案内
青い明りに満たされた廊下や照り付ける天井は息苦しさを持ち込んでしまう。狭くて色気のない材質で築き上げられたそれはリニの肌に合わない。空気が固く肺に染み込む頃には鮮度も失われている。落ち着きよりも後味の悪さが先行してしまい、居心地の悪さが先導してしまう。
階段を踏む。一段上がり、加えてもう一段、更に一段上がるリニの足は早まりユークを後ろからせかす形を作っていた。
そんなリニの隣を保ち続けるジェードルは己の想いを顔に表していた。外への渇望を抑えきれないまま身を微かに震わせる様はまさに子どものよう。
「そんなに急がなくとも雨は四日後だ」
懐中時計を取り出して開き、視線を落とす。破滅の海中と化すまでに残された時間は四日にわずかに及ばない程度。
「それよりももっとやるべきことがあるはずだ」
斧へと指を向けるユークが示すのは運動の一つとでも呼ぶべきだろうか。外へと出た途端に視界いっぱいに広がる優しい青空の天井にはわずかに濃い蒼が沈殿しており、それが雨となって上がってくるように降るまでにリニの生き様はどこまで広げられるのか、想像も付かない。
地上にはきらめきが幾つも点在しておりそれらが揺れ、時折大きく動く度にリニの警戒心に訴えかけてくるものがあった。
「無線の引き付けは無い。今回は遠征だ」
紅の都市、隣の国に入る予定は移動の速度故に中継器や他の子機の範囲を逸脱する前提で組まれている。
歩きながら斧を構えるユークに従うように各々武器を構えるのを見るや否やユークは目の前のクラゲに向けて斧を振り下ろす。一つ二つと叩いた途端に跳ね上がる濃い蒼の刃が軌跡に交差する形を描いてその終点でもう一つのクラゲの頭を叩く。
「いつ見ても凄いな二撃で三体討伐するからな」
リニの軽い口に同意するように頷くジェードルは言葉もないままにクラゲを叩き始めた。
「口を動かす暇があるなら手を動かすのだ」
マルクに告げられてリニは目を微かに細めて力を込める。その行動についていくように斧を握る手にも力が籠り、クラゲ一体の命を終わらせる扇を描いた。
勢い付けて触手を伸ばす彼らの攻撃が接近する様を目で捉えて、動きが追い付かない事を悟って諦めの境地をもたらすものの、そんな心情を吹き飛ばす破裂音がクラゲの頭の中で響き渡るのをリニはその耳でつかんだ。
外傷もないままにクラゲの命は終わり地に落ちる音が奏でられる。そんな状況を生み出すことの出来る人物などリニの知る限り一人しかいなかった。
「諦めるには早いわ」
拳銃を構える女の肉付きの良い右腕と骨ばった左腕の不釣り合いと目に納まる琥珀の瞳がリニの目に映る。起伏の激しい身体の曲線は動きの妨げにならないかと余計な心配を抱かせてしまうものの、本人にとっては日常茶飯事なのだと無の表情から悟った。
「何かしら、そんなに見つめて。羨んでもあなたの体にはならないわ」
「そうじゃない」
リニは自分の声の温度に驚きを得てしまった。自分が思っている以上に低くて冷たい声色は仲間に向けるべきものではないのだと分かっている。
「余計な話だったわね」
そんなやり取りを傍目にジェードルはため息をつきながら斧を振り回す。先ほどまでに増して素早くなっている攻撃が動揺を隠せずにいた。
「リニが私に対して声を低くしてくるの、嫌いなのかしら」
斧を振り下ろしてジェードルは肩で息を吸いながら言葉を探して紡ぎ出す。
「そんな事してもリニの声は高くて元気だって言ってやれよ、かわいいな」
リニの頬に突然激しい熱が生まれた。そのまま頭へと回って思考力を奪い去ろうとしてしまうそれはしかし取り払うことも出来ず、ジェードルを意識しては更にくっきりと色付いて。
「かわいいって、こんなとこでこんな時に」
声が震えてしまう。蕩けるような乱れが体中に恥じらいと興奮を流して。感情が血に代わって血管を流れているような、そんな錯覚をもたらしていった。
「お前ら、戦いに集中しろ、死ぬぞ」
タルスの的確な言葉が彼らの意識を統一して戦いへと運び込む。構えた斧に刃こぼれや曲がりは見られないのは幸いか。
「ブレインブレイク、コーディネイト」
メリーが魔法を発動する言葉を、座標の指定を行なうのを待つまでもなくリニの足は動いていた。突き進み、活路と目標地点へと続く道を開くべく二体のクラゲの方へと飛び掛かって斧を振り回して狩って。満足の表情が空を舞っていた。
そんなリニの攻撃、振り回した斧の遠心力に引っ張られた体は上手く体制を整えられずに隙が生まれ、クラゲが触手を構える。
「マズい」
ジェードルは目を見開き早口で人には不可能な行動を言葉へと変えてみせる。
「座標をズラせ」
唱えられた魔法の効力は即座にリニの目に飛び込む。触手は全て千切れて地へと落ちては跳ね回り、攻撃手段を失った傘だけが呆けるように漂い続けていた。
「ありがと、ジェードル」
ジェードルはリニの感謝を受け取り顔を赤らめながら笑顔を作り、斧を振り上げ近くを漂うクラゲの頭にヒビを入れながら口にした。
「いいんだ、リニのためだ」
ジェードルの意識は完全に体へと戻っていた。手の届かない場所に現象を作り上げる見えない腕の如き術、人ならざる者によって成されるグリッチが終了を告げる。時は溶け、魔法が解ける。
視界と思考の感覚を一致させたのだろう、ジェードルの面持ちが変わった。引き締められた表情が現れた途端、周囲にも変化が訪れる。
クラゲたちが体を回しながら動き、触手を回しながらある一点へと一斉に向けた。一転した意識に指された男、ジェードルは目を白黒させながら斧を力強く構える。
「魔法使ったら意識引き付けるのか」
リニは思考を巡らせ、脳に走る熱に記憶と想像を張り付けて回していく。ジェードルの魔法が内側から世界に影響を及ぼすものである以上、魔法の発動によって何かしらの磁場が発生している可能性は否定できない。
「無線機と一緒だ。世界のゆがみの発信先を辿られてるんじゃないか」
リニの言葉に乗るように飛び、勢いよく飛ぶ蒼黒い円盤状の残像が宙に飾りをもたらす様を目にして開いた口が塞がらない。
――なんだ、あれ
宙を引き裂きながら進む空の異物はジェードルの隣を駆けるように通り抜け、クラゲと触手の間を過ぎ去って。
そのまま地に突き立った蒼黒い残像の主を目にしてリニは目を見開く。蒼黒い刃がうっすらと輝き続け、透き通る金属片の雫に負けない色を放ち続ける斧。誰が投げたのだろう、想像しつつ斧が飛び描いた軌跡を反対側から追いかけるように視線を動かし、初めに思い当たった人物の方へと見事にたどり着いた。
ユークの手には何も握られていない。背には一本の斧が納まっているもののこの状況でしまったものとは到底思えない。
「まさか」
「無線で引き付けているのかと勘違いした」
もう一本の斧を構えて同じように投げて追撃を行動にする。
「いけ、リニ」
斧が空気を裂く音を咲かせ、その後をリニが追う。ジェードルが触手を持たないクラゲの頭を叩いてヒビを入れ、次のクラゲに攻撃を与えているその時にも彼の背後にいるクラゲが触手を持ち上げ放とうとしていた。
そんなクラゲの触手を断つ斧と遅れて飛びつくリニによって振り下ろされた攻撃によってジェードルの背後を取るクラゲは全てこと切れてしまう。
「ジェードル」
名を呼ぶ、言葉に割く意識はそれだけで限界を迎えてしまう。肺が酸素を欲して心臓が供給を要求して、肩は激しく上下して。視界はどこか遠く感じられてしまう。果たして目の前で繰り広げられている戦いは現実のものなのだろうか。どこか作り物めいた現実と捉える視覚と生々しさを覚えた嗅覚と肌。
脚に力を込めて地を蹴るように駆け、斧を振ってはクラゲを葬り、リニは汗を拭いながら大きく息を吸う。
その瞬間、リニの背を勢いの付いた風が薙ぐように吹いてすぐさま凪ぐ。振り返ったそこで腕を伸ばしたジェードルと頭に刃の一撃を受けて浮かぶ力を失いゆくクラゲの姿を目の当たりにした。
「まだ余裕を失ったら周囲が見えなくなるな、気を付けなきゃ」
「ありがと」
顔を赤らめて頭を充たす感情に意識が向いていく。拭った汗以上の汗が熱を帯びて額を伝っている。この想いを欠片程度でも覗き込まれていることに恥を覚えつつ、そんな甘い感情を見つめている視線がいつまでもそこにあって欲しいという願いがせめぎ合って纏まることなく。
「よ、余裕余裕、まだ余裕だから」
「絶対余裕無いだろ、さっきよりも動揺してないか」
渦を巻く感情が突然紡いだ言葉は冷静という感情を知らない。ジェードルは斧を振ってクラゲを一体討ってリニの方へと視線を流す。
「落ち着けよ、俺まで冷静じゃいられない」
ユークが斧を拾い上げて指した方へと総員足並みを揃えて進み続ける。透き通った青は地面に広がる浅い海か空の続きなのか。金属質な音を立てながら足を踏み出し、やがて一人の男の立ち姿をその目に捉えた。
「お疲れ様、よくここまで来てくれた」
黒いブレザーコートは所々に紅を帯びており、目指している国の使いなのだと理解するのに一瞬の時さえ費やす必要がなかった。
そんな男の姿にユークだけが疑問を覚えて疑問の形にならない言葉で疑問を差し出していた。
「武器の一つも持たずにお疲れだな」
男はユークの尖ったクルミ色の視線をすり抜けて斧を奪い取り、右手でつかんでは軽く振って空へと掲げて首を傾ける。
「硬さは紅の都市の方が上なことは間違いないとして、重さも無駄だな」
問いに答えない男を刺すように視線を動かすものの、彼には通じないのだろうか。特に反応を示すこともない。
「では、行くとしよう」
ユークに斧を返して歩き出す。誰もが立ち尽くしている中で数歩進んで男も遅れて立ち止まって後ろを振り返る。
「ついて来ないのか、外出調査員もこの程度の質か」
誰もがそれぞれに違和感を抱きながら進み始める。メリーは拳銃をバラの柄をあしらったハンカチで拭いて内ポケットに仕舞う。リニはそんな仕草を目にして軽く口を開く。
「ホルスターに仕舞わないのか、映画とかのカッコいい人たちみたいにさ」
「それは考えたことなかったわ」
メリーは制服のズボンに目をやり、太ももに手を当てる。
「考えておくわ」
実行される可能性は絶望的、言い回しに込められた一般的な感情とメリーの差を考慮することなくリニの中で結論が付けられていた。




