第一話 無能の俺と、ついてきたものたち
俺には、子どもの頃から守っている決まりがある。
夜中に押し入れの戸を叩かれても、開けてはいけない。
誰もいない場所から名前を呼ばれても、返事をしてはいけない。
夜道で後ろから足音が増えても、振り返ってはいけない。
窓を三回叩かれても、外を見てはいけない。
そして、聞こえてくる声や足音を、決して数えてはいけない。
なぜ守らなければならないのか。
破ったら何が起きるのか。
俺は知らない。
知ろうとしたこともなかった。
ただ一つ分かっているのは、その決まりを守っている限り、俺は今日まで生きてこられたということだけだ。
◇
「黒瀬。おい、黒瀬湊!」
肩を強く揺さぶられ、俺は机から顔を上げた。
目の前では、クラスメイトの神田が呆れた顔をしている。
「いつまで寝てんだよ。もう六時間目、終わったぞ」
「……悪い」
「また夜更かしか?」
「まあ、そんなところ」
本当は、昨夜も眠れなかった。
午前二時を過ぎた頃から、部屋の押し入れの中で、誰かが爪を研ぎ始めたからだ。
ぎい。
ぎい。
ぎい。
薄い板を挟んだ向こう側で、何時間も。
開けなければ、何も起こらない。
少なくとも、これまではそうだった。
それが分かっていても、眠れるものではない。
「相変わらず暗いな、お前」
「寝不足なんだ」
「ホラー映画でも見てたのか?」
「そんなところ」
正確には、見たのではなく聞いていたのだが、説明する気はなかった。
神田が笑いながら、再び俺の肩を叩こうとする。
「やめた方がいい」
「何が?」
「むやみに人へ触るのは」
「はあ?」
神田が怪訝な顔をする。
自分でも、なぜそんなことを言ったのか分からない。
ただ、触られた瞬間、教室の温度がわずかに下がったような気がした。
気のせいだと思うことにした。
「本当に変な奴だな、お前」
神田が笑った、その瞬間だった。
教室の床に、白い光が走った。
「え?」
誰かが間の抜けた声を上げる。
光は線となり、線は複雑な模様を描き始めた。
机の下。
椅子の脚の間。
教室全体を覆う巨大な円。
まるでゲームに出てくる魔法陣だった。
「何、これ!」
「地震か!?」
「先生、床が光ってます!」
担任が立ち上がる。
だが、もう遅かった。
光が爆発した。
視界が真っ白に染まる。
遠くで、何かが笑ったような気がした。
それが誰の声だったのか確かめる前に、俺の意識は途切れた。
◇
「勇者様方よ。どうか、我らの世界をお救いください」
目を覚ました俺たちは、石造りの広間にいた。
床には巨大な魔法陣。
周囲を囲む、鎧姿の兵士たち。
正面の玉座には、宝石を散りばめた王冠をかぶった老人が座っている。
その隣には、白い法衣を身にまとった少女。
長い杖を持つ老人や、色とりどりのローブを着た魔術師たちも並んでいた。
どうやら本当に、異世界召喚というものらしい。
「冗談だろ……」
「夢じゃないの?」
「帰してくれよ!」
クラスメイトたちが騒ぎ始める。
担任が王に説明を求めたが、返ってきたのは、どこかで聞いたことのある話だった。
この世界は今、魔族の侵攻によって滅亡の危機に瀕している。
人類を救うため、異なる世界から勇者を召喚した。
元の世界へ戻る方法は、魔王を倒した後に探す。
勝手な話だった。
召喚はできても、帰す方法は分からない。
俺たちの意思を確認することもなく、命を懸けて戦えと言う。
どう考えても、まともな国ではない。
玉座の隣に立っていた白い法衣の少女が、こちらを見ていた。
いや。
俺を見ているのではない。
俺の肩越しに、その後ろを見ている。
少女の視線が、ゆっくりと動く。
右へ。
左へ。
天井近くへ。
足元へ。
何かの数を確かめるように。
だが、途中で数えるのを諦めたらしい。
少女の顔から、見る見る血の気が失われていった。
「聖女ルチア?」
王に呼ばれ、少女の肩が跳ねる。
「い、いえ……何でもありません」
「顔色が悪いようだが」
「召喚の余波に、少し驚いただけです」
ルチアと呼ばれた少女は、そう答えた。
だが、その視線は俺の周囲から外れなかった。
「それでは、勇者様方の天職と能力を確認させていただきます」
老魔術師が、水晶玉を運ばせた。
一人ずつ水晶へ触れ、能力を調べるらしい。
最初に呼ばれたのは神田だった。
「神田剛志様。天職は剣聖。固有能力は《武神の加護》!」
広間がどよめく。
神田の顔に笑みが広がった。
「マジかよ。俺が剣聖?」
続いて、クラス委員長の水野が水晶へ触れる。
「水野彩花様。天職は賢者。固有能力は《全属性適性》!」
「す、すごい……」
次々と、クラスメイトたちの能力が判明していった。
聖騎士。
大魔導師。
精霊使い。
神官。
弓聖。
暗殺者。
誰もが、この世界では希少とされる力を与えられていた。
担任でさえ、《導師》という天職を授かっている。
「次。黒瀬湊様」
名前を呼ばれ、俺は水晶の前へ立った。
「待ってください」
ルチアが声を上げる。
「どうされました、聖女様?」
「その方を調べるのは――」
言いかけたルチアが、不意に口を閉ざした。
何かに気づいたように、自分の唇を両手で押さえる。
それから、ゆっくりと後ずさった。
「問題ありません」
俺は水晶へ手を置いた。
冷たい感触。
その直後、水晶の内部に黒い靄が広がった。
「な、何だ?」
老魔術師が眉をひそめる。
透明だった水晶が、内側から墨を流し込まれたように濁っていく。
やがて、表面に文字が浮かんだ。
黒瀬湊。
種族、人間。
天職、なし。
魔力、ゼロ。
能力、なし。
固有技能、なし。
広間が静まり返った。
「……無職?」
神田が吹き出す。
「お前、異世界に来ても何もないのかよ」
何人かのクラスメイトが笑った。
老魔術師は信じられないという顔で、何度も水晶を調べる。
「あり得ぬ。異界から召喚された者には、必ず何らかの恩恵が与えられるはず……」
「故障ではないのか?」
「他の勇者様方は、正常に鑑定できております」
水晶の中で、黒い靄が渦巻いている。
鑑定結果は、どこから見ても空白だった。
何もない。
何の力も持っていない。
ただ、それならなぜ、水晶がこれほど黒く濁っているのか。
老魔術師たちは、その疑問を口にしなかった。
水晶の奥から、かすかな音が聞こえる。
かり。
かり。
かり。
何か硬いものが、内側から表面を引っかいているような音だった。
俺はすぐに手を離した。
直後。
水晶の表面に、一本の亀裂が走る。
「やはり、何の力も持たぬようですな」
老魔術師はそう結論づけた。
ずいぶん強引な結論だった。
「陛下。この者を勇者として扱う必要はないかと」
「待ってください!」
再び声を上げたのはルチアだった。
「その方を無力と判断してはなりません!」
「では、聖女には何が見える?」
王に問われ、ルチアは言葉に詰まった。
彼女は俺を見る。
それから俺の左右へ視線を動かし、最後に頭上を見た。
「……分かりません」
震える声だった。
「私にも、何なのか分かりません」
「何も存在せぬ者を見て、何を恐れている?」
「何もないのではありません」
ルチアは水晶の亀裂を見つめる。
「私たちには、測れないだけです」
「聖女様は召喚の疲れで混乱されている」
老魔術師が遮った。
「この少年からは、一滴の魔力も感じられません。勇者である可能性も、魔族の間者である可能性も皆無です」
俺は否定しなかった。
実際、俺自身には何の力もない。
魔法を使えるわけでもない。
剣術を習っていたわけでもない。
異世界へ来た途端、特別な力に目覚めた様子もない。
「魔力を持たぬ者を城へ置いても、食糧を浪費するのみ」
宰相らしき男が告げた。
「勇者方の訓練に悪影響を及ぼす恐れもあります」
「でも、黒瀬君を放り出すなんて……」
水野が小さく反論する。
「俺たちと一緒に召喚されたんですよ」
担任もそう言った。
だが、王は冷たい目で俺を見下ろしていた。
「我が国に余裕はない。戦えぬ者まで保護することはできぬ」
「なら、元の世界へ帰してください」
俺が言うと、王は露骨に顔をしかめた。
「帰還方法は、魔王を討ち果たした後に調査すると申したはずだ」
「つまり、今は帰せない」
「そういうことだ」
召喚はできても、帰すことはできない。
ずいぶん都合のいい話だった。
「黒瀬」
神田が近づいてくる。
剣聖という能力を得たせいか、すでに自信に満ちた顔をしていた。
「悪く思うなよ。足手まといを守りながら戦えるほど、甘い世界じゃないみたいだしさ」
「神田君!」
「事実だろ、水野。全員で死ぬよりマシだ」
神田は俺の肩を軽く叩いた。
俺は、その手を見下ろす。
「何だよ」
「いや」
何も起こらない。
神田は鼻で笑い、俺から離れた。
「最後まで気味悪い奴だな」
「湊様」
ルチアが俺の名を呼んだ。
「どうか、今夜だけでも城に残ってください」
「聖女よ」
「陛下。お願いします。この方を、今すぐ外へ出してはなりません」
「戦えぬ者を置いておく余裕はない」
「この方のためではありません」
ルチアは青ざめた顔で王を見つめた。
「私たちのためです」
王は一瞬だけ黙り込んだ。
しかし、聖女の忠告が受け入れられることはなかった。
◇
その日の夜。
俺は三人の兵士に連れられ、王都の外へ運ばれた。
三人とも、広間で勇者たちを囲んでいた兵士とは雰囲気が違った。
鎧は傷だらけで、手入れもされていない。
隊長格の男は片耳が欠け、頬から顎へ太い傷が走っている。
もう一人は禿げ上がった頭へ、潰れた革帽子をかぶっていた。
最後の一人は前歯が二本なく、笑うたびに黒い隙間が見えた。
兵士というより、兵士の格好をしたごろつきだった。
馬車が王都を離れてしばらくすると、歯の欠けた兵士が酒瓶を取り出した。
「まったく、面倒な仕事を押しつけやがって」
瓶をあおり、袖で口を拭う。
「ただのガキ一人だろ。城の裏で喉を掻っ切りゃ済む話じゃねえか」
「勇者様の仲間が、朝になって騒いだらどうする」
禿頭の兵士が答える。
「城の中は目が多い。死体が出れば、女どもがうるせえ」
「だったら井戸にでも放り込めばいいだろ」
「王族が飲む水を汚すな。前に料理人を沈めたとき、臭いが取れるまで何日かかったと思ってやがる」
二人が下品な笑い声を上げる。
隊長格の男は御者台に座ったまま、振り返りもしなかった。
「森まで黙ってろ。いつもの場所で始末する」
「いつもの穴、まだ空いてますかね」
「先週の密偵が二人入ってる。上へ重ねりゃいい」
「そいつら、まだ腐り切ってねえでしょう」
「どうせ魔物が食う」
会話の内容に、ためらいが一切なかった。
この三人にとって、人を殺すことは特別な仕事ではないらしい。
命令された相手を人目のない場所へ運び、殺し、所持品を奪い、死体を捨てる。
何度も繰り返してきたのだろう。
「おい、坊主」
歯の欠けた兵士が、俺の靴を爪先で蹴った。
「その靴、脱いでみろ」
「なぜですか」
「見たことのねえ作りだ。売れるかもしれん」
「まだ生きていますけど」
「だから今のうちに脱げって言ってんだよ。死んだ後だと、足が膨れて面倒なんだ」
禿頭の兵士が笑う。
「服も汚すなよ。異界の衣装なら、変わり者の貴族が買うかもしれん」
「首を切ると血が飛ぶからな。絞めるか?」
「舌を噛まれると汚れるぞ」
「じゃあ、先に歯を折るか」
三人は、俺の殺し方よりも、服をどう売るかを真剣に相談していた。
馬車は街道を外れ、深い森へ入っていく。
やがて、開けた場所で止まった。
「降りろ」
禿頭の兵士が俺の胸ぐらを掴み、荷台から突き落とす。
地面へ肩を打ちつけた。
「町まで送るという話では?」
「まだ信じてたのか?」
歯の欠けた兵士が腹を抱えて笑う。
「頭まで役立たずらしいな」
「辺境の町なら、この先だ」
禿頭の男が、木々の奥を指さす。
「地面の下だけどな」
三人が笑った。
隊長格の男が馬車から降り、腰の剣を抜く。
使い込まれた刃だった。
刃こぼれの間に、黒ずんだ汚れがこびりついている。
「俺を殺せと命令されたんですか」
「命令?」
隊長格の男が鼻で笑う。
「そういう綺麗な言葉を使うなよ。お前は不用品だ。俺たちはゴミを捨てに来ただけだ」
「召喚の失敗を隠すために?」
「さあな」
男は興味なさそうに肩をすくめる。
「俺たちは金をもらって、人を消す。理由まで聞くほど暇じゃねえ」
「これまで、何人殺したんですか」
三人が顔を見合わせる。
やがて、歯の欠けた兵士が笑った。
「数えちゃいねえよ」
その言葉を聞いた瞬間、背中に冷たいものが走った。
数えてはいけない。
昔から守ってきた決まりが、頭をよぎる。
「やめた方がいいです」
俺は静かに告げた。
「あ?」
「俺を殺すのは、やめた方がいい」
兵士たちの笑い声が止まる。
次の瞬間、歯の欠けた兵士が吹き出した。
「聞いたか?」
「ああ。無能の坊主が、俺たちを脅してやがる」
「怖えなあ。魔力ゼロの勇者様だぞ」
禿頭の兵士が、わざとらしく震えてみせる。
隊長格の男だけは笑わなかった。
俺の顔をしばらく眺めた後、顎で部下へ合図する。
「先に口を潰せ」
「了解」
歯の欠けた兵士が近づいてきた。
「いいか、坊主。こういうときは泣くんだよ」
拳が俺の頬へ叩き込まれる。
視界が大きく揺れた。
「泣いて、許してくれって頼むんだ」
続いて腹を蹴られる。
身体が地面を転がった。
口の中に鉄の味が広がる。
「運が良けりゃ、すぐ殺してもらえる」
兵士は俺の髪を掴み、無理やり顔を上げさせた。
「運が悪けりゃ、足の指から一本ずつ切る」
「服を汚すなと言っただろ」
「分かってますよ。まだ遊んでるだけです」
男は俺の頭を地面へ叩きつけた。
「ほら、言えよ。助けてくださいって」
「……言っても助けないでしょう」
「当たり前だろ」
男は楽しそうに笑った。
「だから面白えんじゃねえか」
再び蹴り上げようと、兵士が足を引いた。
そのとき。
「いま、けった?」
幼い声がした。
兵士の動きが止まる。
「誰だ?」
すぐ近くから、もう一人の声が答えた。
「けったね」
三人の兵士が、声のした方向を見る。
そこに、二人の子どもが立っていた。
いつ現れたのか分からない。
十歳にも満たない、幼い兄と妹。
着ている服は古び、裸足の足は泥で汚れている。
そして二人の顔には、何もなかった。
目も。
鼻も。
口も。
まるで、顔の部分だけを綺麗に塗り潰されたように、滑らかな皮膚が広がっている。
「何だ、こいつら……」
歯の欠けた兵士が、俺から手を離す。
剣へ手を伸ばそうとした。
だが、その指が柄へ届くより早く、兄妹は男の左右へ立っていた。
兄が右の頬へ。
妹が左の頬へ。
小さな手を押し当てる。
「触るんじゃねえ!」
兵士が二人を振り払おうとする。
その瞬間。
ずるり。
男の顔が消えた。
まず、目が皮膚の下へ沈んだ。
次に鼻が平らになり。
最後に、叫び声を上げようとしていた口まで塞がった。
男の首から上には、何の凹凸もない皮膚だけが残る。
「――――!」
兵士は声にならない悲鳴を上げ、両手で自分の顔を掻きむしった。
爪が皮膚を裂く。
血が流れる。
それでも、目も鼻も口も戻らない。
顔のない妹の掌に、何かが浮かび上がっていた。
恐怖に見開かれた目。
潰れた鼻。
欠けた歯を剥き出しにした口。
奪われた兵士の顔だった。
「おそろい」
妹の顔には口がない。
それなのに、幼い声が聞こえた。
「おそろいだね」
兄が答える。
兵士は何も見えないまま、腰の剣を抜こうとする。
兄がその右腕を掴んだ。
妹も左腕へ抱きつく。
「これ、じゃま」
「とろう」
二人が左右へ引いた。
ぽこん。
あまりにも軽い音だった。
まるで古い人形の部品を外すように、兵士の両腕が肩から抜けた。
血が噴き出すより先に、男の身体が地面へ倒れる。
「――――! ――――!」
顔のない頭を激しく振り、声にならない音を漏らしている。
兄が右足を持った。
妹が左足を持つ。
「こっちも」
「とれるかな」
ぽこん。
ぽこん。
両足が外れた。
兵士の身体が、胴体だけになって地面へ転がる。
兄妹は、外した手足を並べ始めた。
右腕を左側へ。
左足を肩の近くへ。
人形の組み立て方が分からず、適当に遊んでいるようだった。
「何だ……何なんだ、こいつらは!」
禿頭の兵士が後ずさる。
剣を抜く暇さえなかった。
目の前で仲間が人の形を失っていく光景に、身体が固まっている。
「隊長! 聞いてねえぞ!」
「落ち着け!」
「これが落ち着いていられるか!」
禿頭の兵士は背を向け、森の奥へ走り出した。
「待て! 勝手に逃げるな!」
隊長の命令など聞いていない。
枝を掻き分け、何度も足をもつれさせながら逃げていく。
その直後。
森の中に、呼び出し音が響いた。
りりりりりん。
りりりりりん。
この世界には存在しないはずの、電話の音。
「何だ……?」
兵士が足を止める。
街道の先に、黒い電話が置かれていた。
古い型の黒電話。
何もない地面の上で、ベルを鳴らし続けている。
「ふざけやがって……」
兵士は電話を避け、別の方向へ走り出した。
だが、数歩先で再び音が鳴る。
りりりりりん。
いつの間にか、黒電話は男の目の前へ移動していた。
『わたし、いま、お城にいるの』
受話器から、少女の声が流れる。
「何だと?」
『わたし、いま、街道にいるの』
兵士が走る。
『わたし、いま、森の入り口にいるの』
「来るな……」
声が近づく。
『わたし、いま、あなたの後ろにいるの』
「ひっ!」
兵士が振り返る。
そこには、黒い髪の少女が立っていた。
片手に、黒い受話器を持っている。
白いワンピース。
青白い肌。
人形のように整った顔。
「いつからそこに……」
兵士は剣へ手を伸ばすことさえできなかった。
少女が、受話器を男へ差し出す。
『電話に出て』
「嫌だ」
『出て』
「来るな!」
兵士が後ずさる。
その右手に、突然、黒い受話器が現れた。
「なっ……」
慌てて投げ捨てようとする。
だが、受話器は掌へ貼りつき、離れない。
耳へ近づけるつもりなどないのに、腕が勝手に曲がり始める。
「やめろ! 動け! 俺の腕だろうが!」
受話器が耳へ押し当てられた。
『つかまえた』
耳元ではなく、背後から声が聞こえる。
少女が男の背中へ手を添えていた。
「た、助け――」
兵士の右手が、受話器へ引き込まれた。
指が異様に細く伸びる。
骨が折れ、肉が押し潰され、それでも止まらない。
五本の指が赤い糸のようになり、受話器の小さな穴へ吸い込まれていく。
「ぎゃああああああっ!」
続いて腕。
肩。
男の身体が、電話口へ収まる形へ無理やり引き伸ばされていく。
骨が砕ける。
肉が細長く裂ける。
皮膚と血と肉が絡まり、何十本もの赤黒い紐となった。
「やめろ! やめてくれ!」
男は空いている手で地面を掻く。
だが、身体は止まらない。
頭が潰れ。
胴体が細く引き延ばされ。
人間一人分の肉と骨が、スパゲティのような束になって電話の中へ引き込まれていく。
最後に残った二本の足が、地面を激しく蹴った。
「たす――」
ぶつり。
声が途切れた。
男の姿は消えていた。
黒い電話だけが地面へ残る。
受話器の穴から、赤い雫が一滴落ちた。
『わたし、いま、電話の中にいるの』
通話が切れた。
つう。
つう。
つう。
規則正しい音だけが、静まり返った森へ響いた。
残されたのは、隊長格の兵士だけだった。
「お前……」
男が俺を睨みつける。
部下が二人とも異常な方法で殺されたというのに、剣を捨てて逃げようとはしない。
いや。
恐怖で足が動かないのだ。
それでも、汚い仕事を何度も経験してきた男だった。
自分だけ助かるための判断は早い。
男は俺へ駆け寄ると、髪を掴んで引き起こした。
剣の刃を、俺の首へ押し当てる。
「止めろ!」
「俺には止められません」
「ふざけるな!」
刃が皮膚へ食い込む。
首筋から血が流れた。
「お前が呼び出したんだろうが!」
「違います」
「なら、お前を殺せば消える!」
「それは、やめた方がいい」
「まだ俺を脅すのか!」
「忠告です」
男は俺の身体を地面へ投げ飛ばした。
「黙れ! ガキ一人に舐められてたまるか!」
兵士は両手で剣を構え、周囲を見回す。
顔のない兄妹は、胴体だけになった兵士の手足で遊んでいる。
黒髪の少女は、電話とともに消えていた。
「出てこい!」
男が叫ぶ。
「化け物ども! 隠れてねえで、俺と戦え!」
返事はない。
「は、はは……」
男の顔に、引きつった笑みが浮かんだ。
「何だ。もう終わりか?」
俺へ剣先を向ける。
「部下を不意打ちで殺しただけか。たいしたことねえな」
「やめた方がいいです」
「うるせえ!」
「まだ来ます」
「何が来る」
「ぽ」
森の奥から、低い声が響いた。
男の笑みが消える。
「何だ?」
「ぽ」
先ほどより近い。
木々の間。
暗闇の奥に、白いつば広帽子が浮かび上がった。
「ぽぽ」
木々を押し分けるようにして、女が現れる。
白いワンピース。
異様に長い手足。
地面から頭まで、三メートル近くある。
つばの広い帽子の下には、顔と呼べるものがなかった。
闇だけがある。
見覚えのある姿だった。
夜道で振り返りそうになったとき。
寝室の窓へ影が落ちたとき。
学校から帰る途中、遠くから足音が続いてきたとき。
いつも、一定の距離を保っていた女。
「お前も、来ていたのか」
俺が呟く。
「ぽぽぽ」
女の身体が、嬉しそうに揺れた。
「魔族か!」
隊長格の兵士が剣を構える。
「見るな!」
俺は叫んだ。
「黙れ!」
男は恐怖を振り払うように踏み込み、女へ斬りかかった。
「死ねえっ!」
銀色の刃が、白い胴体を横薙ぎにする。
剣は女の身体を通り抜け、そのまま背後の木へ深く食い込んだ。
「なっ……」
手応えがなかった。
女は姿を見せている。
声も聞こえる。
だが、まだ完全にはこの世界へ触れていない。
男が剣を木から引き抜こうとする。
その間に、女の白い腕が伸びた。
人間の腕ではあり得ないほど長く。
木々の隙間を蛇のように抜け、兵士の頭へ迫る。
「触れる瞬間なら、当たります!」
俺の叫びに、男が反応した。
女の指が兜へ触れる寸前。
兵士は剣を引き抜き、白い腕へ振り下ろした。
ずぶり。
今度は、確かな手応えがあった。
白い腕が肘から切断され、地面へ落ちる。
「斬れた……」
兵士の顔へ、引きつった笑みが浮かぶ。
「斬れるぞ! 殺せる!」
だが、切断面から血は流れなかった。
肉も。
骨も。
そこには暗い空洞しかない。
その奥から、低い声が漏れた。
「ぽ」
地面へ落ちた腕が動いた。
五本の指を土へ突き立て、蜘蛛のように立ち上がる。
「ぽぽ」
「何だ、こいつは……」
白い腕が、指だけで地面を駆けた。
「来るな!」
男が剣を振り下ろす。
刃が白い手の甲へ突き刺さる。
それでも腕は止まらない。
五本の指が刃へ巻きつき、強く握り締めた。
ぎしり。
鋼が悲鳴を上げる。
「離せ!」
兵士が剣を引こうとする。
動かない。
指が握り込むたび、刃がゆっくりと折れ曲がっていく。
「ぽぽぽ」
腕を失ったはずの女の肩が膨らんだ。
白い何かが粘土のように伸びる。
骨も筋肉も作らず。
ただ最初からそこにあったかのように、新しい腕が生えた。
「嘘だ……」
兵士の顔から血の気が引く。
確かに斬った。
確かに腕を切り落とした。
だが、それだけだった。
傷つけることと、倒すことは違う。
こいつらは、生き物ではない。
だから、生き物を殺す方法では死なない。
「ぽぽぽぽぽ」
再生した白い手が、兵士の頭を掴んだ。
「や、やめろ……」
もう一方の手が、男の肩を押さえる。
兵士の身体が宙へ持ち上がった。
足が地面から離れる。
歪んだ剣が手から落ちた。
「た、助けてくれ!」
先ほどまで俺を殺そうとしていた男が、涙を流しながら手を伸ばす。
「命令だったんだ! 俺は悪くない! 王が! 宰相が、お前を殺せと命じた!」
白い女の首が、ゆっくりと傾く。
「ぽ」
「助けてくれたら、何でもする! 金もやる! 城へ戻してやる!」
「ぽぽ」
「だから、そいつを止めろ! 役立たず!」
最後まで、男は俺の名前を呼ばなかった。
白い手が、兵士の頭を包み込む。
もう一方の手が肩を固定した。
「待て……」
「ぽぽぽぽぽぽぽぽぽ」
「死にたく――」
ぼきり。
乾いた音が、静まり返った森へ響いた。
兵士の首が、あり得ない方向へ折れ曲がる。
身体から力が抜けた。
腕がだらりと垂れ下がり、足先が力なく揺れる。
白い女は、壊れた人形でも眺めるように男を見つめていた。
やがて興味を失ったように手を離す。
兵士の身体が、重い音を立てて地面へ落ちた。
◇
すべてが終わった。
最初の兵士は、顔も手足も失ったまま地面へ転がっている。
顔のない兄妹は、外した手足を並べ替えて遊んでいた。
奪われた男の顔が、妹の掌に浮かんでいる。
恐怖に歪んだ目が、今も動き続けていた。
二人目の兵士は、跡形もない。
黒電話が置かれていた場所には、赤黒い筋が一本残っているだけだった。
隊長格の男は、首を折られて死んでいた。
白い女の腕には、傷一つ残っていない。
騎士の攻撃は、確かに当たっていた。
こちらへ触れようとした瞬間だけは、剣でも傷つけられるらしい。
だが、傷つけられることと、倒せることは違う。
腕を斬れば、腕だけで動く。
失った腕は、すぐに生え直す。
普通の生き物を殺す方法では、こいつらを殺すことはできない。
「やりすぎだ」
俺が呟く。
顔のない兄妹が、同時にこちらを向いた。
白い女の身体が揺れる。
遠くから、電話の呼び出し音が一度だけ聞こえた。
返事はない。
俺の言葉を聞いているのかどうかも分からない。
ただ、従うつもりがないことだけは確かだった。
「……来ていたんだな」
元の世界から。
あの光の中へ。
俺と一緒に。
どれだけ来たのかは分からない。
確かめるつもりもなかった。
数えてはいけない。
それだけは、世界が変わっても守るべき決まりだ。
俺は兵士たちの荷物を調べた。
食糧。
水筒。
火を起こす道具。
予備の外套。
見覚えのない文字で描かれた地図。
不思議なことに、文字の意味は理解できた。
召喚された際、言葉を翻訳する力だけは与えられているらしい。
地図によると、この森を北へ抜ければ小さな村がある。
南には王都。
西には険しい山。
そして東側には、赤い線が引かれていた。
線の向こうには、こう書かれている。
『魔族領』
王都へ戻るつもりはない。
俺を殺そうとした国に、未練などなかった。
「北へ行くか」
歩き始めようとした、そのとき。
茂みが大きく揺れた。
巨大な狼が姿を現す。
普通の狼ではない。
牛ほどの大きさ。
額から黒い角が伸び、口元から炎のような息を吐いている。
魔物。
俺自身に戦う力がない以上、出会えば終わりだ。
狼は俺を見つめ、牙を剥いた。
「グルルルル……」
だが、飛びかかってはこなかった。
狼の視線が、俺の背後へ動く。
顔のない兄妹。
黒い受話器を持った少女。
異様に背の高い白い女。
さらにその奥。
木の陰。
枝の上。
地面の下。
俺の影の中。
さっきまで見えていなかった何かが、いつの間にか森を埋め尽くしていた。
手足の異様に長い老婆。
下半身のない少女。
首から縄を下げた女。
身体を不自然に折り曲げ続ける白い影。
顔のない子ども。
逆さまに木へ張りつく少年。
それ以外にも、形さえ判別できない何かが無数にいる。
俺は見ないようにした。
数えないようにした。
狼の全身から、急速に力が抜けていく。
巨体が地面へ伏せた。
腹を見せ、尻尾を丸め、子犬のような声を漏らす。
「クゥン……」
「襲わないなら、俺も何もしない」
俺が横を通り過ぎても、狼は顔を上げなかった。
しばらく森を歩くと、前方に明かりが見えた。
村かと思ったが、違った。
松明を持った一団が、街道を進んでいる。
黒い鎧。
角の生えた男。
獣の耳を持つ兵士。
王国の兵士ではない。
「人間だ!」
一人が俺を見つけ、槍を構えた。
「なぜ人間の子どもが、魔族領にいる!」
「子どもではありません。十七歳です」
「どちらでもよい!」
角の男が剣を抜く。
だが、俺へ近づいたところで足を止めた。
男の瞳が大きく見開かれる。
彼には見えているらしい。
魔族だからなのか。
それとも、この世界の人間よりも死に近い存在だからなのか。
「な……」
男の顔から血の気が引いた。
剣が手から落ちる。
「何だ、それは……」
「俺にも分かりません」
「嘘をつけ」
男は震えながら、俺の背後を指さした。
「死霊ではない。悪魔でも、邪神の眷属でもない」
魔族の兵士たちが次々に後ずさる。
一人が顔のない兄妹を見て、武器を取り落とした。
別の兵士は、黒い受話器を持つ少女から目を離せなくなっている。
白い女が腰を曲げ、角の男へ顔を近づけた。
「ぽ」
「ひっ……!」
男が尻もちをつく。
「それほどの数を、どうやって従えている」
「従えていません」
「ならば、なぜお前についてくる!」
「それが分からなくて、俺も困っているんです」
「お願いします」
俺はなるべく刺激しないよう、静かに声をかけた。
「近くに、人が住んでいる場所はありませんか。今夜、眠れる場所を探しているだけなんです」
「人間が、魔族領で宿を求めるだと……?」
「王国には戻れません」
「なぜだ」
「役立たずだから、追放されました」
男は俺を見る。
続いて、俺の背後を見る。
そしてもう一度、俺を見た。
「役立たず……?」
「魔力ゼロ。天職も能力もありません」
「馬鹿な」
男は引きつった顔で呟いた。
「お前自身に力がないとしても……お前の後ろにいるものは何だ」
俺は振り返らなかった。
振り返ってはいけない。
それは元の世界にいた頃から、ずっと守ってきた決まりだ。
「さあ」
だから俺は、正直に答えた。
「数えたことがないので」
暗い森の奥で、いくつもの笑い声が重なった。
魔族たちは凍りつき、誰一人として動けない。
その夜。
役立たずとして人間の国を追放された俺は、魔王が支配する国へ足を踏み入れた。
後になって知ったことだが。
この日、国境警備隊から魔王城へ送られた緊急報告には、こう記されていたらしい。
『人間の少年、一名が領内へ侵入』
『戦闘能力、魔力ともに確認できず』
『少年に随伴する正体不明の存在、多数』
『推定危険度――測定不能』
そして最後の一文だけは、震える字で書かれていた。
『あれは、魔王陛下よりも恐ろしい』




