クジラ
けたたましい音が響き、人々の耳を叩く。無機質な壁や天井を跳ね返り回る残響は建物内に収まる人々の心情を一色に染め上げてしまう。戦闘員の心を引き締めるにはそれだけで充分だった。
「緊急戦闘発生、緊急戦闘発生、青の地下都市にクジラが接近、戦闘員は直ちに戦闘準備をせよ」
繰り返す、そんな言葉を置いて再び告げる。感情の込められていない音の一つ一つが戦闘員たちの心を叩いては震わせ、恐怖に陥れる。
「クジラが出たぞ、クジラだ」
「俺たちはこのまま終わってしまうのか」
言葉の破片から始まり、そんな会話がはっきりと耳に届いては遠ざかる。そのような会話を挟む彼らが人知れず恐怖心を煽り立てているのだという事。気が付かなければならない事実。
素早く床を叩く音、不揃いで絶え間なく鳴らされる音の連続がこの上なく激しく流れて行く。
「来てしまったか」
「見回りはまた今度みたいだ」
ユークとタルスはこの事態を想像していたのだろうか。斧を手に取りつつも向かう場所は出口の方面ではなかった。
「斧だけで倒せる相手ではないからな」
クジラは飛んで渡るが為に地上から斧だけで倒せるはずもない、それは誰もが理解している事。
「今回のミッションって精々魚群に向かって砕いて破壊を防ぐやつなんじゃねえのか」
リニが寄こした問いかけはユークの眉間にしわを寄せ、クルミ色の視線を熱して力を込めてしまう。
「確かにそうだがそれだけで終わる俺たちだと思うなよ」
つまるところ外出調査員としての意地、他の戦闘員には成し遂げるつもりの無い事を彼らはやってみせようと意気込んでいるのが荒々しくも冷たい息遣いと腕の震えからも見て取れる。
――研ぎ澄まされた殺意ってこんなにも美しいのか
思わず息を止めて見つめてしまう。人が生きているという実感を他者から摂取したのは果たしていつ以来か。ジェードルの内に得体の知れない感情が幾つも混ざってマーブル模様を描き出す。
「さて、ロケットランチャーやダイナマイトを持って行くんだ」
タルスの一言に従って各々手渡された危険物たちを眺める。それから階段を上り始めた時、リニはメリーを睨み付ける。
「何かしら」
メリーにはリニの感情が分からないのか、首を軽く傾げてみせるだけ。そんな反応が益々リニの中で膨らむ感情に空気を入れてしまう。
「あの時ジェードルに甘えるように触ってたの、見てたからな」
「殺すのかしら、ああ怖いわジェードル」
そんな言葉と共にジェードルの方へと寄ろうとして来たものの、ジェードルは素早く横へと逸れてメリーを受け止めない。
「悪いが俺にとってもリニは大切だから」
メリーの行動の理由を、メリーすら気付いていないそれを思い出してはジェードルは顔に困惑のしわを寄せてしまう。
「リニ」
「どうした」
リニに手を差し出し、そのまま握り締める。
「絶対に生き残ろうな」
離された手、ひんやりとした命の証が仄かな感触として残る手に想いを滲ませる。
リニは形無く残るジェードルの温もりと形を持ってその手に収まるペパーミントのティーパックをポケットに仕舞い込み、表情を和らげ歩みに活気を持ち込んだ。
見上げた空は薄っすらとした霧に包まれている。タンザナイトを想わせる薄暗い蒼の空の向こうにて世界を見守るように浮かんでいるのは白と透き通るような青をした二つの月。
そんな空を背景に魚を撒き散らしながら上空を優雅に泳ぐクジラは浮かんでいながらも大いなる重量を感じさせ、確かな存在感を主張していた。
「こいつを倒さなければならないんだ」
様々な言葉が怒号の如き質感と勢いで飛び交っている。人々は住まいを守り抜くべく青の輝きで軌跡を描く。降り注ぐ魚たちを迎え撃つように斧を振るって行く。誰もが戦いの中で生き抜いてみせようと藻掻いている。
そんな様があまりにも悲惨。今のところ犠牲者は出ていないように思えるものの、誰も彼もが疲弊を抱え、揃いも揃って動きにぎこちなさが生じていた。
「生きろ、振り抜け。守り抜けば休めるぞ」
刺々しい声で放つ言葉が彼らを現実に引き留めているようで、時として現れる厳しさの必要性をひしひしと感じていた。
「クラゲ班はもっと動け、無線通信で誘導しろ」
当然の話。破滅の雨が降ってから今日までの間に幾らか倒したところであのクラゲがそう簡単に絶滅するはずもなかった。
「行くぞ」
ユークは殺意の輝きと共に斧を引き抜きクジラの方へ、青の空、月を穿つように掲げて静かに告げる。
「俺とリニとメリーはクラゲ班、タルスとマルクは砲台を運べ」
「俺は」
ジェードルに訊ねられ、ユークはジェードルの肩に乗った鉄の箱のような姿をしたそれを指す。
「そいつは誰を狩るためにあると思っている」
駆け出す。答えとなる言葉を置き去りにして勢いに身を任せて。風になっているのだろうか、否、水となっているのだろう。勢いよく振り回される斧は幾つもの弧を描き、作り上げられた姿は荒波のよう。
遅れて走り出すリニは進みが遅く、ユークとの距離は開き続ける。しかしながら砲台を運ぶ彼らに動きやすさを与えてくれる。余裕が出来ても尚同じペースを保っている事に気が付きマルクは目を丸くした。砲台の動きに合わせているように見受けられるリニ。苦手な事への挑戦のようでつい応援したくなっていた。
「あのリニがな」
マルクは砲台を動かす腕に力を込め、伝わる加減に合わせるようにタルスもまた、力を込めて。
先ほどよりも勢いを増した砲台と今も尚同じ速度を保つリニとの距離はみるみるうちに縮んで行ってしまう。
「結局はリニじゃないか」
大声が肩を突く振動と化してリニを震わせる。驚きの感情は青くありながらも黒い空の中では目立ってしまう。
「悪かったな、苦手なんだそういうの」
己に合わない事に挑戦するように配慮を重ねてくれたリニだったものの、調子を一つ乱してみるだけで気が付かずに現状に適わない彼女が出来上がってしまう。それでも声が届いた途端に修正をかけてくれているのが砲台の進みやすさからも伝わって来た。
「もう少しだな」
マルクはリニから少し離れた位置でユークが立ち止まって斧を振り回す姿を見通して判断を下す。
「ああ」
タルスも気が付いていたのだろう。マルクの言葉に答えるように声を乗せて砲台を押し続ける。
ジェードルが遠くから見ていた連携はそのようなもの。完全なる美しさは完ぺきなまでに損なわれていたものの、人々の動き、生きている証としては見事に完成されていた。
「これが俺が守らなきゃいけない世界」
大きな危機は刻一刻と近付いている。きっと何もかもが失われようとしている。止めなければ大切な人々が都市の残骸のように扱われ命は形を消してしまう事だろう。
これから行なおうとしている事は長い時を共にして来た異種族の仲間として同じ生き物の敵に回る事。
――同じ種族でも、それは許さない
大きな空は今にも人々を吸い込んでしまいそう。時たまクラゲが弾ける音を立てているのはメリーの手柄だろう。浮かんでいたクラゲたちが次から次へと身体を地へと落として道を塞ぐ透明の殻と成り果てる。
「邪魔だなクラゲめ、道を開け」
そう告げて斧の腹で払い除けるリニの存在がこの上なくありがたかった。ユークは次から次へと集うクラゲたちへの最後の催し物として蒼黒い扇の残像を幾つも描いて球体のような姿を作り上げる。
実体のない球体はクラゲたちに過去の襲撃。人々がクラゲに入ったヒビやユークが描く攻撃の扇に気が付いたその時には斧は振られた後。
――それにしても多いな
ジェードルの考えなどとうの昔に誰かが抱いたもので、気が付いた時にはなぞっているに過ぎないのだろう。マルクもまた、同じことを告げていた。
「多すぎる。電気信号や電磁波に、電波に反応するのではなかったのか」
次から次へと集うクラゲたちの姿は不自然の極み。マルクは更なる疑問を投じていた。
「無線機持ちが近くにいないとしても寄り過ぎだ」
クラゲたちが引き寄せられるはずの物を持った人物がいないのだろうか。クラゲの電磁波をつかむ機能に有効範囲がある事は想像に難くないものの、戦闘員があれほど動いていてこの数が圏外という事が既に普通ではないとマルクの脳内で結論が叫んでいた。
「周りの状況はいかがなものか」
ジェードルは見回して違和感を抱く。あまりの静寂。怒号も金属を打ち合う音も何も無く、クジラが訪れる気配もない。そこにはただクラゲに加えてヤドカリやヒトデがいて誰もが涙を思わせる青に染められ透き通った身体を持っている。全てが鉱物生命体であるのだとすぐさま理解する。
「あいつら一体何を」
ジェードルは振り返り、地下都市の口が塞がれているという事実に驚きを隠すことが出来ずに声を上ずらせる。
「閉まってる、俺たちは帰れないんだ」
更に遠く、先ほどまで戦闘員たちが鉱物生命体と刃を交えていた場所とジェードルたちが立っている場所を直線で結び更に突き抜けた向こう側に束ねられた幾つもの無線機を目にした。
「無線も外出調査員も捨てたというわけだ」
微かに届くノイズ混じりの音を声と認識した途端、ユークはクルミ色の瞳を収めた目を尖らせ舌打ちをした。
「地下都市で一人が無線を扱って一斉に鳴らしてやがる」
自らの命が大切という事だろう。戦闘員たちの立てた作戦に従って外出調査員が戦い続けて無線機を守り抜けばクジラの進行方向を誘導することが出来るだろう。
「俺たちも同じ人間だというのに」
「私はハートが無いから違うわ」
メリーの否定の言葉など今は誰一人として求めていなかった。このまま守り終えたとして、破滅の雨が降り注ぐまでどれ程だろう。
「作戦変更」
ユークは現状という苦しみに閉ざされたドアを叩くように伝え始めた。
「クジラを倒すポイントの変更だ。無線機を持ち出すぞ」
各々武器を背負ったまま移動を開始する。砲台の方向転換を図ると共に重心が逸れて曲がるための苦労は半端でない。
「休憩基地に出来るだけ近付け、破滅の雨が注ぐ前に倒して逃げ込む。それだけだ」
メリーが先陣を切って駆け出し、無線機を拾い上げては抱えて走り始める。そんな頼りない身体いっぱいに無線機を抱える彼女を守り抜くべくユークは飛びかかるようにクラゲを薙ぎ、勢いをつけてメリーの傍へと向かった。




