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第一話 無能の俺と、ついてきたものたち

 俺には、子どもの頃から守っている決まりがある。


 夜中に押し入れの戸を叩かれても、開けてはいけない。


 誰もいない場所から名前を呼ばれても、返事をしてはいけない。


 夜道で後ろから足音が増えても、振り返ってはいけない。


 窓を三回叩かれても、外を見てはいけない。


 そして、聞こえてくる声や足音を、決して数えてはいけない。


 なぜ守らなければならないのか。


 破ったら何が起きるのか。


 俺は知らない。


 知ろうとしたこともなかった。


 ただ一つ分かっているのは、その決まりを守っている限り、俺は今日まで生きてこられたということだけだ。


          ◇


「黒瀬。おい、黒瀬湊(くろせみなと)!」


 肩を強く揺さぶられ、俺は机から顔を上げた。


 目の前では、クラスメイトの神田が呆れた顔をしている。


「いつまで寝てんだよ。もう六時間目、終わったぞ」


「……悪い」


「また夜更かしか?」


「まあ、そんなところ」


 本当は、昨夜も眠れなかった。


 午前二時を過ぎた頃から、部屋の押し入れの中で、誰かが爪を研ぎ始めたからだ。


 ぎい。


 ぎい。


 ぎい。


 薄い板を挟んだ向こう側で、何時間も。


 開けなければ、何も起こらない。


 少なくとも、これまではそうだった。


 それが分かっていても、眠れるものではない。


「相変わらず暗いな、お前」


「寝不足なんだ」


「ホラー映画でも見てたのか?」


「そんなところ」


 正確には、見たのではなく聞いていたのだが、説明する気はなかった。


 神田が笑いながら、再び俺の肩を叩こうとする。


「やめた方がいい」


「何が?」


「むやみに人へ触るのは」


「はあ?」


 神田が怪訝な顔をする。


 自分でも、なぜそんなことを言ったのか分からない。


 ただ、触られた瞬間、教室の温度がわずかに下がったような気がした。


 気のせいだと思うことにした。


「本当に変な奴だな、お前」


 神田が笑った、その瞬間だった。


 教室の床に、白い光が走った。


「え?」


 誰かが間の抜けた声を上げる。


 光は線となり、線は複雑な模様を描き始めた。


 机の下。


 椅子の脚の間。


 教室全体を覆う巨大な円。


 まるでゲームに出てくる魔法陣だった。


「何、これ!」


「地震か!?」


「先生、床が光ってます!」


 担任が立ち上がる。


 だが、もう遅かった。


 光が爆発した。


 視界が真っ白に染まる。


 遠くで、何かが笑ったような気がした。


 それが誰の声だったのか確かめる前に、俺の意識は途切れた。


          ◇


「勇者様方よ。どうか、我らの世界をお救いください」


 目を覚ました俺たちは、石造りの広間にいた。


 床には巨大な魔法陣。


 周囲を囲む、鎧姿の兵士たち。


 正面の玉座には、宝石を散りばめた王冠をかぶった老人が座っている。


 その隣には、白い法衣を身にまとった少女。


 長い杖を持つ老人や、色とりどりのローブを着た魔術師たちも並んでいた。


 どうやら本当に、異世界召喚というものらしい。


「冗談だろ……」


「夢じゃないの?」


「帰してくれよ!」


 クラスメイトたちが騒ぎ始める。


 担任が王に説明を求めたが、返ってきたのは、どこかで聞いたことのある話だった。


 この世界は今、魔族の侵攻によって滅亡の危機に瀕している。


 人類を救うため、異なる世界から勇者を召喚した。


 元の世界へ戻る方法は、魔王を倒した後に探す。


 勝手な話だった。


 召喚はできても、帰す方法は分からない。


 俺たちの意思を確認することもなく、命を懸けて戦えと言う。


 どう考えても、まともな国ではない。


 玉座の隣に立っていた白い法衣の少女が、こちらを見ていた。


 いや。


 俺を見ているのではない。


 俺の肩越しに、その後ろを見ている。


 少女の視線が、ゆっくりと動く。


 右へ。


 左へ。


 天井近くへ。


 足元へ。


 何かの数を確かめるように。


 だが、途中で数えるのを諦めたらしい。


 少女の顔から、見る見る血の気が失われていった。


「聖女ルチア?」


 王に呼ばれ、少女の肩が跳ねる。


「い、いえ……何でもありません」


「顔色が悪いようだが」


「召喚の余波に、少し驚いただけです」


 ルチアと呼ばれた少女は、そう答えた。


 だが、その視線は俺の周囲から外れなかった。


「それでは、勇者様方の天職と能力を確認させていただきます」


 老魔術師が、水晶玉を運ばせた。


 一人ずつ水晶へ触れ、能力を調べるらしい。


 最初に呼ばれたのは神田だった。


「神田剛志様。天職は剣聖。固有能力は《武神の加護》!」


 広間がどよめく。


 神田の顔に笑みが広がった。


「マジかよ。俺が剣聖?」


 続いて、クラス委員長の水野が水晶へ触れる。


「水野彩花様。天職は賢者。固有能力は《全属性適性》!」


「す、すごい……」


 次々と、クラスメイトたちの能力が判明していった。


 聖騎士。


 大魔導師。


 精霊使い。


 神官。


 弓聖。


 暗殺者。


 誰もが、この世界では希少とされる力を与えられていた。


 担任でさえ、《導師》という天職を授かっている。


「次。黒瀬湊様」


 名前を呼ばれ、俺は水晶の前へ立った。


「待ってください」


 ルチアが声を上げる。


「どうされました、聖女様?」


「その方を調べるのは――」


 言いかけたルチアが、不意に口を閉ざした。


 何かに気づいたように、自分の唇を両手で押さえる。


 それから、ゆっくりと後ずさった。


「問題ありません」


 俺は水晶へ手を置いた。


 冷たい感触。


 その直後、水晶の内部に黒い靄が広がった。


「な、何だ?」


 老魔術師が眉をひそめる。


 透明だった水晶が、内側から墨を流し込まれたように濁っていく。


 やがて、表面に文字が浮かんだ。


 黒瀬湊。


 種族、人間。


 天職、なし。


 魔力、ゼロ。


 能力、なし。


 固有技能、なし。


 広間が静まり返った。


「……無職?」


 神田が吹き出す。


「お前、異世界に来ても何もないのかよ」


 何人かのクラスメイトが笑った。


 老魔術師は信じられないという顔で、何度も水晶を調べる。


「あり得ぬ。異界から召喚された者には、必ず何らかの恩恵が与えられるはず……」


「故障ではないのか?」


「他の勇者様方は、正常に鑑定できております」


 水晶の中で、黒い靄が渦巻いている。


 鑑定結果は、どこから見ても空白だった。


 何もない。


 何の力も持っていない。


 ただ、それならなぜ、水晶がこれほど黒く濁っているのか。


 老魔術師たちは、その疑問を口にしなかった。


 水晶の奥から、かすかな音が聞こえる。


 かり。


 かり。


 かり。


 何か硬いものが、内側から表面を引っかいているような音だった。


 俺はすぐに手を離した。


 直後。


 水晶の表面に、一本の亀裂が走る。


「やはり、何の力も持たぬようですな」


 老魔術師はそう結論づけた。


 ずいぶん強引な結論だった。


「陛下。この者を勇者として扱う必要はないかと」


「待ってください!」


 再び声を上げたのはルチアだった。


「その方を無力と判断してはなりません!」


「では、聖女には何が見える?」


 王に問われ、ルチアは言葉に詰まった。


 彼女は俺を見る。


 それから俺の左右へ視線を動かし、最後に頭上を見た。


「……分かりません」


 震える声だった。


「私にも、何なのか分かりません」


「何も存在せぬ者を見て、何を恐れている?」


「何もないのではありません」


 ルチアは水晶の亀裂を見つめる。


「私たちには、測れないだけです」


「聖女様は召喚の疲れで混乱されている」


 老魔術師が遮った。


「この少年からは、一滴の魔力も感じられません。勇者である可能性も、魔族の間者である可能性も皆無です」


 俺は否定しなかった。


 実際、俺自身には何の力もない。


 魔法を使えるわけでもない。


 剣術を習っていたわけでもない。


 異世界へ来た途端、特別な力に目覚めた様子もない。


「魔力を持たぬ者を城へ置いても、食糧を浪費するのみ」


 宰相らしき男が告げた。


「勇者方の訓練に悪影響を及ぼす恐れもあります」


「でも、黒瀬君を放り出すなんて……」


 水野が小さく反論する。


「俺たちと一緒に召喚されたんですよ」


 担任もそう言った。


 だが、王は冷たい目で俺を見下ろしていた。


「我が国に余裕はない。戦えぬ者まで保護することはできぬ」


「なら、元の世界へ帰してください」


 俺が言うと、王は露骨に顔をしかめた。


「帰還方法は、魔王を討ち果たした後に調査すると申したはずだ」


「つまり、今は帰せない」


「そういうことだ」


 召喚はできても、帰すことはできない。


 ずいぶん都合のいい話だった。


「黒瀬」


 神田が近づいてくる。


 剣聖という能力を得たせいか、すでに自信に満ちた顔をしていた。


「悪く思うなよ。足手まといを守りながら戦えるほど、甘い世界じゃないみたいだしさ」


「神田君!」


「事実だろ、水野。全員で死ぬよりマシだ」


 神田は俺の肩を軽く叩いた。


 俺は、その手を見下ろす。


「何だよ」


「いや」


 何も起こらない。


 神田は鼻で笑い、俺から離れた。


「最後まで気味悪い奴だな」


「湊様」


 ルチアが俺の名を呼んだ。


「どうか、今夜だけでも城に残ってください」


「聖女よ」


「陛下。お願いします。この方を、今すぐ外へ出してはなりません」


「戦えぬ者を置いておく余裕はない」


「この方のためではありません」


 ルチアは青ざめた顔で王を見つめた。


「私たちのためです」


 王は一瞬だけ黙り込んだ。


 しかし、聖女の忠告が受け入れられることはなかった。


          ◇


 その日の夜。


 俺は三人の兵士に連れられ、王都の外へ運ばれた。


 三人とも、広間で勇者たちを囲んでいた兵士とは雰囲気が違った。


 鎧は傷だらけで、手入れもされていない。


 隊長格の男は片耳が欠け、頬から顎へ太い傷が走っている。


 もう一人は禿げ上がった頭へ、潰れた革帽子をかぶっていた。


 最後の一人は前歯が二本なく、笑うたびに黒い隙間が見えた。


 兵士というより、兵士の格好をしたごろつきだった。


 馬車が王都を離れてしばらくすると、歯の欠けた兵士が酒瓶を取り出した。


「まったく、面倒な仕事を押しつけやがって」


 瓶をあおり、袖で口を拭う。


「ただのガキ一人だろ。城の裏で喉を掻っ切りゃ済む話じゃねえか」


「勇者様の仲間が、朝になって騒いだらどうする」


 禿頭の兵士が答える。


「城の中は目が多い。死体が出れば、女どもがうるせえ」


「だったら井戸にでも放り込めばいいだろ」


「王族が飲む水を汚すな。前に料理人を沈めたとき、臭いが取れるまで何日かかったと思ってやがる」


 二人が下品な笑い声を上げる。


 隊長格の男は御者台に座ったまま、振り返りもしなかった。


「森まで黙ってろ。いつもの場所で始末する」


「いつもの穴、まだ空いてますかね」


「先週の密偵が二人入ってる。上へ重ねりゃいい」


「そいつら、まだ腐り切ってねえでしょう」


「どうせ魔物が食う」


 会話の内容に、ためらいが一切なかった。


 この三人にとって、人を殺すことは特別な仕事ではないらしい。


 命令された相手を人目のない場所へ運び、殺し、所持品を奪い、死体を捨てる。


 何度も繰り返してきたのだろう。


「おい、坊主」


 歯の欠けた兵士が、俺の靴を爪先で蹴った。


「その靴、脱いでみろ」


「なぜですか」


「見たことのねえ作りだ。売れるかもしれん」


「まだ生きていますけど」


「だから今のうちに脱げって言ってんだよ。死んだ後だと、足が膨れて面倒なんだ」


 禿頭の兵士が笑う。


「服も汚すなよ。異界の衣装なら、変わり者の貴族が買うかもしれん」


「首を切ると血が飛ぶからな。絞めるか?」


「舌を噛まれると汚れるぞ」


「じゃあ、先に歯を折るか」


 三人は、俺の殺し方よりも、服をどう売るかを真剣に相談していた。


 馬車は街道を外れ、深い森へ入っていく。


 やがて、開けた場所で止まった。


「降りろ」


 禿頭の兵士が俺の胸ぐらを掴み、荷台から突き落とす。


 地面へ肩を打ちつけた。


「町まで送るという話では?」


「まだ信じてたのか?」


 歯の欠けた兵士が腹を抱えて笑う。


「頭まで役立たずらしいな」


「辺境の町なら、この先だ」


 禿頭の男が、木々の奥を指さす。


「地面の下だけどな」


 三人が笑った。


 隊長格の男が馬車から降り、腰の剣を抜く。


 使い込まれた刃だった。


 刃こぼれの間に、黒ずんだ汚れがこびりついている。


「俺を殺せと命令されたんですか」


「命令?」


 隊長格の男が鼻で笑う。


「そういう綺麗な言葉を使うなよ。お前は不用品だ。俺たちはゴミを捨てに来ただけだ」


「召喚の失敗を隠すために?」


「さあな」


 男は興味なさそうに肩をすくめる。


「俺たちは金をもらって、人を消す。理由まで聞くほど暇じゃねえ」


「これまで、何人殺したんですか」


 三人が顔を見合わせる。


 やがて、歯の欠けた兵士が笑った。


「数えちゃいねえよ」


 その言葉を聞いた瞬間、背中に冷たいものが走った。


 数えてはいけない。


 昔から守ってきた決まりが、頭をよぎる。


「やめた方がいいです」


 俺は静かに告げた。


「あ?」


「俺を殺すのは、やめた方がいい」


 兵士たちの笑い声が止まる。


 次の瞬間、歯の欠けた兵士が吹き出した。


「聞いたか?」


「ああ。無能の坊主が、俺たちを脅してやがる」


「怖えなあ。魔力ゼロの勇者様だぞ」


 禿頭の兵士が、わざとらしく震えてみせる。


 隊長格の男だけは笑わなかった。


 俺の顔をしばらく眺めた後、顎で部下へ合図する。


「先に口を潰せ」


「了解」


 歯の欠けた兵士が近づいてきた。


「いいか、坊主。こういうときは泣くんだよ」


 拳が俺の頬へ叩き込まれる。


 視界が大きく揺れた。


「泣いて、許してくれって頼むんだ」


 続いて腹を蹴られる。


 身体が地面を転がった。


 口の中に鉄の味が広がる。


「運が良けりゃ、すぐ殺してもらえる」


 兵士は俺の髪を掴み、無理やり顔を上げさせた。


「運が悪けりゃ、足の指から一本ずつ切る」


「服を汚すなと言っただろ」


「分かってますよ。まだ遊んでるだけです」


 男は俺の頭を地面へ叩きつけた。


「ほら、言えよ。助けてくださいって」


「……言っても助けないでしょう」


「当たり前だろ」


 男は楽しそうに笑った。


「だから面白えんじゃねえか」


 再び蹴り上げようと、兵士が足を引いた。


 そのとき。


「いま、けった?」


 幼い声がした。


 兵士の動きが止まる。


「誰だ?」


 すぐ近くから、もう一人の声が答えた。


「けったね」


 三人の兵士が、声のした方向を見る。


 そこに、二人の子どもが立っていた。


 いつ現れたのか分からない。


 十歳にも満たない、幼い兄と妹。


 着ている服は古び、裸足の足は泥で汚れている。


 そして二人の顔には、何もなかった。


 目も。


 鼻も。


 口も。


 まるで、顔の部分だけを綺麗に塗り潰されたように、滑らかな皮膚が広がっている。


「何だ、こいつら……」


 歯の欠けた兵士が、俺から手を離す。


 剣へ手を伸ばそうとした。


 だが、その指が柄へ届くより早く、兄妹は男の左右へ立っていた。


 兄が右の頬へ。


 妹が左の頬へ。


 小さな手を押し当てる。


「触るんじゃねえ!」


 兵士が二人を振り払おうとする。


 その瞬間。


 ずるり。


 男の顔が消えた。


 まず、目が皮膚の下へ沈んだ。


 次に鼻が平らになり。


 最後に、叫び声を上げようとしていた口まで塞がった。


 男の首から上には、何の凹凸もない皮膚だけが残る。


「――――!」


 兵士は声にならない悲鳴を上げ、両手で自分の顔を掻きむしった。


 爪が皮膚を裂く。


 血が流れる。


 それでも、目も鼻も口も戻らない。


 顔のない妹の掌に、何かが浮かび上がっていた。


 恐怖に見開かれた目。


 潰れた鼻。


 欠けた歯を剥き出しにした口。


 奪われた兵士の顔だった。


「おそろい」


 妹の顔には口がない。


 それなのに、幼い声が聞こえた。


「おそろいだね」


 兄が答える。


 兵士は何も見えないまま、腰の剣を抜こうとする。


 兄がその右腕を掴んだ。


 妹も左腕へ抱きつく。


「これ、じゃま」


「とろう」


 二人が左右へ引いた。


 ぽこん。


 あまりにも軽い音だった。


 まるで古い人形の部品を外すように、兵士の両腕が肩から抜けた。


 血が噴き出すより先に、男の身体が地面へ倒れる。


「――――! ――――!」


 顔のない頭を激しく振り、声にならない音を漏らしている。


 兄が右足を持った。


 妹が左足を持つ。


「こっちも」


「とれるかな」


 ぽこん。


 ぽこん。


 両足が外れた。


 兵士の身体が、胴体だけになって地面へ転がる。


 兄妹は、外した手足を並べ始めた。


 右腕を左側へ。


 左足を肩の近くへ。


 人形の組み立て方が分からず、適当に遊んでいるようだった。


「何だ……何なんだ、こいつらは!」


 禿頭の兵士が後ずさる。


 剣を抜く暇さえなかった。


 目の前で仲間が人の形を失っていく光景に、身体が固まっている。


「隊長! 聞いてねえぞ!」


「落ち着け!」


「これが落ち着いていられるか!」


 禿頭の兵士は背を向け、森の奥へ走り出した。


「待て! 勝手に逃げるな!」


 隊長の命令など聞いていない。


 枝を掻き分け、何度も足をもつれさせながら逃げていく。


 その直後。


 森の中に、呼び出し音が響いた。


 りりりりりん。


 りりりりりん。


 この世界には存在しないはずの、電話の音。


「何だ……?」


 兵士が足を止める。


 街道の先に、黒い電話が置かれていた。


 古い型の黒電話。


 何もない地面の上で、ベルを鳴らし続けている。


「ふざけやがって……」


 兵士は電話を避け、別の方向へ走り出した。


 だが、数歩先で再び音が鳴る。


 りりりりりん。


 いつの間にか、黒電話は男の目の前へ移動していた。


『わたし、いま、お城にいるの』


 受話器から、少女の声が流れる。


「何だと?」


『わたし、いま、街道にいるの』


 兵士が走る。


『わたし、いま、森の入り口にいるの』


「来るな……」


 声が近づく。


『わたし、いま、あなたの後ろにいるの』


「ひっ!」


 兵士が振り返る。


 そこには、黒い髪の少女が立っていた。


 片手に、黒い受話器を持っている。


 白いワンピース。


 青白い肌。


 人形のように整った顔。


「いつからそこに……」


 兵士は剣へ手を伸ばすことさえできなかった。


 少女が、受話器を男へ差し出す。


『電話に出て』


「嫌だ」


『出て』


「来るな!」


 兵士が後ずさる。


 その右手に、突然、黒い受話器が現れた。


「なっ……」


 慌てて投げ捨てようとする。


 だが、受話器は掌へ貼りつき、離れない。


 耳へ近づけるつもりなどないのに、腕が勝手に曲がり始める。


「やめろ! 動け! 俺の腕だろうが!」


 受話器が耳へ押し当てられた。


『つかまえた』


 耳元ではなく、背後から声が聞こえる。


 少女が男の背中へ手を添えていた。


「た、助け――」


 兵士の右手が、受話器へ引き込まれた。


 指が異様に細く伸びる。


 骨が折れ、肉が押し潰され、それでも止まらない。


 五本の指が赤い糸のようになり、受話器の小さな穴へ吸い込まれていく。


「ぎゃああああああっ!」


 続いて腕。


 肩。


 男の身体が、電話口へ収まる形へ無理やり引き伸ばされていく。


 骨が砕ける。


 肉が細長く裂ける。


 皮膚と血と肉が絡まり、何十本もの赤黒い紐となった。


「やめろ! やめてくれ!」


 男は空いている手で地面を掻く。


 だが、身体は止まらない。


 頭が潰れ。


 胴体が細く引き延ばされ。


 人間一人分の肉と骨が、スパゲティのような束になって電話の中へ引き込まれていく。


 最後に残った二本の足が、地面を激しく蹴った。


「たす――」


 ぶつり。


 声が途切れた。


 男の姿は消えていた。


 黒い電話だけが地面へ残る。


 受話器の穴から、赤い雫が一滴落ちた。


『わたし、いま、電話の中にいるの』


 通話が切れた。


 つう。


 つう。


 つう。


 規則正しい音だけが、静まり返った森へ響いた。


 残されたのは、隊長格の兵士だけだった。


「お前……」


 男が俺を睨みつける。


 部下が二人とも異常な方法で殺されたというのに、剣を捨てて逃げようとはしない。


 いや。


 恐怖で足が動かないのだ。


 それでも、汚い仕事を何度も経験してきた男だった。


 自分だけ助かるための判断は早い。


 男は俺へ駆け寄ると、髪を掴んで引き起こした。


 剣の刃を、俺の首へ押し当てる。


「止めろ!」


「俺には止められません」


「ふざけるな!」


 刃が皮膚へ食い込む。


 首筋から血が流れた。


「お前が呼び出したんだろうが!」


「違います」


「なら、お前を殺せば消える!」


「それは、やめた方がいい」


「まだ俺を脅すのか!」


「忠告です」


 男は俺の身体を地面へ投げ飛ばした。


「黙れ! ガキ一人に舐められてたまるか!」


 兵士は両手で剣を構え、周囲を見回す。


 顔のない兄妹は、胴体だけになった兵士の手足で遊んでいる。


 黒髪の少女は、電話とともに消えていた。


「出てこい!」


 男が叫ぶ。


「化け物ども! 隠れてねえで、俺と戦え!」


 返事はない。


「は、はは……」


 男の顔に、引きつった笑みが浮かんだ。


「何だ。もう終わりか?」


 俺へ剣先を向ける。


「部下を不意打ちで殺しただけか。たいしたことねえな」


「やめた方がいいです」


「うるせえ!」


「まだ来ます」


「何が来る」


「ぽ」


 森の奥から、低い声が響いた。


 男の笑みが消える。


「何だ?」


「ぽ」


 先ほどより近い。


 木々の間。


 暗闇の奥に、白いつば広帽子が浮かび上がった。


「ぽぽ」


 木々を押し分けるようにして、女が現れる。


 白いワンピース。


 異様に長い手足。


 地面から頭まで、三メートル近くある。


 つばの広い帽子の下には、顔と呼べるものがなかった。


 闇だけがある。


 見覚えのある姿だった。


 夜道で振り返りそうになったとき。


 寝室の窓へ影が落ちたとき。


 学校から帰る途中、遠くから足音が続いてきたとき。


 いつも、一定の距離を保っていた女。


「お前も、来ていたのか」


 俺が呟く。


「ぽぽぽ」


 女の身体が、嬉しそうに揺れた。


「魔族か!」


 隊長格の兵士が剣を構える。


「見るな!」


 俺は叫んだ。


「黙れ!」


 男は恐怖を振り払うように踏み込み、女へ斬りかかった。


「死ねえっ!」


 銀色の刃が、白い胴体を横薙ぎにする。


 剣は女の身体を通り抜け、そのまま背後の木へ深く食い込んだ。


「なっ……」


 手応えがなかった。


 女は姿を見せている。


 声も聞こえる。


 だが、まだ完全にはこの世界へ触れていない。


 男が剣を木から引き抜こうとする。


 その間に、女の白い腕が伸びた。


 人間の腕ではあり得ないほど長く。


 木々の隙間を蛇のように抜け、兵士の頭へ迫る。


「触れる瞬間なら、当たります!」


 俺の叫びに、男が反応した。


 女の指が兜へ触れる寸前。


 兵士は剣を引き抜き、白い腕へ振り下ろした。


 ずぶり。


 今度は、確かな手応えがあった。


 白い腕が肘から切断され、地面へ落ちる。


「斬れた……」


 兵士の顔へ、引きつった笑みが浮かぶ。


「斬れるぞ! 殺せる!」


 だが、切断面から血は流れなかった。


 肉も。


 骨も。


 そこには暗い空洞しかない。


 その奥から、低い声が漏れた。


「ぽ」


 地面へ落ちた腕が動いた。


 五本の指を土へ突き立て、蜘蛛のように立ち上がる。


「ぽぽ」


「何だ、こいつは……」


 白い腕が、指だけで地面を駆けた。


「来るな!」


 男が剣を振り下ろす。


 刃が白い手の甲へ突き刺さる。


 それでも腕は止まらない。


 五本の指が刃へ巻きつき、強く握り締めた。


 ぎしり。


 鋼が悲鳴を上げる。


「離せ!」


 兵士が剣を引こうとする。


 動かない。


 指が握り込むたび、刃がゆっくりと折れ曲がっていく。


「ぽぽぽ」


 腕を失ったはずの女の肩が膨らんだ。


 白い何かが粘土のように伸びる。


 骨も筋肉も作らず。


 ただ最初からそこにあったかのように、新しい腕が生えた。


「嘘だ……」


 兵士の顔から血の気が引く。


 確かに斬った。


 確かに腕を切り落とした。


 だが、それだけだった。


 傷つけることと、倒すことは違う。


 こいつらは、生き物ではない。


 だから、生き物を殺す方法では死なない。


「ぽぽぽぽぽ」


 再生した白い手が、兵士の頭を掴んだ。


「や、やめろ……」


 もう一方の手が、男の肩を押さえる。


 兵士の身体が宙へ持ち上がった。


 足が地面から離れる。


 歪んだ剣が手から落ちた。


「た、助けてくれ!」


 先ほどまで俺を殺そうとしていた男が、涙を流しながら手を伸ばす。


「命令だったんだ! 俺は悪くない! 王が! 宰相が、お前を殺せと命じた!」


 白い女の首が、ゆっくりと傾く。


「ぽ」


「助けてくれたら、何でもする! 金もやる! 城へ戻してやる!」


「ぽぽ」


「だから、そいつを止めろ! 役立たず!」


 最後まで、男は俺の名前を呼ばなかった。


 白い手が、兵士の頭を包み込む。


 もう一方の手が肩を固定した。


「待て……」


「ぽぽぽぽぽぽぽぽぽ」


「死にたく――」


 ぼきり。


 乾いた音が、静まり返った森へ響いた。


 兵士の首が、あり得ない方向へ折れ曲がる。


 身体から力が抜けた。


 腕がだらりと垂れ下がり、足先が力なく揺れる。


 白い女は、壊れた人形でも眺めるように男を見つめていた。


 やがて興味を失ったように手を離す。


 兵士の身体が、重い音を立てて地面へ落ちた。


          ◇


 すべてが終わった。


 最初の兵士は、顔も手足も失ったまま地面へ転がっている。


 顔のない兄妹は、外した手足を並べ替えて遊んでいた。


 奪われた男の顔が、妹の掌に浮かんでいる。


 恐怖に歪んだ目が、今も動き続けていた。


 二人目の兵士は、跡形もない。


 黒電話が置かれていた場所には、赤黒い筋が一本残っているだけだった。


 隊長格の男は、首を折られて死んでいた。


 白い女の腕には、傷一つ残っていない。


 騎士の攻撃は、確かに当たっていた。


 こちらへ触れようとした瞬間だけは、剣でも傷つけられるらしい。


 だが、傷つけられることと、倒せることは違う。


 腕を斬れば、腕だけで動く。


 失った腕は、すぐに生え直す。


 普通の生き物を殺す方法では、こいつらを殺すことはできない。


「やりすぎだ」


 俺が呟く。


 顔のない兄妹が、同時にこちらを向いた。


 白い女の身体が揺れる。


 遠くから、電話の呼び出し音が一度だけ聞こえた。


 返事はない。


 俺の言葉を聞いているのかどうかも分からない。


 ただ、従うつもりがないことだけは確かだった。


「……来ていたんだな」


 元の世界から。


 あの光の中へ。


 俺と一緒に。


 どれだけ来たのかは分からない。


 確かめるつもりもなかった。


 数えてはいけない。


 それだけは、世界が変わっても守るべき決まりだ。


 俺は兵士たちの荷物を調べた。


 食糧。


 水筒。


 火を起こす道具。


 予備の外套。


 見覚えのない文字で描かれた地図。


 不思議なことに、文字の意味は理解できた。


 召喚された際、言葉を翻訳する力だけは与えられているらしい。


 地図によると、この森を北へ抜ければ小さな村がある。


 南には王都。


 西には険しい山。


 そして東側には、赤い線が引かれていた。


 線の向こうには、こう書かれている。


『魔族領』


 王都へ戻るつもりはない。


 俺を殺そうとした国に、未練などなかった。


「北へ行くか」


 歩き始めようとした、そのとき。


 茂みが大きく揺れた。


 巨大な狼が姿を現す。


 普通の狼ではない。


 牛ほどの大きさ。


 額から黒い角が伸び、口元から炎のような息を吐いている。


 魔物。


 俺自身に戦う力がない以上、出会えば終わりだ。


 狼は俺を見つめ、牙を剥いた。


「グルルルル……」


 だが、飛びかかってはこなかった。


 狼の視線が、俺の背後へ動く。


 顔のない兄妹。


 黒い受話器を持った少女。


 異様に背の高い白い女。


 さらにその奥。


 木の陰。


 枝の上。


 地面の下。


 俺の影の中。


 さっきまで見えていなかった何かが、いつの間にか森を埋め尽くしていた。


 手足の異様に長い老婆。


 下半身のない少女。


 首から縄を下げた女。


 身体を不自然に折り曲げ続ける白い影。


 顔のない子ども。


 逆さまに木へ張りつく少年。


 それ以外にも、形さえ判別できない何かが無数にいる。


 俺は見ないようにした。


 数えないようにした。


 狼の全身から、急速に力が抜けていく。


 巨体が地面へ伏せた。


 腹を見せ、尻尾を丸め、子犬のような声を漏らす。


「クゥン……」


「襲わないなら、俺も何もしない」


 俺が横を通り過ぎても、狼は顔を上げなかった。


 しばらく森を歩くと、前方に明かりが見えた。


 村かと思ったが、違った。


 松明を持った一団が、街道を進んでいる。


 黒い鎧。


 角の生えた男。


 獣の耳を持つ兵士。


 王国の兵士ではない。


「人間だ!」


 一人が俺を見つけ、槍を構えた。


「なぜ人間の子どもが、魔族領にいる!」


「子どもではありません。十七歳です」


「どちらでもよい!」


 角の男が剣を抜く。


 だが、俺へ近づいたところで足を止めた。


 男の瞳が大きく見開かれる。


 彼には見えているらしい。


 魔族だからなのか。


 それとも、この世界の人間よりも死に近い存在だからなのか。


「な……」


 男の顔から血の気が引いた。


 剣が手から落ちる。


「何だ、それは……」


「俺にも分かりません」


「嘘をつけ」


 男は震えながら、俺の背後を指さした。


「死霊ではない。悪魔でも、邪神の眷属でもない」


 魔族の兵士たちが次々に後ずさる。


 一人が顔のない兄妹を見て、武器を取り落とした。


 別の兵士は、黒い受話器を持つ少女から目を離せなくなっている。


 白い女が腰を曲げ、角の男へ顔を近づけた。


「ぽ」


「ひっ……!」


 男が尻もちをつく。


「それほどの数を、どうやって従えている」


「従えていません」


「ならば、なぜお前についてくる!」


「それが分からなくて、俺も困っているんです」


「お願いします」


 俺はなるべく刺激しないよう、静かに声をかけた。


「近くに、人が住んでいる場所はありませんか。今夜、眠れる場所を探しているだけなんです」


「人間が、魔族領で宿を求めるだと……?」


「王国には戻れません」


「なぜだ」


「役立たずだから、追放されました」


 男は俺を見る。


 続いて、俺の背後を見る。


 そしてもう一度、俺を見た。


「役立たず……?」


「魔力ゼロ。天職も能力もありません」


「馬鹿な」


 男は引きつった顔で呟いた。


「お前自身に力がないとしても……お前の後ろにいるものは何だ」


 俺は振り返らなかった。


 振り返ってはいけない。


 それは元の世界にいた頃から、ずっと守ってきた決まりだ。


「さあ」


 だから俺は、正直に答えた。


「数えたことがないので」


 暗い森の奥で、いくつもの笑い声が重なった。


 魔族たちは凍りつき、誰一人として動けない。


 その夜。


 役立たずとして人間の国を追放された俺は、魔王が支配する国へ足を踏み入れた。


 後になって知ったことだが。


 この日、国境警備隊から魔王城へ送られた緊急報告には、こう記されていたらしい。


『人間の少年、一名が領内へ侵入』


『戦闘能力、魔力ともに確認できず』


『少年に随伴する正体不明の存在、多数』


『推定危険度――測定不能』


 そして最後の一文だけは、震える字で書かれていた。


『あれは、魔王陛下よりも恐ろしい』


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