どうぞ」と答えました。


 こっちの世界では初修羅場です。どきどきしながら待つと、お姉さんは木箱を抱えて姿を見せました。

 少なくとも臨戦態勢ではありません。

 中身はなんだろうと首を傾げたわたしを見て、フェアさんはちらっと眉をひそめ、それから、困ったように苦笑しました。


「擦ってしまったのね。目元が赤くなっているわ」

「あ……え、えと」


 びっくりしたせいか、涙はようやく止まっていました。

 箱の中に見えたのは、氷と器と、柔らかそうな布と、化粧水らしい瓶とその他諸々。わたしがここで泣いていることを聞いた上で、準備をしてきたのでしょう。

 意味がわかりません。

 親切にされることに慣れていなくて、わたしは腰が引けたまま、どうしたらいいかわからずに途方にくれてフェアさんを見ました。


「化粧水と氷を持ってきたから、少し冷やしましょう。気持ちも落ち着くと思うわ」

「え、い、いいです!」


 とっさに力いっぱい拒否してしまいました。

 フェアさんの表情が、ますます苦笑になります。


「誰かに知られたくないから、ここに逃げ込んだのでしょう? 真っ赤な目をしていたら、すぐにわかってしまうわ」

「あ……」

「大丈夫、すぐに出ていくわ。どうしても気になって、お節介をしにきただけなのよ。好きに使ってちょうだい」

「あ……あの!」


 言葉通り部屋を出ていこうとしたフェアさんの袖を、とっさに掴んでいました。

 そんな自分の行動に驚きます。

 驚くフェアさんと目を合わせられなくて、視線を落としました。


「あの、べつに、嫌とかじゃなくて……そうじゃなくて、あの、わたし……」


 うまく言葉が出てきません。

 どうして親切にしてくれるのかとか、怒っていないのかとか、そもそもわたしのことが嫌いなはずなのにだとか。

 急に胸の奥から湧き上がってきた、どうしようもない心細さが、手を放そうとしても放してくれませんでした。


「……なんで、何も聞かないんですか」

「え……」

「わたしのこと、すごく邪魔なのに。なんでそんな、優しくなんて」


 ようやく出てきた言葉は責めるような響きを持っていて、自分を蹴倒したくなりました。

 聞いて欲しいのかと自問しても、そうじゃないと答えは出てくるのに。


 怯えるようにゆっくりと袖を放すと、フェアさんは細く息を吐きました。


「あなたが何を望んでいるのか、何に傷ついているのか、私は知らないわ。もし聞いても、十分に理解してあげられるとは思わない」


 突き放すような言葉なのに、どうしてか、とても優しい響きに聞こえました。

 そろりと顔を上げれば、困ったような苦笑に出会いました。


「確かにあなたのことで、困っていることはあるけれど……それでも、両親や友達から引き離された、小さな女の子が泣いていたら、慰めてあげたいと思うわ。甘い考えかもしれないけれど、そういうものを捨てないようにしたいから」


 一度は止まった涙が、また頬を伝いました。


 くやしい。

 悔しい、もうだめです。完敗です。

 このひと本当に、ずるいったらない。


 わたしはずっと、誰かに分かって欲しいんだと思っていました。

 わたしが怒ってるんだってこと。寂しいんだってこと。帰りたくてたまらないんだってこと。

 だから、誰に敵視されても構わなかったのです。

 何も知らないで好かれるよりも期待されるよりもずっとよかった。


 でも本当は、本当の本当は――全部放り投げて、なくなってしまったらよかった。

 誰かを嫌うのはすごくエネルギーがいることで、一から十まで愛想良く嘘をつくのはストレスをお友達にするってことで、正反対のことを続けるのは本当にしんどいことで。


 このひとが慰めたいと言っているのは、そこの本当のわたしのような気がして。


 ぼろぼろ泣いてしゃくり上げながら、わたしは、わがままを言うことに決めました。


「なぐさめて、くれるん、だったら。……とりあえずぎゅってしてください」

「え? ええと……こうかしら」

「そんで、頭なでてください」

「……こう?」


 やわらかい胸に思い切り顔を埋めて、わたしは思う存分に泣きました。

 おそるおそる頭を撫でる手は明らかに慣れていないぎこちなさで、お母さんっぽいかと言われたら全然そんなことはなくて、余計に嬉しくて寂しくて、どうしようもない気持ちが喉をせり上がって嗚咽になりました。


「かえり、たい」

「え……」

「も、やだ。ほんとやだ。かえりたい……帰りたいよぅ……」


 驚く気配とともに頭を撫でる手が止まって、あれ、と思う前にぎゅうっと強く抱きしめられました。

 どうしたんでしょう。何か驚くようなことを言ったでしょうか。


「ごめんなさい」

「……フェアさん……?」

「ごめんなさい……絶対に、帰してあげる。すぐには無理でも、絶対に方法を見つけてみせるわ。約束する」


 耳に届いた言葉が信じられなくて、わたしは呆然と顔を上げました。


 だって、まさか。


 この人から、一番欲しかった言葉をもらうことになるなんて、思ってもみなかったのです。


「かえして、くれるの? ……帰れるの?」

「ええ」

「本当? 本当の本当に?」

「ええ。約束するわ」


 もう我慢なんてできませんでした。

 そんなものとっくの昔に放り投げていたけれど、なんだか訳が分からなくなるくらいぎゅうぎゅう抱きついて、わんわん泣きました。


 帰りたいって言って、どうにか帰してあげるなんて返事、誰もしてくれなかった。


 フェアさんは綺麗なスーツが涙と洟で汚れるのも構わずに、ずいぶんと長い間、わたしを宥めるように背中を撫でてくれました。


 


 


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