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ルウの本性

 少女のように見える黒髪の女は肩を激しく叩く。途端に映る景色の色は白。無機の一色の壁はジェードルにとって人としての感覚に戻って来たのだという証明となって。

「もう一度、いいかしら」

 人類に備わっている五つの感とまやかしとされることの多い第六の感、そのいずれにも属さない、もはや生物として別の機能である感覚で見つめる世界。電気信号が飛び交い、一つに集まりうねるようにそこに居座る電気の姿。

 ジェードルは目を閉じて再び意識を人ならざる者の持つ感覚へと切り替える。

 人間と鉱物生命体の感覚はジェードルの同一時間内では完全に同居することは出来ないようで、どちらかの生き物を演じる事しか出来ないようで。

「これさ、どうにかしてクラゲの視点と人間の視点を同時展開できないか」

 訊ねてみた途端に強い衝撃が肩に走る。目を開いてルウの方へと顔を向けるとそこにあるのは真顔一つ。

「無理。別々の生物それぞれの脳の動きを同時にだなんて不可能よ」

 つまるところ、脳の造りや動かし方の問題。ジェードルは痛みを発する肩を押さえながらその事実を確かめていた。

「そもそも肩に衝撃が走るまで手が近付いている事にすら気付けなかったじゃない」

 言葉がこの上なく重く感じられてしまう。のしかかってくるそれは恐ろしく鈍い感触を持っていながら鋭利な刃物のようでもあった。

「切り替えが大切という事よ」

 ジェードルはメリーの動きを思い返していた。座標の計算は可能でありながら電気信号の動きを見ることの出来ない彼女はどのような世界を見ていたものだろう。メリーの魔法は体力を大幅に消耗してしまう。人間の動きに合わせられた脳を異なる生きもののものの仕組みに合わせる事でどれだけの負担がかかるか、魔法による負担が比較的少ないジェードルでも想像は容易い。

 修行を再開しようといったその時、勢いよくドアが開いて一人の男が大きな足音を立てながら駆け込んできた。

「蒼の都市の外出調査員から通報が入った」

 目を見開き息を荒らげながら口を震わせる彼は異様な焦りを纏っていた。落ち着きのないに男に対してルウは己のあごに手を当てて顔を微かに傾ける。余裕を感じさせる仕草は優雅にすら感じられ、この場所にそぐわない。

「おかしいわ、統治部隊にかけるなんて手慣れた外出調査員はしないはず」

 ジェードルの中に一つの確信が芽生えた。ルウの言葉が事実だとするならベテラン勢であるユーク、タルス、メリーの可能性は潰して間違いないだろう。復帰勢であり例えそうでなくとも日頃から冷静なマルクが選択肢として取り入れる方法としても結びつかない。

――リニだ、間違いない

 表情を微かな明るみに染めるジェードルには気が付かなかったのだろう。ルウはただ男の方だけを見つめて指示を出す。

「かけ直しは手間だからあなたの方で対応しなさい、余程の事態でなければ私への報告は要らないわ」

 男はただ腰を折って退室するのみ。一連の行動に感情は見られず訓練された動きだと一瞬で理解できた。

――あんな相手にリニは何を話すつもりだ

 ルウはジェードルの肩をつかみ、紅い瞳でジェードルの目を覗き込む。ガラス玉のようなそれは澄んでいて艶やか。見ているだけで安らぎを与えてくれる。そんな美しさを収めた瞼の淵から伸びたまつ毛はよからぬ心情を掻き立ててしまいそうになるものの、リニの顔を思い返すことでどうにか踏みとどまる。

「あなたの感覚を支配したいわ」

 支配、その単語はジェードルの心を寒気のブラシで生々しく撫でていた。きっとジェードルが意識の切り替えを完全に会得してルウに協力することでその願いは叶うだろう。

「私ですら持たないその感覚、あなたの魂に宿る行動や感情は何かしら」

 ジェードルは首を捻る。共にルウは納得の表情を見せてジェードルの耳に指を掛けて顔を寄せて口を緩やかに動かす。

「男はこういうのに弱いって事、分かっているのよ、いや、もう少し」

 ルウは目の力を抜いてジェードルを包み込むような視線を向けて髪を微かに揺らすべく顔を揺らした。声を少し高めかつ細めの音へと絞って捻りだす。

「こういうのが好きなんでしょ、分かってる、隠さなくていいわ」

 口調の雰囲気は柔らかで、喉から出る音の心地から少々苦しそうに感じられる。そんなルウの声を耳にしてジェードルは黙り込む。

「どうしたの。ああ、惚れすぎて声も出せないのね」

 ルウの口から述べられるジェードルの心情はジェードルの顔に笑いを形作らせた。ルウが素っ頓狂な顔をしてジェードルの笑いは更に激しさを増していった。

「本当に男が好きな事、教えてやろうか」

「何が違うのか、教えなさい」

 ジェードルの顔は妙に得意げで、しかしながら今のやり取りへの違和感を見ているようでどこかぎこちない。

「リニはな、元が高くて細い声でな、元気いっぱいで太めに出してるんだ」

「それがどうかしたの」

「気を引くために声を細めるお前と逆だな」

 ジェードルの言葉は止まる事を知らない。

「お前の振る舞いから人の気を引く気のないリニの魅力が支えだと確認できること、それこそリニに惚れた男が好きな事だ」

 ルウの紅い瞳は熱を帯び震え始める。尖った目と歯を食いしばる姿は彼女の本性の一端であることは容易く見て取れた。身震いから感じ取ることの出来る色は苛立ちや憎しみの黒。髪に透けては滲み出る感情の揺らぎがジェードルを幾度となく突き刺してくる。感情という凶器は形もなくただ強くあった。

「私の想いを踏みにじるな」

「俺の想いは踏みにじるつもりか」

 空気が乾いていく。弾ける視線の形をなぞった指に血が滲む、そんな妄想を掻き立てられてしまう。

 二人向き合い、感情のつかめない男は立ち尽くしている。状況は石のように固まり数秒間を流した後に扉が口を開けると共に動き出した。

「蒼の都市の女が言うには民間地区にてクラゲが大量に出現したもよう」

 ルウの目はふと緩められて統治部隊の男の方へと向けられる。視線の色の変わりようにジェードルの目は見開かれ、見事な驚愕を描いていた。

「すぐに放送担当に伝えよ」

 男が去ると共にルウは目を細めながら体の力を抜いてジェードルを見つめる。先ほどまで飛び交っていた感情は嘘のようにというべきか煙のようにと伝えるべきか、その姿を消してしまっていた。

「あなたの仲間、とにかく偉い人に伝えた方が早く情報が回ると思ったみたいね」

「流石だ。流石なまでにアホ過ぎる」

 気が付けばジェードルの表情も緩み、別の色合いを以て引き締められた。その影響力はルウの脳では理解できなかったのか呆けた顔をしていた。

「どうして、あんな男みたいな身長と髪をした変なのに負けなきゃいけないの」

 一般的な美とはかけ離れた者への恋、俗な思想とは異なる方向からの特別な好意は優秀な人物であるほど理解が及ばないだろう。

「男みたいな髪型ってな。短い方が戦う時に便利だろって言ってた。そういうとこがいいんだ」

 言葉にしたところで伝わらない。学習するだけの価値が無いと判断されてしまう事だろう。スッキリとした人物。時たま鬱陶しい心情の波は訪れるものの人柄は笑顔の姿にふさわしいひまわり模様。

「いいわ、どうせ何を言ってもあなたは私に囚われずにはいられなくなるもの」

 言葉が進むにつれてルウの表情は影を帯びていく。黒々とした濁りが紅い瞳に染み渡り、見事なまでに人間を描いていた。

「どうして私が楓を欲したのか、教えてあげる」

 コールドスリープなどという技術で四百年にも亘って保管されていた人物。いずれエネルギーの消費問題に直面すると推測される機械からいち早く取り出した理由。

「イマリセツナという小説家は知っているかしら」

「そいつは知らないな、人生を走る事で精一杯だったからな」

 ジェードルの中に一つの疑問が過った。現在この世界の中に小説家を名乗る事が出来る人物など存在しない。いたとしても表向きか実際か、非営利、趣味で筆を手に取っている物書きのみ。

「この公が絡む会話で小説家として上がるという事は今の職に当てはまらない物書きじゃないな」

 ジェードルは首を傾げた。現在のこの国で小説家の定義に当てはまる人物といえば文献に名が載っているのみ。現物が遺されるほどの人物であれば教科書に名が記されているだろう。この世界の資源の大半は人間の手に届かないものとなってしまっている。この場で小説家と呼ばれるからにはジェードルの知識や記憶から抜け落ちていない限りはすぐに思い出さなければならない人物。

「勉強しているだけでは分からないわ。そもそも名を残していないし保存用途が違うのだから」

 突如現れた真面目に勉強している人物には分からないという情報と保存用途という言葉に頭を抱えてしまう。疑問はますます深まっていくばかりだった。

「どの都市の本棚にも置いているのだけれど、イマリセツナの小説は物語ではないの」

「どういう事だ」

 つかみようのない雲のような存在が真実に近づくにしたがって更に細かに、霧や靄のようになっていく。

「あの人が記したものは本来の人類史では取り扱わない魔法やそれに関わった超能力者の歴史」

「つまり、小説というていで保管した歴史書というわけか」

 ルウの目に納まる紅は細かなラメ入りの輝きを見せていた。口が緩み、潤いに相応しい柔らかさを持っている。

「その中に五つの超能力を扱うフクツカエデという人物が記されていた」

「そうなのか」

「実際に出したら違ったものの、他のセツナの本には様々な並行世界の事が記されていたの、ジェロード」

 ジェードルは顔を顰める。ルウが先ほど呼んだ名の音が記憶の中からメリーの顔と声による呼びかけを思い出させる。

「この世界では異能は一つだったけれど、並行世界は発現し得る異なる可能性で編まれた世界」

 つまり、そう囁くように呟きながら柔らかな唇に短く肉感のある人差し指を当てる。そんな挙動を他所にジェードルの目はルウの腕にメリーの右腕の形を重ねていた。

「楓の脳からテレポーテーションの素質を引き出して私にも宿すの」

 ルウは紅いブレザーの内ポケットから一冊の文庫本を取り出しジェードルに差し出す。

「御覧、デュアルソウルマジックの中にあなたの本当の名が記されているわ。私たちが帰るべき世界の事よ」

 それもまたセツナの記録だろうか。付箋の挟まれたページを幾つか開くとそこにジェロードとマリーの名を目にしてしまった。

「まさか」

「誰があなたとメリーの本名を隠したのかしら。二人の恋路も失われているし」

 ジェードルが顔を引きつらせた瞬間の出来事だった。ルウの肩に透き通る固い傘の姿を目にして斧を上げる。振り下ろそうとしたジェードルだったもののそれは叶わなかった。クラゲがルウの肩に触手を差し込むと共にルウの髪の右端が青く透き通る鉱物となる。触手を伝っているのか更に肩や頬にまで浸食し、右目までもが薄青く透き通った質感へと染まる。

「鉱物生命体は全て私の支配下に収めるわ」

 高らかに掲げられた言葉を耳にするとともにジェードルの意識は現実の感触を失った。

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