南区旧水路
レインは、封筒を手の中で静かに握る。
くしゃ……
紙がわずかに潰れる音だけがする。
「レイン」
リシェルが椅子を引き、立ち上がる。
「一人で行くつもりですか?」
レインは封筒へ目を落としたまま答える。
「そう書いてある」
「だからといって、本当に一人で行く必要はありません」
「向こうは俺を呼んでる」
「罠でしょう」
「だろうな」
あまりにもあっさりした返事。
リシェルの眉間に皺が寄る。
「分かっていて行くのですか?」
「分かってるから行く」
「意味が分かりません!」
「向こうから出てきてくれるなら、探す手間が省ける」
「そういう問題ではありません!」
レインは気にした様子もなく、折った封筒を懐へ入れる。
スッ
「大丈夫だよ」
「何を根拠に?」
「今日は調子がいい、ああ今日もか」
「それはもう聞き飽きました!」
リシェルが額に手を当てる。
ミーナは二人を交互に見ながら、胸元で指を絡ませている。
不安を隠しきれない。
レインはそれに気づき、ミーナへ顔を向ける。
「本当に」
先ほどより少し真面目な声。
「今日は一人で帰るなよ」
「……分かっています」
「ギルドの誰かに送ってもらえ」
「はい」
「親父さんにも」
一拍
「しばらく一人で出歩かないように」
ミーナの表情がさらに曇る。
それでも、小さく頷く。
「伝えます」
「よし」
レインはそれだけ確認すると、扉へ向かう。
だが、その前へリシェルが回り込み、道を塞ぐ。
「待ってください」
「何?」
「わたくしも行きます」
「駄目」
即答
リシェルの眉がぴくりと動く。
「なぜです?」
「一人で来いって書いてあるから」
「律儀に守る必要がありますか!?」
「ない」
「でしたら!」
リシェルが一歩詰める。
「でも」
レインの声が少し落ちる。
ふざけた調子が消える。
「向こうに気づかれたら」
「ミーナだけじゃなく」
ミーナへ一瞬だけ視線を向ける。
「別の奴に手を出すかもしれない」
リシェルが言葉を止める。
「何人いるかも分からない」
「何を用意してるかも」
レインは指先で懐の封筒を軽く押さえる。
「《暴露庫》につながる情報を持ってる奴が来る可能性もある」
「だから」
リシェルを見る。
「最初は俺一人の方がいい」
リシェルはすぐには答えない。
唇を結び、考える。
「……最初は?」
その言葉だけを拾う。
レインの口元が少し上がる。
「聞き逃さなかったな」
「当然です」
「じゃあ」
リシェルが腕を組む。
「何かあったら?」
「その時は」
レインが窓の方へ視線を向ける。
屋根の向こうに誰かいることを確信しているような目。
「お前を見張ってる女がいるだろ」
リシェルの表情が固まる。
「…………」
「何?」
「…………」
「何で黙る?」
ゆっくり。
リシェルがレインを見る。
頬がわずかに引きつっている。
「あなた」
「やはり気づいていたのですね」
「最初から」
「最初から!?」
声が跳ね上がる。
レインが片耳を押さえる。
「声!」
「そんなことはどうでもいいです!」
「よくない」
「ではなく!」
リシェルが机へ両手をつく。
バン
今度は少しだけ音が鳴る。
「いつからです?」
「孤児院へ行く途中」
「そんなに早く!?」
「屋根の上からずっと見てたし」
「ずっと……」
リシェルの顔が少しずつ赤くなる。
口元が引きつる。
「では」
恐る恐る。
「わたくしが商会へ入った時も?」
「ああ」
「市場でも?」
「たぶん」
「城を出た時から……?」
レインは少し考える。
「そこまでは知らない」
「…………」
リシェルは両手で顔を覆う。
「ずっと一人で抜け出せていると思っていました……」
声が手のひら越しにくぐもる。
「違ったみたいだな」
「言わないでください!」
ミーナが困ったように眉を下げる。
「えっと」
二人の様子を窺いながら。
「誰かに見守られていた、ということですか?」
リシェルは顔を覆ったまま、しばらく動かない。
やがて、ゆっくり手を下ろす。
「……そういうことです」
まだ少し頬が赤い。
ミーナがほっとしたように微笑む。
「仲がいいんですね」
「違います!」
即答
レインが眉を上げる。
「違うのか?」
「いえ」
リシェルが詰まる。
「違わないのですけれど!」
「どっちだよ」
「今はいいでしょう!」
リシェルは誤魔化すように咳払いする。
「こほん」
姿勢を正す。
「とにかく」
「その人を」
そこで言葉が止まる。
レインが待つ。
「その人?」
「……その人です」
「名前知らないんだけど」
「知る必要はありません」
「そう?」
「はい」
即答
レインはリシェルの顔をしばらく見て、何となく面白そうに目を細める。
「まあいいけど」
「その屋根の女」
「何かあったら動くんだろ」
リシェルは少しだけ視線を逸らす。
「……おそらく」
「じゃあ」
レインは机へ残された資料を見る。
「お前は今日は表から動け」
「表?」
「ああ」
資料を一枚ずつ指で示す。
「正式な調査」
「証言」
「倉庫の差し押さえ準備」
最後にリシェルを見る。
「そっちは任せる」
リシェルの表情が少し変わる。
先ほどまでの苛立ちが引き、目つきが真剣になる。
「あなたは?」
「裏」
短く答える。
「呼び出した奴から」
「《暴露庫》の場所を聞く」
「聞けなかったら?」
「探す」
「捕まったら?」
「逃げる」
「囲まれたら?」
「抜ける」
リシェルの眉がどんどん寄っていく。
「呪いでも使われたら?」
一拍
レインの表情がほんの少しだけ止まる。
「……その時考える」
「…………」
リシェルがじっと見る。
「今」
「少し困りましたね?」
「気のせい」
「気のせいではありません」
レインは返事をせず、扉へ向かう。
「レイン」
再び呼び止める声。
今度は怒鳴らない。
静かで、少しだけ不安が滲む。
レインの足が止まる。
「無茶は」
「するなか?」
振り返らないまま、レインが先に続ける。
「それは昨日も聞いた」
「でしたら」
リシェルは胸元で手を握る。
「守ってください」
レインが少しだけ振り返る。
「努力はする」
「約束してください」
「重いな」
「約束してください」
今度は目を逸らさない。
「…………」
レインも黙る。
少し間
やがて肩の力を抜く。
「ああ、分かった」
「約束する」
リシェルの張っていた表情がようやく少し緩む。
「なら」
小さく頷く。
「信じます」
レインは何も答えない。
代わりに片手を軽く上げる。
そのまま扉を開ける。
カチャ
部屋を出ていく。
扉が閉じる。
パタン。
残されたリシェルは、閉じた扉をしばらく見ている。
夜になり南区旧水路
そこは、王都が今より小さかった頃。
雨水を川へ逃がすために作られた古い地下水路。
今は新しい排水路が整備され、ほとんど使われていない。
入口には崩れかけた石壁。
赤茶けた錆の浮いた鉄柵。
周囲に人通りはない。
風が抜ける。
ヒュウ……
「…………」
レインは少し離れた建物の屋根に身を伏せ、旧水路の入口周辺を見ている。
一人で来い。
そう書かれていた。
だから一人で来た。
ただし、正面から入るとは言っていない。
レインの目だけが静かに動く。
「二人」は
入口付近。
「三人」は
少し離れた場所。
さらに気配を探る。
「……奥にもいるな」
見える範囲だけで五人。
それ以外にも、時折足音や衣擦れが聞こえる。
「ずいぶんと歓迎されてるな」
小さく呟く。
レインは屋根を下りる。
音を立てず、建物の裏手へ回る。
そこには崩れた壁。
草と瓦礫の奥に、水路へつながる細い穴が開いている。
昔、補修作業に使われていた通路らしい。
大人一人がぎりぎり通れるほどの幅。
レインが穴の前でしゃがむ。
「正面から来ると思ってるなら」
体を横にして、隙間へ滑り込む。
「そっちから行く理由ないしな」
中は暗い。
湿った石と苔の匂い。
ぽた、ぽた
どこかで水が落ち続けている。
床には薄く水が流れ、靴底が滑りやすい。
レインは足元を確かめながら、音を立てずに進む。
やがて前方に淡い明かり。
そして人の声。
レインが足を止める。
「来ると思うか?」
「来るだろ」
男二人の声。
「女を餌にしてる」
「受付の?」
「ああ」
「ずいぶん気にしてるらしい」
レインの足が一瞬止まる。
表情は変わらない。
ただ、視線だけが少し鋭くなる。
「それに」
別の男が続ける。
「来なきゃ孤児院の方をやれって話だ」
「…………」
レインの目が細くなる。
「子供なら」
男が軽い口調で続ける。
「一人くらい連れてくれば――」
言葉が途中で止まる。
「……何だ?」
男が背後を振り返る。
暗闇。
水滴が落ちる。
ぽた。
何もいない。
「気のせいか」
首を傾げ、再び前を向く。
その背後。
音もなく。
レインが立っている。
「それ」
男の肩が跳ねる。
「誰の命令?」
「――っ!」
男が振り向こうとする。
だが遅い。
レインが腕を取る。
グッ
そのまま壁へ押さえつける。
ドンッ
「ぐっ!」
もう一人が慌てて剣へ手を伸ばす。
チャッ
レインが足を上げる。
ガッ!
手首を蹴られ、剣が弾かれる。
カランッ!
石床を滑る剣。
男が目で追った、その瞬間。
腹へ一撃
ドッ
「ぐぁっ……!」
息を詰まらせ、その場に膝をつく。
レインは最初の男を壁へ押さえたまま、低い声で聞く。
「今」
「孤児院って言ったよな」
男の顔が引きつる。
「し、知らねえ」
「聞こえてた」
「俺は何も――」
腕を押さえる力が少し増す。
「誰の命令?」
「…………」
男が目を逸らす。
レインの目から、完全に笑みが消える。
「ガルド?」
「…………」
答えない。
だが。
男の喉が、ごくりと動く。
レインはそれを見る。
「そう」
小さく息を吐く。
「分かった」
「何も答えて――」
「顔で分かる」
「…………」
レインが男の腕を離す。
男は痛む肩を押さえながら、一歩離れる。
「で」
レインは何事もなかったように聞く。
「俺をここへ呼んだのは?」
男は答えようとせず、視線だけを奥へ向ける。
レインがその動きを追う。
「……先にいる」
「誰?」
「旦那じゃない」
「じゃあ?」
男が唾を飲む。
「商会の」
一度ためらう。
「情報を管理してる奴だ」
レインの目が少し変わる。
「情報?」
「…………」
レインが一歩近づく。
「《暴露庫》のこと知ってる?」
男の顔がわずかに強張る。
ほんの一瞬。
だがレインは見逃さない。
「知ってるな」
「……何で」
男が逆に問う。
「あるって知ってるのか?」
レインの口元が少しだけ上がる。
「散歩してたら聞いた」
「ふざけるな」
「よく言われる」
その時奥から音。
ぱち、ぱち、ぱち。
ゆっくりとした拍手。
レインの笑みが消える。
「なるほど」
暗闇の奥から声がする。
「聞いていた以上ですね」
足音がコツ、コツ。
一人の男が明かりの中へ姿を現す。
細身、灰色の髪はきちんと整えられている。
商人というより、役人を思わせる隙のない服装。
手には黒い手袋。
細い眼鏡の奥から、落ち着いた目がレインを見ている。
年齢は四十前後。
その後ろから護衛が四人。
無言のまま、それぞれ武器へ手を添えている。
男は穏やかな笑みを崩さない。
「レインさん」
胸元へ片手を添える。
「初めまして」
レインは少しだけ首を傾げる。
「誰?」
男の眉がほんのわずかに上がる。
「失礼」
改めて軽く頭を下げる。
「ガルド商会で」
一拍
「記録管理を任されております」
「セヴァンと申します」
レインの目が細くなる。
記録管理。
つまり、「弱みを集めてる奴?」
護衛の一人が眉をひそめる。
だが、セヴァンは気分を害した様子もない。
むしろ笑みがほんの少し深くなる。
「言い方が悪いですね」
「では」
レインが肩の力を抜いたまま聞く。
「何て呼ぶ?」
「信用管理です」
「もっと悪くなったな」
一瞬。
沈黙。
セヴァンが小さく笑う。
「面白い方だ」
眼鏡の位置を指先で直す。
「私は」
「あなたと一度」
レインの顔を観察する。
「話をしてみたかった」
「俺は別に」
「そうでしょうね」
セヴァンは気にせず続ける。
「ですが」
口元は笑っている。
目だけが笑っていない。
「困っているのです」
「何が?」
「消えたのですよ」
一拍
「一人分」
レインは何も言わない。
セヴァンが指を一本立てる。
「紙から」
二本目。
「記録石から」
そして静かに手を下ろす。
「まるで」
「最初から存在していなかったかのように」
水路へ水滴が落ちる。
ぽた
妙に大きく響く。
「ミーナ・リード」
その名前が静かな水路に響く。
レインの表情は変わらない。
だが。
目の温度だけが落ちる。
先ほどまで残っていた軽さが、完全に消える。
「…………」
セヴァンはその小さな変化を見つめる。
そして。
満足そうに笑う。
「やはり」
「あなたでしたか」




