クラゲ憑き
斧を向けた先にはユークの狙い通りの少女を思わせる顔があり、その瞳は凛とした形を持っている。堂々とした紅の瞳は左目にこそ残されていたものの、右の瞳は薄青く透き通った鉱物の色を持っていた。
「来たようね、私と一緒に並行世界まで行くつもりかしら」
ユークはクルミ色の目で睨み付け、灰色の髪を揺らす。そこに立つ女の右肩にはクラゲが浮いており、触手を刺し込んでは黒髪の右半分を鉱物に変えていた。
「お前が行く場所はあの世だ」
ルウの口は微かな笑いを零す。身が小刻みに震えている。その時の彼女の背中の動きから硬質な気配が見られ、ユークは確信した。クラゲの侵食範囲は確実に広がっている。彼女の神経はどれだけの体を奪われても気が付かないのだろう。もはやルウは紛れもない鉱物生命体。
演奏の余韻が廊下を跳ね返り、透き通った鉱物生命体を破壊する一組の音が届いているにもかかわらずルウの体はおろか侵食しているクラゲさえ破壊の気配の予兆すら示さない。先ほどの小刻みな笑いが命の終焉の予兆であって欲しかったとまで思ってしまう程の脅威だった。
「その内あなたの仲間が楓を連れて来てくれるわ。行動を共にしていたとはいえ所詮は鉱物生命体ね」
ルウの分厚い唇が艶めかしい動きを取って大人を思わせる濁りのない太めの声で告げている。ユークの脳に突き刺さった純粋で強力で不穏な感情が身震いを引き起こす。真相が不明瞭な生命体が放つ色気とはこれほどまでに悍ましいものなのだろうか。
「人の姿をしていたところで所詮は鉱物生命体か」
この場に立つ者、意思を奪われ糸を引かれるように動く者。二人に向けて放った言葉はどちらにも伝わらず、ただむなしい音となって消える。
「ところでだがお前は何を企んでいる。並行世界に行ったところで、故郷に帰ってところで何が出来る」
「そんなこと」
ルウは言葉を止め、鉱物の瞳をどこかへと向ける。ユークの姿をくっきりと映す鏡面の先は見通せず、その目に感情は宿らない。ユークを見ているのか宙を見つめているにすぎないのか、まるで判断が付かなかった。
それから数秒間の沈黙はユークの心臓に秒数の二倍近くの鼓動を刻ませた。伝う汗は嫌悪感をもたらすものの、それ故に相手への敵視は強まっていく。鼓動を刻んでいるのはユークだけなのだろう。
「向こうに行って、コウに、ああ、おかしい。あの子は死んだって小説に書いてあった。時間も超えなきゃ」
気が付けば言葉は纏まりを失っていた。言語野が鉱物に圧迫されているのか、思考力を司る部位のいずれかが鉱物に侵されてしまっているのか。判断はまるでつかない。
「そう、私は。故郷に帰って。何がしたいの。どう、こう。ない、分から」
ユークは目付きと同じだけの鋭さを備えた斧を構えて魔法の力を常に暴走させている女に言葉と共に向ける。
「人でいられないなら、刈っていいんだよな」
ユークは一歩踏み出し、地を蹴り相手に肉薄した。進んでいる身は意識に相手が迫っているような錯覚を呼び起こし、斧を持つ手は自然と防衛と攻撃の二つを同時に取るべく振られる。
ルウは右腕を突き出した。瞬く間にユークはもう一歩踏み込み、勢いのままに相手に迫り、先ほど振るった斧は同時にルウの右腕に触れる。
――刈った
駆った男は勝ったと思った。試合終了を労働で買い、結果を飼い慣らしたと思い込んでしまった。それからコマ送りされる映像は研ぎ澄まされた意識が時の経過をゼロに近づけた証だろう。
やがて触れた刃は鋭い音を立てる。金属同士を打ち合う音はユークの想像とは異なる結果。彼の中に心臓が止まってしまいそうな驚きが襲い掛かった。
いつの間に起きた事だろう。目を向けた先に在る右腕は澄んだ青をしていて、幾つもの棘に覆われていた。斧が叩いたと思われる部位から透き通った欠片が零れ落ち、地面にか細い音を刻む。
「あれは」
つい口から零れてしまった言葉は驚きの感情に満ち溢れている。むき出しの感情と震える瞳は右腕の先、五本の指が鋭い鉤爪の姿を取っている事を捉える。鱗を思わせる棘に覆われた右腕はまるで竜の腕。
「マリーの記憶、これ、きっと」
背中から生えた翼は蝙蝠のような形を取っているものの、鉱物そのもので飛行に適しているとは思えない。
生えてきた尻尾はただあるだけだろうか。靴を突き破り現れた脚は鱗に覆われており、ガラスのブーツという言葉を当て嵌めるに相応しい。
「竜、記述で脚はマリーの。形、は、人の、あの竜いた、姿が変わった時にかしら」
「言葉が崩れすぎて何が言いたいのか分からないぞ」
目の前にいる人物は人間でない。声を聞き取っているのかそれすら分からない。頭から生えてきた長い角はヤギのよう。あれが思考の元を突き破っている可能性、人として必要な部位を奪っている危険性を見ていた。
「得たものは可逆的かも知れないが失ったものは不可逆だ」
ユークは駆け回り、ルウの後ろへと向かおうとするものの、ただ揺れていただけの尻尾がぴたりと動きを止め、ユークに向かって飛んできた。
絡みつく冷たさ、クラゲの触手と同じ柔らかさに打たれて足を払われ斧を手放す。気が付けば宙に浮いていて視界いっぱいに広がるのは独特の滑らかさと光沢に塗れた薄緑の床。距離感を理解しようとするも意識を強く持った時には痛みが走り、体は一回転を決めていた。
地に打ち付けられる感覚と共に襲い掛かる重力はユークの意識を痛みの方へと押し付けて。
しゃがみ込んだまま体勢を立て直して斧の方へと飛び込もうとするもルウは鱗に覆われた脚でユークを踏みつける。
「行こ、なんて、そち許さ」
言葉の形も順序も恐ろしく崩れ去っている。人という存在から遠退き続けた彼女の終着点は誰もが死を迎える世界になってしまいそうだと身を震わせる。このまま全ての都市を彼女の支配下に置いた先の未来など既に見えていた。知識の欠落と知能の変質によって消された人間性の中に残った微かな意識と全てが思い通りにいかなければ気が済まないという本能だけを残して取るべき行動すら見失ってしまうのだろうという事。
「その気持ち悪い足をどけろ、クソが」
ユークの口から苦し紛れに零れた言葉は潰れかけていた。竜の脚に声が先に踏みつぶされているような様にユークは自ら追い詰められていく。
「美、気持わ、ない」
「美脚とでも言うつもりか」
ユークは押し付けられる足の力の方向に任せて流れるように転がり、よろよろと立ち上がり、何度か崩れかける体に手を着き支えては視線のみの力強さを見せつけた。
そこは先ほどまで青く透き通る人型が暴れていた廊下。白い壁に囲まれた狭い通路。静寂の訪れによって好転を告げるそこでリニは地に伏した青く透き通る背中に突き立った斧を引き抜き刃の確認を簡単に済ませる。視線でなぞってみた限りでは軽い刃こぼれ程度。
「大事なものだったらごめん」
楓の落ち着いた声によってなされた謝罪はリニの顔に仄かな明るみを持った微笑みを添えるだけ。
「ちょっと軽くなったくらいだからむしろ好都合だよ」
楓の方へと目を向けて斧の柄を包み込むように持ってはひまわり模様の笑顔を見せて微かに異物を感じさせる情の色を織り交ぜていた。
「楓が使ったから大事なものになったな、私さ、みんなの活躍を小説として読んでたんだ」
イマリセツナが書いたとされる書物は小説に偽装したある種の歴史書。異能力者や魔法使いたちの歩んだ運命は一応物語という読み物となり得るのだと思い知らされた瞬間だった。
「里香が時を止める魔法を使えるようになった後、楓と別れてからの事も書いてあるから後で文字教えるね」
空間をも操るようになり、姿を変えて真昼と名乗り、幼少期の自分と同じ姿をした神を名乗る存在との闘いや異世界に渡って様々な魔法使いと巡る運命の冒険を果たした事などを軽く説明ながら歩いていく。見渡す限り感情を揺らさないための造りをして広がる通路にリニの表情と声が色を付けていく。彼女の明るみは非常事態の只中に相応しくない。
戦場に見合った感情の一つを浮かべた人物が廊下の向こうから訪れた。リニは見慣れた顔との出会いに目を輝かせながら駆けていた。
「ジェードル、よかった、ジェードル」
ジェードルと呼ばれた男が浮かべる表情に楓は危機を覚えていた。大切な人との再会の時までも無の感情を保ち続けるものだろうか。少しでも感情が宿ったなら疑う事などなかっただろう。生じてしまった違和感は大きく膨れて遂に言葉となって現れた。
「待て、様子がおかしい」
ジェードルが背に手をやり斧を抜くと共に楓は意識を切り替える。咄嗟に出た一撃はジェードルの身を風の如き速度で壁に叩き付け、その後の無反応を導き出した。
「もしかして偽物」
リニの表情が凍り付き、動きの方もまた同じ姿を取る中でジェードルは床に滑り落ち、そのまま立ち上がる。そこに人らしい仕草の一つも見られずまるで糸を引かれて動く人形のよう。
「操られているだけかもしれない」
ジェードルが斧を構えて駆け出した。獣のような構えと動きはどこか機械的。恐らく彼自身の体の造りと鉱物生命体としての能力の限界から算出した動きやすさなのだろう。作り上げられた自然から読み取れる不自然は不穏でしかなかった。
リニは斧を構えて微かに傾ける。途端に斧同士が打ち合う音が響いてリニは微かに仰け反る。ブレザーの紺と斧の蒼黒さが残像を描いて。リニは耳を澄ませながら体の無機を変えて斧を構える手に力を込めて微動する。金属を打ち合う音と火花が散ってリニの耳に響いていく。楓はただ見ている事しか出来ず、リニのすぐそばにて立っているだけ。
楓の背中に鈍い痛みが走り視線は大きく下がる。気が付くと腰を曲げている自身と上に肘を乗せるリニの姿があり、身を乗り出しながら斧を構えている姿と金属を打ち合う音が重なっていた。
「ジェードルの速度はどうなってるんだ」
楓はテレキネシスを撃つために使える道具が無いかと探してみるものの、役に立ちそうなものなどどこにも転がっていない。先ほど倒した鉱物生命体も視界の外。
リニは頬を伝う汗に不快感を抱きながらも体を曲げて再び手に力を込め、何度聞いたか分からない金属同士を打ち合う音をまたしても鳴らすだけだった。




