呼び声
木々は素早く目の隣を素通りしていく。散らされる葉が大胆なまでに大粒な雨のような様で降り注いでは大地の色を自分色へと染め上げようと動いている。何事もなく戻る事が出来るように、強く祈りながら走っているユークの目に混ざった無機質な汚れのような小さな何かはユークの願いを折ってしまう存在。
「出たな」
始めは三つ程度だったそれが大きな面積を埋め始め、ユークは斧を取り出して大きく振って。鋼鉄製の蜂を幾つも叩いた斧はやがて一度飛び跳ねて。未だ消えない残像と交差する角度に振り下ろされて蒼黒い交差を描く。瞬く間も許さずに行われた二度の攻撃は幾つの蜂を叩き落しただろう。
――大量か、敵多すぎだろ
本来はクラゲを二発で三体仕留めるためのちょっとした技程度でしかないそれは一振り目から大量に討ち、二度目の攻撃でそれ以上に狩っていた。
「軽すぎるか」
想像に身を委ねるなら恐らく目の前を埋め尽くす蜂を構成する物質はユークの目には鋼鉄のように見える色合いと光沢を持っている立派な敵に映っているものの。
「素材は案外脆いな」
更なる攻撃を幾度も放ち戦闘を繋ぐ。想いを紡いで何度目となるだろうかそれすら思い出せない数の斬撃と蜂の墜落をその目に映していた。
「早く帰りたい」
メリーが空から呼んでいる。ジェードルの方へと向かうように何度も告げているものの自然というあるべき形がそのまま彼の足を止めてしまっていた。
「メリーがうるさいんだ」
頭の中にて直接響くメリーの声は何度も反響を繰り返し、その度に心の壁に使命感という塗料を塗り付けては焦りの道へと導いてしまうものの、振り下ろされる斧が描く過去からの幻影の扇を目にすることでどうにか正気を保って目の前の景色に想いを向ける事が出来た。
――今のメリーにはこっちの状況が見えていないのか
そうでなければあのメリーがここまで繰り返し告げるはずもない。未だに頭の中で響き続けるそれは幻聴のように広がり、幻聴であって欲しいという願いを産み落とし、しかしながら現実である事は認識しており。
攻撃の隙間に居座り生存を果たした蜂がユークに向かって襲って来るものの、みーちゃんが口を開いて鋭い輝きを微かに見せながら蜂を迎え入れる。牙による一撃は強烈で蜂の体をいとも容易く打ち砕いてしまう。爪を出して飛びついて更に討ち、幾つもの実績を重ねる仲間の姿がどこまでも頼もしくて仕方がなかった。
――ナイスだみーちゃん
――ありがと。ユークと一緒に進みたいからまだまだ頑張るよ
すっかり懐かれている事を知ってユークの口元に得意げな笑みが宿る。みーちゃんからの好意ほど心地の良い温もりは人では引き出す事が叶わなかった。
蜂の軍勢をくぐり抜けた先、そこで待っていた、張っていたというべきだろうか。大きなひび割れはユークの目を驚愕へと導いた。
木々の間に入った強烈なひび割れは現実というアートが砕かれた証のように見えてしまう。ユークの進行を妨げる破損、直進を許さないように世界に嵌め込まれた破壊のようにすら思えてしまう。
「あれはクモの巣か」
あまりの大きさに一度は目を疑わずにいられない。ユークの背丈と変わりなく見えて、しかしながら近寄ると二倍近くまでの大きさを誇っている事に気が付き更に驚きを得ずにはいられない。
「なんて大きさだ」
自在に生えた木々、立ち並ぶそれは遠近感を狂わせてしまっているのだろう。近寄る事でようやくつかんだ大きさ、そこから推定されるクモの体長を推測するだけで全身に鳥肌が走っては永遠に拭い去ることの出来ない深さを見せてしまう。
あまりにも大胆に張られたクモの巣に近寄っていく黒と黄色の縞模様と細長い十本の脚。地を這っているその姿に寒気を覚えて地球に住まうクモとの足の本数の違いになど目が向かなかった。
巨大なクモ、細かな毛に覆われた体が動く様はユークの全身に走る鳥肌を虫が這いずり回った感触だといった錯覚を産み落として肺からこみ上げる感情は吐き気という形となって現れて。
「くそったれ」
思わず汚い言葉を放たずにはいられなかった。
幾つもの目を使って辺りを見回すそれがユークの姿を捉えないように、そんな願いと共に息を潜めて後退りをする。葉と土を踏む音はきっと耳に入っている事だろう。否、耳は無い。音は届いていないはず。そう思ったユークの方へとクモはゆっくりと体を向けた。
――タランチュラなんて比じゃない大きさだ
――クモは脚で音を聞いてるんだよ、ユークの故郷にはいなかったの
――小さいのが昔たくさんいたらしい
しかも鋭い聴覚を持っているという。滅びに瀕した地球という環境の中での教育に於いては昆虫に対する理解の必要性を感じなかった。そのための知識不足がユークに襲い掛かってしまう。今の敵は目の前の存在だけではない。確実に己の知識不足までもが牙をむいていた。
「これも報告か」
斧を構え、一歩踏み出したその時だった。その一歩が衝撃を生み、クモの背中に飛びつくような跳躍を見せた。視界の動きと生身にかかる妙な浮遊感にユークは今までになかった感覚を得ていた。木々は恐るべき速さで迫るように寄ってきて、しかしながら再び遠ざかっていく。下を見下ろすと毛むくじゃらの塊を拝む事が出来、そこへと空気の手の策によって叩き付けられようとしている。そのような想像がよぎっては離れてくれない。
――危機感は人間に備わったセキュリティーシステムとは思うが
現状は自分で生み出したもので、地球に住んでいる時の自分としては起こり得ない事だった。
やがてユークはクモの背中に叩き付けられて。硬い体に向けて叩き付けられた衝撃は身体へと伝わりやがて一つの短い悲鳴を上げる。ユークはそのまま体勢を立て直し、斧を構える事で態勢を立て直す。
――地球と法則が違うなら、少しは有利に働いてみろ
硬く細かな毛に覆われ乾いても尚雑草の生えた大地の如き背中へと意識を向けて斧を垂直に構える。軽く動くクモが大地を揺さぶりクモ自身の動きによる揺れと重なり合ってユークの集中力やバランスを崩壊へと招こうとする。
「煩わしい」
そのまま斧を振り下ろし、クモの体に深い亀裂を入れる。途端にクモは体を震わせ苦悶を動きに変えていく。ユークはついで程度の作用で大地へと転がり落ちて大地を回っていく。すぐさま立ち上がり相手へと目を向けたその時、視界は大きなクモによってつけられた広大な影を迎え入れた。
クモが脚を上げて細かな動きで威嚇しながら感情任せに大地へと突きを放つ。ユークを踏み潰してみせようとしたその動きはユークの視点から丸分かり。迫り来る脚の動きを見ながら飛び退き転がって。クモとユークの足が地を捉えるのは同時の事だった。ユークはクモの方へと振り返り、クモはユークの命を奪うべく再び接近を試みる。クモの後ろ足をみーちゃんが必死に引っ掻いたり突撃する姿が目に焼き付くものの、打開策にはなり得ていない。
――強すぎる
背中を破られようともものともしないその姿勢と失うことなく保たれる勢いを見て落胆を誤魔化す深呼吸を一度挟んで再び敵を見据える。恐らくユーク程度の力では倒す事は不可能だろう。逃げ切る事を狙いとする他ないという結論に至り、しかしながら森の向こうへと行くにはどのように動くべきか。
頭を必死に巡らせ思考を繰り続けている間にもクモは大きくなったような錯覚を生み出すほどに近付いていた。
脚を上げ、二本同時に下ろされる中で横へと跳び、斜めに薙ぐ一撃は大きく跳ねて躱し横薙ぎをはかった脚に飛び乗る。
その瞬間に空気を裂く音と共に襲い掛かって来た更なる一撃には腰を大きく曲げて躱すという対応を取って斧を握る手に力を込める。大きく上げられた細く尖った脚が落ちるような勢いで迫ってくる中でユークは勢いを付けて体ごと斧を振って迎え撃つ。火花の散る未来を思い描いた衝突だったものの、実際には固い音とぶつかり合いの二つのみの演出。
ユークは意識を力に添え、斧をなぞるように全身に力を込めるものの、クモの力はユークの必死の抵抗を嘲笑うように弾き飛ばしてしまう。そんな力の動きについて行かされるユークの体は大地に叩き付けられ、必死に上半身を起こしてクモの姿をその目に収める。
感情の欠片さえ映す事を許さないその顔、幾つも宿る目に感情の影すらなく、脚を上げる動きには無駄が無い。見た目から雰囲気、そして挙動。一つ一つがユークに意思を宿さないまま強く訴えかけ、毛穴の一つ一つから忍び込んでは意図なき殺意を訴え鳥肌を立たせてしまう。
恐怖に支配され震える膝で立ち上がったユーク、相手から目を離すことなくただ睨み続けて。クルミ色の瞳と鋭い目つきに宿る恐怖感は隠しているものの滲み出ている事は間違いないだろう。始まりの時点でリニやジェードル程の感情の動きは持ち合わせていなかったものの、今だけは彼らに負けないだけの感情の動きを見せていた。
クモの突きが繰り出される。勢い任せに空気を引き裂いて風を巻き起こしながら襲って来るそれにユークは己の一撃を重ねていた。地球でクラゲを狩っていた時のようにこの星で己が狩られる。自然の摂理の中で巡って来た順番。そこに感情など挟み込んでも仕方がない。
落ち着いて、心に宿した感情を削ぎ落し、下ろされる脚を睨み付けたまま。ユークの右脚は捻るように曲げられ体は左前へと飛んでクモの一撃を躱していた。
「向こうとは力の働きが違うんだ」
飛んだ先にはクモの後ろ脚が柱を思わせる様で立てられている。その脚を必死に引っ掻くみーちゃんは爪とぎをしているように見えてしまうものの、自分なりにユークを救おうとした結果なのだと認めて頭に触れて。揃えられた動きで共に頷いてユークはみーちゃんに跨る。みーちゃんは可愛らしい鳴き声を上げながらクモに背を向け駆け出した。
――これから帰るんだよね
みーちゃんに訊ねられて同意を示す事しか出来なかった。
――ついて行って、いいかな
みーちゃんに訊ねられて同意を示す事しか出来なかった。
――影に別れ告げたら捕まえられそうだからそのまま駆けていいかな
みーちゃんに訊ねられて同意を示す事しか出来なかった。
三度に渡る同じ行動はみーちゃんの中で濃く強く印象に残ったのだろうか。その表情は今まで見られなかった明るみを、天空で輝くメリーに負けず劣らずの眩さを主張していた。




