商会からの脱出
二人は崩れた壁を抜け、商会の裏手へ飛び出す。
外には低い斜面。その先に、建物の間を縫う細い路地が続いている。
「こっちだ」
レインがすぐに走り出す。
リシェルも記録石をしっかり握り、ドレスの裾を押さえながら後を追う。
その背後。
「逃がすな!」
「裏へ回れ!」
バタバタバタッ!
怒鳴り声と複数の足音が一気に近づいてくる。
リシェルが走りながら振り返る。
「追ってきます!」
「そりゃ来るだろ」
「もう少し焦ってください!」
「焦って速くなるなら焦るけどな」
「そういう問題ではありません!」
二人が細い路地へ駆け込む。
直後、商会の裏口から三人の護衛が飛び出してくる。
「いたぞ!」
「追え!」
護衛たちが二人を追って路地へ向かう。
その頭上。
屋根の上にクロエがいる。
走り去る二人と、迫る護衛たちを見比べ、小さくため息。
「……まったく」
クロエの手から、小さな刃が飛ぶ。
シュッ――
ぱしっ。
路地脇に積まれた木箱を縛っていた紐が切れる。
ガラガラガラッ!!
積み上げられていた木箱が一斉に崩れ、護衛たちの前へ転がり出す。
「うわっ!?」
「なんだ!?」
護衛たちが慌てて足を止める。
「邪魔だ、どけ!」
木箱を蹴り退けようとするが、完全に足止めされる。
少し先。
大きな物音に、リシェルが走りながら振り返る。
「今の音は?」
「さあな」
レインは足を止めずに答える。
ただ一瞬だけ、屋根の上へ視線を向ける。
そこには、もうクロエの姿はない。
レインの口元がほんの少し緩む。
「……助かったな」
「何か言いました?」
「いや」
「絶対に何か言いましたわね」
「走れ」
「誤魔化しましたわね!」
二人はそのまま路地を駆け抜ける。
しかし――
正面の別の通りから、二人の護衛が飛び出してくる。
「こっちだ!」
「挟め!」
リシェルが慌てて足を止める。
「前にも!」
「見えてる」
後ろからも追手の足音。
バタバタバタッ!
前に二人。
後ろにも複数。
左右は建物に挟まれ、逃げ道がない。
レインがリシェルを見る。
「リシェ」
「はい?」
「それ、大事なんだろ」
レインの目が、リシェルの握っている記録石へ向く。
リシェルが記録石を握り直す。
「もちろんです」
「絶対に落とすなよ」
「言われなくても――」
言い終わる前に、レインの腕がリシェルの腰へ回る。
ぐいっ。
「きゃっ!?」
突然身体を引き寄せられ、リシェルが目を見開く。
「ちょ、何を――!」
「舌噛むぞ」
「え?」
ダンッ!!
レインが地面を強く蹴る。
「――っ!」
リシェルを抱えたまま、路地脇に積まれた木箱へ飛び乗る。
タンッ!
そこから壁へ足をかけ――
さらに建物の庇へ。
「ええっ!?」
リシェルの声が裏返る。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
「待ったら捕まる」
「そういう意味ではありません!」
レインはそのままリシェルを抱え、庇から屋根へ駆け上がる。
下では護衛たちが呆気に取られて立ち止まる。
「なっ……!」
「上だ!」
「追え!」
慌てて追おうとするものの、すぐには屋根まで上がれない。
屋根の上までたどり着いたレインが、リシェルを下ろす。
「よし」
「よし、ではありません!」
地面に足がついた途端、リシェルが真っ赤な顔でレインへ詰め寄る。
「いきなり抱えないでください!」
「先に説明してる暇なかっただろ」
「一言くらいあります!」
「今から抱える、とか?」
「そうです!」
「言ったら嫌がっただろ」
「当然です!」
「じゃあ同じじゃないか」
「違います!」
レインが首を傾げる。
「どこが?」
「心の準備が違います!」
「面倒だな」
「誰が面倒ですって!?」
そのとき、下の路地から怒鳴り声。
「屋根だ!」
「回り込め!」
二人の表情がすぐに引き締まる。
レインが屋根の先を見る。
「まだ来るな」
リシェルも追手の気配を確認する。
「どうします?」
「屋根伝いに抜ける」
「わたくし、あなたほど跳べませんけれど」
「見れば分かる」
「……そこは少しくらい迷ってください」
「無理なものは無理だろ」
「正論なのが腹立たしいですわね」
「さっきも聞いたな、それ」
レインが先へ進む。
隣の建物との間には、それなりの隙間が空いている。
リシェルも近づき、下の細い路地を見る。
「…………」
続いて隣の屋根を見る。
そしてレインを見る。
嫌な予感が顔に出る。
「まさか」
レインが振り返る。
「もう一回だな」
「嫌です」
「即答?」
「即答です!」
「じゃあここに残る?」
「それも嫌です!」
「なら決まりだな」
「勝手に決めないでください!」
レインが再びリシェルの腰へ腕を回す。
「きゃっ!」
「記録石」
リシェルが慌てて記録石を胸元へ抱える。
「持っています!」
「絶対離すな」
「分かっています!」
ダンッ!
レインが屋根を蹴る。
二人の身体が宙へ。
「――っ!」
足元には何もない。
リシェルが反射的にレインの服をぎゅっと掴む。
次の瞬間。
ドンッ!
二人が隣の屋根へ着地する。
「…………」
リシェルはレインの服を掴んだまま固まっている。
「着いたぞ」
「…………」
「リシェ?」
ゆっくり顔を上げるリシェル。
レインを見る。
続いて、今飛び越えてきた屋根の隙間を見る。
「……普通の冒険者?」
「今日は調子がいい」
「空まで飛べるほどですか!?」
「飛んでない。跳んだだけだ」
「そういう問題ではありません!」
レインが小さく笑う。
そのとき。
ゴーン――
夜の街に鐘の音が響く。
二人は再び屋根伝いに移動する。
次第に追手の怒鳴り声も足音も遠ざかっていく。
しばらくして。
二人は人気のない裏通りへ降りる。
レインが周囲の気配を確かめ、ようやく足を止める。
「……撒いたみたいだな」
リシェルも息を整えながら後ろを確認する。
誰も追ってこない。
「そのようですわね……」
ほっ、と息を吐く。
すぐに手元の記録石を確認する。
表面に傷はなく、割れてもいない。
リシェルの表情がようやく緩む。
「無事です」
記録石を両手で大切に持つ。
「これがあれば、正式に調査を進められます」
「ああ」
レインが近くの壁にもたれる。
「孤児院の土地を狙ってた理由も分かった」
「魔晶石の鉱脈……」
リシェルが記録石を見つめる。
先ほどまでの安堵が消え、表情が真剣なものに戻る。
「ただの借金問題ではありませんでした」
「だな」
「ガルド商会は、お金に困っている人へ近づいて金を貸し、返済してもそれをなかったことにして土地を奪っていた」
「少なくとも、そう見える」
「そして、その土地の地下に価値があることを知っていた」
ぎゅっ……
リシェルが記録石を握る手に力を込める。
「許せません」
レインは黙ったまま、わずかに目を伏せる。
頭に浮かぶのは、先ほど見た取得記録。
『取得済』
『交渉中』
『取得予定』
狙われているのは孤児院だけではない。
すでに土地を奪われた者もいる。
レインの表情から軽さが消える。
「……まだ終わりじゃないな」
リシェルが顔を上げる。
「ええ」
迷いなく頷く。
「これからです」
「役所へ持っていくのか?」
「はい」
リシェルが記録石を見下ろす。
「今夜のうちに、信頼できる方へ預けます」
「今夜?」
「証拠を持ったまま朝まで待つ方が危険です」
レインが少し意外そうにリシェルを見る。
「ちゃんと考えてるな」
リシェルの眉がぴくっと動く。
「どういう意味です?」
「いや。もっと、そのまま商会へ戻るとか言うかと思った」
「わたくしを何だと思っているのです!」
レインが少し考える素振り。
「無茶する町娘」
「…………」
リシェルのこめかみがぴくっと動く。
「あなたにだけは言われたくありません」
「奇遇だな。俺も同じこと思ってた」
二人がじっと睨み合う。
数秒。
先にリシェルが、ふぅ……と息を吐く。
「……今日はここまでにします」
「そうしろ」
「あなたは?」
「あ?」
リシェルがじっとレインを見る。
「まさか、まだ何か調べるつもりではありませんわよね?」
レインがすっと目を逸らす。
「…………」
リシェルの目が細くなる。
「レイン?」
「何だよ」
「こちらを見てください」
レインは空を見上げたまま。
「夜空が綺麗だな」
リシェルも空を見る。
一面の曇り空。
「曇っています」
「そうだった」
「誤魔化さないでください!」
レインが小さく肩をすくめる。
リシェルは逃がさないようにじっと見つめる。
「……何を調べるつもりです?」
少しの沈黙。
やがてレインの表情から冗談っぽさが消える。
「商会の土地だけじゃない」
「え?」
「さっきの保管庫だ」
リシェルが黙って続きを待つ。
「土地の取得記録はあった。でも、それとは別に妙なものも保管されてた」
リシェルも地下保管庫を思い返す。
積まれていた巻物。
封印された袋。
金属製の小箱。
土地関係の書類とは明らかに違う品々。
「……確かに」
「借金の証拠を隠すだけなら、あそこまで色々しまっておく必要あるか?」
「…………」
リシェルの表情が曇る。
「他にも何かあると?」
「たぶんな」
「でしたら、わたくしも――」
「来るな」
即答。
リシェルがむっとする。
「またですか!?」
「今度は本当に危ないかもしれない」
「先ほども十分危険でした!」
「だから言ってるんだよ」
レインがまっすぐリシェルを見る。
「今日はもう、持って帰るべきものを手に入れた」
レインの目が記録石へ向く。
「それを守れ」
「…………」
「俺が何も見つけなくても、それが残れば孤児院を助けられる可能性がある」
リシェルが反論しようとして――口を閉じる。
手の中の記録石を見る。
ここで自分までついていけば、せっかく手に入れた証拠まで危険にさらすことになる。
ぎゅっと記録石を握り直す。
「……分かりました」
納得しきれない表情のまま、それでも頷く。
「今日は戻ります」
「そうしてくれ」
「ですが」
リシェルが一歩、レインへ近づく。
「無茶はしないでください」
レインが少し目を瞬く。
「お前が言う?」
「今はわたくしの話です!」
「はいはい」
「返事が軽いです!」
リシェルがむっと睨む。
だが、すぐにその表情が少しだけ和らぐ。
声も小さくなる。
「……本当に」
レインがその顔を見る。
いつものように冗談を返しかけて――やめる。
「分かってる」
今度は、茶化さずに答える。
「…………」
リシェルもそれ以上は言わない。
記録石を胸元へ大切にしまう。
「では、また」
「ああ」
二人はそこで別れる。
リシェルが人気のない裏通りを歩き出す。
数歩進んだところで足を止める。
何か気になったように振り返る。
「…………」
さっきまで立っていた場所に、レインの姿はもうない。
リシェルがしばらくその場所を見つめる。
小さく息を吐く。
「本当に、何者なのですか……」
その頃。
少し離れた屋根の上。
クロエが物陰に身を潜めたまま、リシェルを見ている。
やがて、レインが消えた方向へ視線を移す。
「……私も、それを知りたいところです」
ぽつりと呟く。
夜の静けさの中、その声は誰にも届かず消えていく。




