ハート
扉は閉じられた。外が破滅の雨に曝されるまでにあとどれ程の時間が残されていただろう。夜闇は二つ目の月の姿によって暗い青の輝きを放っていて、そんな輝きを遮断したにもかかわらず青い輝きは残されていて。施設の床と壁の隙間から零れる輝き、照明の一種だと分かっていても尚ジェードルは緊張を抑える事が出来ずにいた。
「なんなんだよあの月」
ジェードルは頭の中に宿り枝を伸ばす意味不明と言う単語の成長に呼吸を速めていく。壁に寄りかかって地面に座り込み肩で息をするタルスに倣うように壁に身体を預けて疲れに身を任せて小刻みな呼吸を繰り返す。
そんな姿をクルミ色の目で見下ろしながらユークの口は開かれた。
「危ない世界を体験したな」
分かり切っていた事だろう。それでもあの状況下での動きなど限られていて、彼は承知の上でジェードルたちを危険の元に曝したのだ。
「あんな想いをしても外出調査に憧れるか」
世界の外側、地下都市にこもって時たま日光を浴びるだけでは得られなかった世界があの数時間の中に凝縮されていた。
「確かにあれは脅威だった」
自然の変わり果てた姿は世界中があの雨に濡れては穢され、どこまで行っても現れるクラゲは逃げ場など無いのだと告げているよう。
「結局どこの世界でも待ってるのは絶望だけかも知れない」
破滅の雨が降っていない間はあの天体は何処にいるのだろうか。地球は回っているというにもかかわらずついて来るように現れるそれは恐らく宇宙という外側から世界中を巡っているのだろう。
「でもな、俺は外への憧れを捨てられない」
絶望という理由一つで抑えきれるものではない。それがジェードルの答え。ユークは声に反応したのか、細めていた目を緩めて無表情を作り上げる。
「なら次の候補生に推薦しておくか、女の方も合わせて」
外出調査員、それもリーダー直々の推薦とあれば効果は大いに期待できた。
疲れやしびれのように痕跡を残す痛みに身体を強張らせながら立ち上がり、奥へと進んで行く。向こうに備えられた光景にジェードルは目を見開き疑問を放たずにはいられなかった。
「この中は自由なのか」
棚に置かれたかごから溢れ出る色とりどりの袋に包まれたお菓子、棚の中にまで居座っている様は人類よりも余程長くこの場所に住んでいるようにすら錯覚してしまう。
棚に収められた食器類が青い照明にもたらされた輝きに艶やかな煌めきを答えとして返す様は人類よりも余程はっきりと物を言うように感じられる。
そんな立派な物に囲まれた空間の中で手を震わせながらたどたどしい動きを見せながら必死に引き戸を開けたり床下収納の蓋を引き上げる男の姿があった。
「ない、ない。酒がない」
情けない声の響きがシーケスなのだと自己紹介している。酒を探してここまで来たにもかかわらずなかった時の絶望の表情は地下施設へと戻る時のものよりも悲惨。
呆気に取られるジェードルに向けてタルスは口を横に広げて嘲笑の目を見せながら告げる。
「あいつはアルコール依存症なんだ」
落ち着きのない動きで様々な棚を開けては皿を乱暴に放り出そうとする仕草を目にしてユークはその手をつかむ。
「酒は残っていない」
途端にシーケスの表情は怒りにゆがみ、眉間にしわを寄せながら身体と共に声を震わせる。
「どうして俺の癒しだけ無いんだ」
「自分の記憶に訊け」
恐らく飲み干してしまったのだろう。地下都市を出てから戻るまでに幾つのビンを空にしてきたことだろう。想像するだけでも身震いしてしまう。
「初めての外出調査では消毒用アルコールを飲んですぐにここに来て寝たくせに反省も出来ないのか」
ジェードルは思わず吹き出してしまっていた。冗談の一種だろうか。如何に戦いの中で感情を抑える事が苦手なジェードルといえどもそこまで落ちぶれてはいない。
そんなジェードルの顔を見つめてタルスは答えずにはいられなかった。
「本当だからな」
そう答える顔は笑いに満ちていた。堪えることの出来ない笑い話なのだろう。仮にその場に居合わせたものならば間違いなく忘れられない思い出になっただろう。すぐさま断定を下すことが出来る奇行だった。
ジェードルは辺りを見回し置かれている道具を確認する。視線の先に現れたレコードプレーヤーにユークの手が置かれ、スイッチが入れられる。流れ始めた大人しくしっとりとした音楽はしっとりとした雨音を思わせる音色を奏でて行く。
「リニはどこにいるんだ」
無言。しかしジェードルの疑問に答えるように親指を向けるユークに従って視線を移す。一つのドアが彼女の姿を視界から切り離しているのだ。青い輝きが嘲笑うこの場所で仲の良い人物は大切。
ドアを開いたジェードルを迎え入れたのは倒れた男の脚に必死に包帯を巻いているリニの姿。
「リニ」
彼女は手当てを施す手を速め、素早く巻いて結び、顔を上げてジェードルの目を射抜いてみせる。
「帰って来たんだな」
無事を素直に喜ぶ顔は相も変わらずこれまで見て来たどの光景よりも輝かしくジェードルの希望の花となる。
立ち上がる。脚の伸ばし方、角度に女という生き物を感じさせながら、リニはジェードルの方へとゆっくり歩み寄って立ち止まったのはすぐ目の前。
手を伸ばし、ジェードルの耳へとしっとりとした指の感触が絡みつくように這って。
ジェードルは耳に走った激痛に思わず表情を乱した。
「引っ張るなって」
「なんか私に惚れてたみたいだったからな、意地悪したくなったんだ」
「惚れてねえよ」
途端に脳裏に突き刺さり意識を研ぎ澄ます刺々しい痛みが姿を現す。やがて胸の方へと回って微かに息を荒らげてしまう。
「いや、惚れてねえからな」
自分に言い聞かせるように叫ぶものの、言葉はちくちくと刺さり続けてはチクタクと進み続ける時計の針が心の底を刺す針へと姿を変えてしまう。
リニはため息をついて言葉を返す。
「あっそ、勿体ないな、ジェードルに構う女の子なんて珍しいのに」
そんな言葉でジェードルを更に刺す彼女は落胆の音とは裏腹に優しい笑顔を浮かべていた。薄暗い景色に馴染まないものの、いつもの溌溂とした笑顔には叶わない。
そんな顔にジェードルは大人の気配を感じ取り、目の前の彼女との大きな距離を見ていた。
「ほら、やっぱり。そろそろ本名で呼んで欲しいんだよな、正直になって」
見透かされている。リニの顔の裏の情を悟った瞬間、彼女の余裕は大人というよりも優越感だと知って開いていたはずの距離はすぐさま縮んで行った。
「リニにはオトナの女の演者にはなれないよな」
反射的に感嘆符の付きそうな声を上げながらリニは更にジェードルの耳を引っ張りながら顔を鼻同士が付いてしまいそうな程に寄せて行った。
「誰が女らしくないだって、女の子に何言ってんだ」
痛みを堪えようにも限界を迎えてしまいジェードルはリニの手首を微かな力でつかむ。緩やかな力はまるで童子。痛みのあまり充分な力を発揮出来ない。
手首に撒かれたジェードルの手がリニの目に入ると同時に頬を赤らめてすぐさま耳を引っ張っていた手を放す。
「ごめんな、痛かっただろ」
「こっちこそ。リニも心が痛かったよな」
合わせられない目、向かい合っての観察が出来ない。対面での戦いのように動けないという経験は初めての感覚で、耳の痛みが痺れと熱のような余韻に変わっても尚どこかに残る痛みが苦しくありながらも心地よくて仕方がなかった。
「リニは女らしいとかオトナっぽいとか気にしなくていいから」
「なんでだよ、似合わないってか」
沈黙が痛い。言葉を発したくなるものの、湯気が上がりそうな程に熱い頭は、のぼせ上った思考は言葉を上手く紡ぎ出せずにしばらくの沈黙を生んでいた。
それでも手探りで言葉を選びながら固まった口を無理やり動かしたどたどしく編み上げた。
「女らしいのと女なのとかオトナっぽいとか本物の大人とか、全部違うだろ」
リニの目は緩み、うっとりとした貌を描いてはジェードルの目に熱い視線を送り込む。時計の針が静かな部屋で時間の経過を刻み込むこと三度。リニは素早く手を振り上げジェードルの頬を思いきりはたいた。
「はあ!? 急にどうした」
無言でジェードルの隣を通り抜け、大きな足音を立てながら部屋を出て行く。ジェードルはその足並みに迷いが生じている事を見逃さなかった。
男性用の就寝室へと入り込み、懐中時計のねじを巻き始める。歯車同士が噛み合いながら立てる決して静かとは言い難いものの纏まった音は音量相応の不快感を持たない。
「リニのやつ、どうしたんだろうか」
就寝時間にはあまりにも早すぎるものの、疲れは身体を押し潰してしまいそう。戦いの痕跡、あの緊張感が雨の後の香りのよう。水の雨は果たしていつ以来だろう。かつては破滅の雨が降っていない時の日光浴の日ににわか雨や突然の天候の変化といったものに惑わされる事はあったものの、ここ数年の天候予測はあまりにも正確無比。
人類は完ぺきを求めているが為に余裕を失っている。余計なものに馳せる想いを忘れてしまっている。
このまま世界は滅びてしまうだろう。人類は世界から消え去ってしまうだろう。しかしながらその前に人間という心の在り方が遺物となってしまうのではないだろうか。考えるだけでも鳥肌が立ってしまう。
「もしも心の無い人間が多数になったらそれこそ人類は終わる」
想定される事象の一つに心を失ってしまったその時に人類の選定が始まるというものがあった。感情無き支配者が自身の領土にて賄える物資を見て学力や労働力に順位を付けて必要のないと判断された人物は間引かれるか働ける限り常に労働の場に出されるか。
そうして苦しみの中に放り込まれた時に大きな人間性を宿すと思われているという事。
――あまりにも残酷だ
その時、静かな足音が耳に届き始めた。
妄想に耽っているジェードルの元へと軽い音を立てながら歩み寄るのは果たして誰だろう。
振り返り、迎え入れた光景に、上品な顔立ちをした女が立っているその景色にジェードルは目を疑った。
「男用の寝室だぞ」
そこにいるのは不適切だと指摘を差し込むも、その女、メリーは立ち去る事無く目を細め、鋭く尖らせた。
「リニが大変なのだけど」
そこから続けられた言葉によればリニは機嫌がいいのか悪いのか分からないという事だった。苛立ちを見せているように見える事もあればすぐさま笑顔を咲かせては枯らして忙しなく動き回ったと思えば急に立ち止まり俯いて。
「あの子も自分の気持ちが分からないみたい、まるでハートの無い私のようね」
「情緒が吹っ飛んだ子と日光浴の日を調べもせずに危険な力を使う人を一緒にしないでくれ」
ジェードルの言葉はどこか力が無く緩みを見せていた。その感情に湿っぽさが見られない事を察知してメリーは無表情を作り、食事の時間とだけ告げて男用の寝室を後にした。