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出発

 身動きを取る事さえ許されない。息苦しさを覚えるもメリーを囲む顔の見えない彼らはそのような想いなど汲み取ってくれることもない。毎度のことで、メリーは既に諦めの選択を取っていた。

 辺りは青く輝き、メリーは広く青い天井を天上と錯覚することもなく。ベッドに固定された手足には既に力が入らなくなっている。身体はメリーのものではないのではないか、今この青空の代わりにすらならない青の檻を見つめるこの魂は身に宿っていないのではないだろうか。そんな感覚に薄暗い感情すら抱かせる。

「鉱物の体と鉱物の雨、変質した現役の固体と新たに注いだ原液が如何なる反応を示しているか」

 どのような検査を行なっているのか、メリーの体に如何なる器具を取り付けているのか、切り開かれはしないだろうか。様々な機器や彼らがメリーを叩く動作などがその目に入ってしまった事もあったがために彼らの言葉の全てが信用できないものだった。

「どうやらあの液体は同じ物質を侵食することは無いようだ」

「いや、こいつが望めばあり得る。紅の都市の偉い者という前例があるのだから」

 ルウの話だろう。メリーはすぐさま思い至った。クラゲが触手を伸ばし、肩から入り込んでは身を侵して身体の一部に影響を与えた事例。目を通した報告書によると身体の一部の変質の他にも竜を思わせる翼や尻尾が生え、右の手首から先は鉱物の鱗に覆われていた。イマリセツナの書いた小説に偽装した歴史書に書かれるマリーと呼ばれる竜の少女の特徴とある程度一致したそう。

 髪や肌の一部と右目が鉱物と化してしまったあの現象は果たして如何なる後遺症を残しているのだろう。メリーにも同様の現象を引き起こす力が眠っているとも言われているものの、恐ろしさは力の開拓に大きな躊躇を示している。

「こうやって何度も検査と称して自由を奪っていればもしかしたら逆襲に出るかもな」

 彼らは分かっていない。メリーの内に秘める想いなど見ようともせず、ただ推測と出鱈目を散らして笑うための材料として処理するのみ。

「変質してたら面白いのにな」

「切除したいのか。してみたいかもな」

 人の体を切る事すら遊びの一種と認識してしまう彼らの方がよほど人間から離れている。メリーの中ではそのように結論が付けられるものの、彼らにとってはそれも現実の外の世界の話。

「こいつ鉱物生命体だろう。どのみち人間じゃないんだしいっそ解体しろよって話」

「だよな。クラゲの弱点の一つや二つくらい見つかるかも知れないな」

 人間という存在についての定義は生物学にのみ基づいて執り行われる。それが彼らの意見なのだろう。医師となるべく勉学に励んで行く上で脳が凝り固まってしまう人種もいるのだと呆れを抱いてしまうも恐らく顔は感情を作るだけの力も入らないだろう。今この場では如何にありがたい事か。メリーは状況に感謝していた。



 タルスは周囲を見渡す。大きなテーブルと幾つもの椅子が設置されたそこは幾つめの会議室だろう。地球人の無駄話は今は行なわれていないのか、他の会議室だけでも十分なのか。テーブルに胸から上を預けている若い男に目を向けて安心感を得る。最も信用している人物は今は同じ場所にいる。つまるところユークもまた罪人だという事。

――都市を守るための行動がこのような結果を生むとはな

 何とも皮肉な話だろう。平和を作る事が本人を平和から遠ざけてしまうのだ。そのような判断を下した国に対して睨み付ける事しか出来ない。

 タルスは紙とペンを取り出し、紅の都市の中で起きた出来事やその後この都市で下された処分を綴っていく。

――人類の歴史の中で一度生まれた噂に信憑性があれば消える事はそうない

 立ち上がり、床に分厚い布を敷いて眠る老人の元へと歩み寄り、傍に置かれた鞄の中から資料の保管用のバインダーを取り出して差し込んでみせる。

――これで彼らの愚行を知る人物も現れるはずだ

 近い将来、この都市の中に小さな混乱の渦が生まれるだろう。始まりは僅かな人の情から創り上げられたそれはやがて大衆の様々な想いや行動を巻き込み大きくなる事は間違いない。それが有象無象の噂話の一つとして片付けられて都市の中でのささやかな楽しみの一片となるか大きな革命の灯火となって一つの小さな社会を燃やし尽くす劫火となるか、人々の命を徒に灰に変えてしまう業火となるか。豪華な結果を生む事だけ期待してバインダーを仕舞い込み、その目を閉じた。



 老いた手が数日間の内に降り積もった埃を払う。皺に塗れた手が久々に触れた自室。マルクはここでの生活を思い返して目を伏してそのまま沈黙を過ごす。

――望むなら、この部屋といつまでも向き合っていたかった。果てるその時まで

 しかしそれは叶わない話。ドアが開き、ブレザー姿の男たちが金属に覆われた足で踏み込む。

「溜め込みや納期前の資料を回収しに来た」

 マルクはそれらを手渡して。それからすぐさま机を運ぶ数人と未だマルクの前に立つ男。彼の顔を引き裂くように開かれた鋭い口と心を切り抜いたような目。笑みは最悪の姿をしていた。

「残念だったな、あと数年ここにしがみついていれば公から退いて隠居だっただろうに」

 他者が地位を失う瞬間を娯楽の一つとして捉える人物は感情に塗れている。仕事を遂行する間、特に戦場以外での業務は無心でいられるのではないだろうか。取り決められた事を品の無い指が下劣な仕草で行なう。行動の主の顔に張り付いた露悪的な笑み。それらに軽い吐き気とめまいを覚えずにはいられなかった。



 数日が経過した。指で数えることの出来る程度の日数を跨ぐ間にユークは退屈を唱えていたのだという。タルスは賛同の意を示す頷きを繰り返し、マルクに至っては壁に背を預けて座り込み殆ど動かなかったそう。

 大きな空を眺めて大きく息を吸い、あくび交じりに見つめた景色が地球から見上げる最後の思い出の景色になるのだろうとジェードルは呟いた。

「そんなことないんじゃないか」

 隣に立つ赤毛の彼女は大きな目でジェードルの姿を収め続ける。その目から溢れる熱い想いはジェードルに対する感情を描いて空を彩る。

「俺はもう行かなきゃ」

 リニの右隣で直立した男がジェードルに名札を手渡す。そこに書かれた文字はジェードルの旅の始まりを無感情に告げるだけ。首に提げた姿を見つめ、リニは目元を緩める。

「行って来い、他の星で絶対また一緒に過ごすからな」

「リニと安心して過ごせる星って」

 ジェードルは宙を仰ぎ想像を膨らませているようだ。リニが疑問を表情に現しながら顔を近付けた途端、ジェードルの口が開かれる。

「どんなガサツな奴でも生きていける星だな。全力で探そう」

「そこまで酷くねえって私」

 軽く頭を小突いた刺々しい熱が衝動に遅れて苛立ちという輪郭を作り始める。ジェードルの前では、せめて最後は優しく振舞っていたい。そんな思いが心に突き刺さって痛い。

「リニの思い出はやっぱこうじゃなきゃな。その明るさは俺の太陽になるから」

 明るい言葉を受け、リニの顔が微かに明るく色付いたその時の空気感を打ち砕く大きな音が響く。リニの隣に立つ男が一度手を叩き、二人の意識を男へと向かわせていた。

「時間だ、罪人はすぐにでも消えろ」

 冤罪である事は確実。しかしながらリニが幾度訴えてみせようとも彼らはリニを門の前で払ってしまう。冷めたい反応は公が正しく機能している証拠。数日の間に彼らのブレザーに塗り付けられた態度の色を落とす事など叶わなかった。

「じゃあ、リニ。絶対また会うからな」

 言葉を捧げ、リニの顔を凝視する。本当は名残惜しい。そんな心の声が音もなく耳に入ってきて仕方がない。風の音も人々の喧騒もジェードルの本音の伝達を阻むには力が足りない。

 ジェードルが立ち去った事を確かめて男は隣へと振り向きながら命を感じさせない声をなびかせる。

「では、帰ろう。罪人の行く末に相応しい末路が待っている事をいの」

 言葉は途切れ、代わりに得た心情を言葉として引き出してしまう。

「あれ、いない」

 突発的な感情から捻り出される言葉には本日初めての感情が垣間見えていた。その様子を目にしながら、男の背だけを見つめながら、リニは歩き出した。



 ガラスのように澄んだ鉱物の窓が正面にはめ込まれている機械。鉱物に阻まれているとはいえ景色をそのまま見つめることの出来る唯一の機能が広がる部位の下には二つの座席と細かなスイッチや指で弾くことの出来るレバーが不揃いに並べられており、それらのすぐ傍に備え付けるように輝くランプが色で状態を示している。

「ここがそうか」

 鉄の塊の中を見回しながらゆっくりと歩くジェードルを出迎えたのは色褪せた茶髪が印象的な若い男。全体的に彼の色とは釣り合わない深緑のブレザーの袖を揺らしながら男は名札をブレザーの内側から抜いて襟の上で揺らす。

「俺はノース。緑の都市を破滅で充たした大罪人だ」

 自己紹介を耳にした途端ジェードルは身構える。目の前にいる男は己の冤罪とは異なり確実な罪を背負った人物。もしかすると非常時には自分だけが助かるよう対策を取り舟を壊してしまうかも知れない。そう思うだけで鳥肌が駆け巡る。

「別にそこまで警戒しなくていい。緑の都市を好き放題した後のクラゲの行動を想像すると纏めて葬った方がいいと思っただけだ」

 恐らく彼の行動は効率的だったのだろう。仮に騒動が収まった後だとしても機材はクラゲに破壊された後。システムを復旧することは膨大な費用と手間の両立により困難で、しかもクラゲは残っているかもしれない。おまけに集まったクラゲは散り、休憩所に避難した民間を導く際には行方すら見失った多くの敵の襲来に怯えなければならなかったかもしれない。

「故郷を捨てるのは心苦しかったが、常に考えていたことでもある」

 故郷の人々を守るために故郷を捨てた男は自らの人生をも捨てていた。それを実行に移す際の想いがどれ程重いものだったか。幾つもの涙を否定しながら感情に打たれ続けてきた事か。想像はあまりにも容易かった。

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