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 民間地区の全体に広がる影のような暗がりが薄っすらと根付いている。行き交う人々からどんよりとした雰囲気を感じずにはいられなかった。

「相変わらずだ」

 太陽すら見られない景色、月と星の無い夜。あるのは地下都市によって制御された明るみと暗闇のみ。そのような世界に元気が宿るはずがない。誰もが諦めていた。

 そんな様子を見通してユークは呆れを抱いては辺りを見回し続ける。人々の儚い生きざまがリニの胸を締め付ける。活気のない人々に足りない日光を補いたくてしかしながらどれだけ強めてもここまで届くはずもない。

「みんな地上で笑い合える日が来ればいいのにな」

 そんな言葉の弱々しさが滲んで霞んで誰の耳にも捉えられずに消え去って。ただの独り言として処理されて虚しさだけが残る。

 やがて人々の住まいの集いにたどり着き、そこに立つ誰もが苦悩を顔に滲ませながら外出調査員の方へと集まる。

 人々が要望の群れを形成して伝えて来る中でリニはタルスに手招きをして。タルスが顔を寄せると共に言の葉を風に飛ばした。

「なんで外出して調査するはずの私たちが使われてんだ」

 そんな素朴な疑問を受け取ったのはタルスではなくユーク。代わりに答える声はあまりにも冷たく鋭く抉るような音を見せていた。

「あいつらは休憩という仕事で忙しいんだ。あと随分と大きな内緒話だな」

 嫌味を主成分とする音がリニの表情に歪みを作る。外出調査員となって日が浅い彼女には少し耳の痛い話。一方で目を逸らして乾いた笑顔を浮かべ誤魔化しているジェードルの姿が見えてリニの目に強く焼き付いた。

「やっぱ気まずいよな」

「二人とももうこっち側だろ冷静になれよ」

 ユークが放つ仲間を認める言葉が励ましとなり、周囲から飛んで来る雑用の懇願がはっきりと聞こえ始める。

「荷車が壊れたんだ、もう三度目だ、公の方に行って補助金の要請してくれ」

「食わしてく金が足りない。メシを恵んでくれ」

「ギヴミーチョコレート」

「ギヴミーチョコレート」

「上等な服だな俺らにくれよ、誰が生産してると思ってるんだ」

「ギヴミーチョコレート」

 それぞれの立場、一方通行で語られる言葉は余裕がないためのものだろうか。このまま全て聞いてしまえばやがて全てを失ってしまう事だろう。欲に塗れた人々などその程度のものだと気が付いた時には既に誰もが自分の立場でしかものを言っていなかった。

「これ全部聞いたら俺たち破綻するよな」

 ジェードルの言葉に無言で頷きながらリニはジェードルの傍へと寄って困惑の表情を作っていた。

 そんな彼らと比べるようにユークの態度は全くもって異なる色彩に塗られていた。

「悪いが今日はクラゲがいないかの見回りだ、要望なら公に直に提出しろ」

 ユークが伸ばした指の先に人々の視界は集まり、そこに立てられた木のポストの頼りない佇まいを目にしながら沈黙は生まれる。

 統一された空気はそのまま流れる事数秒間。沈黙の集団の中から挙げられた一人の男の手によって打ち破られた。

「そんなこと言ったってあいつら何も聞かないだろうが」

「そうだそうだ」

 たかだか一人の決断が大いなる団結を生んでしまう。リニには何も施す手も無く黙っている事しか出来ない。そんな暴徒も同然の人々にユークは堂々とした言葉を披露する。

「お前らの要求は底なしだ。全部受け入れていたらお前らを守るものが無くなるだろう」

 固唾を飲む者、微かに震えながら立ち尽くしている者、拳を震わせて睨みながら返す言葉を探し続けて放てない者。反応はそれぞれであったものの、抵抗する者など誰一人としていなかった。

 そんなユークと後ろに立つタルスとマルクを差し置いて、ジェードルとリニの肩をつかんだメリーの顔が視界一杯に広がり二人は驚きに目を見開いていく。

「こっちよ、私たちでも叶えられる事を頼んでいる子が困ってるわ」

 引き連れられた先に構えているのは蒼黒い箱を思わせる背の高い建物。民間地区では一般的な住まいだった。

 階段を上り、薄い金属を靴が叩く。リニの耳はかつて観た映画の光景を思い起こさせ言葉を紡ぎ出していた。

「いつの時代にもこの音はあまり変わらないんだよな。ジェードル」

「お、おう。確かにな」

 そんな会話を交えながら上り続け、三階へとたどり着いては廊下に足を踏み出した。そこから三つのドアを通り過ぎ、次のドアをメリーの柔らかな右手が素早く叩いた。

 それから程なくしてゆっくりと開かれるドア。こちらを覗き込む顔は幼く、弱さの象徴とも呼べる姿をしていたものの、底に根付いた力強さは生活の質をしっかりと見せている。リニにもかつてそのような時期があったかも知れない。そう思うと親近感が湧いて心に潤いをもたらしてくれる。

「また来てくれたんだ、ありがとうメリー」

 女の子の声に滲むおっとりとした調子と優しさは同じ年頃のリニが持っていなかったもので、違いを思い知らされ頭に強い重みがかかり始める。

 そんなリニの想いなど見えるはずもなく事はそのまま進み続ける。

「いつものを預かるわ」

 メリーの声を聞き届けた末に少女の顔には笑顔が色付き、そのまま奥へと駆けて行く。足取りは軽やかで弾むよう。心情を描く心地は如何なるものだろう。

「もしかしていつものことなのか」

 リニから放り込まれた問いに表情一つ変えないまま頷いてみせるだけ。メリーの味気無い反応と先ほど色付いていた少女の笑顔の温度差は身体の芯にまで根付いてしまう寒気をもたらした。

 それからすぐさま純度百パーセントの温もりを持った笑顔が訪れて温度差の象徴となる。

「またお願い」

 メリーは膝に手を当てながら屈み、手紙を受け取って少女に顔を寄せて。メリーの髪と少女との距離感の二つがリニとジェードルの視界にカーテンを掛ける。微かな響きを持った声が流れ、両隣で佇む二人に理解をもたらす。音の姿をつかむことは出来なかったものの、タイミングと行動によって思考を回すまでも無く明白だった。

「ところでなんでジェードルは黙ってんの」

 リニの乾いた声がジェードルの退屈の文字で固められた表情をほぐして和らぎを与えて行く。きっと彼の中ではこの出来事など興味の引きつけの弱い有象無象でしかないのだろう。

――やっぱり、ジェードルは人間とも違う生き物なんだな

 ガックリと肩を落としてしまう。そんな感情の変化の理由は成り立たないのだと気が付かず、そのまま時を過ごしてしまいそうなところに気を変える会話が挟み込まれた。

「メリーお姉さんは人間じゃないって言ってたけど周りの誰よりも人間だよ」

「そう、ハートは無くても有るものよ」

 メリーは己の胸を親指で指しながら答えていた。ハート、心臓は無くとも心はあるのだと語る彼女もまた、ジェードルと同じ鉱物生命体の人型なのだ。

――ジェードルには分からないのか

 肉親もいなければ育ての親もマルク一人、常に傍にいるリニに宛てる手紙など無く故郷など存在しない。彼の環境にプライベートの心を包んだ手紙が介在する余地など一切存在しないのだった。

 メリーは手紙を仕舞って仄かな笑顔を浮かべながら手を振り廊下を渡り始める。メリーの用事は終わりなのだろうか。リニもついて行く。ジェードルは立ち去る二人の反対側を向いたまま立ち止まっていた。

「どうしたんだよ」

 リニの声にはっとして、しかしながら歩き出す事も無くぽつりと呟いた。

「先に行っててくれ」

 リニは歩き出し、階段を一段、また一段、踏み出して行く。ジェードルの視界に映らないだろうそこで立ち止まり、その場で振り返り留まる。

――何か考えてるな、一人になんかさせない

 きっと二人には内緒で一つの事に決着を付けようとしているのだろう。考えなしではいられない。十年以上共に生きて来た彼の考えの切れ端くらいはつかみ取れるようになっていた。

 それから何事も起きないまま数秒間。心臓の鼓動が内側で叫んでいる。実際に経過していない数字まで刻み込み、数秒の間に数十秒もの経過を作り上げる。緊張が汗となり滲み袖で拭おうとしたその時、ドアが開かれる音が響いた。

「気配で分かってる、出て来い」

 ジェードルの声が堂々と響いたその瞬間、金属を打ち合う音が響き始めた。何度も重ねられ、反響も含めて幾重にも連なって耳に届く不規則な音が何度も最高潮を示しだす。

 斧を手に取り階段を駆け上がったその瞬間、リニは透き通る青の衝撃を目にした。

 ジェードルが斧を振り、それを受け止める腕。ジェードルとは向かい合っている人の形をしたそれは透き通っていて一目で敵だと理解できた。

「鉱物生命体か」

 リニが思わず声を上げてしまったためにジェードルが振り返り、その目でリニを収めてしまう。斧を握る手に込められた力が緩んだその隙を鉱物生命体は見逃すことなく斧を払い除けて廊下の策に手を掛ける。そのまま乗り越えてアパートから飛び降り駆け出した。

「メリー、いるか」

 叫んだジェードルに応えるようにメリーは顔を上げ、柵から身を乗り出す彼が指した先を見つめ、意識を研ぎ澄ませて冷たい声を捻り出す。

「ブレインブレイク、コーディネイト」

 その瞬間、鉱物生命体の姿が掠れてブレて、実体が失せてしまう。

「そんな」

 メリーの魔法は起動することなく鉱物生命体はそのまま消え去り先程の焦りや衝動は嘘だったかのように鎮まり辺りは静まる。

「あれはもしかして、魔法」

 それからしばらく辺りを見回したものの青く透き通った人間の姿など見えることなく諦めユークたちと再会する事となった。


 クラゲの探索に加わり、しばらく歩いた後に反省会が開かれる。そこで人型の鉱物生命体の確認を告げ、タルスの表情を見事に歪めてしまった。

「標的はもういないのか」

「歪んでも消えても気配は見えるが今は大丈夫だ」

 ジェードルの発言と共に机に拳が叩きつけられ一同の視線はマルクに集う。老いた顔に刻まれた皴が不安定な波を打ち、目は見開かれている。

「どうした」

 ユークの言葉と共にマルクは目に宿る感情を抑え込み、冷たさといつも通りの口調を取り戻した。

「いや、今回の戦いとは関係の無い事だ」

「感情は見せるな、だったな」

 ユークは言葉を返して視線を流す。その先にいたのはジェードルとリニの二人だった。

「レコードの話をしていなかったな。会議が終わったら来い」

 そう告げられて間もなく会議は終わりを迎え、三人は金属質な纏まった部屋を後にして同じように無機質な青の廊下を歩き始めた。

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