民間地の見回り
地下都市の内、公に仕える身分の者だけが耳にすると言われている無機質な音楽が流れ始めた。三つの音しか使わずに構成された味気の無いそれはまさに地球外から注がれた金属と地球内の金属を掛け合わせた都市とそれを染め上げる青い輝きという無機の塊の象徴として相応しい。特に文化を纏めた媒体の鑑賞に熱心な人物やユークのように音楽を日頃から聴いている人物の耳には不快感が残ってしまう。ジェードルもまた例外ではなかった。
そんな不快なメロディーによって朝を迎えたらしい事を悟るため、身体は起きる事を拒否しようとしている。気怠さが動く事への激しい妨げとなってしまう。
目を擦りながら視線を横に向け、机の方を見つめる。いつから起きているのだろう、マルクの顔が目に入った。彼の老いた顔にはどこか爽やかな気配が見受けられ、起きてから幾らかの数字を針が通り抜ける様を見つめて来たのだろうと考えるよりも先に理解が頭を占める。
マルクはジェードルの視線を辿るように見つめ返して息を大きく吸っては吐いて、雑に剃ったと思しき髭が所々に残る口を動かし始めた。
「起きてもそのザマは相変わらずのようだな」
マルクの手による教育が裏目に出てしまったのだろう。様々な音を知っているジェードルにとってそれは拒絶したくなる要素の塊、音が溢れる世界の中の異物。
「あのチャイムどうにかならないのかよ」
「確かにあの音は不快だな」
同意を示している以上、マルクもまた、勉強以上に大切な物と称して様々な物を見て来た人間なのだろう。
「そろそろ雨の日だな」
「そうか」
ジェードルは記憶の中から最後に破滅の雨が降った日と降雨のサイクルを取り出し照らし合わせる。
「外出調査員ってどうするんだ」
素朴な疑問だった。今までと異なる立場である事に加え、過去の立場という視点に立ってみても外出調査員の顔など一度も拝んだ事は無かった。
「ほら、雨が降ってる間にも出来る事なんて幾つでもあるし」
外にさえ出なければ恐れる事など何もない、今のジェードルからはそのような勢いを感じていた。
「そうだな」
マルクは思い返し、荷物を纏める事くらいだと口から零していた。特に出来る事などない、あえて言うなら、といった程度の事だった。
「雨が降っている間は堕落だ」
そんな言葉に対応するようにユークとメリーはその辺で寝転がり、タルスは道具の手入れをしている姿がジェードルの目にはっきりと映り込んでいた。
少し前までのジェードルやリニであれば行く事を義務付けられていた訓練室での実習の始まりの時間を針の動きで感じ取り、二人は廊下へと足を踏み出した。
「どこに行くつもりだ」
ジェードルに訊ねられてマルクは正面を向いたまま飾りの無い単語だけを声に出した。
「旧会議室」
かつては上位の役職に就いていた者たちが集まって日々会議を繰り広げていたという。嘆きの痕跡、意志の亡霊がつけた手形は今も残されているのだろうか。
「うわさでは聞いたことあるが、そこを使うのか」
大きく頷く。非常に分かりやすく、ジェードルの理解に誤りを一切持たせないやりとりはまさに仕事と言う言葉を思わせる動き。
ジェードルは一度リニの部屋へと上がり込み、明るみを顔に出しているリニを引き連れて旧会議室へと向かう一纏まりの集団となる。
「旧会議室ってなんだ」
ジェードルの持つ情報の少なさと元々の知識に収まっていないことから出て来るリニの問いかけにマルクは静かに答えた。
「昔偉い人たちが会議に使っていた部屋だ」
つまるところ、貴族から見放された部屋という事。何が悪かったのだろう、リニは部屋と言う命無きものにまで同情を添わせていた。
「うわさによれば今の貴族たちは業務室の隅で紅茶と菓子を口にしながら話すそうだ」
「うわ、贅沢じゃん。動くことすらいやなのか」
リニの発言に同意を重ねるジェードル諸共視界で包み込みながらマルクは悪戯な笑みを浮かべてみせる。
「毎回あいつらの診察で体重とウエストを図るのが楽しみで仕方なかったな、どれだけ増えたか」
そんな邪悪な思い出話に耳を打ちながらたどり着いた旧会議室のドアを開いて足を踏み込む前にユークが壁に寄りかかって退屈そうにどこかを見つめ、或いはどこも見ることなく虚空に目を向けている姿が目に入った。
メリーも同じように寝転がり暇を持て余している。一方でタルスは武器の手入れに勤しんでいた。
「戦闘員らしいことをしているのはタルスだけだったみたいだな」
マルクの言葉にユークは笑い出し、ポケットから折りたたまれた紙を取り出し広げて掲げる。
「上からのお達しだ」
クルミ色の目が虚空に退屈の文字を描いているように見受けられ、やる気が無い事だけはひしひしと伝わって来る。マルクは紙に書かれた文字の列に目を通して数回頷く。
「どうしてこんなに簡単な仕事を回したのだ」
倣うようにジェードルとリニも紙に書かれている事を読み、今夜の仕事内容を理解し互いに首を傾げる。
「見回りか」
恐らく誰もやりたいとは思わないだろう。薄暗い中でも特に澱んで見える事もあれば不快な明るみを感じる事もある民間の地へと自ら進んで踏み込んで行こうなど彼らの中では一般的な感性ではないのだという。
「だが俺たち外出調査員の考える事、分かるよな」
ユークの一言によってこの部屋に収まる誰もが同じ意見を抱いていく。綺麗に揃えられた足並みは今の立場を志願した彼らの動機が少なからず関係していた。
「そうだよな。でなきゃわざわざこんなポジションに就くわけないよな」
彼らを突き動かすものは大いなる好奇心。世界の様々な事を観測し、体験する事で生きながらえる人種。公の掲げる余計な感情を抱かないという思想でさえ彼らの中では一つの世界観の体験という言葉の額縁に収められた一枚の感情の絵画に過ぎない。
「てかさ、民間も人は良いんだよな本来」
リニの言葉は立派に響いていくものの、理解への導き手となる事は叶わなかったようで誰もが顔を微かに背けた。
「あんな想いしてまで言うかしら」
メリーにも経験があるのかも知れない。つい先日与えられた雑用の嵐と出費を思い返してはジェードルに全身の毛が逆立つ感触が襲い掛かる。這って来る感覚に嫌悪感を覚えずにはいられない。
「大丈夫だってジェードル。話せば伝わるさ」
「根拠はあるのか」
宙を仰ぐリニ。視線は天井にぶつかりそれ以上へと至る事など出来ないだろう。無機質の建物は檻のよう。この場に相応しくない音色を持つのがリニの声。
「同じ人間だからな」
未だに彼らに信頼を寄せているという事にある種の呆れを抱きつつもリニの澄んだ心が何処か羨ましく感じられた。
軽い話を交えつつ気持ちを落ち着ける。マルクが淹れたミントティーに落ち着きを得るジェードルとコーヒーにミルクを注いで味わうリニ、フルーツティーを作っては微笑むメリーと残された二人は砂糖を溶かしたレモンティーを啜る。混ざり合った香りが、姿も大きさも色合いも、何もかもが異なり揃わないものが湯気と共に昇っては人々の嗅覚の中で喧嘩を始めていた。
ユークはレモンティーを一口含んでは喉へと流し込み、甘みと酸味を脳へと行き渡らせて背筋の力を抜く。行動について来るように言葉が出て行った。
「甘い物じゃなくて大丈夫なのか」
タルスもまた、同意の意味を重ねるように頷きながら言葉を連ね提げてみせる。
「考えるにも戦うにも糖分は大切だというのに」
特に間違いは見られない言葉だったものの、ジェードルの内には異なる考えが潜んでいた。
「甘い物を食べながら飲むのが出来たらいいな」
リニはコーヒーの苦みと牛乳のまろやかな舌触りに心を浸しながらにこりと明るい笑顔を撒き散らす。
「やっぱ飲み物自体が甘けりゃ気持ちが纏まらないんだよなー」
クルミ色の瞳を収めた目がリニを射抜き、その対象はマルクに移されその目は更なる尖りを見せつける。
「思考の感染かよ、余計なもの移しやがって」
マルクは目を逸らしながら緑茶を啜り、一息ついてユークの指が掛けられたカップに注がれているティーを指す。
「知っているか、紅茶の茶葉は品種の違いこそあるかも知れないが緑茶と同じものだと」
「目の次は話を逸らすか」
マルクの話にリニが言葉を上乗せして雰囲気を彩っていく。
「ウーロン茶も同じだったな、発酵の度合いが違うだけだって」
ユークは大きなため息をつきながら目の力を抜き、リニに色を持たない視線を見せて軽く鼻で笑ってみせた。
「人も違って当然って説教か。子供騙しはガキの自覚のない大人にやってろ」
「んじゃあ、ユークにやるのは正解だったな」
荒々しい音と共に立ち上がるユークの肩をタルスがつかみ、無言の視線でなだめる様を見つめ、リニとマルクの薄っすらと笑う顔を見つめ、ジェードルはため息をつく。彼の行動はメリーの目にはどのように映ったのだろう。口を耳に寄せて囁き交じりに告げる。
「あなたは他人事じゃないでしょう」
眉がピクリと動く様が動揺を示し、メリーの顔を綻ばせては更なる言葉を呼び出してしまう。
「そうでしょう。私たちは人間ではない、似た姿の別物なのよ」
重々しくて苦々しい。ペパーミントの清涼感など過去に置いて行かれているような感覚を味わう羽目になる。
「リニとは普通に愛し合えたんだ、それは間違いない」
湯気を上げる事が出来なくなり、辛うじて温もりの残されたティーを啜るも今そこにあるはずの味や香りが今について来てくれない。
「普通に人間と同じように生きて行けるはずだ」
「それすらも適応するための偽りかも知れないわ」
生物としての機能、適応能力を疑いジェードルの想いを否定し続ける彼女の性格が悪質なもののように思えて仕方がない。
「真実は分からないけどこれだけは覚えておいて。私たちは人間とは違うという事」
メリーはジェードルの右手を取り、包み込んで甘い表情を作り上げる。ジェードルに伝わる仄かな電気信号。クラゲ程はっきりとしたものではないものの、注がれるそれがメリーの感情の味を教えてくれた。
――鉱物生命体の本能でしかない
本物の恋心を知るジェードルにとってメリーが今抱いている感情が人間の恋愛とは異なるものだと手に取るように分かる。
そんなやり取りを断ち切るようにけたたましい警報の音が狭い室内を充たし始めた。




