蔵の石
蝉の声が、どこか遠くでかすかに鳴いていた。耳を澄ませば聞こえるか聞こえないかの、その鳴き声は、まるで誰かの呼び声のようだ。
夏の終わり、夕日が傾き始めた頃、篠田健介は祖父の家の前に立っていた。手には古びた鍵と、祖父の位牌が入った小さな箱を提げている。
葬儀を終えて数日。黒い喪服の気配も溶け、ようやく心にぽっかりと空いた空白が形になり始めた頃、東京での忙しい日常を一週間だけ離れて、健介はひとり祖父の遺品を整理するために、この古びた家へと戻ってきたのだ。
築八十年を超える木造家屋は、瓦屋根の端に苔を纏い、雨樋はところどころ歪んでいる。外壁は日焼けと風雨にさらされて色を失い、木の柱には深いひびが刻まれていた。
ゆっくりと鍵を回し、引き戸を開ける。ぎぃ、と音を立てて動いた扉からは、静寂の中に押し出されるように空気が流れ出る。
中から漂ってきたのは、古紙と埃の混じった、どこか懐かしい匂い。健介の記憶の底に沈んでいた「祖父の家の匂い」だった。
靴を脱ぎ、土間に足を下ろすと、床の軋む音がかすかに耳に届いてくる。
「……ただいま」
誰にともなくそう呟くと、まるで家全体がそれを聞き届けたかのように、柱がきしりと微かに鳴いた。長年の時間が染みついた家屋は、今もそこに“誰か”がいるような静けさを湛えていた。
居間に入ると、畳の上に置かれた湯呑や、使い古された座布団、読みかけの新聞紙など、祖父が過ごしていた日々の痕跡がそのまま残されている。
健介は仏壇の前に正座し、持参した位牌を両手で包み込むように丁寧に置いた。次いで、そっと線香に火を灯す。マッチを擦る音が静けさを破り、次の瞬間には燃え尽きた灰が吸い込まれるかすかな音と共に、香の煙がゆっくりと立ち昇る。
煙の向こうで、祖父の遺影がこちらを見つめていた。
口元をきゅっと引き結び、眉根は厳しく寄せられている。写真の中のその表情は、昔と変わらず近寄りがたいほどの威厳を帯びていた。
だが、本当は優しい人だった。
子どもの頃、健介は長期休みの度にこの家へ遊びに来ていた。
ある夏の日、虫取り網を片手に裏山の林を夢中で駆け回り、草の匂いと土の感触に包まれながら汗だくで帰ってくると、縁側には冷えたスイカが並べられ、祖父が笑みを浮かべて待っていてくれた。
風呂上がりには、湯上がりの火照りを畳に預けてごろりと横になり、団扇のやわらかな風を頬に受けながら、祖父のゆったりとした声で語られる昔話に耳を傾け、まぶたが自然に落ちていくまで過ごした夜もあった。
厳しくはあったが、声を荒らげることは滅多になかった。その眼差しや仕草の端々から、確かな愛情と温もりが静かに伝わってきた。
祖父は、いつも静かな人だった。
ただ、ひとつだけ例外があった。
それは、健介がまだ小学校の低学年だった頃のこと。
好奇心に駆られて家の裏手にある土蔵へ忍び込み、奥の台座に置かれた“黒い石”に手を伸ばそうとした、その瞬間──
「それには、絶対に触るな!」
そのときの祖父の怒鳴り声が、今でも耳の奥に焼き付いている。
滅多に声を荒げることのなかったからこそ、その怒鳴り声には異様な迫力があった。
裏山から吹き下ろす風がざわつく中、顔を真っ赤にして蔵へ駆け寄ってきた祖父は、息を荒げながら健介の腕を掴み、有無も言わせずに蔵の外へ引きずり出した。
そのとき、祖父の手は震えているように思えた。
あの瞬間の祖父の姿は、健介の中で今も消えることなく残っている。
仏壇の前に正座し、線香の煙がゆるやかに揺れる中で、健介はそっと目を閉じ、両手を合わせた。
はじめは祖父への感謝や別れの言葉。だが、次第に胸の奥からあの石のことがじわじわと浮かび上がってくる。
健介はゆっくりと目を開け、祖父の写真をまっすぐ見つめた。
「じいちゃん……あの石、何だったんだよ」
当然、返事など返ってこない。けれど沈黙の中で、部屋の空気がわずかに重くなったような気がした。
家の裏手の蔵に眠る、決して触れてはならないとされた黒い石。
祖父が生前ただ一度だけ見せた、本気で声を荒げる姿。
子どもの頃、伸ばしかけた手を掴まれたあの石が、今も変わらず暗がりの中で鎮座しているのだとしたら。
その想像が脳裏をかすめた瞬間、健介は胸の奥がざわめき、気づけば仏壇の前から立ち上がっていた。
縁側に出てサンダルへ足を滑り込ませ、庭を見る。
目の前の庭は、かつて祖父と一緒に草むしりをしていた頃の整った姿はなく、夏草が好き放題に伸び、石畳は青々とした葉に覆われて跡形も見えなかった。
風が頬をかすめ、夏の終わりを告げる合図かのように、どこか遠くで蝉の声が重なり合って響く。
まるで、背中を押されているような、そんな感覚があった。
健介は庭の奥へと視線を向け、雑草を踏み分けながら、ぽつんと佇む家の裏手の土蔵へとゆっくり歩を進める。夏草の間を抜ける足元からは、土と草の混じった湿った匂いが立ち上っていた。
重たく閉ざされた木の扉。その表面は年季で黒ずみ、ところどころ剥がれ落ちた漆喰が、まるで傷跡のように壁面を走っている。
なぜだろう。土蔵のまわりだけ、空気が不自然に澱んでいるように見えた。
今も健介の脳裏には、ここでの祖父の怒号が鮮明に焼きついている。
だが、祖父はもうこの世にいない。
この家も、次の春には取り壊されるかもしれないと、親戚の誰かが言っていた。祖父や祖母と笑い声を交わし、季節ごとの匂いや音と共に過ごしてきたこの家も、やがて跡形もなく消えてしまう。だからこそ、あの疑念に蓋をしたまま、家ごと葬り去るのが本当に正しいのか。
健介はゆっくりと蔵の引き戸を開け、スマホをライトモードにすると、足を引きずるように蔵の奥へと歩き出す。
思いのほか奥行きのある内部。天井は高く、梁の隙間には蜘蛛の巣が幾重にも張りめぐらされていた。
足元には錆びた農具、崩れかけた木箱、積み上げられた麻袋。そして壁には、干からびた藁の束がいくつもぶら下がっていた。湿気を吸った空間全体が、まるで時間から切り離されたまま取り残されているようだった。
数歩進むごとに、空気の感触が変わっていくような気がする。湿度が増し、風が止み、足音すら吸い込まれるように消えていく。蝉の声もやがて聞こえなくなった。あたりは静寂に包まれ、まるで蔵だけが別の時間軸に存在しているようだった。
そして、蔵の奥──。
そこだけ、まるで周囲から切り取られたように、異様な空白がぽっかりと広がっていた。
埃が積もった蔵の中で、そこだけは不自然にきれいに保たれており、誰かが定期的に手入れをしているかのように見える。
四畳ほどの広さの中央に、小さな木製の台座がぽつんと置かれ、その上には黒い布で何かが丁寧に覆われている。
台座を囲むように、四方に小山のように盛られた白い塩。そして、剥がれかけた古びたお札が幾重にも貼られ、壁や柱に張り巡らされていた。
健介は、思わずその場で息を止めた。目の前の光景は、記憶にあるものとは明らかに違っていた。幼い日の記憶では、ただ台座の上に黒い石が置かれていただけだったはずだ。塩の山も、お札の列も、こんなものは一切なかった。
健介は、足元の板が軋むのも気にせず、ゆっくりと一歩ずつ前へと進む。
台座が近づくにつれて、胸の奥に重りがぶら下がったように呼吸がしづらくなり、心臓の鼓動がひとつひとつ、強く体内を叩いた。額や背中には、ぬるい汗がじっとりと滲み出し、まぶたの端から見える景色が、熱気でゆらめくように歪んで見える。
そのとき、蔵の奥の壁に何かが書かれているのに気づいた。懐中電灯の光を向けると、そこに手書きの文字が浮かび上がった。
『触れるな』
達筆ではあったが、筆先の走りには乱れがあり、まるで書いた者の手が震えていたかのような慌ただしさがにじんでいた。
健介は、緊張に喉を鳴らしながら手を伸ばす。
木製の台座に覆いかぶさっていた黒布の端を指先でつまみ、慎重に持ち上げる。
布がわずかに擦れる音とともに、その下から姿を現したのは、拳ほどの大きさをした石だった。
表面は黒く光り、まるで濡れているような艶を帯びている。蔵の中には照明などないのに、その石は自らわずかな光を放っているようにも見えた。
ただの石──なのに。
その石を見つめているだけで、頭の奥がじわじわと締め付けられるような感覚に襲われる。心拍数が一気に上がり、耳の奥で小さな警鐘のような耳鳴りが鳴り始めた。けれど、どうしても視線を外すことができなかった。
気づけば、指先が石の表面へと吸い寄せられるように伸びていく。
そして、ほんのわずかに触れた、その瞬間。
ぴしっ。
頭の中に、鋭い亀裂が走るような感覚。まるで凍った湖面が割れるような、乾いた音が脳内に響いた。
空気の密度が変わった。室内に閉じ込められていた湿気が一斉に肌へまとわりつき、健介の全身はみるみるうちに汗ばんでいく。
そして、背後で、かさり、と何かが揺れた音がした。振り返ると、風などないはずなのに、天井から吊られた藁束がまるで誰かが触れたかのようにゆっくりと左右に揺れている。
健介はぞくりと背筋を震わせ、慌てて石から手を離す。布を引き寄せてその上にかぶせる手が震えていた。
心臓はひどく速く打ち、鼓動が耳の奥で反響する。胃の奥からこみ上げるような吐き気すら覚えた。
──何もなかった。
無理やり自分にそう言い聞かせながらも、胸の奥のざわめきは収まらないまま、健介は蔵をあとにした。
足早に母屋に戻り、祖父の仏壇の前に膝をつく。けれど、線香を焚く指先は小刻みに震えていた。
煙の向こう、写真の中の祖父は昔と変わらぬ厳しい表情を浮かべている。だが今は、どこか静かな哀しみがその目に宿っているように見えた。
「ごめん……じいちゃん。ほんの少しだけど、触っちゃった。許してください」
つぶやく声に応える者はなかった。
深夜。
健介は、汗ばむような不快感とともに、ふと目を覚ます。
部屋の中はしんと静まり返っており、外の気配すら感じられない。
目が慣れるまでの暗闇の中、自分の呼吸だけがやけに大きく耳に響いている。
枕元のスマートフォンを手に取り、画面を点けると、そこに表示された時刻は──午前2時3分。
寝苦しさのせいで目が覚めた。最初はそう思った。だが、胸の奥に引っかかるような違和感が残る。
音が聞こえる。
──ぴちゃっ、ぴちゃっ。
最初は水滴の音かと思った。どこかで蛇口が緩んでいるのだろうか。
だが、耳を澄ませば澄ますほど、それは水音ではなく──濡れた足音に近いように聞こえてくる。
ぴちゃっ……ぴちゃっ……。
健介は、布団の中で身動きを止めた。
息をひそめ、耳を澄ます。廊下の奥から、ぬめるような湿った足音が、じわりじわりとこちらに近づいてきていた。
ぴちゃっ……ぴちゃっ……。
一歩ごとに、音は少しずつ大きく、重みを増していく。まるで健介の居場所を確認するように、慎重に、しかし確実に距離を詰めてくる。
喉が渇いているのに、息を呑むことすらできない。
ぴちゃっ……ぴちゃっ……。
そして音は、襖のすぐ向こうでぴたりと止まった。
耳鳴りがするほどの静寂。健介の心臓の鼓動だけが、自分の体を内側から叩いている。
冷房は切ってあり、窓もすべて閉まっている。なのに、布団の中にまでじわじわと冷気が染み込んでくるようだった。
何かが、“いる”。
そう確信させられるには、十分な気配だった。
──すっ。
襖が、静かに音を立ててわずかに開く。湿った空気が隙間から流れ込み、布団の中を冷たく撫でていく。
そして、布団の端がわずかに沈んだ。
健介の体が硬直する。誰かがそっと手を置いたかのような、じんわりと重みのある沈み込み。
続いて、突然右手にぬるり、と冷たいものがなぞる。
ひやりとした感触。まるで水と油を混ぜたような、皮膚にまとわりつく“ぬめり”。
反射的に叫び声を上げそうになるのをこらえ、跳ね起きるように身を起こす。そして手元のスイッチを叩くように押し、部屋の明かりを点けた。
眩しい光に包まれても、そこには誰もいなかった。
襖は閉じられたまま。風の流れもない。カーテンも揺れていない。
だが──。
健介が目を落とした先、布団のすぐ横の畳に、それはあった。
黒く濡れた手形が一つ、ぽつりと押し付けられたように残されていた。
結局、その夜健介は一睡もできなかった。
祖父の仏壇のある部屋に足を運び、膝をついてただじっと座っていた。畳の冷たさが膝からじわりと伝わってくる。灯りを消す勇気はどうしても出ず、部屋は柔らかな明かりに照らされたままだった。
時間の感覚は曖昧になり、ただ呼吸の音と鼓動だけが身体の内側で続いていた。
やがて、東の窓の隙間から、かすかな朝の光が差し込んでくる。
寝室へ行って目を凝らして布団のあたりを見ると、あの濡れた手形は、跡形もなく消えていた。
だが、あの濡れた手の感触だけは忘れられない。ひやりと肌を撫で、ぬめりのある異物が手を這ったあの瞬間は、どう考えても夢の中の出来事ではない。理屈では説明できなくても、それが現実のものだったという感覚だけは、確かに体に刻まれていた。
朝になっても、空腹は訪れなかった。胃の奥がひんやりとしていて、何かを受け付けないような感覚が残っていた。
洗面所の蛇口をひねり、水で顔を洗って、ふと指先に目を落とす。
右手の指先が、薄く黒ずんでいるのに気づいた。
最初は夜の明かりのせいかと思った。だが、窓から差し込む朝の光の中でも、その色は確かに変わったままだった。
青アザのような紫でも、外からついた汚れでもない。
それは、皮膚の内側からじわじわと広がっている。まるで墨を垂らしたような、異質な黒だった。
軽く拳を握ってみる。感覚が鈍く、力が入りにくいように感じた。
まるで、何か異物が中から自分の体を侵食しているような、そんな気味の悪さがあった。
午前中、健介は家にいる気になれず、買い出しも兼ねて町へ出た。
駅まで続くのは、かつて祖父と並んで歩いた思い出の残る、田畑に囲まれたのどかな一本道だ。遠くでは小川のせせらぎが微かに響き、風に揺れる稲の青い匂いが漂ってくる。
木陰を選びながら歩を進めていると、道端の古びた縁側に腰掛け、水筒を両手で包みながら茶をすする老婆の姿が目に入った。
「あら? あんた、健介ちゃんじゃないの」
干からびたような声。けれどどこか懐かしい調子。
健介は立ち止まり、帽子を取って会釈する。
「あ、こんにちは。サト婆。お久しぶりです」
サト婆は祖父の家の近くに住む人で、幼い頃の健介にとっては馴染み深い存在だった。祖父の家に遊びにきたときに出会うと、よく笑いながら飴やせんべいを手渡してくれた記憶がある。
「覚えていてくれたのかい。……大きくなったもんだねえ。おじいちゃん、立派に送ってあげたかい?」
健介はうなずき、ぎこちなく笑う。
しばらく他愛もない世間話が続いたが、健介はふと思い出したように切り出した。
「……サト婆、ひとつ聞きたいことがあるんです。うちの蔵にある石のことって何か知ってたりしますか? じいちゃんから何か聞いていたりとか」
その瞬間、サト婆の表情がさっと曇った。手にしていた水筒がわずかに揺れる。
「……まさか、触ったのかい?」
「ええ……少しだけですけど」
言い終える前に、サト婆は小さく首を振った。目が大きく見開かれ、唇がわずかに震えている。頬は青ざめ、顔にはっきりと“怯え”の色が浮かび上がっていた。
「いけない……ほんとうに、いけないことを……」
「あ、あの。あれってなんなんですか?」
しかし、サト婆は小さく息を吐くと、ぎこちない動きで立ち上がった。視線を健介と合わせることなく背を向け、足早にどこかへと消えていった。
家へ戻る道すがら、健介はうつむいたまま右手を見つめていた。朝よりも黒ずみがじわじわと広がっているのがわかる。
皮膚のすぐ下で、墨のような液体がゆっくりと這い回っている。そんな錯覚を覚えるほど、異様な感覚が手の内側にまとわりついていた。
ぞくりとした冷気が背筋を這い上がる。
夕暮れの赤みが差し込む中、肌に触れた風はあまりにも冷たく、健介は肩をすくめるようにして小さく身を震わせた。
家に戻った健介は、すぐに祖父の部屋へと向かった。
自分の体が、この家が、何かに侵されている。
サト婆のあの怯え様、蔵にあったあの石はただの“物”ではないのは明らかだった。
祖父の部屋に、なにかヒントとなるものは無いだろうかと考えたのだった。
押入れの戸を静かに開け、中を手探りで探る。古い毛布や色あせた座布団、長らく使われていない灯油ストーブが、埃をまとって押し込まれている。
その奥、床板の一部だけ色がわずかに異なっていることに気づいた。
指先で板の端を探り、力を込めて持ち上げると、隙間の奥から小さな木箱が姿を現した。
黒ずんだ木目には赤茶色の文字がかすれ、判読できない。南京錠はすでに老朽化で壊れており、冷たく無防備な口を開けている。
中に収められていたのは、革表紙の手帳だった。
黒い布で丁寧に包まれ、その佇まいは明らかに“普通の記録”ではないことを物語っている。
健介は仏壇の前に腰を下ろし、深く息を吸ってから、その手帳を開いた。
『篠田家三代目当主の日記』 より抜粋
石、封ずること適わず候。
此れ、単なる石に非ず。此岸と彼岸とを隔つる境の門なり。
之に触るる者は、覚えざるうちに彼方へと引き寄せられ候。
其は影のごとく人の意識に寄り添ひ、寂として深く染み入り候。
肌の黒変は其の印にて、悉く広がらば魂すら奪われ申すべし。
篠田家、此の祟りを世々に継がねばならぬ宿命を負ひたり。
これこそが篠田家の罪業なり。
若し此の記を読む者にして、既に其の石に触れしことあらば、赦しを乞ふほか無し。
もはや、還る途は無きものと知れ。
健介は、手帳を閉じられなかった。
「還る途は無きものと知れ」──その文言が、頭の中で何度も反響する。
自分が子どものころ、石に触れそうになったとき、祖父は本気で怒った。
いや、あれは怒りではなかった。あのとき祖父を突き動かしていたのは、紛れもない怯えだった。もし触れてしまえば、大切な孫が取り返しのつかぬ事態に呑み込まれる。その恐怖が、あの声を絞り出させたのだ。
唇をきつく噛みしめる。悔しさとも恐怖とも判じ難い感情が、熱い塊となって喉にせり上がってくる。
誰にも告げず、ひとりきりで、祖父は長い年月あのなにかと対峙し続けていたのだ。
「……ごめん、じいちゃん」
祖父の言いつけを破ったのは自分だ。ならば、その結末も、自分の手で引き受けねばならない。
深夜二時。
障子の外は、漆を流したような闇に沈んでいた。月も星もなく、わずかな外気すら感じられない。
日中の熱気をすべて吐き出したかのように風は止み、庭の草も息を潜めている。音は一つもなく、空気がひやりと凝り固まり、じわじわと部屋の中へ冷たさが染み込んでくる。
健介はふと、右手を見た。黒ずみは、気がつけば指から手首へ、そして肘の近くまで達していた。
もはや「皮膚の異常」と言える段階ではない。まるで別の物質に置き換えられているかのようなそんな不気味さ。皮膚の下がずきずきと疼き、体の奥に“何か”が入り込んでいるのを感じる。
そして、突然静かな空気の中に“音”が混じった。
ぴちゃ……ぴちゃ……。
また来た。
“あれ”が、今夜もやってくる。
健介は膝の上で握った拳に力を込め、覚悟を決めていた。逃げても無駄だろうということは、もうわかっていた。
ぴちゃっ……ぴちゃっ……。
足音が、じわじわと近づいてくる。
廊下の板がかすかに軋むたび、湿ったぬめりの音が畳へと滲み出す。そして、健介のいる部屋の襖の向こうに、今確かに誰かが立った。
けれど今夜は、逃げない。
呼吸を殺し、全身の筋肉を強張らせながら、ゆっくりと立ち上がる。指先が襖に触れた瞬間、心臓の鼓動が耳を打ち、汗が背中をつたった。
勢いを殺して静かに引き開けると──そこには、誰もいなかった。
ただ、床の上に黒く濡れた足跡がぽつぽつと並び、廊下の奥。蔵がある方面から不気味に続いていた。
「じいちゃん。どうか俺を守ってくれ」
健介は、仏壇の前に静かに一礼し、決意を固めるようにゆっくりと庭へと出た。足跡を一歩ずつ辿りながら、闇の奥へと進んでいく。
蔵の前に立った瞬間、肌を撫でる空気が途絶えた。まるで世界そのものが息を止めたかのようだ。
風は一片もなく、虫の羽音すら消え失せ、周囲の音はすべて厚い膜の向こうへ追いやられている。耳に残るのは、自分の鼓動だけ。
扉に手をかけると、冷たく湿った感触が指先に絡みついた。
きぃ、とかすかな軋みを残して開いた隙間から、昨日と同じ、土と古木が混ざった重たい湿気が這い出してくる。肺の奥までじっとりと入り込み、呼吸のたびに体温を奪っていく。
スマホのライトを点け、一歩、また一歩と足を踏み入れる。
薄闇の奥、“あれ”は確かにそこにあった。
台座の上。黒い布は床に無造作に落ち、黒い石が、むき出しのまま冷たく沈黙していた。
近づくごとに、胸の奥で鳴る心臓の音が鉛のように重く沈み、鼓動の一つ一つが全身に鈍い衝撃を広げていく。呼吸のリズムが狂わされ、肺の奥がひくつき、息を吸うたびに冷たく淀んだ何かが入り込んでくるようだった。
気がつけば、右腕はもう肩口まで黒い染みが這い上がってきていた。
ほんの数歩のはずが、足を運ぶたびに空気は重く濃くなり、時間がゆっくりと引き延ばされるようだった。息が詰まる緊張の中、その数歩を終えてようやく台座の前に辿り着いた。
「この石が、悪いんだよな」
きっと、自分はもう助からない。ならばせめて、この手で終わらせる。どれだけの人間が“彼方”とやらへと引きずり込まれ、帰らぬ存在になってきたのか。こんなものは、もう世にあってはならない。
息を詰め、健介は決意を込めて両手で石に触れた。
あとはこの石を抱え上げ、全力で地面へ叩きつけるだけ。
しかし、その瞬間に世界が沈黙した。
音が消えた。
空気の粒子が止まり、視界の色が抜けていく。
石の中に、手が沈む。皮膚ではなく、腕そのものが“吸い込まれる”。
反発も、痛みもなかった。
ただ静かに、自分という存在がなにかへと引き寄せられていく。
ああ──これが、境を越えるということか。失敗したな。
そう思った時、健介の意識はふっと途切れた。
翌日、サト婆が心配そうな面持ちで家を訪ねてきた。
玄関は半ば開き、靴はきちんと揃えられ、荷物も整然と置かれたまま。だが、その整いぶりがかえって不自然な静けさを漂わせていた。
仏壇の前では、線香が燃え尽き、灰だけが細く積もっている。
家中を呼びかけながら探すも、押入れにも、トイレにも、庭の隅々にも、健介の姿はどこにもなかった。まるで、そこに存在した事実だけを残して、ふっと空気に溶けたかのように。
唯一異様だったのは、裏手の蔵だった。
重たい扉は開け放たれ、内からは生ぬるく湿った空気がじっとりと這い出してくる。奥の台座の上には、例の黒い石が冷たく沈黙していた。
それを見たサト婆はしばし立ち尽くし、やがて悲しげに目を伏せた。
「ああ、健介ちゃんや……あんたも呪いを解こうとしたんだね。篠田家の男は、本当に……」
小さくつぶやくと、床に落ちていた黒い布を拾い上げ、石を覆い隠すようにそっと掛ける。そして、掌を合わせ、ひと呼吸置いてから蔵を後にした。
誰もいなくなった蔵。静寂の中、覆われた布の下から──ぴちゃり、と何かがゆっくりと動いたような、湿った音が一度だけ響いた。




