タイトル未定2025/09/25 15:36
秋の空は、不思議なくらい高く見える。
雲ひとつない蒼穹の下で、僕はベンチに腰を下ろしていた。
公園の並木は黄色や赤に染まり、落ち葉が足元に舞い散っていく。
「……来ないな」
つぶやいてから、苦笑いが漏れる。
彼女が遅れてくるのは、いつものことだった。
時計の針はもう約束の時間を過ぎているけれど、僕は立ち上がる気になれない。
きっともう少しすれば、笑顔で駆け寄ってくるはずだから。
ベンチの端に視線を向ける。
風に揺れる影が、誰かの姿に見えた。
隣に腰掛けたときの温もりまで思い出してしまう。
「……またここにいるのか、蓮」
声をかけてきたのは、橘だった。
大学時代からの友人で、僕の事情をよく知っている数少ない人間だ。
彼は缶コーヒーを二本ぶら下げて、ベンチの横に立っていた。
「悪い、ホット切れててさ。ブラックでいいだろ?」
「うん。ありがとう」
橘は隣に腰を下ろし、無言で缶を差し出す。
プルタブを開ける音だけが秋風に溶けた。
「まだ、待ってるのか」
問いかける声は、非難でも同情でもなかった。
淡々と、けれど確かに僕の胸に刺さる響きを帯びていた。
「当たり前だろ。約束したんだ」
口をついて出た言葉に、自分でも驚いた。
僕はどれだけこの言葉を繰り返してきただろう。
橘は目を伏せ、落ち葉を靴先で転がす。
「……あいつ、来ると思うか?」
「来るさ」
即答した僕に、橘は小さく息をついた。
否定も肯定もせず、ただ黙って缶コーヒーを口に運ぶ。
その沈黙に紗世の笑い声が蘇る。
――ねえ、蓮。秋の空って、どうしてこんなに寂しく見えるんだろうね。
あの日、彼女は確かにそう言っていた。
僕は答えられなかった。
言葉よりも彼女の横顔を目に焼きつけることに必死で。
風に揺れる長い髪、どこか遠くを見つめる瞳。
すべてが僕には、どうしようもなく愛おしかった。
「なあ、橘」
「ん?」
「もしもさ、あの時に気持ちを伝えてたら……何か変わってたと思うか?」
橘は一瞬だけ目を細めた。
僕の方を見たが、すぐに視線を外す。
「さあな。でも、あいつはおまえのこと……」
言いかけて、言葉を飲み込む。
その先を僕は聞けなかった。いや、聞く勇気がなかった。
沈黙を破ったのは風だった。
木々を揺らし、乾いた葉が一斉に舞う。
その音の中に、また紗世の声が紛れ込む。
――蓮、待っててね。私、すぐ行くから。
「やっぱり来るよ。絶対に」
そう呟くと、橘は哀しげに笑った。
◇
日は傾き、空が茜色に染まっていく。
秋の夕暮れは、どうしてこんなに早いのだろう。
橘は立ち上がり、缶をゴミ箱に放り込んだ。
「蓮、もういい加減……」
「まだだ」
遮るように言う。
胸の奥に広がる空虚を埋めるように、強く。
橘は黙ったまま、僕の肩に手を置いた。
その仕草にかすかな震えを感じる。
彼の方が、僕以上に現実を受け止めているのかもしれない。
――現実。
その言葉を思い浮かべただけで、喉が詰まる。
目を閉じれば、彼女の笑顔が浮かぶ。
夕焼けを背にした横顔、柔らかな声。
あの日、手を伸ばせば届きそうだったのに。
「蓮」
橘の声で目を開けると、空は群青に変わっていた。
「……帰ろう」
僕は首を横に振る。
「俺は待つよ。たとえ一晩中でも」
橘はもう何も言わなかった。
ただ、僕の隣に腰を下ろし、共に夜の訪れを迎えた。
◇
夜は長く、静かだった。
遠くの道路の車の音さえ届かない。
街灯の下、落ち葉が光を反射して銀色に見える。
まぶたの裏に浮かぶのは、あの日の記憶だ。
紅葉したキャンパスで、彼女が振り返る。
――ねえ、来年の秋も、一緒に見に行こうね。
その時、僕は頷いただけだった。
言葉にすれば壊れてしまう気がして。
なのに、来年の秋は訪れなかった。
◇
翌朝、僕はベンチから立ち上がった。
夜露に濡れたシャツが肌に冷たく張り付く。
橘は帰った後らしい。公園には誰もいない。
それでも僕は足を前に進める。
ポケットの中で、小さな花束を握りしめて。
歩くたび、落ち葉がかさりと鳴った。
街の喧騒から離れた坂道を上りきると、そこに小さな墓地がある。
石に刻まれた名前を指でなぞる。
――橘 紗世。
冷たい石肌に、そっと花を置いた。
「……来たよ」
囁いた声は風にさらわれ、秋空の下に消えていく。
その時、背後で足音がした。
振り返ると、橘が立っていた。
「……やっぱり、ここに来てたか」
彼はポケットからタバコを取り出し、火をつける。
煙を吐き出しながら、視線を墓石に落とした。
「帰ったんじゃなかったのか」
僕が問うと、橘は肩をすくめて笑った。
「おまえ一人じゃ危なっかしいからな。少し離れて見てただけだ」
その言葉に、胸の奥が熱くなる。
橘は不器用だ。冷たいようで、誰よりも優しい。
僕は空を仰ぐ。
透き通った秋空が、やけに遠い。
「なあ、橘」
「ん?」
「俺、これからも待ち続けるよ」
橘は何も言わなかった。
ただ隣に立ち、煙草の煙を空へと流す。
二人で並んで、秋空を見上げた。
彼女はもう戻らない。
それでも僕は、今日もまたここに来るだろう。
あの秋空の下で。
続きが読みたい、作品が気になると感じた方は作品評価とブックマークお願いします。
最近の秋といえば暑すぎるというイメージですよね。今では秋晴れの空なんて風情もないように感じてしまいます。
だからこそ、この作品で思い出してほしいです。私たちの知っている、涼しくて、過ごしやすくなったと語らいあって楽しみ、どこか寂しいと感じていた、あの秋を。