座標
空は空、いつまで経っても現れる気配のないそれは果たして実在するのだろうか。姿を見るまで信じない、その思想は警戒の欠如の証で地下都市の中でさらけ出してしまえば人々の機嫌を損ねてしまうものの、クジラと呼ばれる程の大きさを誇る鉱物生命体の姿が一向に見えないとなると信じる事こそ困難とも言えるだろう。
「無線機を運べ、早く」
従うままにメリーが駆けて行く。しっかりと抱き締められた幾つもの無線機は振動や風を受けるものの腕から抜け落ちようと滑り出るものの、彼女の腕の中に収められて離れる事が許されない。
無線機は雑音を交えながら言葉を鳴らす。引き付けろと地下都市から流れる言葉を受信して。
「利用されるだけのあなたたちが可哀想ね」
無線機へと視線を下げて呟くメリーの想いは呑気な人間らしさを持っていて、あまりにもこの場と釣り合わないそれは各々に間の抜けた感情をもたらしてしまう。
しかしながらすぐさま気を引き締めて進み続ける。無線機はどれ程の距離まで受信できるのだろう。試した事も無い実験が進められる。
「クラゲどもめ」
リニの発言と共に赤い物体が放り投げられ轟音が響き渡る。決まった姿を持たないそれは火を纏いながら黒い体を広げ続けていく。
リニの手に握られていたのはライターとダイナマイトという物騒の塊だった。
「爆弾じゃ倒せないだろ」
「足止めは確実に出来てるし良いって事で」
そんな口の動きは視界の誘導を促し、積み重ねられて透き通る傘の色彩にゆがみが生じている事を確認させる。
「時間稼ぎだ、急げ」
更なる直進が執り行われる直前、振り返るジェードルの視界の端で倒れるクラゲが動く様が見られた。固い身体が軽く擦れる音を立ててすぐさま訪れる静寂は足を速めるための理由としては充分過ぎる。
駆け抜けて、立ち止まるメリーを目印として同じく立ち止まり辺りを見回す。
「休憩基地付近を目標地点にしたんじゃなかったのか」
メリーは静かに首を振り、細めた目に影を付けながらジェードルを視界に収めて重々しく口を開く。
「これ以上は電波が届かないわ」
言葉は否定を許さない。同じ心情しか許さない、そんな響きを持ち運び、人々の心に悪さをする。
「だから、ここで食い止めて」
ジェードルはメリーが抱えている無線機へと手を伸ばし、一つ手に取って透明の波、クラゲの群衆を眺めて視線をクジラがやって来ると予想される方向へと移す。
「一つ、作戦がある」
ジェードルはメリーが抱える無線機たちを見つめて全て寄越すように伝えて人々に集合を掛ける。
「これは俺の魔法があっての作戦で俺は手が空かないからみんなに実行役を頼む」
それからジェードルの考えを手短に伝え、マルクとリニに加えてメリーはただ頷くのみ。タルスが眉間にしわを寄せながら微かに地へと顔を向ける中、ユークはその想いを手に取って言葉を空へと放す。
「確証はあるのか、失敗の責任はどの程度か」
会話が始まろうとしているその時、メリーは拳銃を引き抜きクラゲを睨み付けて構えを取る。
「この作戦で生じた死者がどれだけの罪がお前を貫くか」
「話している場合じゃないわ、他に方法なんてあるのかしら」
メリーが口を挟み込み、ジェードルは表情に影を付けながらも意志を固めてユークに強い視線を向ける。
「大丈夫、引き際は倒せないと判断した時だ」
「俺の判断でやる。生き死にに不慣れなお前が握る手綱などすぐさま引きちぎれるだろう」
ジェードルは固唾を飲み、次の言葉を待った。
「マルクとタルスは砲台の位置と向きを整えろ」
「ブレインブレイク、コーディネイト、928、591、070、18」
メリーの銃のトリガーが引かれ、前線を行くクラゲたちが逝く。地へと落下するように倒れるその姿に続くように二人の男は砲台の位置を固定する。
「なあジェードル、私にその小型砲、渡してくれないか」
リニに頼まれジェードルは鉄の筒を手渡し後ろへと下がる。宙を見通すように目を凝らし、クジラの来訪を待つ事数秒後。
「いいか、失敗すれば全員終わりだ」
ユークは声を張り上げながらクラゲの通り道の妨げとなっている亡骸の壁を踏み、斧を振り下ろし始めた。
リニは鉄の筒を担ぎ、蒼黒い硬質な丸い物質を装填して導火線に火をつける。
「これでお陀仏だなんまいだ」
リニの声を吹き飛ばす勢いで破裂音を響かせ弾は飛び始める。空に煙のアーチを残しながら進み続けるそれはやがて透明な波を打つ硬質な群衆の中に飲まれ、大きな亀裂を生む。砕け散る破片が微かな光を跳ね返す光景を目にしてリニは次の弾を筒に入れ、導火線を差し込む。
「この調子だ」
ユークは己を撫でる風が肌を何度も叩く感触へと変わり果てた事を確かめ、髪を激しく撫でる強さに首を振りながら後ろへと振り向き叫ぶ。
「ジェードル、クジラが来る、誘導しろ」
壁から地へと飛びつき駆け出すユークの行動の始点を目にしてジェードルは目を閉じ、己の中に潜む何かを開く。
――魔法よ開け、座標をずらせ
途端にジェードルの身体が霞むように歪み、重なるように幾つもの幻像が現像される。ジェードルは無線機を抱えたまま走り、しかしながら始点は微動すらすることなく。
「このズレ、魔法を使ったのか」
ユークの疑問に答えようと口を開いてみても肉体は口を動かすことなくただその場に立っているだけ。時に関しても経っているだけ、目の前の人々との意思疎通を断っている状態。
「そうね、感じるわ」
メリーがある一点を指して告げ、周りの人々は視点を揃えて数秒間の沈黙を生んだ後に口を揃える。
「見えないが」
「俺ですら分からない」
「ジェードル、私だ、答えてくれ」
ユークやリニには見えなくても当然だろう。マルクにさえ見えないとは果たしてどのような世界にいるのだろう。身震いしつつジェードルは通信を受けられる位置まで移動する。
途端の事だった。離れた場所、先ほどまでいた地点から雑音混じりの声が流れ始め、歓声が沸き上がる。
「やった、やってくれたんだ」
「流石私の相棒」
リニの表情は溶けていた。あまりにも甘い顔を目にしてジェードルの頬は赤く色付く様を味わう。走る熱はきっと生身の顔には現れていないだろう。
本来なら起こり得ない電波受信を耳にしながら待ったのはわずか数秒。強烈な風が巻き起こり、空から降り注ぐ熱が大幅に遮られ、暗く深い蒼に染まった輝きは弱まることなく凹凸を描き始める。空を覆い尽くしてしまう大きさを誇るクジラが迫って来ている、視界の先を横切ろうとしている姿に誰もが釘付け、開いた口が塞がらない。
何もかもを圧倒する勢いで進むクジラに呆気に取られていた彼らだったものの、ユークが上げた突撃の合図と共にマルクは砲台に弾を装填する。タルスに肩を小突かれてリニも鉄の筒を構えて導火線に点ける火を用意した。
「座標が、見えない」
メリーの言葉にマルクは軽く口を添える。
「分からないものは撃てないようだな」
クジラの脳が果たしてどこにあるのか、脳を撃ったところでクラゲや人を模した鉱物生命体とは異なり心臓の代わりを務める機関が別の部位にあったとしたら。何も分からない。同族と言ったところで形が異なるメリーには分からない事が多すぎた。
「見えない部分もあるものの、基本的には透き通っているな」
つまりは蒼黒い弾で充分撃ち抜けるという事を意味していた。そんな希望を噛み締めながらマルクは砲台を傾けて導火線に火をつける。視線は導火線を追いかけ、クジラは電波の受信地点に居座り幾つもの魚を降らせている。
「そこには何もいないぜ」
そこにあるものは実体無きものだけ。導火線は鋭い光と散り行く火花を現しながらその身を縮め、やがてマルクの視界から導火線は消え去った。それを認識した時と重なるように轟音が響いて弾は撃ち出される。
空へ空へ上空へ。吸い込まれるように進む弾は抵抗を受けながら進み、クジラの腹を小突いて落ちるに終わってしまった。
「足りないのか」
何が起こったのかクジラの理解は追い付かなかった事だろう。何かが腹を撫でた程度にしか思えなかった事だろう。
続くようにリニが小型砲を撃とうと火を近付けるものの、マルクの叫びがそれを制する。
「ダメだ、大砲がこれならやっても無駄でしかない」
ユークは舌打ちしながらクジラと睨み合い、数秒を経て結論へとたどり着き、それは一つの指示という形で現れた。
「撤退だ」
明らかな敗北宣言を受けつつしかしながら納得する他ないという状況。誰もが納得して休憩所を目指そうとしたその時、メリーは一つの変化を目の当たりにした。
「お帰りジェードル」
磁場の歪みは収まり、ジェードルが帰って来た事を確かめる。ジェードルは軽く手を握っては開き、砲台へと目を移す。
「そうだよな」
砲台を片付けようとするマルクを止め、メリーに無線機を託してただ一言だけ口で示した。
「悪いがもう一回行って来る」
無線機を抱えながら目を見開くメリーを他所に、リニと向き合い表情に心無き尖りを塗り付け鉄の筒を指で二度叩き口を開いた。
「クジラが近づいて来たら頼んだ」
そうして砲台に触れ、ジェードルは再び目を閉じ念じ始める。
――座標をバグらせろ
身体中を磁場が覆った事を確かめて目を開き、上へと進み始めた。足を着いている感覚は無く、泳いでいるような錯覚すら見えて来ない。ただ進んでいるという認識だけがそこにあった。
視界は依然として地面に固定されており、使い勝手の悪さを今になって強く実感する。
――このくらいか
手元にあると認識している砲台に火をつける。実際に成功しているのかどうか確かめる術は結果こそが全て。
数秒間待ち、クジラの身体から突然金属がひしゃげ割れる音を耳にして目を凝らす。
クジラが落ちて行く姿を目にしてようやく座標の変換を解いて砲台を見つめる。
「ジェードル」
マルクが指した物は砲台の導火線があったはずの場所。
「行くぞ」
威勢のいいリニの声を打ち消すように小型砲が火を噴き弾は勢い任せに進む。
そうして発射された弾は見事にクジラの腹へと到達し、そのまま貫いた。




