メリーより
マンションの階段を一段上る。また一つ上の段へと足を乗せ、更に上がっていく。メリーの中を巡る記憶は不気味ならせん状に渦巻き、しかしながらいたって普通の思考を描くのみ。
――あの時見たものが本当なら
楓を追いかけるべく法則を一時的に破壊して跳んだ時の事を思い出す。あの時のメリーは凄まじい速度で空中を進み、視界は震えるように見える建物をかろうじて捉えるにとどまっていた。荒れた光景の中でベランダの向こうに見たあの輝きは未だに目に焼き付いているように思えた。
――着地からの指示を経てこの行動、大丈夫だろうか
着地と共に楓を逃した事を悟り、立ち尽くしていたメリーの元へと歩み寄るユークに対して告げた言葉が一つ。
「行動、FHよ」
メリーの言葉と共に目の向かった先にはアパートがあり、更に振り向いた先にもアパート。角度から恐らくベランダの中を覗いているのだろう。ユークの声は落ち着き払っていた。
「そうか。悪趣味だ」
「ええ、そうね」
メリーが相槌を打つと共にユークは顔を歪めながら首を左右に振り、数秒生まれた沈黙を打ち破る。
「分かっていないな」
メリーの腕はユークの顔を挟み、メリーと顔を合わせる形で止められて。そのまま顔を寄せてメリーの目は真剣な様を描き出す。
「分かってるわ、私も、誰かさんもね」
アパートやマンションの空き部屋に格納されるように住まわされているクラゲたちの姿を覗き込んだメリーは大きなため息をついてしまう。そんな様子を目に取り監視役の男はおどおどとした調子で訊ねた。
「先ほどの合図か。FHとは何か教えてもらおうか」
問いはメリーの表情を微かに動かし髪を撫でようとその手を伸ばすも届くことなく透けてはメリーの雰囲気を飾る一つのインテリアとなる事も許されなかった。メリーの口から心の宿らない言葉が飛び出していた。
「フェイルドハント、一旦捕獲失敗という事よ」
「ハントだと、今回は生きたまま連れねばならないだろうになぜ狩りと呼ぶ」
男の声を耳にした途端の事だった。メリーに余裕の笑みが生まれ、艶やかな唇が動きを取り始めた。
「生け捕りも狩り。何なら殺す事よりも難しいんじゃないかしら」
釈然としない様子ではあったものの、二度の頷きを確認することで一応は理解してもらえたという形で今の計画は進められた。
階段を上り切り、廊下を渡ってタルスが借りている部屋と向かい合う。その行動までに視界を通り過ぎた部屋のカーテンの隙間からクラゲの存在を確認して計画に狂いはないと断定する。
メリーの後を付けている監視役の男は焦った様子でメリーへと駆け寄り怒鳴り交じりの声を響かせた。
「何を考えている。民間人を殺すつもりか」
「センシズブレイク、コーディネイト、371」
メリーの声と共に指はトリガーを引き、男はその場に倒れ込む。再びメリーはタルスを眺め続ける。
――紅の都市の戦闘員、彼らに一つ嘘を教えてしまったわ
時は加速し、脳に力が籠ると共に熱を帯びる。全ての景色が不自然なまでに止まって見えた。
――私たちが用いるFHはフェイルドハントではないもの
窓の向こうの輝きの呼吸はあまりにも穏やかで、タルスの命の鼓動を感じ取るにも時間が掛かってしまう有り様。死んで見えるほどに静かだった。
――あの言葉の意味は、フィッシュハント、狩りの幕開けでしかないもの
タルスが立ち上がり、背中を向けていくのを確認してメリーは更に動いてユークの部屋のちょうど真下の位置で立ち止まる。
――マルクはあの場にいなかった。計画を知らないのはそうだけど、ユークの思い通りに動くわ
ユークがあらかじめ教え込んでいた合図との合わせ技でタルスはユークについて行くことだろう。本来関連を持たないはずの二つの指示が交差を描き彼の想いのままに動き出す。
待ち続ける事数十秒だろうか。大きく息を吸い、唇を滑らかに動かし微かに乾いた声でいつもの魔法を唱える。
「ブレインブレイク、コーディネイト、400」
引き金に掛けた柔らかな指に力を込める。その瞬間、向かいの部屋から金属がきしむ音が響き、けたたましいアラートが響き始める。緊急の赤色を思わせる音の不快感に思わず耳を塞ぎつつ、メリーはマンションを駆け下りて再び拳銃を構える。
大きな音は一歩進むごとに大きくなっていくように感じられて不快感は増し続ける。それでも耐えなければならない理由が、成さなければならない事があった。
裏に回り、ユークがアスファルト舗装をされた地面に立って斧を振り回している姿を確認して再び魔法を発動する。
「ブレインブレイク、コーディネイト、1154」
そうして駆除のサポートに回ってすぐの事。ユークは紙をメリーに手渡し目を細めて叫び出す。
「排気管から抜け出せ、そして向こうの公に手渡せ」
言の葉は下手な魔法よりも余程の強さを誇っていた。それこそメリーを即座に従わせる程に、急ぎの態勢を作り上げる程に。
気が付けばその足は都市の最奥の壁を目指すべく駆け出していた。
見渡す限りのゴミがまるで不用な人物の姿と重なっていく。ありふれた不用を不要から必要に、有用に変えて作り上げられた家には一人の女の姿があり。灰色髪の女は陽光の輝きに照らされ光を纏っているように見えるものの、深く刻まれた目のくまは対照的な影を纏っているようでもある。
「楓はいつまでそこに住むつもりか」
リニの質問には答えないままゴミの山を見つめているようで。しかし彼女の目は見つめているというよりは見通しているよう。隔てられた視界の向こうにはきっと同じような姿をしたゴミ製の家が、恩人の住まいが居座っているのだろう。
「楓は逃げ出そうと思わないものか」
気が付けば青空は白んで底に赤みを溜め込んでいた。夕暮れ色の明かりは人工的に作られたもので、がらんどうのスケアクロウとでも呼べる程度のもの。
「いつまでもかりそめの一日でいつ壊れるか分からないかりそめの平和を」
懸命に言葉を振り絞るリニの発言の端に重ねて楓は口を動かし始めた。
「明日から、引き延ばすやつらと違って本気の明日から。都市の端を目指そうかとな」
都市の端の方に何があるのだろう。リニは地図を広げて端から端まで見つめるものの、住民の生活地区の外にはゴミエリアや農業エリアといった表示以外のなにも見当たらない。
「これじゃ探すだけ無駄なんじゃね」
「そうでもないと思う」
楓の紫色の瞳は紛い物の夕暮れ色に染まる事無く自分の色を保ち続けている。真剣な眼差しからは冗談という言葉の欠片さえ見当たらない。
「どこかに非常口があると思うんだ。そうでなければ都市が崩れようなんて言った時にはみんなおしまい」
リニと楓の二人では思考の深度があまりにも異なっている様子。リニの目には楓の瞳の紫があまりにも濃く、奥を見通す事が出来るようには映らない。
「なるほど」
相槌を打ち、空の果てを見通そうと目を凝らして大きく息を吸ってはそのままため息となって零れ落ちて行った。
「でもさ」
楓はリニの顔の動きに合わせて同じ方向へと視線を動かす。リニのため息の正体を知ることすら出来ないままにリニに倣って生活地区の方をみる。
「もっと近くからは無いのか。ビルの地下とかマンホールとか」
言っている事はもっともだ。確実に民間人を逃がそうと思うのならば手ごろな場所に非常口を設置するのは当然の事。しかしながら楓にはその動きを取る事が許されなかった。
「追われる身なのにそんな場所に長くいられると思うか」
これまでの平穏は、生活地区の長時間の滞在は民間人に匿ってもらい楓が大きな動きを取らなかったがために実現していたもの。その均衡を崩したのは誰だっただろう。楓は微かな冷たさをその目に蓄えてリニに向ける。
「そ、そうだよな。私たちが悪かったって」
楓は口を閉ざしたままその目にしがみつくように絡みついた氷を解かす勢いで瞳を緩やかなカーブで彩る。
「分かった、楓は都市の壁だね。私は生活地区から探ってみる」
次の日の探索は忙しくなってしまいそうだった。楓を見つけた事を誰にも悟られないように非常口を探さなければならないのから。
「明日は大変になりそうじゃんね」
誰にともなく呟くリニの目は都会の姿を捉えた。何もかもが作り物のこの世界の中で夕暮れの色を取り込み透き通った光を放つ球体のような物体がひしめき合っているのを確認した。
「ほら見ろ、明日どころか今日も大変だ、あんなにクラゲがって」
言葉を止める。開いた口は虚無を取り込み、合わない焦点と速まる鼓動がリニの中に冷静という言葉が遺されていない事を物語っていた。
「クラゲかよ、なんでいるんだよ」
幾つもの鉱物製の傘が、生きた無機物が蠢きつつ時たま体が割れる様を目にしてリニは背筋を伸ばして楓に伝える。
「仲間たちが戦ってる。私も行かなきゃかも」
走りだそうとして立ち止まり、楓に告げる。
「明日じゃなくなったな、非常口探し」
嫌味ったらしい口調に昼間を思わせる明るい表情。夕暮れからは程遠いそれは言葉など本心ではないと語っているのだと分かり切ってしまう。
「そうだな、私は抜け出そうか」
恐らくこの惨事を逃す手はないだろう。無機物で構築された都市の中にひしめく別の無機物の波に目を揺らす。
「いいのか、放っておいたらあの子が」
「絶対みんなで守るから安心して。後で外で集合するからそこでな」
楓は都市から目を背けて駆け出す。途端の事、その背を追い駆けるように一人の女が必死な動きで駆けて来た。リニはその姿に見覚えがあった。
「メリー」
長い金髪は茜色の空に馴染んで微かに橙色を帯びている。白い肌は走ることで溜まった熱の色と夕暮れ色に染められて赤を示していた。
「リニ、この都市は危ない」
「クラゲだらけ、最悪」
二本の指の隙間に手紙を挟んでいる姿を見て誰かに届けるのだろうと理解する。再び足を踏み出したメリーを呼び止め、リニはジェードルからもらった手紙を差し出す。
「これも届けて、公に」
手紙を開いて目を通し、次こそメリーはゴミ山の彼方へと走り出した。
「ホントに向こうに非常口あるんだな」
次第に小さくなっていく形の良い線を描いた背中、そこに乗っかった思考の巡りを感心しながら見つめる事しか出来なかった。




