手紙
開かれた部屋にて座る男が一人。背を向け椅子に腰かけるその男はジェードルと名付けられた者。彼は机に向かって何をしているのだろう。一見すると書き物をしているように見受けられる。
男が近寄っていく。足音は彼の耳に、体の芯にまで届かないのだろうか。ただ筆を動かしているかと思えば動きを止めて様々な方向への微動を繰り返す。
静寂の中では微かな音すら波になってしまう。静けさの一つであるはずの軽い足音は騒音のように思えてしまう。
「誰だ、もしかして紅の都市に案内してくれた人か」
振り向かずに告げるジェードルの元へと更に歩みを進めて机の上で繰り広げられている出来事に目を通そうとしたものの、ジェードルは素早く腕にて紙を覆い隠す。
「好きな人に手紙書いてるんだ。覗きなんかやめてくれ」
恐らく照れ隠しだろう。あまりにも単純な感情。反応がこれ程まで鮮明に語ったことはあっただろうか。少なくとも紅の都市の中では見たことのない純粋な行動。紛れもなく発展途上の都市に住まい続けたがために出来た事。不完全な環境が完全なる人間臭さを生んでいた。
「初めての手紙、結構難しいよな。自由とか簡単とかいうけど」
可能性は無限大、発展性は二人のやり取り次第。文章や絵だけが提示する手がかりでつなぐ関係は強いつながりを生むのだろうか。
「折角の手紙、伝えたい想いをうまく書けないかも知れないから相談に乗ろうと思ったが」
「まだ必要ないな」
ゆったりとした動きで首を左右に振りながら言葉にした。まだという嘘。ジェードルの最後まで頼るつもりがないという決意に満ちた姿勢が男の中に霧に覆われた何かを産み落とす。溶かしてみようにも晴らしてみようにも剥いてみようにも、得体のしれないそれは輪郭すらつかめずに手でつかむことなど出来るはずもない。
「そもそも、相手は俺の言葉が欲しいんだと思うから人も手は借りたくない」
たとえ不器用でも、そのような言葉を付け足しながら再び手紙の続きを書こうとするジェードルの背中を穢す者などこの場にいるはずもない。
ただ諦めて男は振り返り、進行のための一歩を踏み出した。きっとこれから書き終えるまでの間、ジェードルの動きは変わらない事だろう。
――それが貴様の選択
互いに抱える事情は異なり、決して交わるものでない。この男の尺度では理解の及ばない事に無理やり頭を突っ込むことなく素直に歩み去るだけの事だった。
その身を包み込む暗闇の重々しさは今にも口の中に入っては体をも溶かしてしまいそうな煙の姿を取って広がっていた。
リニは瞼を開き、目に入る輝きに目を見開いてしまう。紅の都市は明かりの量の調整による時間の調整まで徹底して行なっているのだと昨日から今にかけてじっくりと思い知らされた。夕暮れは焼けてしまいそうな赤に染められ夜闇は見通すことの出来ない広がりを見せ、もしかすると朝焼けは薄っすらと白みつつも赤みを帯びて夕暮れに似た色を異なる空気の心地を持って展開していたのかも知れない。
朝の爽やかな空気は自然と比較すれば違和感が生じてしまうものの、蒼の都市に付いた色と比べると明らかに世界の色をしていた。
「凄いよな、向こうだと蒼が薄いか濃いか消えるかだったしな」
誰にでもなくただ驚きを口にしていた。自然と出てきたその言葉は静かに響いては空気に吸い込まれる。外と比べて少し薄い空は人にとってより優しい色をしているのかも知れない。
「まったく同じが無理ならいっそ現実よりもストレスの溜まらない空かな」
もしも同じ色が蒼の都市にももたらされていたなら民間地区の住民たちが抱く感情も少しは変わって来るかもしれない。予算などを考えると決して叶わない理想はしかしながら仄かな熱を帯びて脳裏に根付いていた。
リニは昨日の仕事を終えた後の会話を思い出して空に雲を浮かべる。楓を逃がした罪はタルスの虚偽の通報として処理されてしまったのだ。これからタルスが紅の都市の公の職務に従事する者に連絡を送るたびに真偽を疑われることだろう。この状況の見解の真偽の決定を審議して欲しかったと思いつつも自身の罪とならずに思わずほっとしてしまっている自分の姿を見ては嫌悪感と安堵の狭間で頭を抱えていた。
――やっぱりよくない、けど結果が大事らしいし
疑われなかった結果、リニは都市の中での生活の許可が下りて作り物の青空を拝む事が出来ていた。
「外の気候の再現なら楓探さなきゃ風邪ひいてるかもしれないよな」
ユークに聞かれれば心配の角度を疑われてしまうことは間違いなかった。第一に心配するべきは楓が人を傷つけないか。性格に関係なく、捕獲からの褒賞金を狙う輩がいれば抵抗しなければならない。それ故の怪我が生じてしまえば逃走以上の罪があの細い背に積まれてしまうことだろう。
リニは背伸びをしてあくびを噛み締め抑え込む。考えることはそこで打ち止めにして歩き始める。町並みは過去の世界を記録した映像に似た姿をしており靴がレンガを叩く音がこの上なく心地良い。
アスファルトを塗り付け何度も舗装された車道が伸びているものの、本来の機能など果たしているようには思えない。等間隔で植えられた街路樹の仕切りの向こう側から車道を眺めつつ歩いている。空気は外と比べて少しだけ湿っているだろうか。映像などで見た旧日本国、充分に発展したと思えるあの町を思わせる風景に落ち着きを与えられながら静かな歩みを刻む。
穏やかな心境で歩いていたリニの隣をゆっくりと通り過ぎていく何かが視界をかすめ、街路樹や縁石の向こう側へと目を向ける。車道を通る荷車の姿を目の当たりにしてようやくこの都市に於ける車道の機能を理解した。
「朝から働いてるのか、早いな」
荷車に乗せられた色とりどりの布が敷かれた箱たち、その一部からはみ出した大根の頭を目にしてリニは公園へと向かった。
石を組んで作られたベンチに腰掛け、誰もいないそこでふと呟いた。
「この世界に私しかいないんじゃないかってくらい動きがないな」
そんな場所にいかなる用事があるのかと問われれば場所というよりも人と答える他ない。一人だけしかいない世界の中に一つの影が入り込む。ベージュのズボンに灰色のシャツを着て。単純な格好をした見覚えのある顔をした人物はリニの隣に腰かけ微かに笑う。
「おはよう」
「おは、ジェードル」
リニの身を包むピンクの緩いワンピースはドレスのようにも見え、首から下がるルビーが更に上品な美をもたらしていた。
「よく似合っているな」
「だろだろ、これが女の子の本気な」
ジェードルは思わず笑い声をこぼし、静かな公園の中に軽やかな明るみを色付ける。鳥の鳴き声がないために物足りない、リニの中にふとそのような不満が芽生えた。
「女の子のじゃなくてリニの本気だろ。もっと誇っていい」
黒のファー付きの小さなバッグにジェードルはそっと何かを差し込んだ。リニはすぐさま手に取ろうとするものの、指先が触れると同時にジェードルの口が開かれる。
「近くで監視してる男がいる。恥ずかしいから帰ってから見てくれ。リニ以外に見られたくないんだ」
目を下す事で指先で触れた感触に視覚での確認が加えられる。そこには一通の便せんが納められており、ついリニの頬が緩んでしまう。
「なるほどな、照れ屋め」
リニが顔を上げた時、ジェードルは辺りを見回していた。錆び付いたブランコに朝の陽ざしに溶けてしまいそうな木々、草が躍る勢いで茂ってはみ出した大地に立ちはだかる壁。
「そこにいるんだろ、出て来いよ」
声は空気を伝って進む。その響きが心地よく砕けてはあるはずのない太陽の輝きに散り散りとなり消え去って行く。
「いるんだよな、人のデート覗き込むなんて悪趣味だぜ」
リニは顔を赤くして視界を揺らす。俯くように顔を逸らしたその視界の端にかろうじて紅と黒のブレザーを着た男の姿を捉えた。
「デート中まで申し訳ないがジェードルとメリーとユークには常に監視を行なうように伝えられている」
「じゃあ他の人を見に行くべきだろう」
「私はジェードル担当」
ジェードルは頭を掻きながら興ざめだと口にして歩き始める。
「またな、リニ。次は監視のいない時にな」
「お、おう」
ジェードルが歩き続ける中で男はリニのひまわりの輝きを宿した瞳を覗き込む。目を合わせたリニは男の目の色に気味の悪さを覚えつつも輝きを揺らしつつも、絶やさない。
――絶対隠し通す
この男の目に映るリニの感情はそのまま跳ね返り、男の感覚は受け取り手としての理解も歪曲も加えない。感情を読み取る事無くあるままに流しているだけ。
「質問がある」
「ああ、早くしないと私の愛しのジェードル見失うな」
――そのまま見失っちまえ
探す手間は彼女なりの仕返し。あえて時間を稼ぐように必要以上に感情を挟み込んだ会話を図る。
「んで、女の子に何を訊こうとしてんのかな、このスケベ」
男は顔色一つ変えることなく口を微かに開いた。
「ジェードルが魔法を使える理由は分かるか。どのような存在であってどのような力なのか分かるか」
彼の表情は固められたコンクリートのよう。声に宿らない感情や精気が見当たらない顔は別の生き物か、あるいは人型の置物を連想させてしまう。
「どのような存在かって、特別な存在だろ。魔法が使えるんだから」
彼の意図から逸れた回答は見事に思考の糸を絡めてその場に沈黙を生む。リニの企みが無事に進んでいることに優越感が止まらない。
「それに私の恋人だから力なんてなくても特別だし」
途端に言葉を止め、その目は見開かれた。リニの頭に刻まれた過去の破片が浮いては心を刺しにかかる。かつて軽い会話の中でジェードルが告げた「正式に付き合った覚えはない」という一言が恋人という言葉を引き裂いて傷だらけにしてはリニにも同じ仕打ちを与えて来る。
「表情が変わった、どうしてだ、何を思い出した、先ほどの言葉に何が隠されている」
男の疑問と慌てようはリニにとっては嬉しい誤算ではあれ今は喜ぶ気分になれない。そんなリニの身を突き破るように出てきた言葉が痛みを語っていた。
「なんでもない、お前なんかじゃ理解できねえだろ」
「話せ」
男は睨み付けながら相変わらずの無表情に形だけを作る。リニは表情の動きを抑えようとするものの歯を食いしばり力が籠っている。顔から熱が滲み出ていた。
「誰が話すか」
ただ気圧され押し出されるように公園を立ち去る男とただ一人残されたリニ。先ほどまでの熱量にのぼせながらも辺りを見回し、誰もいないことを確かめ手紙を開き、目を通した末に驚きに目は自然と見開かれた。




