とある世界の神の死んだ日
世界の最果てにおいて、1人の男が最高神と対峙していた。
そんな彼の両の眼は深い憎しみの色に染まっている。
気に入らないのなら殺せば良かった!
なぜ、このような呪いを受けなければならなかった!
悲痛な叫びを上げながら、彼は神へと果敢に切りかかっていく。
戦いが始まってから、すでに10日が経とうとしていた。
今日もまた、遥か地平の彼方へとゆるやかに太陽が落ちる。
完全に辺りを闇が包むと、彼の群青色の短髪は緋色の長髪へ、白い肌は黒い肌へ、空色の瞳は血色の瞳へ、そして男の体は女の体へと変化した。
彼女は攻撃の手を休めないまま再び吠える。
私は……私たちは……っただ、愛しただけだ!!
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2人の出合いは、それはそれは静かなものだった。
現代の感覚で例えるのならば、彼は天使であり、彼女は悪魔と呼ばれる存在である。
そして、そんな彼らは互いに少しばかり異端と言える要素を持ちあわせていた。
彼は神の名のもとに多くの者を断罪する戦天使でありながら、自らの役割に精神を苛まれていた。
彼女は悪しき者としてその身に生を受けながら、慈悲深く己が残忍な本性に嫌悪を抱く者であった。
だというのに、彼らは同族の中にあって類稀なる戦闘力を有していた。
その事実が、周囲からの期待となり誉れとなり、彼らをさらに苦しめていく。
ある日の事だ。
彼は過去幾度と繰り返されてきた日々の血生臭い任務を終え、その穢れを落とすために清廉な川辺で身を清めていた。
いや。すでにその身に滴っていた赤い罪は清き水に薄れ、完全に流れ去っている。
ゆえに、彼の行動は別の何かに変わってしまっていた。
俯き加減にブツブツと声を溢しつつ、激しく自らの手を、腕を擦り続ける。
長く冷水にさらされた身体は青白く、過度に擦られた箇所ははっきりと朱に染まっていた。
その光景は、周囲に漂う悲愴な空気と相俟って酷く痛々しい。
だからだろうか。
彼女は一目で彼の正体を知りながら、あまりに容易くその背に声をかけていた。
「……もう止めろ。」
だが、川の中に立つ彼は一切の反応を返さない。
黙々と作業を繰り返すままだ。
少しの苛立ちと共に、彼女は再び彼の背に向かい言葉を紡ぐ。
「止めろと言っている。
お前が自らの行いを誇れず、どうしてその手にかけた罪人が赦されると思うんだ。」
瞬間。ピタリと彼の手が止まった。
同時に空気が一変する。重く激しい怒りの波動が辺り一面を包んだ。
常人ならば、呼吸さえままならぬ重圧の中。彼女はただ平然と彼を見据える。
しばしの沈黙ののち、小さく彼が呟いた。
「……貴様に何が分かる。」
地の底から響いてくるような、唸りを伴う低い声。
水面に拳を沈め飛沫を四方に散らしながら勢いよく振り返った彼の顔は、憎しみとも恨みともつかぬ悪しき表情に彩られていた。
反対に、彼女の顔には憐憫や同情といった色が浮かんでいる。
それがより一層、彼の怒りを煽った。
「罪なき者を悪戯に屠り、その怨声を前にして愉悦に顔を染める薄汚い塵が……。
よりにもよって、この至高神四大使徒の1人である私に救済の何たるかを説こうと言うか。」
闇色の殺気を纏い彼女を睨みつける彼の姿は、到底聖に属する者に見えない。
彼女は呆れたようにため息を吐きながら、自らの長髪を左手でかき上げた。
同時に、独り言ともとれる小さな言葉を紡ぐ。
「正しく生きることを許された存在のくせに、それ以上を欲するのか?」
「なに……?」
彼女の言いたいことが分からずに、彼は怪訝に眉を顰める。
すると、今度は彼女の方から彼に匹敵する強力な殺気を放ち始めた。
「っ貴様!?」
そうそういないはずの自らと同等の能力の持ち主を前に、彼は改めて警戒の色を強くする。
一触即発のムード漂う中、再度彼女は口を開いた。
「己の行いが穢れし魂の救済となる事実を知りながら、殺すことが苦痛などと。
悪である事しか……奪う事しか許されぬ身である者を前に、随分と甘えたセリフを吐いてくれるじゃないか。」
「……何が言いたいっ。」
互いの戦闘テリトリーを広げながら睨み合う。
彼女は憎憎しげに己が歯を食い縛りながら、呟くような小さな声を発した。
「私はお前が羨ましい。そして、同時に妬ましい。」
言い終わると、彼女は自らの気を落ち着かせ膨らませた殺気を緩く鎮めていく。
そして、それが無になるころ僅かに目を伏せながら彼に背を向けた。
「とにかく、その身を厭い傷つけるのは止めろ。」
それだけを告げて、彼女は背後の森へと踵を返す。
そんな姿を眺めている内に自身の殺気もが雲散霧消していたことに気付かず、彼は小さくなる背に問いかけた。
「貴様は……、いや。
お前は、悪しき身でありながら正しき心を持っていると、そう言うのか?」
「…………さぁな。」
少しばかり歩みを止め、答えを返す彼女。
再び歩を進め始めた本来即滅対象であるはずの悪魔を、どういうわけか彼はただ黙って見つめていた。
その背が完全に森へと消える直前。彼女は寄って来た小鳥たちに向け、どこか淋しそうに笑んだ。
ほんの一瞬。僅か垣間見えた彼女のその横顔は、いつまでも彼の心から消えることはなかった。
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「……こんなところで油を売っていていいのか、四大使徒様?」
川べりの大岩に腰掛け、下方へ呆れたような視線を向ける女。
その緋色の長髪が、風を受けさらさらと流れていた。
「私がどこで何をしようと私の勝手だ。」
女の視線の先。同じく川べりの木を背に座り込む男は、フンと鼻を鳴らしながら女の言葉に応えた。
あくまでツンとした態度を崩さぬ男に苦笑いにもにた笑みを溢しながら、女はからかうような口調でさらに言葉を紡ぐ。
「えっらそうに。」
「偉いからな。」
即座に返ってきた幼子のごとき男の答えに、女は思わず噴き出してしまった。
女の態度が気に入らなかったのか、いかにも不機嫌そうに眉を寄せる男。
「……なんだ。」
「いいや、別に?」
くすくすと女の忍び笑いが続く。
緩やかに。緩やかに時が流れていた。
あの日から、彼は暇さえあれば彼女と出会ったこの場所を訪れていた。
気まぐれな性質の彼女は、彼が出向いたからとてそう姿を現すこともなかったが、それでも少しずつ、本当に少しずつ彼らは互いの距離を縮めていったのである。
「……っ誰だ!」
いつしか彼女の定位置が彼の腕の中になった頃、1つの転機がもたらされる。
常のように川の畔で逢瀬を重ねていた2人は、不穏な空気を感じ取り一瞬にして戦闘態勢に入った。
しばしの沈黙の後、唐突に彼らを中心として空間が無に染まっていく。
「っ……こ、この力は!?」
驚く間にも無は容赦なく広がり、全てを飲み込んだ。
やがて、2人の正面に1つの光が生まれ人型を成してゆく。
その様子を瞬きもせず見つめる彼らは、知らずうち、緊張に喉を鳴らしていた。
このような真似が出来る者など当然限られている。
ゆえに、彼は彼女を庇うように少しばかり身を乗り出した。
直後、四肢を成した光はその右腕部分をゆるりと2人へ向け、同時に彼らの頭の中に厳かな声を響かせる。
【我は至高神ゼラ・ゲー及び滅亡神ウェイ・ナーの偉大なる父にして三千世界の統治者、最高神ムーレイ・イーである。】
自らの主とその怨敵が同じ者の手によって作られたことに驚愕し目を見開く彼と彼女。
しかし、それを嘘だと一刀に断じてしまうには、目の前の存在は強大すぎ、そして、神々しすぎた。
光は2人の反応を些かも意に介していないようで、淡々と己が主張を紡いでゆく。
【我が慈しき箱庭の秩序を乱す異端者にして罪人よ、疾く裁かれよ。】
その断罪の言が耳に入ると同時に、彼らの意識は闇に落ちていた。
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「あ、あ、あの、あ、ありがとう、お姉、ちゃん。」
とある森の奥深く。
足に深い怪我を負った猟師の父へ、夜中こっそりと自宅を抜け出し森に咲く薬草花を摘みに入ったところ。ご他聞に漏れず迷い、凶暴な獣に襲われた幼き少女。
あわやというところで、悪に身をやつすはずの緋の髪の女に助けられた彼女は恐る恐る礼の言葉を口に乗せた。
「ん?……あぁ、いや。
不思議な娘だな。私が怖くはないのか?」
女の問いかけに、少女はブルリとひと震えしつつ俯いてスカートを強く握る。
「でも、でも、助けてもらったら、ちゃんとお礼を言いなさいって、お母さんが。」
「……そうか。だが、今度からそれは人相手の時だけにしておけ。
悪しき者は人間という生き物を獲物としか認識していない。私が特殊なのだ。」
「あっ、は、はいっ。」
顔を上げ、素直に頷く彼女の頭部を女は軽く撫でた。
その表情は薄く笑んでおり、意外にも慈愛を感じさせるそれに少女は己が母親を思い浮かべる。
「いい子だ。……さ、親御さんも心配しているだろう。家の近くまで送ろう。
この森のすぐそばにある村で良かったかな?」
「あの、はい。で、でも、でも、迷惑じゃ。」
「大丈夫、彼もそこまで狭量じゃないさ。」
「えっ?と、か、かれ、って?」
女の発言に、少女は辺りをキョロキョロと見回し、誰もいないことを確認して首を傾げた。
「すぐに分かるよ。じき、朝日が昇る。
愛想はないし、いつもやたらと偉そうな奴だけど、悪い男じゃないから。
だから、できれば彼にも同じように接してやってくれ。」
「あ、あの、えと、よく分からないけど、分かり、ました。」
「ふふ、やっぱりいい子だ。」
嬉しそうに笑った女は、少女からほんの少し距離を取る。
すると、まるでその時を狙ったかのように朝陽が辺りを包み、次の瞬間には彼女がいたはずの場所に似ても似つかない群青色の短髪を持つ男が立っていた。
その男は至極面倒くさそうに眉間に皺を寄せ、小さく舌打ちをする。
「くそっ、アイツめ。余計な面倒ごとを押し付けおって。」
「えっ、えええっ!?」
彼の表情や発言とは裏腹に、その背には純白の翼が太陽の光を浴びて神々しいまでに煌めいている。
少女は目を限界まで見開き、こう呟いた。
「て、天の、使徒、さま?」
「ふん。元だがな。」
鼻を鳴らし、ゆっくりと自身のもとへと向かってくる男に、少女は幾度も瞬きを繰り返す。
「あ、あ、悪のお姉ちゃんが、天の、お、お兄ちゃんで、天のお兄ちゃん、が、悪の、お、お姉ちゃん?
そっ、ど、な、えぇっ、どうなってるのぉ?」
頭上にクエスチョンマークを大量に浮かべ混乱する少女を、彼は感情のこもらぬ目で見下ろしながら鬱陶しげに口を開く。
「お前のような幼子に説明したところで理解に及ばぬだろうが……。
この世の理に逆らって彼女を好き、その罰として2人で1つ身となる忌わしき呪いを受けた。
それだけのことだ。」
「のろい……。」
呆然と復唱する彼女へ、男は悔しげに顔を歪ませ己の拳を握り込んだ。
「そうだ。
この世の誰もが彼女を見、声を聞くことができるというのに、最も彼女を求め欲す私にはそれが叶わぬのだ。」
「……っひ、どい。ど、どうにかならないの?っあ、ですか?」
少女のその言葉に、男はふっと表情を緩ませ少しばかり苦笑いを乗せて彼女の頭に手を置いた。
このような幼子にまで同情される自身が情けなく、また、己の身の上に理解を示されたことが嬉しくもあったのだ。
「私は、いや、私たちは呪いを解くために元凶を探して旅をしている。
相手は強大だが、呪いは私たちから愛しい者のみでなく、寿命をも奪った。
それは、私たちを未来永劫苦しませるためだ。
だが、だから、敢えて私たちはその事実を利用し、彼の者に匹敵する力を手に入れるつもりなのだ。」
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13日目の日没を迎えた頃、彼らはついに最高神を追い詰めることに成功していた。
彼の者をまばゆく覆っていたはずの光は失われ、力なく地に伏せた姿はもはや只人以下の憐れなもの。
幾日も変わらぬ憎しみを向けてくる彼女へと、感情の見えぬ空ろな視線を返している。
それでも彼女が容赦なく最期の一撃を加えようと身の丈の2倍ほどもある大剣を構えた際、なぜか終始無言を貫いていた神が口を開いた。
【……我は分体の身ゆえ、ここで討たれ滅ぶもまた戯れにすぎぬ。
だが、我を失えば此方の箱庭から全ての天・悪は無に帰す定め。
未だ幼き人という種から導きを奪う、その大罪を如何とする。】
最高神は、自身が死ねば彼らのかつての仲間であった者たちも共に死に至ると告げてくる。
彼女は、その燃えるような緋の髪を揺らしながら無表情に答えを返した。
「そんなことは知らない。私はただもう1度彼に会いたい、それだけだ。」
再び剣を構え直し、ゆっくりとトドメを待つばかりの最高神へと歩み寄っていく。
「……狂っているんだよ、もう。
身も心も削られゆく宿命の中、ようやく得た安らぎを奪い、私を、私たちを狂わせたのは、お前だ。
天の者も、悪の者も、人間も、世界も、この呪いが解けるなら、もはや全てはどうだっていい。
だからっ…………だから、くたばれ!ムーレイ・イィーーッ!!」
瞬間。世界を白い光が包んだ。
風が吹く。悲鳴のように吹き抜ける。
惑星を駆けるそれは、天と悪の断末魔であり、また、人の世の産声でもあった。
神話の時代は終わりを迎え、人間の歴史が始まる。
遠い遠い昔。
世界の最果てに1組の男女がいた。
長く離ればなれになっていた彼らは、その再会を心から悦びあい……そして、風に溶けた。