氷の女王は、俺の部屋でだけ甘い声を出す。
窓の外は、夕焼けが校庭をオレンジ色に染め始めている。
俺、瀬戸悠真は、忘れ物を取りに誰もいない教室へと戻っていた。
「……いたのか」
教室の入り口で、俺の足が止まる。
そこには、学園一の美少女――氷室涼花が座っていた。
氷の女王。
誰に対しても冷淡で、その美貌に近づく者は誰もいない。 そんな彼女が、机に突っ伏して肩を震わせていた。
(……泣いてるのか?)
俺が声をかけると、彼女はびくりと肩を跳ねさせた。 ゆっくりと顔を上げた彼女の瞳は、鋭く俺を射抜く。
「……何よ、瀬戸くん。人の不幸を笑いに来たの?」
冷たい声だ。 だが、その顔は驚くほど青白い。
俺は緊張のあまり、無意識に顔を強張らせてしまった。 鏡を見ずとも分かる。今の俺は、獲物を狙う野獣のような目つきをしているはずだ。
「別に……忘れ物を取りに来ただけだ」
「そう。なら、さっさと消えて」
彼女は突き放すように言って、再び顔を伏せようとした。
その時だ。
――ぐうぅぅぅぅぅぅぅぅ。
静まり返った教室に、情けない音が響き渡った。
音の出どころは、間違いなく彼女の腹だった。
「…………っ!」
氷室さんの顔が、一瞬で耳の根まで真っ赤に染まる。
「……今の、は」
「聞いてない。俺は何も聞いてないぞ」
俺は必死に否定したが、彼女は絶望したように顔を覆った。
「……殺しなさいよ。どうせ私のこと、見下してるんでしょ」
「いや、なんでそうなるんだよ」
よく見れば、彼女の机の上には空のゼリー飲料のパウチが一つ転がっているだけだった。 放課後までこれ一つで凌いでいたのか。
「お前、昼飯は?」
「……食べてないわよ。忙しくて、買う暇もなかったんだから」
「……家で食えばいいだろ」
「……親は出張中。冷蔵庫には何もない。コンビニに寄る気力も、もう……ないのよ」
消え入るような声だった。 普段の威圧感はどこへやら、今の彼女は今にも倒れそうな迷い子のようだ。
俺は深くため息をついた。 このまま放っておけば、彼女は明日、栄養失調でニュースに載るかもしれない。
「……うち、すぐそこなんだが」
「え?」
「……何か食うか? 適当なもんならすぐ作れる」
俺の言葉に、氷室さんは目を見開いた。 恐怖に引きつった顔で、俺の顔を凝視してくる。
「……私を、自分の部屋に連れ込んで、どうするつもり? やっぱり、毒でも盛るの?」
「盛らねえよ! 人聞きの悪いこと言うな!」
俺の必死の形相が余計に怖かったのか、彼女は「ひっ」と短い悲鳴を上げた。
しかし、彼女の腹は再び空気を読まずに鳴り響く。
背に腹は代えられない、とはこのことだろう。 氷室さんは震えながらも、ゆっくりと立ち上がった。
「……もし変なことしたら、警察に突き出すから」
「……はいはい。いいから行くぞ」
こうして俺は、学園一の美少女を自宅へ連れ帰ることになった。 この時の俺はまだ、自分の心臓が緊張で破裂しそうなことに気づかない振りをしていた。
***
俺の家は、学校から徒歩十分ほどの場所にある古いアパートだ。
「……失礼するわ」
玄関を潜る氷室さんの足取りは、まるで敵陣に乗り込む兵士のように慎重だった。
「適当に座ってろ。今、何か作るから」
「……本当に作るのね。毒、入れない?」
「入れるわけないだろ。というか、そんなに疑うなら帰ればいいじゃないか」
俺が少し強い口調で言うと、彼女は「ひっ」と肩を竦めて、部屋の隅にちょこんと正座した。 ……そんなに俺の顔、怖いか?
俺は溜め息を一つ吐き、台所に立った。
冷蔵庫の中にあるのは、昨日の残りの大根と鶏肉。 それに、使いかけの長葱と豆腐。
(……まあ、こんなもんでいいか)
大根の皮を剥き、乱切りにする。 鶏肉は一口大に切り、フライパンで表面を軽く焼く。
醤油、酒、砂糖、そして出汁。 家庭に必ずある調味料で、じっくりと煮込んでいく。
「……いい匂い」
背後から、ぽつりと声が漏れた。
振り返ると、氷室さんが鼻をひくつかせながら、じっとこちらを見ていた。 その瞳には、先ほどまでの警戒心よりも、隠しきれない期待が滲んでいる。
「すぐできる。座って待ってろ」
俺は手早く、豆腐と長葱の味噌汁も作った。 炊飯器に残っていた白米を茶碗に盛り、テーブルに並べる。
「……お待たせ。大したもんじゃないけどな」
「これ……あなたが作ったの?」
目の前に置かれた鶏大根を見て、彼女は目を見開いた。
飴色に染まった大根。 照り輝く鶏肉。 立ち上る湯気は、どこか懐かしい香りがした。
「……いただきます」
彼女は、震える手で割り箸を持った。 まずは、出汁の染みた大根を一口。
「…………っ」
氷室さんの動きが止まった。
「……どうだ。口に合わなかったか?」
俺が不安になって尋ねると、彼女はゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、大粒の涙が溜まっていた。
「えっ!? おい、そんなに不味かったか!?」
「……違う。違うのよ……」
彼女は、溢れそうになる涙を必死に指で拭った。
「……あったかい。コンビニの弁当とか、冷たいゼリーじゃなくて……ちゃんと人の手が作った、あったかい味がする……」
彼女は、それから取り憑かれたように箸を動かした。 鶏肉を頬張り、味噌汁を啜り、白米を口に運ぶ。
「……おいしい。すごく、おいしいわ」
さっきまでの「氷の女王」の面影はどこにもなかった。 ただの、お腹を空かせた一人の女の子が、幸せそうに頬を緩めている。
その無防備な笑顔を見た瞬間。
俺の心臓は、これまでで一番大きく、うるさく跳ね上がった。
「……よかったな」
俺は必死に表情を押し殺したが、きっと今の顔は、ただでさえ鋭い目つきがさらに険しくなっていたに違いない。
なぜなら、氷室さんは俺の顔を見て、また「ひっ」と短く悲鳴を上げたからだ。
「……ご、ごめんなさい! 食べ過ぎよね? すぐ帰るから、そんなに睨まないで!」
「……睨んでねえよ。早く食え」
俺たちの「誤解」という氷が溶け切るには、もう少し時間がかかりそうだった。
***
あの日から、奇妙な習慣が始まった。
放課後、俺が先にアパートへ帰り、その三十分後に氷室さんがやってくる。 それが、俺たちの暗黙の了解になっていた。
「……失礼するわ。今日の献立は何かしら」
玄関を潜る彼女の足取りは、一週間前とは見違えるほど軽い。 相変わらず無表情ではあるが、その瞳には隠しきれない期待が宿っている。
「今日は生姜焼きだ。あと、余った野菜で味噌汁」
「……豚の生姜焼き。いいわね、白米が進みそうだわ」
彼女は手慣れた動作で鞄を置き、俺の机で宿題を広げる。 学園一の美少女が、俺の汚い部屋で数学の難問と格闘している光景。 未だに現実感が湧かない。
「……これ、食べていいのか?」
「……っ! ピーマン……」
皿の端に添えたピーマンのきんぴらを見て、彼女が露骨に眉を潜めた。
「子供か。栄養偏るから食え」
「……嫌いなものは嫌いなの。瀬戸くんが毒を盛ったに違いないわ。私の胃腸を破壊するつもりね」
「どんな言い分だよ。いいから一口食ってみろ。苦くないように味付けしたから」
彼女は、処刑台に向かう罪人のような顔で、渋々ピーマンを口に運んだ。
「…………あ。甘い」
「だろ? しっかり炒めて砂糖と醤油で味を調えれば、そんなに苦くないんだよ」
「……負けたわ。でも、これなら食べられる……」
少しずつ、彼女の意外な一面が見えてきた。 野菜が苦手なこと。 実はかなりの「食いしん坊」であること。 そして、誰もいない大きな家で一人で食べる食事が、本当は寂しかったこと。
だが、家で距離が縮まれば縮まるほど、学校での歪みは大きくなっていった。
「……おい、見たか。また氷室様が瀬戸を睨みつけてたぞ」
廊下ですれ違う際、俺たちはいつものように沈黙を保つ。 俺は好きすぎて顔が強張るし、彼女は照れ隠しと緊張で表情を消す。
傍から見れば、それは一触即発の睨み合いにしか見えないらしい。
「……瀬戸のやつ、一体何をしたんだ」
「氷室様をあんなに不機嫌にさせるなんて、万死に値するな……」
周囲のそんな囁きなど知る由もない氷室さんが、すれ違いざま、俺にだけ聞こえるような小声で囁いた。
「……瀬戸くん。今日の夕食、何?」
俺は緊張で、これまでで一番鋭い目つきを彼女に向けた。
「……今日は、鯖の味噌煮だ」
「…………っ! 楽しみにしてるわ」
彼女は一瞬だけ、耳の根まで赤くして、足早に去っていった。
その様子を見ていたクラスメイトたちが、真っ青な顔で俺を囲む。
「おい瀬戸! 今、氷室様に何を言ったんだ!? あんなに顔を真っ赤にさせて……!」
「ひ、酷い脅し文句を言ったに違いないわ! 最低よ、瀬戸くん!」
「……いや、晩飯の話を……」
「晩飯!? 貴様、氷室様を晩飯に食うとでも言ったのか!? この変態野郎!」
「なんでそうなるんだよ!」
誤解の火種は、俺たちの知らないところで巨大な炎へと変わりつつあった。
その日の夕食は、朝に約束した通りの鯖の味噌煮だった。
脂の乗った鯖を、生姜を効かせた甘辛い味噌でじっくりと煮込む。 身はふっくらと柔らかく、箸を入れるだけでほろりと崩れた。
「……瀬戸くん」
いつもなら真っ先に箸を動かす氷室さんが、今日は手を止めて俺を見つめていた。
「どうした。味、薄かったか?」
「……そうじゃないわ。……ねえ、本当のことを教えて」
彼女の瞳は、どこか悲しげに揺れていた。
「学校での、あの目。……やっぱり、私のことが疎ましいのよね? 私が毎日こうして押し掛けて、食事を作らせていることが、迷惑で、憎たらしくて……」
「……は?」
「みんな言ってるわ。瀬戸くんは私のことを殺したいほど憎んでるって。あんなに恐ろしい顔で私を睨みつけるのは、私があなたの日常を壊しているからだって……!」
氷室さんの声が震える。 その瞳には、今にも零れ落ちそうな涙が溜まっていた。
「……ごめんなさい。もう、来ないようにするから。だから、あんな顔で私を見ないで……っ!」
彼女が立ち上がり、部屋を飛び出そうとした。
その瞬間、俺の中で何かが弾けた。
「待てよ!」
俺は無意識に、彼女の腕を掴んでいた。 あまりの勢いに、氷室さんが「ひっ」と短く悲鳴を上げる。
俺の顔は、今、人生で一番険しいものになっているだろう。 心臓の鼓動が耳元でうるさく鳴り響き、視界が熱い。
「……お前、本気で言ってるのか」
「……っ、離して! やっぱり、暴力で解決するつもりなのね!」
「違う! 逆だ、バカ!」
俺の怒鳴り声に、氷室さんが凍りついたように動きを止める。
「……逆?」
俺は羞恥心で死にそうになりながら、心の奥底に溜まっていた「本音」を、怒鳴るように吐き出した。
「睨んでるんじゃねえ! お前が……お前が可愛すぎて、緊張して、どうしていいか分かんねえだけだ!」
「…………え?」
「好きすぎるんだよ! 学校で会うたびに心臓が止まりそうになって、変な顔にならないように必死に耐えてたら、勝手に顔が強張るんだ! 憎んでるわけねえだろ!」
静寂が訪れた。
台所でコトコトと鳴る鍋の音だけが、やけに大きく聞こえる。
俺は自分の口にした言葉の重大さに気づき、真っ赤になって手を離した。
「……あ、いや。今のは、その。忘れてくれ」
俺が顔を背けると、背後から小さな、本当に小さな声が聞こえた。
「…………本当に?」
恐る恐る振り返ると、そこには顔を真っ赤にして、涙をボロボロと零している氷室さんがいた。
「……私のこと、嫌いじゃないの?」
「嫌いなやつに、毎日ピーマンの苦味を取って飯なんて作らねえよ」
「……私のこと、可愛いって……思ってくれてるの?」
「……世界で一番、可愛いと思ってる」
俺が観念してそう告げると、彼女はふにゃりと、その場に崩れ落ちるように座り込んだ。 そして、顔を覆って泣きじゃくり始めた。
「……よかったぁ……っ。本当に、怖かったんだから……っ。いつか刺されるんじゃないかって、毎日怯えてたんだから……っ!」
「いや、怯えてた割には完食してたよな、お前」
「……だって、美味しかったんだもの……っ!」
泣きながら怒る彼女の姿は、学園一の美少女とは程遠い、ただの年相応な女の子だった。
氷室さんは、袖で涙を拭うと、上目遣いで俺を睨んだ。 ……いや、これは睨んでいるんじゃない。 甘えているんだ。
「……瀬戸くん」
「……なんだよ」
「……嘘じゃないなら、責任取って。私の胃袋、もう瀬戸くんの料理じゃないと満足できない体になっちゃったんだから」
「……ああ。これからも、毎日作ってやるよ」
湯気の向こう側で、彼女が今日一番の、最高に綺麗な笑顔を見せた。
俺たちの長い長いすれ違いは、鯖の味噌煮の香りと共に、ようやく終わりを迎えた。
***
あの告白から、一ヶ月が経った。
俺と氷室さんの関係は、表向きには何も変わっていない。
「……おい、見たか。今日の瀬戸と氷室様、今までで一番ヤバいぞ」
廊下ですれ違う際、俺たちはいつものように立ち止まり、至近距離で視線を交わす。
俺は相変わらず、彼女のあまりの眩しさに顔が強張っている。 そして彼女も、顔を真っ赤にして俺を睨み返している――ように見える。
「……瀬戸のやつ、ついに氷室様を泣かせるような暴言を吐いたんじゃないか?」
「見てみろよ、氷室様のあの潤んだ瞳。……可哀想に」
周囲の野次馬たちは、勝手な憶測で俺を悪党に仕立て上げている。
だが、彼らが聞いたら腰を抜かすであろう「真実」は、彼女の小さな囁きの中にあった。
「……ねえ、悠真くん」
「……なんだ、涼花」
「……今日の朝ごはんの厚焼き玉子、ちょっと甘すぎたわ」
「……悪かったな。お前が昨日、疲れた顔してたから糖分多めにしたんだよ」
氷室さんは、さらに顔を赤くして、俺の胸元を軽く睨んだ。
「……そういうのは、ズルいわ。……明日は、出汁多めでお願いね」
「……ああ。分かった」
彼女は「ふんっ」と鼻を鳴らして、モデルのような歩調で去っていった。 その後ろ姿を見送りながら、俺は心の中で小さくガッツポーズをする。
最近の彼女は、俺の作る飯のおかげで、以前よりもずっと健康的に、そして綺麗になった。 ……まあ、そのせいで俺の心臓への負担は増える一方なのだが。
放課後。 俺はいつものようにアパートへと戻り、エプロンを締める。
トントントン、と軽快な包丁の音が部屋に響く。 少しして、ドアが開く音がした。
「ただいま、悠真くん」
「おう、おかえり」
入ってきたのは、学校での「氷の女王」の仮面を脱ぎ捨てた、一人の少女だ。
彼女は鞄を置くのももどかしいといった様子で、キッチンにいる俺の背中に抱きついてきた。
「……いい匂い。今日は、ハンバーグ?」
「お袋直伝の煮込みハンバーグだ。ほら、危ないから離れろ」
「……やだ。こうしてないと、悠真くん成分が足りなくて死んじゃうわ」
彼女は俺の背中に顔を埋めて、深呼吸をする。 学校での冷徹な態度はどこへやら、今の彼女は完全に餌を待つ子猫だ。
「……お前、本当にキャラ変わりすぎだろ」
「……自業自得よ。私の胃袋も心も、全部悠真くんが奪っていったんだから」
彼女は顔を上げると、いたずらっぽく微笑んだ。 その笑顔は、どんな高級なフランス料理よりも、俺の心を温かく満たしてくれる。
「……さあ、出来たぞ。座れ」
「ええ、いただきます!」
食卓を囲み、二人で笑いながら食べる夕食。 茶色い和食が並ぶ、ごく普通の、けれど世界で一番幸せな食卓。
俺たちはこれからも、こうして二人で美味しい記憶を積み重ねていくのだろう。
「……悠真くん、これ、美味しい。……大好き」
「……ハンバーグがか?」
俺が意地悪く聞き返すと、彼女は真っ赤な顔で、けれど真っ直ぐに俺を見つめた。
「……ハンバーグも。……悠真くんのことも、世界で一番、大好きよ」
俺の顔は、きっと今、これまでで一番幸せな形で強張っていたに違いない。
俺たちの「美味しい恋」は、まだ始まったばかりだ。
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